
堀川さんの企画で雪の中を大変貴重な体験をされたようで何よりで
(後藤三郎)
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
堀川さんの企画で雪の中を大変貴重な体験をされたようで何よりで
(後藤三郎)
2019年の4月10日(月)は意識して日程を決めたわけではありませんが、奇しくも天皇陛下のご成婚60周年記念日であり、また、妹尾先輩の一周忌にあたる日となりました。
今回のプランは、平成の代があと20日ほどで令和の代になりますので武蔵陵墓地の参拝をして皇室に敬意を表し、その後、多摩森林科学園の桜見物、最後に「ろくざん亭」でのちょっと贅沢な昼食会とした、珍しく山には行かない企画でした。
参加者 中司、中司(八)、高橋、遠藤、岡、深谷、宮本、平松、小泉、椎名、船曳、船曳(愛)、町井、堀川、岡沢、多田、蔦谷、立川、藍原、相川、柏木、久米、久米行子、保屋野、関谷、川名、 以上26名
参加者は26名と、食べ物が企画に入ると集まりが良いようです。。悪天候で各電車が遅れ、全員集まることができたのは10時20分ころで、大きなボタン雪の降る中を元気に出発しました。
当日は、近来稀なことに高尾周辺はみぞれからボタン雪となり、冬並みの気温(5℃前後)でダウン着用、手袋、マフラーなど防寒に大わらわでしたが・・・これまた珍しい雪景色の武蔵陵は荘厳で大変美しく、ご成婚記念の祈祷が行われたようで、神官が粛々と退場していく列は荘厳さに満ちていました。桜は雪の白さと同化してあたり一面、満開の桜のごとく素晴らしい景色を見せてくれました。なかなか見られない景色です。
昼食は1時間ほど予定を早め、迎えに来てもらったマイクロで以前から一度行ってみたいと思っていた「ろくざん亭」に行きました。「ろくざん亭」は、高尾山の金毘羅台コースの登山口にあります。ご主人は山梨のご出身だそうで、趣のある建物は数件の民家を移築して30年ほど前に開業したそうです。昼には丁度良い春らしい料理に舌鼓を打ち、酒が進みました。
(船曳)早速のreportありがとうございました。写真もきれいです。なんと驚くべきことに、今朝の東京新聞を開くと、 “ほっとなび” というコラムに、『多磨森林科学園』が紹介されています。まだまだ楽しめる桜の副題付きです。さらに別の “行楽ガイド“ 欄には「多磨森林科学園と多摩御陵を訪ねる」というプラン迄載っています。偶然の一致とはいえ、いかに時宜にかなった企画だったかを証明していました。なお新聞では4月11日付の記事であり、天皇家御結婚60周年との関連は触れておりませんでした。素晴らしい企画に感謝しております。
(久米)早速に報告と写真ありがとうございます。写真では雪の中の荘厳な武蔵野陵墓の雰囲気が良く出ていて感心致しました。ちょうど平成天皇ご夫妻のご成婚記念行事と重なり、雰囲気のある場面に遭遇できたのは幸運でした。多摩森林科学園は以前から訪ねてみたいと思っていた所です。各種の桜が雪の中に見ることができて滅多にない景色を見ることができました。吉之助はもう一度ゆっくり訪ねてみたいと申しております。しかしさすがKWVのメンバーです。あの寒さの中しっかりと予定を消化、雰囲気のあるランチも楽しみました。ありがとうございました。
”おめえ、一度くらい花見に行ったらどうだ?” と小泉さんの声が聞こえるような気がしてきて,深大寺植物園へ行ってみた。植物園、であって花見の場所ではないので、”花見” の雰囲気はむしろ入り口へたどり着くまでの道筋のように思えた。新聞ではずっと我々が桜といえばソメイヨシノと思っていたのが世代交代を強いられ、次代の桜はジンダイアケボノという種類になると報じていたので、それをとりあえず探してみた。
