lパタゴニア探検レースのこと  (44 安田耕太郎)

男3人女1人がチームを組んで南米最南部チリのパタゴニアで行われる過酷な冒険レース Patagonian Expedition Race (PER 2018) のことはご存知ですか?以前レースの模様がテレビで放映されました。2〜3年前のことです。グレート・トラバース日本百・二百名山踏破の田中陽希もその時のレースに加わったメンバーの一人でした。彼は三百名山踏破中で忙しく今回のパタゴニア遠征には加わっていません。

チーム名はイーストウィンド(East Wind)と言います。今年のレースは11月20日から30日までの10日間、既にレースがスタートしています。僕の甥(弟の次男)がメンバーの一人として初参加しています。叔父である僕の影響で大学でワンゲル部に入り(明治大)、今は田中陽希と同じプロのチーム・イーストウィンドに所属しています。現在30歳。イーストウィンドはネットで検索出来ます。

レースの模様は多分来春までにはNHK BSで放映されます。イーストウィンドのホームページでも現在進行中のレ-スがほぼon timeで追っかけられます。2日目に入って2位につけています。種目はトレッキング、マウンテンバイク、シーカヤック、ロープアクティビティで構成され、地図と磁石だけで未開の荒野を移動する全長600キロ、10日間のレースです。この類のレースとしては世界で最も過酷なレースともいわれています。

をクリックすればPER2018レースの模様がほぼon time 近くで把握出来ます。レースは自然相手で原始的、実況中継に近い技術は超近代的。好対照の妙に魂消ます。向こうはちょうど地球の裏側、季節も昼夜も全く逆ですから尚更です。

元気でやってます  (39 石谷正樹)

 

石谷兄

長い間ご無沙汰してます。翠川が貴兄のところを尋ねて大歓迎を受けて感激していたのももう何年になりますかね。

こちらこそすっかりご無沙汰しており、申し訳ありません。
そういえばミドリさんご夫妻がはるばる山陰の山村をお訪ね下さり、懐かしいひとときを過ごしました。

私の町は人口7,000人ほど。四方を山に囲まれているため、どんどん過疎化が進んでいる小さな町です。産業と云えるものは何ひとつなく、まとまった会社といえば私が経営しているメカトロ工場があるのみで、350人の社員の雇用を40年間支えて来たのが私の唯一ささやかな誇りです。
こちらから皆様にお話出来るような話題がないので、自ら何かを書いたりご報告することは出来ませんが、このたびお知らせいただいたブログを時々覗きに行かせていただきます。一昨年、家内が早々と西宮市の老人ホームに入居してしまったので、私もなるべく早く会社の方を後継者に譲って合流したいと考えています。

いつか世津ちゃんかテレの葬儀でお目にかかりましたが、遠隔地なのでそのような機会でもなければお会い出来る機会がありませんね。世津ちゃんの葬儀の時はご挨拶をしたものの、立ち話しか出来せんでした。
そのとき朝子ちゃんのことをお聞きしたら、もうお子さんもおられるとのお話で、その時は本当にびっくりして信じられませんでしたが、あとで時の経過を考えたら当り前の事であることに気付き、自分が歳をとったことに愕然としました。

1967年、石谷君訪米のとき、パロアルトのバス停。ひっくり返っているのが朝子、いまはOLと大学生の母親。

お恥ずかしいですがお求めに従って近影をお送りします。つい先月、久しぶりに家内を西宮の老人ホームから連れて帰り、我が町の山奥にある山菜料理屋で昼食を摂った時の写真です。両脇に居るのは東京から駆け付けた娘たちです。

石谷兄

地方を支え、地元の誇りともいえるご家業、ご苦労も多いでしょうが、僕らのようにべんべんとサラリーマン人生を過ごしてきてしまった人間にはただうらやましい限りです。今後ともご活躍を祈ります。

メールアドレス:ishitani@ruby.ocn.ne.jp

三国山荘で野草を探そう  (44 吉田俊六)

