苗場へ 根曲がり筍狩り に行きませんか? (52 桑原克己)

昨年5月、残雪の様子です

本企画は、苗場光協会(福島屋”団長”さん長男 佐藤高之さん会長)主催、浅貝町内協会(雪ざさの湯&金六イレブン社長 師田会長)協賛の町おこしの企画として10年以上前から初めているもので、観光協会から広く各地に宣伝しています。参加者は、だいたい宿のなじみ客が主体で、宿から個別に連絡し、参加者を募っているようです。

毎年、旬の6月に2週連続で、西武がゴンドラを動かしてくれ、筍山直下までゴンドラで登り、その周辺で根曲り筍を採り(狩り)ます。私は、昨年、初参加でしたが、大きめのナップサック一杯の収穫です。高之さんは、同じ時間でしたが、大きな大きなリュック一杯採っていました。

帰りは、高之さんの収穫も分けてもらったので、リュック一杯、段ボール一杯を持ち帰りました。足が早いので、その日のうちに沢山家族で食べました(焼き・さしみ・茹で)が、とても食べきれず、そのまま家内の会社の人や、近所に分け、大いに喜ばれました。たまたま、根曲り筍を知っている人だったので、余計喜んだと思います。残った筍は、その後、全て、皮をむき茹で、食べたり冷凍したりしました。 浅貝で売っている様に、茹でて真空にして瓶詰め(簡単だそうですが)にすれば、1年以上は持ちます。

さて、今年の企画詳細は以下のとおりです。

・筍狩り日程  6月14日(日) 6月21日(日)

・前泊~筍狩りまでの料金 現時点で不明(昨年私は山荘泊、高之さんの関係者と言う事で参加したので、無料でした)。

・筍狩りは苗場ロープウェイ乗り場集合 だいたい9:30頃と思います

・解散は自由(ロープウェイが常時動いている)但し、だいたい12時頃集中

・携行品 雨具、リュック等(筍入れ)、軍手、帽子、眼鏡、防寒具、山靴(長靴)、タオル等々

・正式案内 パンフレットがまだ出来ていません。できあがったら、入手できますので、改めてご報告します。

・行動計画

土曜日に山荘かどこかの宿に泊まり、翌日の日曜日に筍を狩って、帰宅、というふうなイメージです。

・注意事項

ご存じだと思いますが、根曲り筍はそのものが正にやぶです。従い、藪漕ぎをしながら狩ると言うイメージです。やぶなので、雨が降っていなくても、雨具を着た方が良いです((やぶれる可能性もあるため、古い雨具が最適です)。地元の人も、このロープウェイ稼働に合わせ、山に入ります。現在は、地元といえども、この日以外に入山すると“密漁”の様です。

・他に観光協会の主催イベントには、ご存知かもしれませんが次のようなものがあります。

*苗場スキー場の湿地帯のボードウォーク(7月 8月)

*フジロック(8月初め)

*花の浅貝ゲレンデ(企画中)

*浅貝川ウォーキング(工事中)

*群馬県境100KMトレイル(駐車場整備中)

山荘訪問のバリエーションとしても魅力があります。ぜひご参加ください。

(51 斎藤邦彦)梅雨の季節ですが桑原山荘委員長を始めメンバーが福島屋旅館の佐藤高之さん(観光協会会長)を中心に新しく企画してくれているのが苗場での根曲がりだけ狩りというイベントです。苗場好きの方々とご一緒できればうれしく思います。また、関連した情報をが下記で見ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=jxGADi7Ndwc

(編集子から)本プランご興味のある方は桑原克己君    akaruku.tanoshiku.genkiyoku@jcom.home.ne.jp)までご連絡ください。

(桑原追記)斎藤先輩、さて、世間には素晴しい動画や写真があるのですね。動画は、正にその通りで本当の濃いやぶです。雨具もたった2時間で、穴が数カ所開きました。でも、たった2時間で、大収穫です。

福島屋さんは、旅館業を復活しましたが、雇い人もいませんので、基本的に、食事無し、素泊まりです。少人数であれば、おばちゃんが、簡単なつまみを出してくれますが、基本的に、食事は無いので、朝食等は、小舎で食べるか、買い込む必要が有ります。いずれにしても、小舎と福島屋さんと調整したいと思います。

昨年は、小舎に泊まり、福島屋さんに集合、福島屋さんの車で、写真にあるゴンドラ乗り場に集合です。一般車は、駐車場に止め、歩いて集合ですが、高之さんは、ゴンドラ乗り場まで入れるので、私は、楽をしました。

 

 

 

 

 

 

 

令和元年掉尾の大ニュース! 相生経済学博士誕生!