ところが説明を見たらなんとこれが品種改良の原木だと知り、感激。アケボノ君がソメイ君とどう違うか、などはすっかり忘れてしまった。花そのものよりもなんとまあ素晴らしい命名をしたものだとおもわれる看板が次々と目を引き、花見でなく看板見で終わった半日だった。先輩、すみません。
そんじゃあおめえ、何しに行ったんだ?という先輩のお叱りはありましょうが、ともかく、”桜とはなんだ” について、出口にあった標識でご勘弁を。
PS 調布に来てはや10年たったが、いまだになぜ 神代 と 深大 とがあるのか、わかっていない。国花の名前としては当然,神代だろうと思うが、咲いている地名は深大。興味深大…….とは言わないよな。
(編集子注:恵美さんは筆者YHP在職中の同僚、米国現地での企業へ転職し結婚後、カリフォルニアはメンロパーク住まいを続けている。HP時代の仲間との楽しい交流はずっと継続。今回は数日の滞在であったが親しい友人が集まり旧交をあたためた)
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“シリコンバレーの近況やトランプ下での状況”の投稿をというエディターからのリクエストであったが、初稿は最も書きやすいサブジェクト、”個人の近況” に独断で変更し、自己紹介も兼ねて、下記、題して”アマチュアの楽しみ”。
今春の帰国は友人家族親族との再会の他に A P A (エイパ Amateur Music Player’s Association JAPAN 日本アマチュア演奏家協会)のメンバーと、 A P Aと提携している筆者が所属するACMPのグローバル メンバーとのコラボ。ACMP (Associated Chamber Music Players) は米国の室内楽演奏家のネットワーキングの組織で、ACMPの前身は1940年代後半にNew York で設立されたACMP (Amateur Chamber Music Players) である。今年1月に入ってから、筆者が偶然にも3月帰国の予定であった為、急遽、同時期に開催されるA P A主催の第4回国際室内楽音楽祭に飛び入り参加が決まった。ヨーロッパ、アジア、北米から約30人のアマチュア演奏家が集まり、中央線武蔵小金井駅前宮地楽器小ホ-ルでコラボの成果が3月30日にコンサートという形で発表、演奏された。
今回、東京でコラボした曲は、カリフォルニア州メンロパーク市で筆者が数年前に結成したピアノ トリオ グループ Monats-Trioが、帰国直前のリサイタルで演奏した、メンデルスゾーン作曲ピアノ トリオ OP49。東京でコラボしたメンバーは、日本人のピアニスト、英国人のチェリスト、筆者がバイオリンで、3月30日の発表会前にたった3回の音合わせという、スケジュールだけはプロ並のスピードで、集中されたリハーサルが3月最終の週に開始された。(ちなみに、日本ではメンデルスゾーンのトリオを演奏家が”メントレ” と呼んでいるのを今回知る)
筆者のカリフォルニアの音楽仲間Monats-Trioのメンバーは、上海生まれの中国人のピアニスト、ドイツ人のチェリストという、シリコーン バレーでは日常になっている典型的な国際色の豊かさ。エンジニア、サイエンティスト、等、技術系の人の中には技術的にもまた知識の豊富さからいっても(おそらく日本でも同じことが言えると思うが)クラシック音楽Enthusiastsが多い。よってシリコーン バレーではアマチュア室内楽が盛んに弾かれている。
