外国語を学ぶということ (5)  (47 関谷誠)

1/6付けの「外国語を学ぶということ(4)」を拝読させていただきました。「そこをなんとか」は英訳できないとのご指摘を読んで皆さんに馴染みのないポルトガル語の表現・言い方を思い出してしまいました。外国語を学ぶということ、の面白さ、楽しさの例としてお読みいただければと思います。

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ブラジルで使われているポルトガル語に”jeitinho brasileiro”<ジェイチンニョ・ブラジレイロ> と云う表現がある。単語”jeito”は辞書に「方法、手段、様子、性質、巧みさ、振る舞い等々」とあり、また名詞に”inho”を付けると「愛情、親密さ、軽蔑等々」の意味合いが込められる(”Makotinho”は「マコトちゃん」とでも云える表現になる)。また”brasileiro”とは、ブラジルの、とかブラジル流、を表している。

この”jeitinho brasileiro”<「ブラジル流jeitinho」>は謂わば「そこをなんとか」のニュアンスで良く使われ、英語では”Brazilian way ”とかに訳される。とあるブラジルの蘊蓄集は(以下”jeitinho brasileiro”を(JB)と記す)次のように解説している。

(JB)は咄嗟の課題対処方法を意味し、ほとんどは形式ばらない、ブラジル人が問題を解決する術である。この(JB)はおかれた状況によってマイナス側面要素がある一方でプラス面もある。

1946年、ある外国人がブラジル領事館にビサの申請を行った時に「そこをなんとか」とお願いしたのが(JB)の代表例としてあげられている。当時、ビザ取得の手続きをスムーズに進めるには職業を「農業従事者」とするのが一般的だった。ところがある申請者は実際には医者だったにも関わらず「百姓」で通してもらったとの事。これがブラジル流やり方、生活スタイルのプラス的な代名詞になった。

マイナス面としては腐敗・汚職、教養のなさ、公徳心のなさ、狡猾、悪趣味等と関連する。 ここで(JB)とは、自己利益のために第三者をだます行為である。多くのブラジル人は、「なんとかなるさ」の概念を、難しい問題、局面を正しくない方法、規則や法令さえも違反して実行する。

問合せの為に銀行に行くが、長蛇の列に遭遇してしまう。自分の要件は「簡単」「単に問い合わせをするだけ」でもあり、列に並ぶことはないだろうと考える。こうして、長蛇の列で待つ者の目を無視して、直接窓口に赴き、非難ごうごうの中、何食わぬ顔で要件を済ませてしまう。正しくは、要件が簡単か否かに関わらず、他の顧客と同様に列に並ぶべきであろう。自己の問題解決の為に、(JB)で間違ったやり方で、他の顧客をないがしろにする自己中。

(JB)はこの例のように不愉快なことをもたらす要因となる一方で、ブラジル人のもっとも優れた気質を表す。ブラジル人は陽気で開放的な性格が特徴であるが、確かに、他国の人々に比べ、ストレスを感じるような局面においてさえも、形式ばらず、平静を保てると云える。プラス面の要因として、(JB)は人生を軽く、創造的、柔軟にそして楽観的に導く考えであり、あらゆる社会的規範を尊重しながら問題解決することである。

家族が週末を避暑地で過ごす楽しみとしてビーチでの日光浴、トレイルランニング、その他の野外活動等々を前から計画していた。旅行の前日、天候が急変し、太陽の下での計画を取り止めなければならなくなってしまったが、この家族にとって、これは問題ではなかった。即刻、週末の計画を見直し、室内での楽しみ(ボーリング、ゴーカート、等々)に切り替えた。言い換えれば、計画の突然の変更に腹立つたり、残念がったりせず、それでは、可能な範囲、方法で「そこをなんとか」と別の楽しみ方を考えるのがブラジル流だ。

いろいろな議論はあるにせよ、(JB)はブラジル人が特定な課題、任務、状況、問題までも解決する能力として良く使う表現である。

ただし、最近では(JB)は「創造性」の同義語から「悪意・不誠実」に変化してしまったようだ。トランプさんにしろ、キムさんにしろ、イランの指導部の皆さんにしろ、プラス面での“jeitinho brasileiro”を発揮してもらいたいものだ。一方で言えば、ゴーンの自己中の身勝手な行動はまさにJBのマイナス的 ”そこをなんとか” のように思えるのだが。