1982年、YHP(当時)は好業績のもと、創業以来空前の大量採用に踏み切った。この年の新規採用者は時代の明るさそのものを反映して明朗、積極的かつ個性的、活動的で、誰が名付けたか ”動物園世代” と呼ばれ、90年代の業績拡大を支えた。

その世代も多くは第一線から引退する年齢になり、第二の人生展開にかかっているわけだが、その中にあって再び大学に学び、自身の企業人経験を軸についに博士号取得までやってのけた仲間があらわれた。入社時点から編集子の部下であった、その男、コ―セイこと相生公成。 小柄ながら機敏なラガー,たくまざるユーモアをもち宴席の盛り上げ役、個人的にはいろいろとチャレンジを重ねた苦労人でもあるのだが、まことに失礼ながら、経済学博士、などというイメージからこれほどかけ離れていたと言わざるを得ない人物であるということがまさに快哉を叫びたい、まさに年末を飾る嬉しいニュースとなった。以下、本人からのメールを紹介する。

2006年に社会人枠で中央大の経済学大学院に入れて頂きました。それから、紆余曲折がありながら、中央大学の山﨑朗教授に指導を頂き、12年かかって2018年3月に授与することができました。12年もかかっているので何度も挫折しかかりましたが、恩師である山﨑先生に動機づけられ、おだてられて何とかゴールまで辿りつくことができたという感じです。論文そのものは、提出期限時間切れで、先生の支援も及ばず100ページ超の誤字脱字満載のものです。中央大学の権威を落とすことも心配するような内容です。なので多言はせず、少数の仲間にしか話をしていないです。
私の論文は、勤務させて頂いた企業での経験をまとめたものといって良いです。主張は、IT産業エコシステムにおいて各IT企業のポジショニング戦略が重要だということです。当たり前の話なので、マーケティングの専門家の方からは、何言ってんのといういうような話だと思いますが、富士通やNECといった、製品からサービスまでを幅広く提供するビジネスモデルを批判したものです。特にクラウドサービスがプラットフォーム化した現在、各社の優位な特徴を活かす分野に集中することが重要だと主張しました。
論文の構成は、始めにということで、クラウド時代の到来とITビジネスの変化をまとめました。その後、1、大手IT企業のサービスビジネスシフト、2、モバイル時代の到来とIT産業エコシステムの変化、3、総合商社が取り組むITビジネスとIT子会社の変化、 4、クラウドの台頭を受けたDELLとHPに見られた製品企業への回帰、5、まとめとして、日本の大手IT企業の成長戦略を例にしたエコシスエムでのポジショニング(製品を辞めてSIを中心としたサービスに特化した方が良い)といった内容です。
何れも所属した会社での仕事を通じて感じた気づきを先生のアドバイスを頂きながら、過去の研究を参考にしてまとめたものです。その意味では、HPでの経験、CSKがSCSに買収された経験、DELLのEMC買収事案などが生きました。次回、もし書くチャンスがあれば、最後の会社となったTCSを材料にします。TCSは衝撃的でした。このように、論文というよりは、雑誌記事的なものかもしれません。内容が陳腐なだけでなく根っからの照れ屋でもあるため、ブログへの掲載はちょっと遠慮させてください。

 

論文の表紙。すばらしい。

自分は9月末でタタ・コンサルタンシー・サービシズを最後に会社員は退職し、私も若い企業や地方支援や創生をしてみたいと考えています。最後に山﨑朗先生 https://researchmap.jp/read0162740/ を紹介させてください。

山﨑先生は、地域経済の専門家です。しかし、専門外である、私のIT産業に対する研究活動だけでなく誤字脱字といった文章の書き方までも熱心にサポート頂いて感謝しかありません。先生は、地域経済の専門家として、地方創生に積極的に取り組まれ、『 地域創生のプレミアム(付加価値)戦略』や、『地域創成のデザイン』といった著書があり、縮小する日本経済の将来に向けて提言を行っています。もし、宜しければ、本も読んでみてください。
本人は謙遜しているが、論文は下記を参照の上ご一読ありたい。本人はメールの中で白状しているが、天下に名高い悪筆家であり、上司である小生にも彼の営業報告を判読するのは実に大変なことであった。論文が (多分)MSワードで書かれていなければ山崎先生もお手上げであったろうことは想像に難くない。

 

(木内和夫)生ちゃんのdoctoral dissertation、みつけました! 