Monats-Trioの場合、ピアニストはすでに引退しているアナログ関係のエンジニア、チェリストはSLACに勤務する現役の物理学者。今回、東京でトリオを組んだメンバーは全員すでに引退していて、ピアニストは音大を出たピアノ教師、チェリストは(まだお若いとお見受けしたが)元弁護士、筆者はシリコンバレーで約30年広報関係の仕事をして2011年に引退したという全員、文化系。
おそらく個人の性格によるところも大きいのではないかとは思うが、米国のMonats-Trioの場合、大変にリラックスしていてあまり他のプレーヤーの批判はしない。黙々と一回のリハーサルに4-5時間は弾く。反して、今回の東京でのトリオは、批判ではないが曲想に関するコメントが飛び交う。一般論で言えば、技術・理科系の寡黙な性格と、文化系の多弁な性格の違いである所も大きいと思う。
「本来、アマチュアとは “愛する人” のことであり、自分のためだけに物事を究めることができる人のことをいう。」「音楽の世界に置き換えてみた場合、プロは五回に一回しか失敗しないが、アマチュアは五回に一回しか成功しない、という話を聞いたことがある。」(辻栄二、アマチュアの領分)。
”アマチュアの領分”の筆者辻栄二氏に同感するところが多い。「今までは、プロとアマチュアの二つに区分された平版な状況しかなかった。しかし、これからは、非同質社会、高齢化社会、情報化社会、生涯教育社会、クリスタル時代、余暇時代、感性の時代、等々といった言葉の数々に象徴されるように、プロはプロで非凡な人たちの集団でよし、アマチュアはアマチュアで何らの権威におもねることなく、自由に音楽を楽しむことのできる時代 ―多極化、多様化された時代― とみてよいのではないだろうか。」「また、高齢化社会に到達すると、いやでも生涯教育、余暇対応の比重が高まり、これまでの定型化されたメニューによるものではなく、様々なカードを自分自身の判断で選んでその組み合わせのなかに自分の生き方を発見しなければならなくなるし、またそういうことができるようになるであろう。国際化が進むと、外国との文化摩擦を通じて、これまでの同質的、集団的な思考パターンや生活様式に何らかの考察や対応をせまられることとなる。また、情報社会では、ファミコンを枕にして育ちコンピューター・アレルギーのかけらもない世代が自分自身の基準で情報を選択するようになる。」 辻氏の著書が発行された1990年から既に30年経った現在、辻氏の語るアマチュアの世界、多極化多様化された時代、はすでに米国でも、恐らく日本でも、また世界の多くの他の国で現実になっていると思う。
室内楽を弾かれる読者の方々はご存知だと思うが、室内楽を楽しく同じメンバーで長年弾いていくにはメンバーの性格の適合性によるところが大きい。今回の東京でのコラボはアマチュアとしては成功であったと思う。コラボの後、トリオのメンバー全員が来年もまたコラボしようと笑って別れた。令和2年3月30日、再び中央線武蔵小金井駅前宮地楽器小ホ-ルでコラボの成果を披露できるか、あるいは世界のどこかの街での再会、共演ができるか、今から楽しみだ。
小生卒業の高校は神奈川県立平沼高校。入学(1951年) 2年前までは女子の名門神奈川県立第一女子高等学校だったが、1950年男女共学になり、平沼高校となった。女子高時代の先輩に岸恵子、草笛光子、小園容子といっ
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湯河原着からバスで美術館
われわれ生誕
滝が小規模な
(編集子 なにか高校時代の甘酸っぱいオモイデなんかも確認されたのでは?)
