こちらMSS会も健在 !

昨日の同期入社グループに引き続き、今日は ”YHP マネジメントサービス課” 通称MSSの同窓会として2日連続の昼酒となった。以下、報告と回顧。

YHPは創業直後、各種の問題に直面し、徹底したコスト削減という目的のため、それまでに使用していたIBM製会計機と横河電機のコンピュータによる生産管理システムは廃棄され、その責任者であった小生は職を失う羽目になった。その後いろいろな過程を経て、もう一度、自前のEDP (Electronic Data Processing 当時はITという用語は存在していない)を持とうということになり、再度、その任に就いた。自分では二度とやりたくないと思っていたのだが、当時の事情で断ることもかなわず、数人のいわば “同志” と準備作業に入った。

ただ、前回あまりにもハードウエア面に集中してしまった反省もあり、EDP という職場名には断固として反対し、MSSが誕生した。古いファイルでみつけた ”辞令” を掲げておこう。以下にも時代を感じさせるドキュメントである。

”同志” として糾合した安藤滋とか田中新一などとかなりまじめなフィージビリティスタディをやった。その表紙だけかかげておこう。

現状分析。HP本社への報告であるので英文になっている。 すべてマニュアルタイプライターで作成、トレーシングペーパを張り合わせてつくったもの。
こっちは日本側トップの説得用なので日本語。ワープロなどと言うものがなかった時代、3人の中で最も達筆の(故)田中新一が書いたもの。

それでも当初から自前のマシンを持つことは許されず、当時八王子市商工会議所が持っていたシステムセンタへ通ってプログラムテストをやり、本番の運用までまで同社に依頼する状況だった。その後MSSの技術面での実質的リーダーになった藤田、沢田、堀などと言う連中はこの縁からYHPに参加した。考えてみると、中途入社、職種別採用、という当時はかなり禁じ手に近かった入社である。

その後、彼らの活躍、HP本社からの支援もあり、当時IBMが最先端機としていたシステム370の最小規模モデル、370/115を何とか導入してもらった。今の若い人には信じられないだろうが、この最小モデルについていたディスク(当時すでにDASD=Direct Access System Device,なんていう、プロまがいの呼称があった)が75Mバイトある!といって興奮したものである。このシステムはHP自体が汎用(という区分がまだあった時代だ)コンピュータビジネスをはじめたため、そのモデル3000に移行するが、小生は後事を安藤に託してMSSははなれていて、その後のHPスタンダードによるグローバリゼーションには直接かかわっていない。この野心的なプログラム推進のため、社内外から人材が集まり、活気に満ちた、面白い職場として 俺たちのMSS が出来上がった。

前振りが大変長くなった。本日参加できたメンバーの写真を掲げておく。残念の極みであるが草創期の主力だった堀重敏が最近急逝。皆で冥福を祈って黙祷をささげた。

2019MSS会 八王子マロウドインにて

 

 

 

 

 

 

”こんな日もありけり” 予録

(10月2日アップの記事について楽しい反応があった.少し前に小泉さんのご投稿がきっかけで高校同窓の関谷君、横河電機時代の親友との3人の楽しい邂逅があったりして、このブログとやらを始めてよかったと思えてくる。今後もこのようなセレンディピティ(?)を期待したいものだ)

(39 堀川義夫)

10月2日付のブログ見ました。びっくりの写真ですね。

①一番左端の彼は名前は忘れましたが、志賀から山田峠に行くときに「のぞき」右の谷へ滑落! 私にとっては強烈に印象に残る場面でした。そのあと、彼の持っていたテントのメインを持たされました。ジャイさんの陰謀だったのでは?

②その隣(片手をあげている)は岡田正大君で、彼とは都立青山の同期でクラスメイトでもありました。別に、打ち合わせて入部したわけでなく、当時の新人の多さからFCで一緒になるまで、彼が同じワンダーに居たとは知らなかったくらいです。彼は卒後、NHKに入りその後、結構長くイギリスのBBCに出向になり、帰国後は自然界のドキュメンタリー制作に敏腕を発揮し有名プロデューサーになりました。 残念ながら、業者間との交渉事が問題視され、責任を取り退職、その後はわかりません。良い男でした!