「クラウド時代における総合型 IT メーカの戦略転換 ―― DELL Technology  HPE における製品回帰戦略の分析―― 

https://chuo-u.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=9228&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=21

 なお 相生さんのメールアドレスは  koaichu@gmail.com です。

(菅井康二)昭和に生まれ育ち平成をなんとか凌ぎ令和迄生き延びてみると「あの相生ちゃんが経済学のドクター!」なんて驚天動地のニュースに接することになるとは…(爆!)いづれ「Giさんの会」に相生先生を招聘して御高説を賜りたいものです。

(麻生洋) 私が3000時代に彼の日報で指導した事も今回の博士号取得に役立っている?としたら嬉しい事です。

(坂東正康)「男子、三日会わざれば刮目して見よ」(三国志演義)

末筆ながら、再度、コ―セイの快挙に乾杯!

懐かしい写真みつけました! (42 田中ひろみ)

常日頃 Circle be unbroken 楽しく拝見しております。

たまたま 三田評論のデジタル版を見ていましたら以下の記事を見つけました。1月号で実際の記事を見ていたのですが、アナログなのでお送りしにくくそのままになっていましたがデジタル版で見つけましたのでお送りします。

39年卒の方々の卒業式の日だと思われます。懐かしい、若いお顔が見られます。

蔦谷さん、竹チョンさん、近藤さん、西澤さん、長谷川大二さん などのお顔が見えます(私のわからない方も)。景色も60年近く前で懐かしいと思いました。

師走に入り何かとあわただしいころ、どうぞご自愛くださいませ。

https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/post-war-pictures/201901-1.html

ハッキリ会 健在なり

1961年4月、横河電機は創立以来となる大量採用に踏み切った。高度成長の初期、日本の石油化学・製鐵など重工業の急速な発展を支えたのがいわゆるオートメーション技術であり、そのトップを切ってきた会社は創立以来技術最優先の社是に従って堅実な人的投資をしてきて優秀な技術系学生の確保には熱心であったが、合計18人という事務系学生の採用には当然議論があったと聞いている。この会社に事務系の学生などは不要だ、と広言する役員がいる、などという話もあり、採用された18人の間には、技術屋なにするものぞ、という対抗心が生まれたのは無理もなく、その故とは言わないが堅い、いわば体育会的結束を誇って団結していた。その会をなづけて ハッキリ会という。

それぞれの職場で ”事務系” の存在感発揮に奮闘した仲間も、いままでに鬼籍に入ったもの3名、病床にあるもの5名、などであるが、舟橋利信という絶対的世話役を得て年2回、旧交を温めてきた。今回は出席7名、昔に帰っての歓談を楽しんだ。

 

”ビジネスコンピュータ” のころ

1980年代。インターネットも標準OSも存在せず、コンピュータメーカの力量が ”どれだけ他と違うハードウエアを作るか” で測られていた時代。科学技術計算用と事務用途用と性格の違ったマシンが存在していた時代。日本ではその市場の在り方の故にIBMですら苦戦を強いられていたとき、ヒューレットパッカードはそれまでの戦略を大転換し、”ビジネス” 市場向けの製品を投入した。

くりかえすがかのIBMでも優位に立つことのできなかった混戦に、その分野での無名の新参が、しかも ”日本語をしゃべれない” コンピュータを投入したのだ。予想されたとはいえ、絶望的な戦いを強いられたのが ”ビジネスコンピュータ部” だった。その ”HPのガダルカナル” を生き抜き、とにもかくにもシステム事業を存続させ、現在の ”コンピュータメーカとしてのHP” にバトンタッチまで持ち込んだ、という強烈な自負を持ち続けている仲間がいる。その中の何人かが旧交を温めた一夕。これをきっかけに昔の仲間を糾合したいと語り合った。今後の再会をまた改めて企画したく、参加希望者の連絡を待つ。

左から染谷、藤田、麻生、浅原、菅井、中司

 

