コーヒーブレーク

定期に通っているかかりつけ医で採血のため朝食抜き、といわれていたので、終わってから仙川の街へ出て、ミスドでドーナツ二つとコーヒーでブランチにした。この店でいつもきまって選ぶのがハニーディップというやつで、これにはある思い出がある。

生まれて初めてアメリカの土を踏んだのは1967年9月。まだまだ ”日本人“ はサンフランシスコ郊外という親日性の高い地域であってもあきらかなマイノリティ扱いだった。オリエンテーションを担当してくれた男は、”俺はゼロ戦と戦ったことがある”と自慢したし、苦労して新聞広告で探し当てた、低所得住民地域の長屋では、隣の職工さんが興味を持ってくれたのはいいが、Do you have dogs in Japan ? と大真面目で聞かれた時ばかりは耳を疑った。日本、への関心はそんな程度で、悪人じゃないが面倒をみてやらなければならん敗戦国の人間、というのが標準的アメリカ人の見方だったのだろう。

だからもちろん言葉のこともあるが、もうひとつ、人間関係に踏み込めない毎日だった。そのような中で付き合いを広げるのに役立ってくれたのが、コーヒ-ブレーク、という日本では考えられない制度だった。毎朝10時と午後3時、職場にコーヒーポット、プラスチックカップと山盛りのドーナツを載せたカートがやってくる。周りの人間は手を休めてほぼ10分くらい、その周りで雑談をする。なかにはドーナッツを三つも四つもとって朝飯代わりにする若いやつもいた。当時のヒューレット・パッカードでは本社でも個室を持っているのは日本流にいえば会長のパッカードと社長のヒューレットだけで、みんな同じようなデスクが並ぶのがオフィスの在り方で、当然、両創業者もオフィスから出てきてこのブレークに加わるし、もし来客があればその場所につれてきて歓迎する、だれかれなしに よお、どうしてる、とか、先週の釣りはどうだった、とか、話が弾む。隅にいる僕には特に目をかけてくれる人が多くて、冗談交じりにいろんなことを教えてくれた。このような職務を離れて個人としての会話がとても貴重な英語の勉強の場であり、市井人の素顔を知るのにどれだけ役に立ったか、計り知れない。

当時のHP本社

当時僕が勤務していたのはいわゆる本社で、5棟の2階建てのオフィスと工場があった。従業員は少なくとも2000人くらいにはなっただろうから、そこへ定時にコーヒーを届ける、というのも大変な手間だったはずだ。コーヒーはともかくとして、あれだけの数のドーナツはどこから仕入れていたんだろうか。ミスタードーナツは50年代の創業だから多分そこからだろうとは思うのだが、パロアルトやメンロパークといった街角で店を見た記憶はない。

ただ、いずれにせよ、コーヒーカートにかならずあったのが日本では見たこともなかったハニーディップ、というやつだった。もう一種、これはどこでも見かけてドーナッツ、といえばすぐ頭に浮かぶ、どこの喫茶店にもあるような、シンプルで薄く砂糖をまぶした奴、あれは今のミスドにはない。あれだけ何種類もあるのに、である。代わりに選ぶのがオールドファッション、というやつだが、あれは ”あの時の“ コーヒーブレークカートには載っていなかった。

それから。

かのグローバリゼーションとかいう見栄えのいい企業イメージを支えるための現実のまえに、いつの間にかコーヒーブレークは姿を消してしまった。

”人が企業をつくる“ というパッカード、ヒューレットの創業理念が浸透し、職場のコミュニケーションを図ることがマネージャの第一義務とされていた、アメリカ企業ベスト50(20だったかな)の常連だった、”古きHP” はすでに過去のものとなってしまった。自分はケイオーの出身だ、ということと、“あの” HPで育ててもらった、というふたつの事実が僕の誇りであるのだが。