 

外国語を学ぶということ (4)

以前、”そこをなんとか” という言葉は絶対に英語にならない、と言われた話を書いた。今朝、自習をしている清野智昭氏のドイツ語参考書の中で面白い記事に出会った。タイトルは ドイツ人は悔しがらない? という一文である。

清野教授は授業の一環として学生に演劇作品のドイツ語訳を書かせておられるのだが、そこで出会ったことだ。たまたま、課題として太宰治の ”走れメロス” を選んだ時、王様との間で行き違いが生じ、そこで ”メロスは悔しがった” という一節がどうしても翻訳できない。アシスタントのドイツ人も ”悔しいって何?” と聞くので、苦労した結果、行きついた文章が(ドイツ語をご存知ない人には申し訳ないが原文を引用しないと話がすすまないので書く) Meros argerte sich uber das Misstrauen des Konigis という一文だった。Misstrauen des Konigs というのはメロスに無理を言った王様の不信感、uber は英語で言えば over に当たる。ここで使われた動詞が argerte sich ということで、辞書を引くと 怒る という訳語になる。日本有数のドイツ語の大家がアシスタントに何回説明しても、そういう時にはこの動詞しか使わない、というのだそうだ。そのことを学生に説明すると、次にでてきた質問は、じゃあ、ドイツ人は悔しがらないんですか? ということだったというのだ。

清野氏はこう書いておられる。

本当にドイツ人は悔しがらないのでしょうか。もしかすると、私たち日本人は、たまたま ”悔しい”という言葉があるから悔しがるのかもしれません。(中略)日本人の私は 悔しい というのは人間が持つ感情のうち最も基本的なものの一つであるように感じます。その言葉を持たないドイツ人には心の機微が感じられないのだろうかとも思ってしまいます。いやいや、それは早すぎる結論です。単に私たちがドイツ語をきちんと理解していなかったからかもしれません。sich argern = 自分が肯定したい価値観や物事の成り行きが否定されることによって引き起こされる不満足感や感情の高まりを感じること。怒る、悔しがる、むかつく と辞書に記載したらどうでしょうか。結局、私たちはドイツ語を理解しているようでも、最初に覚えた日本語の訳語でドイツ語の解釈を規定していることが多いものです(後略)。

(中略)いつも思うのですが、学生は日本語で言えることがすべてそのままドイツ語で言えるという前提を持っているようです。そんなことは決してありません。どう考えても,その概念にぴったり合う一語をドイツ語の中に見つけることが不可能なこともあるのです…….

僕らが半分(以上かな)遊び半分で困るくらいならいいのだが、このようなことがビジネスや国際関係の間で起きる、起きている、ということはもちろんあるのだし、その結果が、だれもが想像もしないし望みもしない結果を引き起こしてしまう、ということも十分あり得る。トランプ君とミスターキンのやりとりを読んでるとどうもそんな気がしてくるのだが。

 

 

椿と山茶花はどうちがう?

例年、元日か2日に夫婦で深大寺へ初詣にいくのがここのところの年はじめになっているのだが、今年はいろいろと用事ができてしまい、今日5日になって出かけた。バスで行った都合でまずは神代植物公園(なぜ深大寺の隣が神代なのか、以前説明を受けたことがあるのだが忘れてしまった)へ立ち寄ることにした。この時期、どんな花があるのか、予備知識もなく入園したら、牡丹と山茶花の特集というのか、特別の展示をしていた。この時期を代表する花、ということなのだろう。

その中に 椿と山茶花の見分け方、というコーナーがあった。実はだいぶ前のことだが、月いち高尾の打ち上げのとき、なじみの天狗飯店にデザートメニューに汁粉とぜんざい、というのがあって、この二つはどう違うか、大激論になったことがあった。これは40年の藍原君が事細かに調べてくれて結果は本稿にも掲載させてもらっているが、この2種の花についてもこの時のことを思い出し、あいちゃんの顔など思い浮かべながら、まじめに説明を読んでみた。結論は花芯部分が違うということで、椿は雄蕊と雌蕊が重なってついているので、筒状であるのに、山茶花は雄蕊雌蕊が明確に分かれていて結果として花芯の部分がひろがっている、ということだ。それでは、と少し離れたところにある つばきさざんか園 へ行ってみて現物をよく見て納得した。