“信玄棒道” 異聞

戦国時代、武田信玄が信濃攻略のため作った軍用道路といわれるのが ”棒道”である。現在もあちこちに原型とされる部分が残っているが、その一部でおそらく現用されている唯一の部分と思われるのが、小海線甲斐小泉駅付近から小淵沢カントリクラブの裏あたりまで 棒道ハイキングコース として管理されていて、その一部が小生のセカンドハウスの裏(というか軒先)を通っている。夏季はハイカーが良く通るし、地元の乗馬学校のレッスンの “外乗” も通ることがある。秋深くなると原生林の紅葉が実に素晴らしいプロムナードになる。昭和40年代くらいまでの八ヶ岳登山ガイドには、権現・編笠へのアプローチとして紹介されていた。時代考証があるのかどうか勉強していないが、往時には道しるべとして作られたとする観音像もあるし、短い距離ではあるが、僕の好きな散歩道だし、元気があればふもとまで朝刊を買いに往復するとほぼ50分、格好のトレーニングにもなっている。

この散歩ルートに異変が起きた。数年前から計画のあることは知らされていたが、我が家のすぐ下を通っている沢(古杣川の支流だと思うのだが)に合計3基の砂防ダムが建設(本日現在未了)されたのである。もちろん、ハイキングコース自体をふさぐようなことにはしていないが、正直、雰囲気がぶち壊しである。

いままでであれば、ただ憤慨し、環境破壊だのなんだのと難癖の一つも付けたいところだが、昨今の異常天候や各地での災害を考えると、やむを得ない予防措置かなと感じる。甲斐小泉駅からこの棒道ハイキングコースの起点までのあいだに三分一湧水、という小公園がある。八ヶ岳連峰の南を限る権現岳の山麓は多くの湧水があり、このあたりは清冽な小川やため池が多いのだが、いいことばかりではなく、沢筋を駆け下った土砂災害の歴史もある。その過去を風化させないために三分一湧水公園には惨事を伝える大きな石が展示されている。これだけの石を運ぶエネルギーがこのあたりの沢筋にはあるのだ、ということを明確に表していると思う。

現在進行中の工事は当初8月初めに終了ということだったが、この分では9月いっぱいかかるのではないかと思われる。この沢の下流が上記の写真にある惨事を引き起こした場所だと言われると、やむを得ないと納得する一方、地球温暖化の結果と思われる昨今の世界規模の異常天候のことを考えざるを得なくなる。この次来た時にはともかく、納得できる形に収まっていてほしいものだが。

 

2019 ナンカナイ会 夏の集まり

8月22日、恒例の夏の集まりを開催。参加人数は25名と盛況だった。

今回は大病を患い手術もあったジュク兄こと伊藤博隆が復帰。毒舌は相変わらず意気軒高とみた。また ”準会員” ヨコさんこと横山隆雄先輩も参加。これ又相変わらず、ご壮健とお見受けした(ただし写真撮影の時すぐ後ろにいたので観察したが見事な白髪も頂部ではわずかに一層、これをセットするのは結構大変だろうなあと感服)。

常連ではちびが通風再発のため受診、高橋良子は白内障手術直後とのことで不参加だった。ほかにも自宅療養中の連絡も5件あった。この世の中、わるいことばかりじゃなし、SNSとかメールとか (我田引水だが小生のブログとか)時空を超えて連絡できる時代になった。人間の基本は社会性にあり、とか、お互い、連絡しあって元気にやろうぜ。

 

リバタリアニズムと米国テクノロジー エリート起業家達との関係 (日本HP OB 五十嵐恵美)

(五十嵐さんは編集子横河(日本)HP勤務時の同僚。同社退社後カリフォルニアに移り、現地企業で日米企業間の交流に尽力してきた。現在はシリコンバレーの中核の一つ、メンロパークに居住)

4月20日付でご投稿のあった「リバタリアニズム」に関して、エディターより “カリフォルニアあたりではこの動きがどのように受け取れられているか、何かご存知でしたらご投稿いただければ嬉しいです。トランプのことも日本では結構まじめに考えている人もいるので、そちらの受け止め方がとても興味があるところです” とのメールを頂いた。残念ながら、リバタリアニズムはあまりシリコンバレーで頻繁に(少なくとも筆者の周りでは)ディスカッションされている話題ではないし、渡辺靖氏著の「リバタリアニズム:アメリカを揺るがす自由至上主義」を購読していないのでもしかしたらポイントがずれているかもしれないが「リバタリアニズムと米国テクノロジー エリート起業家達との関係」に焦点を絞って私見をまとめてみた。

