あいつどうしてる? 新道開発団後日談 4 (47 関谷誠)

東京で出会った家内が山口出身なので、小生の退職を機に、8年前、彼女の防府の実家に本拠を構え、千葉県柏市にある拙宅を別荘としてキープ。先月から養護施設に預かってもらえる様になった義母の介護の手伝いをしながら、何代か前からか不明だが未だ休耕田として残っている農地の一部(3.5反程)があるので、その管理(電動車いす!のトラクターを使ったり)をしながら、一部を畑に土壌改良し、春夏秋冬の野菜の栽培に励んでいる山口で田舎生活を満喫している。

そんな中、度々東京に出没するのは「ワンダーの仲間が一番!」を大事にしたいからで、国土が日本の21倍の広大なブラジル国内の各地をを空路、陸路で、長年飛び回っていた者にとり、たった1,000キロの東京~防府は高くつくものの隣町に出掛けるようなものである。

さて私が三国山荘周辺山道整備に関わったのは、1998年(H10)から着手した「三角山登山道」の整備から、2000年(H12)から始まった「稲包山新道」の初期段階の約2年間と、海外勤務から戻った2010年(H22)以降である。そんな中で、やはり強烈な思い出があるのは最初の「三角山登山道」の開発だ。

1997年(H9)の秋頃だったと思うが、36年卒田中シンヤさんのメールが飛び込んだ。平標小屋から、1959年(S34)に浅貝青年会が浅貝と三国山脈を結ぶルートとして開いた所謂「青年会新道」を、三角山から浅貝まで下りようとしたら、笹薮に覆われた完全な廃道と化しており、ほうほうの体で三国山荘にたどり着いたと。具体的文面は覚えていないが、「何とか道を復活させ、再び平標山へのアプローチにしたい」との悲痛な叫びだったと記憶する。

自分もその数年前、現役時代に何度かふみあとを残したこの山道に、平標からの下山時に突っ込み、大変苦戦したこともあり、これを何とか出来ないものかとの思いが頭の隅にあった。

五十路に突入したこの頃、優遇制度での早期退職の機運が高まり、自分もどうしようかとモヤモヤと考え始めていた一方で、「長谷川恒夫カップ山岳耐久レース」に出て、20時間近く奥多摩の山中をさ迷ったり、筑波や佐倉のフルマラソンを4時間弱で完走したりと、体力だけはみなぎっており、何かやらねばと、即刻、シンヤさんのメールにポジティブ反応した。

1998年(H10)に入ってから、数回、浅貝通いしたと記憶するが、本格的には、5月の連休を利用して、シンヤさんと妹尾チビさん、それにS25年卒の故村上オバケさんが、今の自分と同じ古希を過ぎた頃だったと思うが、ニッサン・シルビアを颯爽と転がして、加勢に駆けつけていただき、この新道開発のチャレンジがスタートした。

当時住んでいた自宅近くのホームセンターで購入した草刈り機、燃料等々を河内沢林道経由ムラキの送電線保安道を使って車で担ぎ上げ、ムラキから三国山~平標山の稜線までを、シンヤさん、チビさんと自分の3人の工区を割り振り、笹藪・ダケカンバ等々との闘いが始まった。若手(!)だった自分は、稜線まで這い上がり、最上部の区間を担当した。未だに思い出すのは、稜線直下に斜面をトラバース気味に巻くルートがあるが、残雪も多少残っており、足を度々滑らせながら、草刈り機と鉈を振るってのルートの確保だった。

ムラキまで下りて、先輩方に、「開通しました」と報告させていただいた時の喜びは、何とも言えない思いだったと、鮮明に覚えている。やり遂げたとの満足感だっただろう。

「セキヤ新道」と命名するとの話もあったが、最終的に「三角山登山道」に収まり、残念やらホッとするやら(!)。

その後、36年卒の先輩方を中心に、国立のチビさんの事務所での100枚の三色旗の道標プレート作成、現地での取り付け作業、そして、地元「浅貝新生会」による定期的な刈払い・山道整備に発展し、昭文社の山と高原地図にも掲載されるに至った。1996年(H8)、越路避難小屋の造り替えで知り合った湯沢町役場の高橋貞良さんより、役場の「苗場・谷川連峰を見守る会」として、1999年(H11)4月の残雪期、三国峠から稲包山ルートを踏査したところ、素晴らしい展望の尾根伝いだったが、所々深い藪漕ぎ状態、そんな中、数ヶ所にKWVのプレートがあったとの報告があった。この話を聞いたチビさん(シンヤさんは既にマレーシアに転勤されていた)始め我々は、「三角山登山道」の様に、整備してくれないかとの投げ掛けだろうと受け止めた。

2000年(H12)4~5月頃の残雪期、チビさんと数名で三坂峠まで調査し、6月に、本格的な「稲包山新道」開発に着手した。そんな時、自分が、湯の沢の渡渉点に掛かっていた丸木からバランスを崩し、冷たい沢に転落してしまった。これをじっと見ていた今は亡き妹尾先輩他に笑われてしまったこともあった。なんとか定着しないでホッとしているが、この渡渉地点を「セキヤ落っこち」だと云われてしまった。そんな矢先、1998年(H10)末に移籍した新勤務先からブラジルへ赴任を命じられ、当初メンバーのシンヤさんと同様にチビさんを残し、止む無く、2010年(H22)7月を以て、新道開発から離れざるを得なかった。

旧勤務先でのブラジルでの人脈を使っての業容拡大を負託に、長くて3年程度やれば良かろうと赴き、田中トンベさんから定期的に報告を受けていた新道開発に早く戻ろうと思っていたが、何やかんやで深みにはまってしまい、結果的に、10年間も居座ってしまい、「稲包山新道」の開発にはほとんど加勢できなかった。それでも、2000年(H12)の帰国後、数年前に元橋の「見晴屋」に稲包周辺の山道整備を委託するまでの最終ステージに加わり、貢献することが出来た。

20年前、36年卒の先輩方の嘆きに応え、飛び込んだ三国山荘周辺山道整備が、今般、「ぐんま県境稜線トレール」として地元行政から公認されたとの知らせに思わず、ほくそ笑んだ。嬉しい限りである。この秋、三国山荘60周年に際しては、自分一人だけでもこのルート(湯の沢~三坂峠~稲包山~三国峠)をのんびりと歩き、思い出に耽りたいと思っている。