この次は初夏に来て ”いずれ あやめか かきつばた” をくらべてみるか、ついでに ”立てばシャクヤクすわればナンとかてえ比較もしてみようか”などと笑っていたら、不意に花の落ちた椿に行き当たった。

およそ花などには知識のない自分だが、この花を落とした椿の一本には花そのものというよりもなんだか一つの生命体のありようを見ているような、妙なセンチメンタルな気分にさせられた。それと同時に、椿の花の散りようが兜首が落ちるようなので、武士の家には椿は植えないのだ、という話をどこかで読んだことを思い出した。なるほど、と感心しているうちに ! と気が付いた。三船敏郎と仲代達矢の決闘シーン、日本映画で初めて、刀が人間を切り裂く音を出したということで話題になった、かの ”椿三十郎” のことである。あのストーリーのメイン部分が展開されるのは隣り合った武士の館であったのに、その庭は、映画の題名通り、椿がチョー満開だったではないか。これはどういうことだ? という疑問が出てきて、そんなことを考えてる間に肝心の牡丹もろくに鑑賞せずに出てきてしまった。

三が日はもっと混んだんだろうな、と思われる雑踏で蕎麦屋は超満員、甘酒も飲まずに(なんと人の足元をみやがって、スチロールカップ1杯400円、というのに頭にきたこともあって)つつじヶ丘駅まで戻り、エキナカの蕎麦屋で食べた遅い昼食がカレー南蛮。これはいったいなんだったんだろうかと反省しつつ帰宅。妙な初詣であった。

”とりこにい” 抄 (5) 2年 夏の妙高あたり

大学1年の冬、同期の仲間 翠川幹夫の父上が出資された妙高高原のホテル、”燕ハイランドロッジ” の開業にあたって手伝いという名目で長期にわたって滞在させてもらった。飯田昌保なんかもこのうまい話にのっかった同志である。

燕温泉に入るのさえ大変だったころで、積雪は現在から想像できないほど多かった。スキー客は赤倉からリフトを乗り継いでやってくる。その出迎えとか、荷物を運ぶとか、初心者にスキーの履き方を教えるとか、いったことをしていた。豪雪に遭遇し、赤倉へ行く道で表層雪崩に巻き込まれたこともあった。

(創業直後のハイランドロッジ。お嬢さん方の出迎えなんかをやっていた。当時最新流行のスキーモードにご注目)

ミドリとの付き合いが始まったのはこれがきっかけで、夏場にはそれまで無縁だった妙高周辺を歩くことができた。 そのころの雑観を書いたものが出てきた。いつだったか、場所がどのあたりだったか、薄暗い捲き道を通り過ぎてたどり着いた草間地だったような記憶がある。精神的に安定していなかった時期の鬱屈がにじんでいるような気がする。

 

湿原にて

 

夏の午後  モウセンゴケとの戯れに飽いて

俺は 湿原の中に立ち尽くした

ダケカンバの林を抜けてたどり着いた

亜高山帯樹林の一角に立てば

時間よ - 貴様はまた

このかぐわしい晩夏の 午後の風に隠れて

針葉樹林のかなたへ逃げようとするか

それともまた

明日を約束するあの積乱雲のかげへか?

忘却と追憶の間にビブラムをおけば

夏の午後

西の空はすでに紅

 

今日は大晦日、令和元年のおわりである。スキーの無い冬も2回目になる。改めて燕に通っていたころのひたむきな気持ちが思い出される。あと45分後に始まる新しい年はどんなものになるのだろうか。

外国語を学ぶということ 3

イタリア旅行を考えたとき、せめて挨拶くらいはできるようになりたい、と思い夫婦で足掛け1年くらい、イタリア語を学んだことがある。いわゆるグループレッスンというやつで、初めのグループの人たちとはとてもよく気が合い、レッスン以外にも親しくしてもらったが、第二期めくらいからなんとなくグループで学ぶことの限界を感じ始めたのと、同じころ英語検定1級を目指していたのでそれに集中しようと思ってやめてしまった(八恵子のほうはこのクラスはやめたものの、ずっとNHK講座で勉強をつづけている)。