2017年9月にスタンフォード大学のDavid E. Broockman教授、同大学Neil Malhotra教授、ジャーナリストGregory Ferenstein氏によって “Wealthy Elites’ Policy Preferences and Economic Inequality:  The Case of Technology Entrepreneurs” https://www.gsb.stanford.edu/gsb-cmis/gsb-cmis-download-auth/441556 と題する論文が発表された。論文は全米のテクノロジー関係の起業家および最高責任者約600名(うち三分の一はアップル、フェイスブック、グーグルを含む、シリコンバレーの起業家、最高責任者たち)を対象に行ったアンケートの結果で、簡単に言うと、米国のテクノロジー エリート達は(予想に反して)民主党が掲げる社会福祉をサポートし、ビジネスを中心に動くプラグマティズムをモットーとする集団で、恐らくリバタリアンではないという結論である。彼らは民主党、共和党、またリバタリアンの思想、路線ではないミックスされた考えを持ち、アンケートの結果として、

  1. 24%がリバタリアンと自称
  2. 62%が政府のビジネス介入には反対、社会福祉のプログラムをサポートするためにより高い税金を払う富の再分配には賛成(下記テーブル)

全米のテクノロジー エリートは富の再分配には賛成、政府のビジネスに対する規制には反対

ワシントンD.C.に本部を置くシンクタンクのケイトー研究所/財団が2018年に(2017年のデータをもとにして)全米でリバタリアンとして登録されている党員の上位10州を発表した(2017年7月時点でのリバタリアン党員数は51万、ちなみに民主党員数は4470万、共和党員数は3280万)。

  1. モンタナ
  2. ニューハンプシャー
  3. アラスカ
  4. ニューメキシコ
  5. アイダホ
  6. ネバダ
  7. テキサス
  8. ワシントン
  9. オレゴン
  10. アリゾナ

(ケイトー研究所はリバタリアニズムの立場から「伝統的なアメリカの原理としての、小さな政府、個人の自由、市場経済、平和などの拡大のための議論を深める」ことを使命として掲げるシンクタンク)

全米で総合的に最も自由で規制のない上位5州は(ケイトー研究所による)

  1. フロリダ
  2. ニューハンプシャー
  3. インディアナ
  4. コロラド
  5. ネバダ

全米で総合的に最も規制の厳しい上位5州は(ケイトー研究所による)

  1. ニューヨーク
  2. ハワイ
  3. カリフォルニア
  4. ニュージャージー
  5. ベルモント

シリコンバレーに戻って考えてみると、昔からシリコンバレーのエリートたちは、ポリティカルな集団ではなく、一般的に極端なプラグマティズム(実用本位)をモットーとするビジネス中心の集団である。アップルのスティーブン ジョッブス、フェイスブックのマーク ザッカーバーグに代表される、ティー シャツにジーンズのエリートたちの見かけは彼らの前任者たちとは違うように見えるが、内容は昔ながらのシリコンバレーのエリートたちとビジネスの成功への努力と執着、個人または会社の富を社会に還元する姿勢に関してはあまり変わらない。彼らが育った時代が60年、70年台以降だとすると、女性、マイノリティーの社会への進出、シリコンバレーの無国籍化および国際化、IPO (新規公開株)に関連した富、成功に関するより強い執着、等々、外国人が進出したことも含め、シリコンバレーのアイデンティティー、社会的価値観は大きく変化している。ただし、恐らく、彼らの仕事への執着、成功への執着、そして同時に個人の富を社会へ還元する信条は不変であると思う。

リバタリアンの政治理論は諸々のイシュー(社会、政治問題)によって細かく定義されている。例えば、プロチョイス(人工妊娠中絶賛成)、自殺容認、移民賛成、セクシュアル・マイノリティ(性的少数者)容認、銃砲取り締まり反対、薬物使用取締反対、政府の福祉プログラム排除、年金制度の民営化、等々、総合すると党の基本的な政策は、

  1. 個人的自由の擁護
  2. 拡大国家に対する批判(軍備増強に反対)
  3. 市場優位(市場の重視)