③私の右隣は伊藤さんと言いました。直ぐにやめていますので、印象にもあまり残っていなかったのですが、ある日、家内が福井に里帰りし、高校の同窓会に出席したときに、主人が慶應のワンダー出身で、山が大好きなんです。と言う話をしたところ、この伊藤さんが堀川なら知っているということで盛り上がったそうです。家内とは福井の藤島高校でクラスメイトだったわけです。

④2日目のテン場で(少し雪が降っていたと思いますが)ジャイさんが、しきりに杉本さんに明日の天気を聞いていました。杉本さんはしきりにテントの窓を開け、難しい顔をして天気図とにらめっこをしていました。天気図をかける先輩を見てびっくりです。そして杉本さんの予報が翌日、ぴったしだったのにびっくりしました。

このプランは、草津でなく万座に下山したと思いますが・・・?? 一枚の写真からいろいろ思い出せるものですね。楽しみました!!

(37 杉本光祥)

志賀高原越えのFCの写真懐かしく拝見しました。こんな時代もあったのですね。

天気図は手塚さんと気象協会へ通って習得したものです。その後、銀行の山岳会で活躍した時も役立ちましたが、今は携帯のインターネットで見れる時代、進歩したものです。

気象は65才の定年後、予報士の資格を取ろうと勉強しましたが、目が悪くなり、細かい資料が虫眼鏡を使わないと見えなくなり、周りで講習を受講している人を見ても目のいい、ぴちぴちの若い人(特に女性)で、とても老人が取れる資格ではないと断念しました。

先月も老骨に鞭うってマダガスカルへ行ってきましたが、緑内障の進行で、下りの段差が見えず家内に先導してもらう始末で難儀しました。でももうしばらくは山旅を続けたいと思っています。

(37 加藤清治)

10年以上前だと思いますが岡田正大君が突然訪ねてきました。小生がリーダーのプランに彼が参加していたのでで懐かしくなり会いに来たとの事でした。しかし残念ながら彼のことはまったく思い出せませんでした。精神的にかなり参っているようだったので一度メシでも食べながらゆっくり話しをしようと言って別れました。その後何度か連絡をしましたが取ることは出来ませんでした。その件をオカマには話しましたが、貴兄と同じく高校とは知りませんでした。出来たら会いたいですね。   (編集子注: オカマとは39年卒小祝君の愛称)
(39 堀川義夫)
加藤さん
私は高1、2年と同じクラスで、仲良くしていました。
彼の華々しいNHKプロデューサー時代は、はた目から見ても羨ましく、
もともと、ペンギンの生態のドキュメントなど自然派だった彼には最適の
仕事場だったと思います。しかしながら、週刊誌に傲慢プロデュサーなどと
書かれ、彼の人生は一変したのではないでしょうか?
オヤカタに会いに行ったなんてちょっとびっくりです。
私が彼との年賀状のやり取りをしていたのも何時までだったか?
多分、もう、20年以上前のことだったと思います。
従って、彼との連絡のつけようもありません。
彼が元気にしているのを祈るばかりです。

 

10月23日の富士山―白富士と黒富士 (34 小泉幾多郎)

気のせいかも知れないが、10月5日久しぶりにお目にかかった富士山は、黒富
士。それから18日後の今日10月23日に見た富士山は、雪化粧の白富士。今年の富士山の初冠雪は、平年より22日、昨年より26日も遅いとのこと。台風19号の災禍がなければ、今日23日、快晴の生籐山からの初冠雪の富士山を望めた筈だが残念でした。

小泉さん:面白いもので、この写真を撮られた数時間後、高尾山では小生が同じ方向に眼をこらしていたわけですね。撮影場所はどちらですか?

Giさん: 高尾山近況報告ご苦労様でした。好天に誘われ出掛けるなんて元気なる証拠です。 富士の展望、わがマンションのベランダからです。

 

 

 

外国語を学ぶということ 1

普通部1年で英語に触れ、大学で英語会のメンバーであった兄の影響で英語だけはまじめに勉強した。幸運だったのは2年次の担当が英語会で兄の先輩、厳しい指導で有名な人だったことだ。夏休み,”北村さんの宿題”と言って恐怖の的だった猛烈な数の和文英訳にまじめに取り組んだのが僕の英語の原点になった。