英検1級がなんとかとれたあと、別の動機から今度はドイツ語に挑戦しようと思い立った。現時点でほぼ3年、英語とバイリンガルのドイツ人にほぼ週1回、レッスンを受けている。この過程で”なぜ英語が世界共通語になったのか?”という疑問に答えが見つかったような気がしてきた(ここで対象にしているのは欧州の言語中心であるが)。答えは明瞭で、英語が一番簡単だから、なのだと思う。

例を挙げれば、イタリア語でも同じだが、名詞一つ一つが性を持つ。ドイツ語で言えば、スプーンは女性でフォークは男性でナイフは中性。なぜ、という説明はない。人称代名詞でも二人称が二つあるし、動詞の変化も人称と数によって変わる。英語なら, 助動詞を使えば解決するところを接続法という話法を学び、それに伴う動詞の変化を覚えなければならないし、ドイツ語は特に文法が厳重に守られる。もちろん、英語にもきちんとした文法はあるわけだが、文章にも話し言葉にも、ドイツ語に比べれば自由度というか柔軟性というか、つまりチャランポラン性において、ブロークンな意思交換がやりやすいような気がする。

欧州主要国はほとんどかつてはローマ帝国の一部であり、ほぼ同じアルファベットを持ち、宗派の違いはあってもキリスト教の影響下で何世紀も繁栄してきたし、国々の間の関係もアジアに比べればはるかに濃密だったはずだ。陸続きでほかの国と接し、早い話が通りの向こうはほかの国、という日本人には想像できない地政的な関係があるにもかかわらず、異なった言語を守り続けてきて、共通言語として発足したはずのエスペラント語も消滅して、結局、大陸外の島国の言語である英語が実質的に共通語となっている、というのは実に面白い。別の言い方をすれば、欧州人はそれだけ自国の文化言語をかたくなにまもり、結果としてEUという壮大な歴史的実験にいたったのではないか。

こう考えてくると、ただ言葉が通じない、という現象だけにとらわれ、それなら実質上の世界語である英語を学べ、それも幼少の時から学ばねばならぬ、だから小学校の時代から英語を必修とすべきだたという、なんだか明治鹿鳴館時代に戻ったようなことを国策としている日本は、小手先のことに翻弄されて本質を見失ってしまうだろう。多くの外国人が英語を話せる、俺たちは話せない、という劣等感が先に立っていないか。共通項の多い欧州だって、英語を使うのはそれが必要な人たちであって、国民の多くは自国語しか必要としていない。それは日本人だって全く同じである。子供たちが多少の英語がわかり、発音が多少良くなったとしても、その何割が英語を使わなければならない立場に立つというのか。

繰り返すが、英語は確かに世界共通語になっている。それは事実だし、できるにこしたことはない。しかし言語の前には自国の文化伝統をしっかり把握し、意識することができて初めて本当のコミュニケーションが成り立つ。”そこをなんとかして” という日本 ”語” が翻訳できないのではなく、日本 ”文化” が翻訳できないのである。外国 ”語” を学ぶ,ということの意味はこの辺から考えていくことが大切だと思う。

 

 

気がついたら20年!

滅多にないことなのだが、夜半、目が覚めた。

ミステリ小説にはときどき、something that keeps you awake at midnight などと言う表現が出てくる。主人公(つまり、多くの場合、いいやつ)はここで何か、解決のヒントを得たりするんだが、寝る直前、風邪対策に飲んだ高清水が多すぎたかな、などと思っているうちに、ふと気がついた。退職して丁度20年が経過した、という事実である。20年。十年一昔が2回。これは事件ではないか。

1999年10月31日、が僕のサラリーマン生活終了の日である。あと3年、勤務を続けることは可能だったが、そんな気は全くなくなっていた。親会社ヒューレット・パッカードの5代目新社長フィオリナが初めての海外視察で日本に来る、というので滞在中のアテンドをと請われてほぼ1月、出社はしていた。その来日が実に退職の翌日だった、ということが僕にとってはとても暗示的である。