標高950mの三国山荘の敷地には上越の道路沿いに里山から入り込んできた植物と、山野草とが混在している。山荘を中心に敷地をⅠからⅦのゾーンに分け、植物の観察をしましょう。山荘に集まりやすいのはWC・新人歓迎会、山菜採り、山荘祭、雪下ろし等ですが、今回は山菜採りと山荘祭の2回分の植物観察を想定します。

  • 山菜採りの頃

カタクリ、ニリンソウ、桜、新緑のカエデなどが楽しめ、連休明けなど、早めに開催であれば火を燃やす広場と疎水に挟まれた斜面ゾーンIIIに「カタクリ」の群落が咲き誇るはずです(KWV三田会ホームページ http://kwvmitakai.jp/参照。)

山荘の入り口手前のゾーンIの杉林根方に白い「ニリンソウ」達が恥らいつつほほ笑み、ゾーンIV すなわち旧文六旅館の敷地には道路側に数本の桜が花盛り、敷地奥の山側玉石の壁の上にカエデの新緑が眩い。小さいながらシャクナゲも枝を這わせる。(ついでながら、この平面は陽当りが良いので多面的に活用する楽しみ有。山菜標本園やあけび・野葡萄の繁茂支援等々、名案歓迎。拙者、境界近くにコシアブラなど植えたいところです。)

6月中と遅めの山菜採りとなれば、山荘の庭で目立つ花といえば、山荘と前の道路との法面緑地 ゾーンIIに植えたナツツバキの白い花。探索の歩を進めると、旧文六旅館の中段(ゾーンV)、さらに疎水へむかって上段のゾーンVIにかけて、針葉樹たちの下草にエンレイソウ(3枚の大きな葉の真ん中に小さな花)を発見。さらに、メイン広場へと車で斜めに上る道へと向かう左側のツガの大木の根方にベニバナイチヤクソウが凛とした色気で佇んでいるでしょう。

  • 山荘祭の頃。

「山で来い来い、里でいやいや」秋風になびくススキが手招きし、里芋の大きな葉は横に揺れる。「皆な来い来い山荘祭」の彩は、玄関前ゾーンⅡの法面:ワレモコウ(吾亦紅)、ヨメナやノコンギクなど様々な野菊たち、ミゾソバ、ゲンノショウコ等々。道路から山荘玄関への石段に送迎のアーチをかけるマユミの古木と赤い実など、皆なが目にし、楽しめる。今回の花形はゾーンVII,つまり山荘の裏庭と疎水の間のベルト地帯に潜む、白く細長い房が見事なサラシナショウマ、紫の個性派;トリカブト、黄色の細紐;キンミズヒキ、赤の縁起物;ミズヒキ、ムラサキシキブ等々。(この時期、浅貝からの道筋にツリフネソウ、キツリフネソウ、秋の七草たちが咲いており、そのうち移植を試みたいと思います。) 厨房の裏、山荘を守る主木は美しく逞しい。(広葉樹;楡の仲間と想定するが、正しい樹木名について未だ特定できていません。乞うご教示)

「花より団子」、食べられるなら関心を持つ御仁に耳よりのご報告。「山菜=QP*」と連想できない貴兄は次回からの山菜採りに参加をおすすめする。実は、通年賞味できる山菜が、ゾーン8、山荘の裏手の杉林の疎水の周辺に生息。ミズナ・ミズ・ウワバミ草と各地で愛称を持つ、あく抜きを必要とせず、生食も楽しめる優れものです。(とはいえ、希少資源ゆえ、大切に)

引き続き、山荘と周辺の植物たちのマップをつくり、これに対応した標識を作成・展示する課題が残されており、共に取り組んで下さる仲間を募ります。さらに夢なのですが、四季折々の三国山荘と周辺の山野草の記録写真やデッサンなど、80年間の各代の中で植物好きの方々の作品を募り、記録をアーカイブに収め、財産化(さらには、商品化して、山荘維持資金の糧に資する)する構想なども、花咲かせたいと思います。種まきと育成にご協力賜りたく存じます。