社会に出て、勤務先の横河電機がヒューレット・パッカード社との合弁会社(YHP)を設立、僕も移籍メンバーのひとりに入れてもらえた。1960年代はじめ、まだまだ ”アメリカ” がはるかに遠い存在だったころ、HPというたぐいまれな理想郷のような会社に縁を持った、ということが僕の社会人生活を決定し,同時にまた英語を勉強する気にしてくれた。その後も幸運が重なり、67年にはHP本社での勤務を命ぜられ、1年足らずのアメリカ生活だったが、”俺の英語でもなんとかなる”という自信は持つことができた。

こういう一連の予想しなかった展開の結果、英語でアメリカ人と喧嘩をする立場になったのが上級管理職になった80年代からだった。当時、いわゆる ”外資系” 会社では、外国で大学を出た日本人を採用して重要ポジションを与えるのが常識だったが、YHPでは1000人を超える規模になっても、この種の”英語屋”は存在しなかった。その後、HPのほうで、”日本語ができる”という理由で米国で教育を受けた日本人や日本びいきの米人を何人か派遣してきたが、僕のいた時代に限れば、それがまともな成果をだした例はない。”言葉ができる”ということと、成果を出す、ということは全く違うのだという、当たり前のことなのだが。

引退したあとも外国人とコミュニケートしたい、という気持ちがあり、英語のレベルを少しでもあげようと、小説の類は翻訳では一切読まないことにした。しかし会社を離れると実際に会話をする機会は皆無に近い。英会話教室をいくつか試したが、現在は個人レッスン専門のところに通い、その日その日の気分で話題を選んで会話をする。もちろん、しょっちゅう詰まってしまうが、 ”コミュニケートしている” という実感はある。その過程でつくづく実感することは、文化・伝統・社会常識の違いをどうやって伝えるのか、その難しさである。

最近は、”日本文化を英語でどう伝えるか” といったたぐいの本には事欠かない。こういう本はたしかに便利だが、日本で常識化していることや抽象的な議論に必要な概念の会話になるとまず役に立たない。先日も、基本的な日本語なら問題ない米人のインストラクタと、”よろしくおねがいします” とはどういうことか、という議論になった。さんざん議論したが正解はみつからない。”お陰様で” とか、”いただきます” などもその例である。インストラクタのひとりに純日本人だがカナダ生活が長かった、という女性がいるが、彼女にしても適切な答えはなかった。言語に対応性がないというより、文化に共通項がない、極論すれば絶対的に正しい翻訳は成立しえない、ということなのだ。

YHP時代親しくしていた同僚に米国との二重国籍をもっていた男がいた。勿論完全なバイリンガルである。彼にはいろんなことを教わったが、なかでも覚えているのが、”ジャイよ、そこをなんとか、ってえ日本語は絶対に翻訳できないよ” といわれたことだ。こういわなければならない状況は、論理的には不可能であることがわかっていても、義理とか温情とか、非論理的な反応を期待して無理を通そうという時である。論理的にできないことをなんとかする、という発想自体、西欧の社会にはあり得ない。よって対応する言葉なんかあり得ない、というのだ。これはその後、僕の英語(外国語)を学ぶ時の戒めになっている。

先日の新聞に今を時めくAI翻訳が、大阪の御堂筋、という単語をミドーマッスルと訳した、ということが載っていた。僕も人工翻訳に興味を持ったことがある。数えて30年も昔。当時すでにAIということが華々しく話題になっていた。その30年がたっても、”筋” は ”筋肉” であり、よってマッスル, なのである。人生そんなに楽じゃやねえんだよ、と言ってやりたい一種の快感をもってこの記事を読んだ。外国語を学ぶ、ということは言葉の問題ではないんだ、ということを違う角度から考えさせられた一件だった。

 

 

スナック ジジ

銀座の灯が青春の象徴だったという人間は沢山いるだろう。町並みは変わり、“いちこし” も ”ジュリアン・ソレル” も ”スイス” もなくなってしまったとはいえ、今なお古き良き時代の思い出はわれわれとともにある。

その銀座に住吉康子が店を持ったのは1983年6月9日、名前は スナック・ジジ。女子高時代演劇部にいた彼女が演じた役の名前がそのままニックネームとなり、友人たちの間では本名をとっさに思い出せないのがいるほど、親しまれた名前であった。