HPと横河電機との合弁会社に勤務してから、創立者ヒューレットとパッカードの経営哲学と、直接話をしたのは数回に過ぎなかったがその人間味とがそのまま僕の会社人としての基盤になっていた。その経営手法は HP Way と呼ばれてその存在と堅実な業績がHP社を常に America’s Best Companies という優秀会社リストのベスト10入りを約束していた。しかし皮肉なもので、HP社の拡大そのものが足かせになり、HPWayはグローバリゼーションなる魔物の前に形骸化して行く。経営数字だけが我が物顔に徘徊する俗称エクセルマネジメントという現実の前には実践は困難となり、言ってみれば歴史教科書の初めに登場する聖徳太子の詔のようなものに棚上げされていった。

歴史の前に一個人の存在は無力であり、現実は受け入れなければならないのだが、こういう自分が信じていたものの崩壊にあたってみて、気障にいえば、滅びの美学みたいのものが心の中にわだかまるようになった。愛読していた司馬遼太郎の創造した土方歳三の生き方が自分の道だ、と思えて来た。仕事を辞める、信じたものに殉じる、という決心に導いたのが、この5代目社長の登場だった。多くを語るつもりはないが、彼女が目指していた数字と効率と配当の大きさだけが支配する世界、そのなかで毎日を消化する、という選択肢は僕にはなかったのだ。

しかし美学なんぞと言ってみても退職後の現実は避けられない。年金生活でもなんとかなる、という見通しがなければ贅沢は言えなかったはずだが、幸い、当面の心配はなかった。とすれば、あとは残された時間をどう過ごすか、という課題だけであった。やめて2,3年の間は外資系企業といういわば日本経済の鬼っ子的存在で得た経験を何とか世に伝えたい、という欲望があった。その一つとして同じ境遇にいた後藤三郎と二人で本を書いた。それとは別に、僕が見つけた、アメリカ社会の現実をつぶさに書いたある本の翻訳を出そうとひそかに計画し、中学時代の親友で慶応高校の新聞 ハイスクールニュース の仲間、当時は出版界でベテラン編集者として名を挙げていた藤本恭に仲介を頼んだ。どうやら何とかなりそうになった時、何と藤本が病を得て急逝してしまいこの話はなくなった。天の配剤、というのはこういうこと言うのだろうか。なぜなら、この挫折が結果的にはその後の僕の生き方を決定したからである。

変な野心や夜郎自大の驕りを捨て、のんびり過ごすさ、という帰結であり、それはよきKWVの仲間との時間を生きる、ということだった。世の中の多くの場合、旧交を温めるということはただ単に good old days への回顧だけに終わるのだろうが、僕らが恵まれているのは、同期や先輩のみならず、現役時代には知り合うこともできなかった後輩たちとの交流、すなわち現OB会を通じて常に何か新しい知識や刺激を得ることができることだ。最近の新しい仲間はすでに孫世代、それより若い世代になる。彼らにとってはうるさい、時代遅れの老人とのつきあいとしか思えないだろうが、いずれ、彼らも同じ境遇になるということで勘弁してもらって、ここではただ、日々、新たに生まれる友情に感謝をするだけだ。改めてこの組織を作られた妹尾さんの決断とそれを支えられた森田さんをはじめとする創業時の方々に深甚なる敬意と感謝をささげたいと思う。

・・・・などと思っているうちにも一度寝込んでしまった。目が覚めたら7時、なんだかいつもよりさわやかな朝だった。

“とりこにい”抄 (4) 鹿島槍 初冬 

1年の初冬11月。田中新弥とふたりで鹿島槍―針ノ木を歩いた。

この年、浦松佐美太郎が ”たったひとりの山” という深みのある本を書いた。タイトルはもちろん、この本から借用したものだ。

 

”たったふたりの山”

 

俺と貴様はそれをもとめていた

それを求めて俺たちは嵐の長ザクをかけあがったのだ

黒部には白いガスが詰まり 夜 星は蒼く凍てついていた

”ふたりっきりの山!”