日時 4月4日 参加者:佐成、椎名夫妻、城田、田中、西川。西島、平松、藤野、
林田君の幹事で、洗足池と池上本門寺の花見を開催。例年夫妻で参
池上線の洗足池駅11時集合。洗足池公園は駅前の眼の前で桜と池
先ずは、勝海舟のお墓へ。勝海舟と民子夫人のお墓が仲良く並んでいた
この五重塔の近くに、明治の文
「黄金の10年」の1年目の昨年は18回、山に行きました。バケットリスト目標の「100名山制覇」は8座を消化し累計81座まで進捗しました。何とか数年のうちに到達できればと思います。
今年は春ワンの調査行2月「景信山」、3月「石老山」に行きましたが、石老山では頂上で鉄板焼きバーベキューを家徳さんと丸満さんにも参加頂き大勢で楽しんできました。
昨日(3/23)は栃木県佐野市の三毳山(みかもやま229m)に同期とカタクリの群生を見に行きました。アズマイチゲやミズバショウも咲いており、男体山や燧ケ岳の眺めも素晴らしかったです。写真を添付します。
29日(金)の府中CCでのゴルフコンペでお会いするのを楽しみにしています。
また、4月7日(日)には秋ワンで担当することになっている東丹沢の「シダンゴ山」を調査に行きます。
秋ワンは10月26日(土)とまだまだ先ですが、シダンゴ山は日本一の馬酔木(アセビ)の山と言われているので(せっかくなら)花の季節に行こうと企画しているものです。
よろしければ一緒に行きませんか?秋ワンでは初級★★☆☆☆で計画しているコースです。
(中司―斎藤)
先週の映画館行に続いて久しぶりに紀尾井ホールへでかけた。小泉先輩やら後藤三郎なんか筋金入りのクラシックファンには及びもつかないド素人だから、曲そのものよりもそれにまつわることのほうが先に出てくる。
小生の兄は8歳半年上だったから僕が中学生になったときはすでにサラリーマン、およそ正反対の性格の真面目一方。フルブライト留学生試験にも合格したが体に問題あり(入学前に肋膜炎で1年寝込んでいた)ということでハワイ大学へ推薦されたり、銀時計ももらいかけたくらいの勉学一筋、当時のインテリの典型ともいえる性格で、その教養の一部としてクラシック音楽はいわば ”マスト” であると信じ込んでいた男だった。ちょうどLPレコードというのが出てきて、1枚買うと月給の四分の一がなくなる、という時代だったが、生真面目に買い揃え、日曜日などは僕を捕まえて、”お前もこのくらいは聞いておかねばならん”と畳に座らされたものだった。彼が買った最初の曲がベートーベンの”第七”で、その次がこのピアノ協奏曲5番、通称 ”皇帝” であった。
そんなことで、好きとか嫌いとか、ましてや鑑賞の仕方も知らず、耳だけで覚えている名曲もいくつかあって、折に触れて気が向けばCDを買ってくる、という程度のリスナーにすぎないが、亡兄の想い出でもあるこの ”皇帝” だけは特別な存在である。だいぶ以前、同期でヒマラヤトレッキングの時、”エベレストを観ながらこれを聴こう”と決め、まだCDなんかなかったからカセットを持参していった。無残なことに極度の高山病にとりつかれてどうしようかと心配する状況だったが、かろうじて窓ごしに山を観ながら朦朧としながら聞いたことだった。
そんなわけで今回のコンサートに出かけたのだが、もう一つ興味があったのは指揮者がピアノの演奏者でもあるという”弾き振り”とやらであった。有名な渡辺暁雄の長男であるご本人が最初に登場して演奏項目の解説をしてくれたが、古い表現でいえば六尺豊かの大男であることがわかり、始まってみると体格の大きい人でなければピアノ越しにタクト(もちろんこの場合は手指だが)が演奏者には見えないのではないか、ということに気が付いた。曲の流れは全部おぼえているので、聴くというよりそういうビジブルなものに興味がわく。自製、自慢の真空管アンプでは当然とはいえ再現できない実物の圧倒的なボリュームや広がりもそうだが、(あ、次はオーボエだがどの人かな)とか、CDだけでは気が回らないのだが、バイオリンが丁寧にピッキングをしているのを観たり、などと、本格的なリスナーには呆れられてしまうような聴衆であった。
帰り、50年前に二人で良く通った “清水谷茶房” がまだあるかなと淡い希望をもって夫婦でオータニから赤プリへと散歩したが、当然のごとくすでになく、第一赤坂プリンスホテル、という個体が存在しなくなっているのを初めて知った。四谷駅までもどり、”アントニオ”というオヤエ推薦の店で食事。最中になんと妹尾(ちび)からスマホに着電。持ってはいるがほとんどオンにしていない小生にはこれまた椿事というべきか。