この店の誕生には、1年上の ”マックス” こと畠山先輩の強い勧めがあった。彼女はこれに先立って、友人に請われ横浜、都橋の近くで ”こけし” というスナックをマネージしていたことがある。ヨコハマ、というきらびやかなイメージとはかけはなれた、どちらかと言えばうら寂しい一角だったが、六郷沿いに住んでいた小林章悟が私設応援団長的にひろくワンダー仲間によびかけ、仲間が集うこともたびたびで、荒木ショッペイ夫妻もよく訪れていた。ここへ来た畠山が、”ジジ、おまえ、銀座に出ろ”と強く勧めたのだという。

住吉はいろいろな」友人を通じて、塾体育会のOBたちに知己が多く、そのひとりだった野球部OBの増田先輩(1957年卒)からの紹介で、ホテル日航に近いあの店の権利を得て、スナックとして開業した。バーテンも置かないから、当然カクテルなどというものとは無縁、カウンター1本しかないせせこましい造り、住吉本人だって世にいう ”銀座マダム” とはかけはなれて不愛想。それでも、ここは開業以来、それもどちらかと言えば ”体育会(この場合は」KWVも含めてだが)OB” の、何とも居心地抜群の、理想の止まり木でありつづけた。

何しろ、店の場所がよかった。都心オフィス勤めの人間にして見れば、”帰りがけに銀座でちょっと飲む” プライドを持つことができたし、古びたドアを開けて入れば、先ず5割の確率でワンダー仲間がいた。あれ、今日は誰もいないか、と思って奥を見れば、何年何十年ぶりかで見る高校、中学時代の仲間が、これまた5割くらいのヒットレートでにやにやしているという、まさに ”おれたちケイオー” の場所だったのだ。

KWVで同期以外の常連、といっても枚挙にいとまがないが、なんといっても2年上の三ツ本和彦がダントツだったのは、先ず誰もが納得する事実だろうし、後輩連では41年の田中透、佐川久義、44年の浅野三郎、45年の島哲郎などの名が浮かぶ。同期の仲間は当然としても、後輩年代でも ”じゃ、ジジで” と云うのが決まりだったのだ。

われわれの ”部室” であった ”スナック ジジ” は、2009年3月31日、その ”銀座の灯” を落とした。

 

(36年卒同期文集 ナンカナイ会 その ”ふみあと” から転載)

 

ひさしぶりの西部劇 (34 小泉幾多郎)

 今年7月「ゴールデンリバー」9月「荒野の誓い」と珍しく本格的西部劇が二本公開された。

前者はアメリカで西部劇が廃れるなら、フランスでと、ジャヤック・オーディアル監督がアメリカの俳優を中心に西部劇を復活してやろうと思ったかどうか。
仏アカデミー賞4部門で受賞したりで、観たかったのだが、私事でバタバタしたりで観損なった。後者はどうしても観なければと思いつつも、中々腰が上がらず、横浜ブルグ13で上映終了の3日前の9月24日に観ることが出来た。

その感想を直ぐにでも書こうと思っているうちに、9月28日、マンションの階段を駆け下りて、不注意にも転倒、後頭部を打ち付け、近くの脳神経外科に駆け込み、裂傷部分を4針(今はホチキスで4か所)止めることに相成り、CT断層検査では今のところ頭脳への影響はなかったことは幸いで、ご心配なく。とのことで、書くのが遅れてしまった。残念ながら東京でも上映は終わりになってしまっていて、当館では9月6日から上映されていたが、当日は、9時からの上映で一日1回のみ。こんなに早い時間に映画館で鑑賞するなんて初めての経験、しかも驚くなかれ、観客たったの4人。西部劇人気も地に落ちたもの。それでも久しぶりTVでない映画館での西部劇の醍醐味にどっぷり浸かり、のめり込んで感動してしまった。

 先ずは「荒野の誓い」という邦名、古き良き時代のB級西部劇のネーミングに逆戻り、原題Hostiles(敵対者たち)に近い題名が欲しかった。物語りは、インディアン戦争終息後のアメリカ西部、その戦争で功績を挙げた大尉が、7年間捕らわれの身となっているシャイアン族の首長イエロー・ホークとその家族を故郷でもある居留地まで護送するよう命じられるところから始まる。