シリコンバレーのエリートたちは民主党支持が主流で、民主党が支持する労働組合には反対だが、諸々の社会福祉のプログラムには賛成で、基本的に、ここがリバタリアンの掲げる政府の福祉プログラムを全て排除する思想と大きく違うところだ。

2020年の大統領選挙戦の予測は時期尚早ではあるが、現在の時点で、景気が続けばトランプ大統領の再選も現実的であるし、21名の民主党立候補者の中で、バイデン元副大統領の可能性もある。日本でも当てはまると思うが、米国の政治は政治献金、圧力団体のロビーが多大な勢力を振るう。全米で総合的に最も政府の規制の厳しいニューヨーク州(#1)、カリフォルニア州(#3)の政治献金、ロビーの国政に対する多大な影響力が今後も続くと仮定すると、リバタリアンが現時点で米国の政治の中心となる可能性は少さいのではないか。

ますます国際ビジネスの競争、国際政治の主義主張の違いで争いが高まる中、米国の政治の現実はリバタリアンの「個人的自由の擁護」を第一とする理想主義、あるいは主義主張に妥協のない純粋な政治思想からはかけ離れているように見える。米国流に考えると、米国で自由(リバティー)を獲得するためには純粋な政治思想の”信者”にならなくとも、現実的に入手可能なリバティーは得られるのではないであろうか。

”むかし”の語り部として    その2

大分前のことになるが、OB理事会の打ち上げの席で、たしか斎藤伸介(63-記憶違いであれば申し訳ない)から、”ジャイさんたちの代は勝ち組です!”といわれたことがある。彼が言いたかったのは、僕ら36年卒前後6-7年の代の卒業生が実に幸運なサラリーマン生活を送れた、という事実を言っていたのである。たしかに僕ら数代の間、日本経済は急速度で成長し、だれもが(明日は今日よりよくなるはず)と無邪気に信じていた時代だった。これから日本がどうなるか、想像もつかないが、我々がすべて去った後世の歴史は、この時期を20世紀日本の黄金時代だというかもしれない。そんなころのKWVの話をしておこうと思う。

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(文集第8章 百年祭ワンデルングと三田祭 から抜粋)

1858年に創立された慶応義塾が創立百年を祝う年に、大学2年生といういわば”働き盛り”で居合わせたわれわれは幸せであった。日本も戦後という時代を抜け出し、世界も冷戦のさなかとはいえ,いわゆる”パクスアメリカーナ”のもとで、緊張の中にも明るい未来を展望し得る時期、塾全体もまた、底抜けに明るい時期でもあったからだ。

わがKWVも、OB現役一致して念願の山荘建設を果たし、さあこれから、というタイミングに恵まれ、荒木床平総務に率いられた執行部は、塾自治会からの勧誘もあったようだが、部全体で意義のある事業に参画する意思を持ち、委員会でいろいろの案を議論した結果、福沢先生誕生の地から三田まで、慶応義塾の歴史をひもときつつ、”祖国を、俺たちの部が歩く(荒木総務の言)”という、まさにワンダーフォーゲル運動そのものといっていい企画を決定した。今考えると、内容ももちろんだが、この企画そのものを選定したとき、成功は約束されたといっていいように思える。しかしその規模の大きさに比べて、果たして踏破が可能なのかどうか、部員の安全は確保できるのか、委員会メンバーの不安は大変なものであったろう。

ワンデルングは1958年9月28日、第一班の九州中津出発に始まり、11月12日最終班が記念式典会場に福澤本家からのメッセージを届けることによってめでたく終了した。参加延べ人数は152人であり、われわれは各班の中軸を担うことができた。その過程を共有することでさらに友情を深め、仲間内の歴史が書かれ、いくつもの伝説が生まれた。

一方、塾当局は例年執り行われる三田祭にも記念の意味を持たせたため、全塾を上げて各部・グループが参加を希望してコマ取りも熾烈であったようだ。KWVはこの機会に記念ワンデルングを中心に部活動のアピールにつとめたが、もう一つのコアはできたばかりの三国山荘の紹介であった。全国規模のワンダー人気は依然続いており、その中でも部の山荘を有するということは重要であったし、建設過程にOBから現役までの、いわば義塾の誇る”社中”精神が息づいている、ケイオースピリットのあらわれでもあった。長い旅を終えたわれわれはまた新たな挑戦として三田祭活動に取り組んだ。

