孫娘に贈った本

ついこの間、受験に奮闘していた末の孫娘が大学院進学を決めた、と報告してきた。まさに時間の経過、恐るべし、その間こっちは何をしていたか、と落ち込んでしまうが、なにより、我が一族にとって初めての理系が誕生したことに感動し、うれしくなった。

彼女の門出に何か、と思うのは当然だが、とりあえず、本を一冊、贈ることにした。小生、父親の影響もあって、子供のころから本好き人間である。中学時代、世界文学全集、なんかにあこがれ、高校時代はヘッセとヘミングウエイをよく読んでいたが、ある出来事を境にすっかり読書傾向が変わってしまい、当時の高校生の必読書、といわれた “魅せられたる魂” も ”チボー家の人々"も ”ジャンクリストフ” にもそっぽを向いて過ごした。それでも読んだ本の数だけはだいぶあった。ま、乱読、というのだろうか。

その中で、一冊、何かを挙げてみろ、といわれたら躊躇なく上げたいのが大佛次郎の 帰郷 だ。終戦直後の日本の混乱、特に文化の変質を憂えた本で、当時のことがそれでもうっすらと記憶にある世代のひとりとして、共感もし、主人公守屋恭吾の生き方に一種のあこがれも持った。孫娘の世代はいやおうなしに、特に彼女が専攻しようとしている環境にまつわる問題などは日本だけでなく、世界を規模に展開されるべきことがらだし、そうではなくとも現在社会のボーダーレス傾向はますます強まっていくのは必至である。そういう中で、”日本人” のアイデンティティーを持ち続けるのは逆に今よりも重要なことになっていくだろう。

サラリーマン時代の末期、めぐり合わせでいわゆる グローバリゼーション なる妖怪とどう向き合うべきか、特に当時担当していた人事・組織・労働組合などといった分野を統括する立場にあって、アジア諸国の担当者たちとのあいだには目に見えない,厚い壁があるのを感じた。むしろ西欧諸国の連中のほうが話は通じやすかった経験がある。今考えてみると、後者には長い間の歴史と闘争の間に培われた、確固たるアイデンティティがあったのに対し、彼らの侵略と植民地化に耐えてきた諸国には強烈な愛国心はあるが、なにが国のアイデンティティなのか、まだ模索している期間であったのかもしれない。こういう問題はこれから、多くの場面でおきてくることだろう。その時に、やれグローバルだ世界だという前に、”日本人”として持つべきものは何か、を考えておくことが必要なのではないか、と思う。いろんな本があり、多くの傾聴すべき議論があるから、これからは彼女が自分で判断していくことになるのは当然だが、自分があらためてこの問題を考えてみたとき、あらためて 帰郷 という本を思い出したのである。

大佛の作品が改めて新版が出る可能性はすくないし、全集となると焦点がぼけてしまうのではとアマゾンを検索してみたら、なんと2018年に新装版が出ていた。うれしくなって早速注文した・・・・のはいいのだが、何を間違えたか2冊、贈られてきた。思い出すと注文の過程で何だったか覚えていないがメールを打ち直した気がするので、先方のミスではあるまい。ちょうどいい、手元に大事に保管してある昭和25年版と読み比べてみよう。僕の趣味としては、

丘の斜面の芝原で柄の長い鎌をふるって草を刈ってゐたマレー人が・・手を休めて突っ立って見てゐた。

という出だしのほうが

丘の斜面の芝原で柄の長い鎌をふるって草を刈っていたマレー人が・・手を休めて突っ立って見ていた。

よりもなんとなく好ましいのだが、新仮名遣い、という国策のあたりも日本文化の変質、であるのかもしれない。