*QP, とは、KWVで山野草採りやバードウオッチングなど、広い趣味を誇り常に指導者格だった34年卒松本恭俊さんのあだ名。42年卒松本好弘さんの実兄)

“ひこばえ”の独白:

不肖「ずんろく(KWV渾名)」は先ず食用植物を探り、登山の道すがら花々に癒してもらいました。牧野富太郎・宮沢賢次に憧れ博物誌に興味は尽きません。山荘を彩る草木たちの集いに、皆様と一緒に寄り添い続けたく思います。

あいつどうしてる? 新道開発団後日談 6 (41 相川正汎)

ハンチントンのこと ご参考まで  (44 吉田俊六)

われらがs44山中呑多・ドン子父子の写真などと共に、サミュエル・ハンチントンの話題を拝読しました。
 私が関わっている世界価値観調査の主宰であった、ミシガン大学のR.イングルハート(ポリティカル・サイエンス)の文化地図というまとめ図で世界各国の類似度{いくつかの鍵になるアンケート回答への回答パターンの類似性より、回答率の近い国を地図上で近く配置する)をまとめる枠組みとしてハンチントンの文明の衝突のグループ枠組みを援用している地図を添付致します。USAはポーランドと並ぶくらいに宗教を重視している位置づけ、北欧、日本・中国などは世俗・合理的な回答率の高い位置づけと示されています。記事の最後に言及されている民族性の解釈のご参考まで。
World Cultural Map

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本人の直近の状況報告を申し上げますと、ズンろくは4月半ばから来年の1月いっぱい、週3日(午後2時から5時半位)日本語教師の資格取得のための430時間集中講座に挑んでおります。

その理由は、「カリフォルニア州立大学の教材共同開発コンソーシアム:MERLOT Ⅱ」www.merlot.org  と(私が所属する)「CIEC:日本コンピュータ応用教育学会とが提携し、先方より、(1)外国人のための日本語学習のための教材、(2)(1)で学んだ者用の日本語コンテンツを紹介して欲しいとの要請があり、私は英語は苦手ですが、日本語のコンテンツ紹介者(レビューアー)に是非なりたいとの思いで、「逆出島オペレーション」と看板を掛け、日本の理解を求める輸出に挑戦致します。

また、海外からの留学生やビジネスマンに日本語を教える役割(定年はないので、投資回収?のためには85歳位までは頑張って楽しみたいと目標設定)を通じて、価値観の国際比較の地道な現場検証にも励みたく、期待しております。

当面、今まで週に2回アドバイザー役を務めてきた神保町の会社に週3日出勤し、午後は日本語学校へと通わせてもらう方式としております。この会社のおかげで、ワンゲルの新人歓迎山菜採りプランの資料のカラーコピー24ページ50数部などの協賛を頂けているので、こちらへの貢献も尽くして参らねばなりません。

あいつどうしてる? 新道開発団後日談 4 (47 関谷誠)

東京で出会った家内が山口出身なので、小生の退職を機に、8年前、彼女の防府の実家に本拠を構え、千葉県柏市にある拙宅を別荘としてキープ。先月から養護施設に預かってもらえる様になった義母の介護の手伝いをしながら、何代か前からか不明だが未だ休耕田として残っている農地の一部(3.5反程)があるので、その管理(電動車いす!のトラクターを使ったり)をしながら、一部を畑に土壌改良し、春夏秋冬の野菜の栽培に励んでいる山口で田舎生活を満喫している。

そんな中、度々東京に出没するのは「ワンダーの仲間が一番!」を大事にしたいからで、国土が日本の21倍の広大なブラジル国内の各地をを空路、陸路で、長年飛び回っていた者にとり、たった1,000キロの東京~防府は高くつくものの隣町に出掛けるようなものである。