当時、アマチュアの間で操作できる、今でいう”動画”は8ミリ幅のフィルムを使う通称”8ミリ”であったが、カメラや映写機、さらには編集に使う機器も決して安価なものではなく、それほど多くの部員が使いこなしていたわけではない。われわれの2年先輩にあたる林田新一郎はその先駆者ともいうべき存在で、山荘建設の記録フィルムはコンテ作りからプロはだしのものが出来上がっていたが、100年祭ワンデルングでは何人かの手でばらばらに撮影されたから、それを編集し、画面を見ながら解説を考え、テープレコーダーに吹き込む(”アテレコ”と呼ばれた)作業が必要だった。3年生の手塚信利は家業として映画館を経営していて基本に強い(と信じられていた)ので、彼の家には連続数人が寝泊まりしてこの作業にあたった。

一方、山荘についてはその正確な模型を作ろう、というプランがあって、こちらは”ミスター山荘”小林章悟の自宅で深谷勝を中心としたチームが徹夜の連続で完成させた。この模型は長く保管されていたが、いつの間にかなくなってしまった。初代山荘が焼失してしまったいま、残念の極み。

徹底的にトリビアまでこだわった山荘模型と若き日のわが友

 

また、”スキー合宿も浅貝でやるんだ!”という暗黙の合意のなかで、ワークキャンプのあいだからゲレンデ作りを実施していたが、”ゲレンデにロープトウ(さすがにリフトとは言わなかった)を作れ!”ということになって、工学部にいた鮫島弘吉郎と高木圭二がその任を仰せつかった(今考えると上級生にも工学部がいたのになぜ2年生だったのか不明)。ワークキャンプ中のある深夜、東京から”拉致“されてきて工事にあたった鮫島幸吉郎の手記。

松本恭俊(34年卒)さんから「家にエンジンがあるから、それを使って、浅貝の小屋の横のゲレンデにロープトゥーを作りたい。お前らは工学部だから、設計しろ」と髙木圭二と小生に話があった。確かに工学部に在籍していたが、まだ、2年生、何もわからない状態であったが、引き受けてしまった。松本さんの工場を訪問、エンジンのスケッチ、そのあとは設計である。「機械設計便覧」を片手に、2人で図面を書いた。この図面で松本さんから部品を発注してもらった。出来上がった部品、エンジンを積んで、トラックに便乗し17号線を一晩がかりで、小屋まで行く。なぜかこのとき制服を着ていたようである(新注:中司はこれを見ているので確か)。土台を作るため、川から砂利を黙々と部員が運び上げてくれた。これで、使えなかったらと、どうしようか、雪が降るのが怖い気もした。

いよいよ雪が降り試運転だ、寒さでエンジンがかからない、小屋で大きなやかんにお湯を沸かし、エンジンを温める。やっとエンジンが動き出し、ロープも回りだした。何人ひっぱりあげられるか?恐る恐るロープにつかまる。2人~3人を引き上げてくれ、計算通りだとやっと強がりを言った。しかし低温の中エンジンをかけるのが大変、毎朝大きなやかんで御湯を持ち上げ,仲間がエンジンを温める仕事も率先して引き受けてくれた。雪の降る前、深谷、妹尾は雪が降ると大変だと、エンジンに雪囲いをし、運転中水分でロープが伸びると、調整してくれたそうである。最近になって、私の知らないところで仲間全員が、多々助けてくれたことを知った。仲間はありがたいと、改めて感じる次第である。

ここに記したいくつかの愉快なエピソードからもわかるように、100年祭のあったころの我々の生活はまさにワンダーの周りをまわっていたのだ、ということを改めて感じるが、街の姿も徐々に復興する経済とともに新しい形に変わりつつあった時代である。テレビ文化の拡大によりアメリカの文化、それも50年代後半の熱気が押し寄せ、風俗などもめまぐるしく変わっていった。日吉から近かった自由が丘にはまだ当時珍しかったジュークボックスを置いた喫茶店ができたし、渋谷や銀座にはハワイアンやカントリーソングをライブ演奏する店もできた。これに影響されて、テントサイト夕食後のミーティングにそれまでの”山の唄”にくわえて、新しいジャンルが持ち込まれるようになった。1級上にいた森永正幹がウクレレを持ち込み、それが一種のブームになったのは、先輩方から聞いていた”ドイツのワンダラー”のイメージの中に革の上着でギターを抱えて歩く、というような憧れに近い感情があったのかもしれない。この”カントリーソング”派は、森永から田中新弥へ伝承し、1学年下では荒木隆司や福永浩介(五色のスキー合宿の時、かのザイラーの映画にあこがれてウクレレを抱えて滑ったりした)、その次には綽名まで”ウクレレ”になった林裕や大原誠三郎などに受け継がれた。将来に微塵も不安を抱かず、学生時代を謳歌した時代の記憶である。