分断された社会、相手を憎むように教えられてきて、とても理解し得ないと思っていた人間同士がパーティを組んで、荒野を旅するロードムービーなのだ。主人公大尉はバットマンを演じ、西部劇では、「決断の3時10分」のリメイク版に主演したクリスチャン・ベール。 インディアン戦争がもたらした心の闇を抱えながら首長を護衛する任務に就いた大尉、コマンチ族に家族を殺された女性、首長イエローホーク等々の好演技、その旅の中から白人とインディアンという差別的な戦いをを背負わされて来た虚無感から、最終的には普遍的なヒューマニティを謳いあげるという物語りは感動的だ。それに加え、撮影画面の素晴らしさ、大自然の姿が、朝な夕なに、晴天の時も、降りしきる雨の中に描かれる。これが日本人マサノブ・タカヤナギの撮影監督というから誇らしい。

その画面に優しく奏でられるマックス・リヒターの音楽が、チェロとピアノを主に、あたかも宗教音楽のように深い底から鳴っているような厚みと深さを加えていた。最後に決闘場面で全てが終わった後、大尉がシカゴ行きの列車に乗る女性と首長の孫の二人を見送った後、動き出す列車の最後部に飛び乗るところで、救いで終わるところ、他愛なくも思えるが感動的でもあった。

(中司)

西部劇の新作があったなんで知りませんでした!

決断の…..ってのはグレン・フォードでしたっけ? これからはも少し真面目に新聞を読んで見逃さないようにします。
それもそうですが、頭のけがとはまた大変でしたね。オヤエが隣で髪をそるのかなあ、なんて気楽に言っています。なんせ階段の下りは怖くなりましたね。また、近々お会いします。
(小泉)
「決断の…」は、グレンフォード主演作のリメーク版で、ラッセル・クロウも出てました。

“とりこにい” 抄 (1)

山へ行く人の中には自分の山行記録や紀行文やその間の自分の思索などを書く人が多い。スポーツアルピニズム発祥の地である英国をはじめ、欧州諸国には早くからこの伝統があったし、日本でもかの大島亮吉や三田幸夫など日本における登山の先駆者たちから始まって、ご存知串田孫一や深田久弥、僕の好みで言えば上田哲農、などなど、数多くの先達の珠玉の作品がある。

ワンダーにはいってまもなく1年の初夏、当時4年生の金井さんに秩父へ連れて行ってもらい、すっかり秩父の雰囲気が好きになった。このことを金井さんに言ったら、そうか、それならこの人の本が気に入ると思うよ、と紹介されたのが 加藤泰三 ”霧の山稜” だった。なぜ金井さんが僕の好みをズバリ言い当てられたのか,今でもわからないが、第二次大戦で惜しくも散華した、新進気鋭の版画家と嘱望されていた著者の、抑えたユーモアのなかにある一種の諦観のようなものが僕の琴線に触れるものだったのだと思う。ベレー帽をかぶってダークグリーンのシャツが定番だった金井さんは物静かななかに人を惹きつける雰囲気を持った先輩として心に残っている存在である。

卒業して数年たって、きっかけが思い出せないが37年の村井純一郎と交友が復活して、彼から勧められたのが 山口輝久 ”北八ツ彷徨” だった。残念なことに村井は病を得てあまりにも早く旅立ってしまったが、かれの沈着冷静ななかに凛とした信条をもった生き方は、1年後輩にもかかわらず僕自身を見つめなおす機会を与えてくれたものだった。その後、同期で塾山岳部にいた山川陽一の企画で、その八ヶ岳山麓で著者の山口さんと一夕を過ごす機会があって、この本の中で特に僕の気に入っている 紅葉峠 という一文について、話をさせてもらったりした。

今夏、部屋を片付けていたら古いノートがでてきた。題名に とりこにい と書いてあり、このノートを書き始めたころの高揚感というか、今となってはむしろ気恥ずかしい気分にもなるのだが、そういうものを思い出した。

トリコ二-、という言葉がわかる人は今となっては僕らがおそらく最後の世代だろうが、昭和30年代ごろまで、本気で山登りをしている人たちが履いていた重厚な山靴は裏に鉄の鋲が打たれていた。用途によっていろんな種類があって、そのうちの一つがこう呼ばれていた。ちょうど僕らがワンダーにはいるころから、ビブラム(商品名だろうが今は一般名詞となっている)が山靴の常識になり、鋲靴(ナーゲルと俗称されていた)はほんの一部の人のものだった。僕の場合は35年卒の河合さん(40年卒デシこと国尚君の兄上)がこれをはいておられるのを見て、(へえ、この人はすごいんだ)と恐れ入っていた記憶がある。