さて私が三国山荘周辺山道整備に関わったのは、1998年(H10)から着手した「三角山登山道」の整備から、2000年(H12)から始まった「稲包山新道」の初期段階の約2年間と、海外勤務から戻った2010年(H22)以降である。そんな中で、やはり強烈な思い出があるのは最初の「三角山登山道」の開発だ。

1997年(H9)の秋頃だったと思うが、36年卒田中シンヤさんのメールが飛び込んだ。平標小屋から、1959年(S34)に浅貝青年会が浅貝と三国山脈を結ぶルートとして開いた所謂「青年会新道」を、三角山から浅貝まで下りようとしたら、笹薮に覆われた完全な廃道と化しており、ほうほうの体で三国山荘にたどり着いたと。具体的文面は覚えていないが、「何とか道を復活させ、再び平標山へのアプローチにしたい」との悲痛な叫びだったと記憶する。

自分もその数年前、現役時代に何度かふみあとを残したこの山道に、平標からの下山時に突っ込み、大変苦戦したこともあり、これを何とか出来ないものかとの思いが頭の隅にあった。

五十路に突入したこの頃、優遇制度での早期退職の機運が高まり、自分もどうしようかとモヤモヤと考え始めていた一方で、「長谷川恒夫カップ山岳耐久レース」に出て、20時間近く奥多摩の山中をさ迷ったり、筑波や佐倉のフルマラソンを4時間弱で完走したりと、体力だけはみなぎっており、何かやらねばと、即刻、シンヤさんのメールにポジティブ反応した。

1998年(H10)に入ってから、数回、浅貝通いしたと記憶するが、本格的には、5月の連休を利用して、シンヤさんと妹尾チビさん、それにS25年卒の故村上オバケさんが、今の自分と同じ古希を過ぎた頃だったと思うが、ニッサン・シルビアを颯爽と転がして、加勢に駆けつけていただき、この新道開発のチャレンジがスタートした。

当時住んでいた自宅近くのホームセンターで購入した草刈り機、燃料等々を河内沢林道経由ムラキの送電線保安道を使って車で担ぎ上げ、ムラキから三国山~平標山の稜線までを、シンヤさん、チビさんと自分の3人の工区を割り振り、笹藪・ダケカンバ等々との闘いが始まった。若手(!)だった自分は、稜線まで這い上がり、最上部の区間を担当した。未だに思い出すのは、稜線直下に斜面をトラバース気味に巻くルートがあるが、残雪も多少残っており、足を度々滑らせながら、草刈り機と鉈を振るってのルートの確保だった。

ムラキまで下りて、先輩方に、「開通しました」と報告させていただいた時の喜びは、何とも言えない思いだったと、鮮明に覚えている。やり遂げたとの満足感だっただろう。

「セキヤ新道」と命名するとの話もあったが、最終的に「三角山登山道」に収まり、残念やらホッとするやら(!)。

その後、36年卒の先輩方を中心に、国立のチビさんの事務所での100枚の三色旗の道標プレート作成、現地での取り付け作業、そして、地元「浅貝新生会」による定期的な刈払い・山道整備に発展し、昭文社の山と高原地図にも掲載されるに至った。1996年(H8)、越路避難小屋の造り替えで知り合った湯沢町役場の高橋貞良さんより、役場の「苗場・谷川連峰を見守る会」として、1999年(H11)4月の残雪期、三国峠から稲包山ルートを踏査したところ、素晴らしい展望の尾根伝いだったが、所々深い藪漕ぎ状態、そんな中、数ヶ所にKWVのプレートがあったとの報告があった。この話を聞いたチビさん(シンヤさんは既にマレーシアに転勤されていた)始め我々は、「三角山登山道」の様に、整備してくれないかとの投げ掛けだろうと受け止めた。