 

”ふたりっきりの山”で

俺はなお ”なにか” をもとめた

素手でステンドグラスをぶち割ったときのような

なにかを俺は吸い込みたかった

そのために俺は貴様と急坂をよじ登って来た

だがハイマツを吹き上げる黒部のガスの晴れるたびに

俺は眼を凝らした - あれは人じゃないか……

 

しかし あるのは岩尾根

ただつづく岩の尾根

ただつづく岩の堆積

人間という奴はただ俺と貴様が立っていただけ

選ばれたふたりがいるだけだった

その空気を吸うたびに 貴様はそっと微笑した

 

しかし それなのに

霧に包まれた樹林の間からはるかに渡ってきたあの呼び声を

アラインゲンガーのうつろなコールを

俺は なぜ 懐かしく聞いたのだ

なぜ 貴様を制して耳を傾けたのだ

ビヴラムをきしらせて小屋に駆け込み

(おい いないぞ)

すでに去った人をいとおしんだ俺

 

”たったふたりの山” そいつをもとめた俺が

もとめたのは ひったくりたかったのは 

”山” ではなく

”人間” ではなかったのか

フオッサマグナをふきぬける初冬の風

立ち尽くす俺

貴様のコールに応えたのは

篭川のガスと遠い剣の照り返しだった

 

今日、小生は82歳の誕生日を迎えた。もう剣を見ることはできないが、60 年前の日の、あの嵐の向こうに聳えていた雄姿は今なお忘れられない。

鹿島槍南峰でのふたり

 

 

 

スー・グラフトン 全巻読了

大分前の本稿で、アメリカの女性ハードボイルドライター、グラフトンのことに触れた。

以前からオヤエがこの分野での女性作家、例えばサラ・パレッキーとかルース・レンデルなんかの翻訳と一緒に収集していたので、僕も散発的にグラフトンものを拾い読みはしていた。それがどういうわけか翻訳の出版が途絶えてしまい、二人してどうしたんだろうと思って出版社に問い合わせたが、明快な理由は教えてもらえなかった。翻訳についての何か事務的あるいは法的な問題ではないかと想像はしたが、またまたアマノジャクが頭をもたげ、それなら原書で読めばいいんだろうとアマゾン頼りに A から始めたところ、まるで申し合わせたように彼女の早すぎる訃報に接した。

グラフトンはアルファベットシリーズとして ”アリバイのA (A is for Alibi)” から始まる Z まで26冊を書くことを約束していたのに、何という運命の皮肉か、25冊目の ”Y is for Yesterday” が最後になってしまった。あと一冊でライフワークが完了するという時点でのエンドマーク、本人もさぞ悔しかっただろうと、暗澹とした気持ちになった。

ともかく、問題の ”Y” はこの夏には入手してあったのだが、そのタイトルに The final Kinsey Millhone Mystery  と書かれているのを見て、しばらく頁を開く気分にならなかった。それでも年を越すのはいやだったので、10月末から10日ほどかけて読み終えた。勿論会った事などあろうはずはないが、(スー、読み終えたよ、ありがとう)と言ってやりたい気持である。

25冊読み終えて、当然ながらオヤエから、”それで、どれが一番よかった?” と聞かれたが、返答に困ってしまった。同じ作家を読んでいれば、中には強烈な印象をのこしたものや、トリックの巧みさに驚愕したりするものが当然ある。僕の場合、それはクリスティでいえば ”アクロイド殺し”、アイリッシュなら ”幻の女”、マクドナルドなら ”さむけ” というふうにすぐでてくるのだが、このグラフトンシリーズにはそういうものが全く、ない。それでも、単なる意地や、英語の勉強、と言った動機を越えて、どうしても最後まで付き合おう、というものがあった。それはなんだったんだろうか。

ミステリ作品の基本はもちろん ”Who’s donit ? (誰がやったのか)” だが、話には ”How’s donit ? (どうやって殺したのか)”、それと ”Why donit ? (なぜやったのか)” が書き込まれる。クラシックの絶頂期にはこのなかでも ”How ?”  つまり奇想天外なトリックをしめすこと、現代の警察ものなどででてくる用語でいえば MO (modus operandi) を主人公が神のごとき推理によって解決するところが作家の腕の見せ所だった。この推理の在り方がより現実的な行動に置き換えられたのがハードボイルド作品であり、その過程に引き込まれ、興奮し、同期化することが読者であることの醍醐味なのだ。だが、この25冊を読む間に、こういう知的興奮を覚えた記憶がないのである。