ビブラムが鋲靴にとってかわるきっかけになったのが通称キャラバン、といわれたズック(この言葉もいまでは死語か)製の軽登山靴で、あっという間に鋲靴は姿を消したが,トリコニーの7番、というのだけが土踏まずの位置に打たれていた。ぎざぎざのついたL字型の鋲は、ふれ込みによると丸木橋を渡ったりするときの滑り止め、というのが定説だった。考えてみると、そのような時にこの鋲を利かすには横向きに歩かなければならなかったのではと今更に思うのだが、実用性がなかったのかどうか、ここからも鋲はいつの間にかなくなってしまった。しかしその運命に堪えて履く人を支えているち沈黙の存在、という意味で トリコニー という言葉は別の意味を持っていたのだろう。そのノートの扉に今となっては気恥ずかしい感じがするのだが、こう書いてある。

  靴の下で 泥をかぶりながら 

  いつも唄っているお前は いとしい トリコ二イ。

  さあ 聞こう 

  人には聞かせない お前の唄を

  いつまでも変わらない お前の唄を

  ひめやかに歌い続けてきた

  トリコ二ーの唄を

もう少し前だったらとても恥ずかしくて、それこそ人に聞かせることもできなかったが、ま、最終コーナーをまわりはじめた老人の懐古か回顧か、いくつかをシリーズで紹介させてもらうことにした。今回は前振りも長いので、うんと短いのを書かせていただく。

 

 仙水峠

 

 峠.。

 のぼりみちに

 ふとふれ合った心が

 また そっとよりそって

 くだりみちへ さしてゆく

 

喫茶店とのつきあい (2)

結婚したてで恵比寿に住んでいたころ、地下鉄日比谷線がオープンし、家から六本木まですぐいけるので嬉しくなって夕食後、よく八恵子とふたりで”クローバー”に出かけて行った。この店もまだあるけれども僕らが通っていたころの上品さと丁寧さが薄れてしまっているのが残念だといいあっていたら、なんということか、業績不振で閉店したそうだ。大手のケーキメーカーが買い取ったが店の名前も変えてしまうという。いま、調布の端っこに住むようになって、近くを歩いてみつけたコーヒーの専門店 “さかもと” の店主がクローバーで修業したプロだったことを知り、それ以来、すっかりなじみになった。落ち着いた、大人の店である。この廃業に伴う裏話もここの坂本さんに聞いた。残念なことだがこの世の中浮き沈みはあきらめなければならないようだ。

今住んでいるつつじヶ丘・仙川近辺だが、喫茶店にかんするかぎり、この “さかもと” 以外気に入った店はない。調布まで行くと、いろいろと店はあるが、散歩ついでにミステリでも読もうかという時にはチェーン店にしては店員のしつけがいい ”ニューヨークカフェ”か、北口を出て線路に沿った道ををちょっと戻ったところにある”サンマロ”がぼんやりとし雰囲気でいい。また、甲州街道からつつじヶ丘の隣駅柴崎に入る路にある”手紙舎” は本やと軽食レストランとゆっくりコーヒーを出してくれるカウンターが調和して、静かな、ゆっくりくつろげる店である。本は幼児教育、美術、音楽、料理などのせまいジャンルに絞ってあって、週刊誌だのコミックなどでがやがやしていないのがまた、いい。コーヒーは各種そろえてあって、挽き方まで好みを聞いてくれる。

つつじヶ丘周辺では、前記 ”さかもと” のほかは駅まえのちいさなロータリーをへだてて、ご存知ドトールと最近になって進出してきた Piers というチェーン店があるきりだ。好みにうるさい浅海昭あたりにいわせればこういう店は馬鹿にされるのだが、僕が何となく居場所として悪くないな、と思うのは、コーヒーの味ではなく、まして若いころの甘酸っぱい記憶でもない。一種の社会観察の場としてで、そのような中に自分も生きているんだな、という一種の確認みたいなものができるからだろうか。