2000年(H12)4~5月頃の残雪期、チビさんと数名で三坂峠まで調査し、6月に、本格的な「稲包山新道」開発に着手した。そんな時、自分が、湯の沢の渡渉点に掛かっていた丸木からバランスを崩し、冷たい沢に転落してしまった。これをじっと見ていた今は亡き妹尾先輩他に笑われてしまったこともあった。なんとか定着しないでホッとしているが、この渡渉地点を「セキヤ落っこち」だと云われてしまった。そんな矢先、1998年(H10)末に移籍した新勤務先からブラジルへ赴任を命じられ、当初メンバーのシンヤさんと同様にチビさんを残し、止む無く、2010年(H22)7月を以て、新道開発から離れざるを得なかった。

旧勤務先でのブラジルでの人脈を使っての業容拡大を負託に、長くて3年程度やれば良かろうと赴き、田中トンベさんから定期的に報告を受けていた新道開発に早く戻ろうと思っていたが、何やかんやで深みにはまってしまい、結果的に、10年間も居座ってしまい、「稲包山新道」の開発にはほとんど加勢できなかった。それでも、2000年(H12)の帰国後、数年前に元橋の「見晴屋」に稲包周辺の山道整備を委託するまでの最終ステージに加わり、貢献することが出来た。

20年前、36年卒の先輩方の嘆きに応え、飛び込んだ三国山荘周辺山道整備が、今般、「ぐんま県境稜線トレール」として地元行政から公認されたとの知らせに思わず、ほくそ笑んだ。嬉しい限りである。この秋、三国山荘60周年に際しては、自分一人だけでもこのルート(湯の沢~三坂峠~稲包山~三国峠)をのんびりと歩き、思い出に耽りたいと思っている。

あいつどうしてる? 新道開発団後日談 3 (53 鈴木邦夫)

この10年間多い時で年間13回、すくなくとも毎年6回は三國山荘に行っていましたが、今年は卒業40周年の同期会での入荘と山荘祭への参加は予定しているものの今のところ冬篭りだけの入荘でご無沙汰しています。

早苗夫人と孫の智己君3歳

雪国まいたけでの楽しい経験が忘れられず縁あって名古屋にある青果物仲卸会社丸進青果で働いています。流通の自由化の波の中、SWロボットを活用した労働集約型業務の軽減、農業含めた第6次産業化を企画担当して楽しく過ごしております。今もたまに自社農場での土手を刈払い機で草刈りしています。土曜日やゴールデンウイークなどは仕事で休めないため、小屋に行く機会がめっきり減りました。湯沢に持っていたリゾートマンションも今年の1月に売却しました。

2007年同期の林岳志君に誘われ三国トンネルから稲包山へつながる山道の草刈りに参加し、それ以来新道隊による新道整備を年に2、3回、2013年?に止めるまで休む事なく参加していました。湯之沢林道から三宿を経由して稲包山までと三国トンネルからキワノ平の頭を経由して稲包山まで、時には鉄塔から長倉山を経て三國権現様までのルートで草刈りをしました。