それではグラフトンは読むに値しなかったのか、と言えばもちろん、そんなことがあるはずはない。考えてみると、僕がこのシリーズにいれこんだのは、トリックのわざとか、ストーリーテリングの巧拙とか、文体とか、そんなことではない。それは80年代のカリフォルニア、まだ電子メールも携帯電話もなく、確かに人種問題なんかがありはしたものの現在の混迷とは全く違った、good old days とは言えなくてもあの陽光、微風、それといかにもとあっけらかんとした ”アメリカ人” が醸し出す、”これがカリフォルニアさ” といえたころ、短い時間ではあったがそれを満喫できた自分の過去をたどることを可能にしてくれたのがこの25冊の、ミステリという形をとってはいるが、言ってみれば ”あのころの良きアメリカ” へのオマージュであったからではないか、と思えるのだ。

25冊すべて、難しい謎解きや奇想天外なトリックや暴力描写があるわけはなし、MOと言ったってそこは銃社会のこと、拳銃以外にはほとんど見るべきものもない。それでも、独立心そのものと言ってもいい、中年に差し掛かりかけているカリフォルニア・ウーマンの生活パターン、女性ライターらしく登場人物のファッションのことこまかな描写、シリーズもの特有の常連バイプレーヤへの親近感、さらに言えば僕と同じにワインといえばシャルドネしか飲まないキンジー。そんなものが混然一体となったおとぎばなし、というのがこのシリーズのような気がしている。翻訳が R までしかないのが残念だが、ブックオフあたりで探せば文庫本はまだまだ手に入る。ぜひともご一読をおすすめしたいものである。

 

 

 

”とりこにい” 抄 (3)  1年、夏

高校3年の暮れ、それまでの人生観をがらりと変えてしまった出来事に遭遇した僕は極めて不安定な心理状況のまま大学に進んだ。新しい環境への期待はそれなりに持ってはいたけれども、心の中の不安を拭い去ってしまうなにかが欲しい、という欲求があって、それを期待してKWVに入部した。新しい環境があり、新しい友人もできかけていた。それでも心の奥底にあるもやもやしたものが時として頭をもたげる。そんな心境だった1年の秋ごろだと思うが何となく書き綴ったものを 部誌として ふみあと というのがあることを知って投稿してみたところ、編集をやっておられた丸橋さんの目に留まり、なんと ふみあと10号 の巻頭に載るという光栄に浴した。振り返ってみてなんとも気恥ずかしい独りよがりの文章だが、あのころはこんなにもがいていたんだなあ、と改めて思う。

最後の夏合宿第八班でSLに美佐子を頼んだ

その ふみあと の78ページに小山田(横山)美佐子はこう書いている:

・・・・私の学生時代にはまだ真白いページが沢山残されています。その純白のページを ”やま” という文字で一杯にしようと思ってます。

ミサとは高校3年次に文化祭の委員を通じて知り合って以来の付き合いだが、入部のころの心情がこんなにちがっていたのかなあ、と改めて感じる。ご主人の横山さんは慶応高校からの先輩で家族ぐるみの親友づきあいを御願いしている。

 

急傾斜30度

 

“想い出”とは何だ

ふみしめたビヴラムの間からにじみ出る疑問を

俺はまた考えてみる

急傾斜30度

遠いコルへつづくトレイル

踏みしめても ずりあがっても まだつづくザレ道

にらみつけても けとばしても トリコニイに食い込む石コロ

俺はまた考えてみる 

”人間に記憶は必要だろうか”

澄んだ空には空虚 微風には虚無

カメラ―トの声の聞こえない孤独

泣こうと わめこうと もだえようと こびりついてはなれない ”想い出”

ー 逃避ではない山歩きがしてみたい

なにかの文章を思い浮かべながら

俺はまた 考えてみる

けとばしても ふみつけても トリコニイに食い込む石コロ

そいつに ”お前” と呼びかけたくなって

そっと草かげへ転がした俺

急傾斜30度

トレイルはまだ つづいている -

外国語を学ぶということ 2

仕事を辞めてから何度か夫婦で海外旅行をする機会があった。アメリカには仕事の関係上行くことが数多くあったが、ほかの地域にはそれがほんの数回しかなかったので、やめてまもなく、まず、まだ半分現役で現地にいた大塚文雄をたずねてアイルランド全島をドライブした。アイルランドがEUに加盟する前のことだったが、これまでに経験したことのないほど、現地の人情に触れることの多い旅だった。ごひいき、ジョン・ウエインの西部劇には必ず善人役でアイルランド出身のわき役がいたが、まさにそんな雰囲気の、楽しい国だった。ダブリンで飛び込んだパブではアルコールのまわったアイルランド訛りに苦労したけれど、言葉について気を遣うことはなかった。