ポピュリズムとは何か? その1      (44 安田耕太郎)

成城大学で「成城 学びの森」講座全6回「The Rise of Populism  Across the Globe」を受講した。週一回 午後6時半〜8時の授業。面白かった。首から下はKWVのお陰で歳を重ねても動かし続けて健康であり、自然の素晴らしさを謳歌しつつ仲間とも楽しくやれてありがたい限りである。が、首から上即ち脳の働きについては自信がない、特に退職後(5年前 67歳で)は。興味があることで脳味噌と感性が刺激されれば良いのだが〜と常日頃思っていた。
そんな折、ジャイさんから「面白そうな講座があるので受けてみないか」とまたお誘いがあった。”また”とは、早稲田大学のオープン・カレッジ講座を紹介頂いて3年間ほど受講していたからである。受講したのは国際関係、歴史、美術に興味と関心を持っているので、統合と分裂の中近世ヨーロッパ史、じっくりジョルジュ・ド・ラツール、「現代ユダヤ」世界を知るための全10講、何処へ行く英国離脱後のEU,  英語で話す日本史。私もジャイさん同様語学に興味を持っていて、同じイタリア語会話学校に3年間通ったことがあった。
早稲田もイタリア語学校も単独で他人に混じっての受講であったが、成城ではなんとふたり席を並べることとなった!英国人教師による英語での授業でワンダー先輩後輩が英語で会話を交わす光景なんてえのは摩訶不思議でもあるし、おたがい面映ゆかった。生徒は20名前後の若くても50歳位で男女半々。女性の方は留学経験や夫の海外赴任で英語や国際問題に関心があると見受けられ、男性は既に退職した人が大多数。なかなか老人パワーと覇気はさるものと感じた。
講座は今話題の「世界における台頭するポピュリズム」がテーマで、週一か国ずつ合計6か国、EU離脱を国民投票で選択したイギリス、America Firstのトランプのアメリカ、故チャベス大統領のヴェネズエラ、ドゥテルテのフィリピン、右傾化が目立つポーランドとハンガリー、そして安倍一強体制の日本である。隠れた梁山泊のような存在で、影で政権を支える或いは誘導さえしているかのような“日本会議”の活動と影響力については認識を新たにした。安倍首相は勿論のこと国会議員の半数以上がメンバーという事実にはいささか驚いた。「目から鱗」が多々あり面白かった。
教材は講師自ら25ページ程の小冊子風を用意して前週に配布、予習をする。教材中の難しい語彙は抽出されて、訳がプリント最後部にまとめて付されている。訳を参照せねばとても理解出来ない語彙が多い。教材は教室内のビデオで流される。多数の質問がプリントに記載されていてまず3〜4人の小グループで(日本語英語チャンポン)で討論して、解答を先生が各生徒に一人ずつ英語で発表させながら全員で討論する進め方。あっという間に1時間半が過ぎる。
講師は英文学専攻で専門分野ではない上に授業時間も短く、テーマを掘り下げるというよりは、その価値はまず生きた英語で授業、質疑応答を行うこと、興味あるテーマを学ぶ面白さ。そして一方通行受身の学校授業と違い自己参画型の程良い緊張がもたらす活性感があった。
台頭するポピュリズム或いはポピュリストは概念的にnationalism/nationalist(民族主義者)、right-wing(右翼)、authoritarian (権威主義者)、patoriot (愛国主義者)、dictator (独裁者)などと鮮明な区別が付けにくい面もあって結構厄介な言葉だが、今日、世界の混沌とした潮流の中で最も旬な政治的な言葉について6ヶ国を例に取り学べたのは有意義であった。同じ講師の次の講座は来春開講予定であり参加する積りである。今後とも体育会系と文科系の趣味と興味がバランス良く共存して毎日を過ごせればと願っている。
本題の ”ポピュリズムとは何か?” については、二人の解釈をまとめて次回以降に書く。