その時期の参加者は、チビさんをリーダーに、翠さん、深谷さん、とんべさん、どんたさん、ハルチカさん、ペタさんとペタ子、関谷さん、スズキが主力メンバーでした。チビさん、時には新弥さんの御指導の下、保護メガネと呼子、軍手は必需品、背中に混合油のポリタンクを背負い、刈払い機を携て、とんべさんが仕切り、50m幅くらいで担当を決める、どんたさんとスズキは先頭で刈払い機を振り回す役割、根曲がり竹と格闘しました。その後を翠さんがきれいに刈り、匠の技で深谷さんが仕上げる、ペタさんとペタ子はホウキ履き、そしてハルチカさんは全工程途切れる事なく美声で唄い続ける、前日遅くまで飲んでいた関谷さんはで出しは転がりながらもバリバリに働く、昨日のように思い出します。キワノ平の手前で刈払い機が壊れ翠さんが小舎まで代替え品を取りに行った時は70歳過ぎてなんて体力があるのだろうとビックリしました。長倉山ではハルチカさんの歌声が途切れたと思ったら尾根から落ちていたり、空雷が発生した時は新弥さんの適切な判断でコベックラ沢から下りたこともありました。6月の新道隊ではアジサイ隊との共同合宿で吉牟田シェフの山椒の実をふんだんに使ったディナー、シメはチビさんの食べたことがないような高級牛肉のスキヤキ、浅貝という土地で、諸先輩達が長年かけて熟成してきた地元とのつながりと新道の整備、それらに諸先輩達と共にかかわり過ごした時間は私の人生では大学生活に負けないでくらいの素晴らしいもので、私が地元の雪国まいたけに就職を決めた一因にもなりました。当時揃っていた環境が変わり、時代の流れには逆らえないため、新道整備を復活することは困難ですが、情熱を持って必死になって新道整備を成し遂げてきたチビさんを筆頭とした諸先輩に尊敬の念を抱くとともに感謝します。有難うございました。新道隊に加わることができた事を誇りに思っています。

メールアドレス kunio.suzuki6355@gmail.com

あいつどうしてる? 新道開発団後日談 2 (44 山中泰彦)

私は、学生の時稲包山に道の整備のために2回登っています。1回は2年の時にテントを担いでヤブの状況の調査に行き、2回目は4年の時に夏合宿で分散してから山荘に集中し、全員で稲包山頂までカマで刈りました。私は山頂直下を担当しました。

新道開発が始まる時にブラジルに赴任が決まった関谷くんのかわりにメンバーに加わりました。刈払機の使い方を先ず教わり最初はこわごわ使っていました。
新道開発の年間スケジュールは6月に機材の荷上げに登り、7月には合宿で海の日を中心に登りました。それが1年の予定となり10年くらい続いたと思います。おかげで体調は非常に良かったです。コースの良いところは1番に三坂峠から西稲包山の尾根道で中高年に優しいふかふかの道です。次は小稲包山から稲包山の素晴らしい景色です。それに丸木橋のすぐ手前の光苔はなかなかのものです。

また私の息子が途中から参加しましてチェンソーを担当しました。私のあだ名のどんたからとってどんこと呼ばれていました。これがきっかけでその後私の会社に入り現在は社長になっています(本名は重人ーしげとーです)。

最近の状況は昨年6月に、神経の病気になりまだ完全に治っていません。この1年間登山は全てキャンセルしました。現在なんとか完治するように治療しています。現在は週に2日くらい仕事をしています。最近、息子と二人で撮った写真をご覧ください。あまり変わっていないはずですが!

メールアドレス 泰彦   moountain.xd6@gmail.com    重人 acz@mac.com

 

 

 

あいつどうしてる? 新道開発団後日談 1 (H14 西谷利明)

”あいつ、なにしてる?” - その後の ”新道開発団”

先月OB理事会で田中(透)君から、”新道”が正式に群馬県境稜線トレイル計画に組み込まれた” と報告があった。これすでに正式な報告がOB会ホームページにも記載されているが、とんべ君は小生あてメールで次の通り要約している。

とんべ君はもちろん、”新道”プランに関係してきた各位の喜びの声が聞こえる気がする。まことに嬉しい限りであるが、この話を聞いていて、突然、そういえば、あの時のメンバーはその後どうしてるんだろうか、という気になった。

自分は当初のプラン企画には参加し、その後も何回か活動に加わったものの、途中から体力に自信がもてなくなり、脱落した一人なので大きなことは言えないのだが、三角尾根の道つくりから通称”新道”開発まで、発案者であり終始リーダーであったちびこと妹尾昌次が言ったように、道つくりとあわせて、OB,現役諸君との交流、ということにも大きな成果をあげたこのプログラムは、今年60年を迎える三国山荘の歴史の中でも特筆されるべきものだったのはまちがいない。一連のプログラムそのものについては前記の報告のほか、いろいろな記録が残され、経過については36年度同期会の文集 ”ナンカナイ会・その”ふみあと” に妹尾が述べているが、要点だけをさらってみると下記のとおりである。