そのほかにもメキシコ、スイス、イタリア、スコットランドなどと、できるだけパック旅行を避けて気ままにいくことにしてきたが、一度大手の旅行会社が所有する船でライン河を下る、という旅にでかけたことがある。希望する日程では船が下りの旅を終えて上りになる順番だったので、ライン河遡上、ということになった。ただメインはあくまでドイツ。慶応高校は3年次に第二外国語の授業が必修で、一応ドイツ語を取ったし、多少の心得はあったものの、例によって即席のレッスンを何回かとって、船ならばクルーと知り合う機会もあるだろうし、多少は会話も試せるか、という希望を持って出かけた(旅客はすべて日本人)。

企画自体はよくできていて満足のいくものだったが,船上でドイツ語を試す、という機会は全くなかった。ドイツを旅行する旅なのに、ドイツ人は船長だけだったからである。コック、ウエイター、事務スタッフなど、会うクルーのほとんどが東欧諸国から来た人で、ルーマニアかとおもえばハンガリー、スロバキアなどなどで、共通語はブロークンな英語であった。

この旅で当たり前のことだが、ヨーロッパ、という人間の集合がここに確かにある、ということを改めて感じた。国境を越えて旅をし、仕事をし、生活することが至極日常な世界なのだということだ。ローマ帝国が建設されたころ、わが日本という国はまだ存在していない。そのころから絶えず離合集散と悲惨な戦争を繰り返してきた国々が今なお、自分たちの生存圏を守り、陸続きの国境がありながらなお母国語を守り続けている。そういう前提の中で異国に旅し、異国で生き、働くことが当然という環境がある。その中で共通の言語として英語が選択されている、というのはある意味不思議なことに思える。英国は欧州本土にはない。欧州本土の覇者は例えばフランスであり、ドイツであり、さかのぼればスカンディナヴィアの国々だったのに、なぜ、英語なのだろうか。

19世紀、陽の沈まない帝国、として英国があった。しかし同時に地球規模の帝国としてスペインがありポルトガルがありオランダがあった。その結果、世界の国々は英語圏、スペイン語圏、ポルトガル圏、というように色分けされているが、それらを越えて英語が世界語になった。これにはもちろん、第二次大戦後のアメリカが英語圏の国であり、そのプレゼンスがもたらした結果なのだということも大きな理由であるのは疑いがないけれども、それにしても、である。

世界で通用する ”ハム”語 による交流.交信後に交換するカードの一例

僕は中学のころからアマチュア無線に興味を持ち、細々ながら現在まで続けてきた。 ”King of hobby” と呼ばれるようにアマチュア無線の範囲は実に広いが、短波を使う部門では、電波の伝達の特性から、当然世界中の同好の士(ハム)との交信がメインとなる。戦前は通信機器自体の性能もあり、外国との交信はモールス符号によるものがほとんどだった。モールス符号、は文字通り符号であり言語ではない。しかしその基本さえ覚えてしまえば、世界中の相手と母国語には関係なく交信ができた。この世界ではモールス符号が世界語だったのだ(たとえば 数字の ”73” は、”またお会いしましょう、よろしく” を意味する)。

ところが第二次大戦後、電子技術の進歩のお陰でハムの通信機器も戦前とは比較にならないほど進歩し、通信の大半をモールス符号ではなく、通常の言語によるようになった。となると当然だがそれを何語でやるのか?という疑問が起きる。事実、10数年前くらいまでは、専門誌には フランス語やスペイン語での交信についての解説があり、簡単な情報交換はいくつかの主要言語でやろうではないか、という暗黙の了解があった。しかし現在ではこの種の記事はあまり目にしたことがない。ハムの交信は英語でやるのが常識になってしまったからだ。ここでまたアマノジャクが首をもたげてきた。英語でなく、相手の言葉でQSO(ハムの世界では交信のことをこう言う) をやってやろう! ということである。