1998年、仕事を離れ自由時間をもつようになった36年の仲間が妹尾・田中(新弥)を中心に三国山荘での時間を過ごすことが増え、妹尾の発案に地元福島屋の故佐藤崇さん、34年松本恭俊さん、丸橋さんなどのご協力を得て、OB同志を糾合、小屋裏の通称三角尾根3.4キロの道の整備に着手したのがことのはじまりである。この時は当時まだあった浅貝ゲレンデの入口から国境尾根まで、KWVのプレート(プレート代は賛同したOBの寄付とし、その卒業年次と名前をいれたもの)を取り付けるというのがメインであった。当時湯沢町役場勤務で終始われわれのよき理解者であった高橋貞良さんのご尽力でこの道は三角山登山道と名付けられ、昭文社の地図にも掲載された。完成後、メインテナンスは地元青年会の手にゆだねられたが、プレートはその後の風雨に傷みが激しく、2009年に撤収し、回収できた87枚は持ち主に返還された。その後いろいろと小規模の変更はあったものの、登山道として確固たるものになって今日に至っている。

一方、これにかかわったグループのあいだで稲包山に至る道を開こうという機運が生まれ、2000年から三国スキー場(現在は廃止)を経て三坂峠、稲包山に至る道を開発、湯ノ沢林道コース5.8キロが完成。さらに余勢を駆って三国峠に至る稜線への道づくりを始めた。正式な命名がいつだったのかよくわからないが、これら一連の作業を”新道開発”と呼び、携わったOBたちが”新道開発団”を名乗ることになる。2001年には前記高橋さんのご努力もあり、環境庁仕様の指導標(1本20キロ)17本を当時の現役諸君の応援を得て設置した。田中(透)の手元の記録には、9月8日、13.3キロの全通を祝ってOB19名、現役1人、高橋さんとが記念の稲包登山をしたと記されている。

その後も前記 ”新道開発団” が主催し、各代OBや現役諸君とがたゆまぬメンテ作業を続けてきたが、”17年が経過するロングラン”(妹尾のあいさつ文による)はこの”新道”のほとんど(三国峠―稲包―三坂峠)が、群馬県庁スポーツ部主管の”ぐんま県稜線トレイル”に含まれることとなったのを機会に2017年7月1日ピリオドを打ち、新道開発団は解散。これが本稿文頭のことである。

上記解散にあたって、妹尾があいさつ文に書いたように、”50・60歳からの青春を感じた充実した日々” を送った仲間たちがいた。当時現役であった人たちも当然OBとなり、”若手OB” グループもすでに古希を迎える時代である。この人たち、仲間たちはその後どうしているだろうか。幸い、堅固なKWV三田会の存在があって、その後も変わらぬ付き合いをしているものもあるが、家庭や仕事の理由で歳月、人をわけてしまった仲間も多い。このあたりであの日々を振り返ってみたとき、”そういえば、あいつ、どうしてるかなあ” ということに何らかの形で力になれればいい。そういう気持ちで、1年弱前に老人の手すさびにおそるおそる始めたブログという奴を使ってもらえれば、と思い立った。

今回、そのきっかけとして数人の方を選定し、勝手ながら投稿をいただいた(ありていにいえば強制だが)。この後、何回かに分けて連載するので、記憶を改めていただければ嬉しい。これに引き続き、これから山荘祭までのあいだ、このプログラムに関係した各位の近況や思い出などをこのブログにご投稿いただけないだろうか。現山荘委員会を中心に記念行事が展開されていく中で、山荘史に残る話に花を添えられればこれに勝る喜びはない。投稿は小生あてメールの形で、出来れば近影の写真などがあれば添付いただければありがたい。

(本稿に添えた写真は田中(透)君にご提供いただいたものの一部である)