同じドトールでも青山だとか赤坂だとかいうところの店は、ビジネス人の一部みたいな、活発だが冷たい感じがするし、人の出入りも激しい。ここつつじヶ丘の店は言ってみれば停滞、といった感じがする。客はほぼ6割まで老人である。僕の滞在時間は長くて30分くらいだが、その間、店の空気は、まず、じっとしたまま動かない。観察するに、1杯のコーヒーを前にして、本を読んでいる人、黙って空を見つめている人、が半分くらいで、会話をしている人はちらほらとしかいない。一度、隣にいた上品な老婦人から、ここにはよくおいでになるのですか、と突然声をかけられたことがある。私、毎日来て、常連の人と顔見知りになって、今日もその人を待っているんですが、どうもお見えにならないみたいです、ということだった。見知らぬ人との会話だけが人生に残された楽しみなような言い方を聞いて、どう答えていいかわからず、用事があるふりをして席を立ったのだが、あとでそんな自分がみじめな思いになった。勇気を出して、愚痴か痛恨か亡くなった夫の追想か、聞いてあげる勇気がなかった自分が、である。

越してきて間もなくのころ、段ボールとの戦いで疲れはて、コーヒーでも、というだけでこの店に入り、窓際のカウンタに座った時のことを今でも思い出す。

ちょうど雨模様で、目の前の欅の木が(その後駅の改築で伐られてしまったのが悔しいが)揺れているのを見たとき、まったく唐突に ”嘔吐” の  “ブーヴィルは明日も雨だろう” という結びの一節が心に浮かんだ。サルトルがこの結びをどういうつもりで書いたのか、わかるすべもないのだからこの時の反応も言ってみれば一種の発作のようなことだった。年老いた人間が集い、何かを求めて、たぶん今日も期待したことは起きないだろう、と思いながら座っている。明日も雨か。そういうやりきれなさなのか、ひるがえって見れば究極の楽観なのか。著者がこの本の中で語ろうとした”実存“とかいう難しい概念の、ひょっとするともっとも原理的な解釈なのか、よくわからないのだが、それ以来、天気が悪くて暇があるとちょくちょくこのカウンタに座ることが多くなった。自分もまた、この人たちと一緒に時代を生きてきたのか、という感慨を改めることだけなのだが。

”クラブハウス” 計画その後

ふとした思い付きの投稿に反応があったのに気を良くして、同志何人かに発起人になってもらい、プランを肴に何回か盃を重ね、素案ができた時点でこの趣旨について、いわばフィージビリティスタディとでもいうべき調査をさせてもらった。対象は昭和50年代以前の卒業生のなかから小生の知悉するかぎりで選び、合計263通発送し、6月末期限としたが7月14日まで来信があり、当日を最終として184人からご回答を頂戴した。厚くお礼申し上げる。

結果、このプランに賛意を表した人数は139人、反対2人、興味なし43人、であった。個人ベースの話であるから、回答の義務はないし、そもそも反対である人は回答しないはずと思って、はがきに ”反対” の選択肢を書かなかったらそのこと自体でえらく怒られた一件があった。反省。

さて、賛同票のなかで、運営費用を年会費のかたちで負担しよう、と言ってくれた人数は最終で45人である。いろいろな派生費用(安全、保険、ごみ処理、清掃)などを考えた素案を維持するにはこの人数だと当初予定した年会費では運営ができそうにない。月間2000ないし2500円、年にして2-3万円、というのが案だったがこれでも高い、というご指摘も多々あるので個人負担増額は論外となり、一方では賛同者からは期待の文面も数多いので、発起人グループで再度考えてみようという結論になり、お送りした原案は廃案に追い込まれた。

ご返事いただいた方にはできる限り全員に別途ご返事を差し上げたが、ここで状況と判断とを述べておく。

1.賛成票の非常に多くが、”かつての JIJI のような場所” と述べている。たしかに理想ではあるが、”かつて” われわれは勤め人であり、その帰り道に”銀座で一杯” というイメージがこころよく、中には ”客先接待伝票” を使ってくれた心優しきワルモノもいた。現在のほとんどすべての人はこのシチュエーションにはない。したがって、素案は基本的に気軽に安価で集まれる場所と機会を提供する、ことが狙いであった。このあたりの真意が良く伝わっていなかったのかという気がする。機会があれば、違う形で(たとえママがいなくても) JIJI再生ができるのではないか、というのがそもそもの動機なのだが。

2.賛成票の中に、OB会の事務局本部、という位置づけを持たせよ、というご意見もあった。そのほとんどが現在、個人事務所のご厚意で預かってもらっている部の歴史資料の保護に継続性の危惧を抱いておられるので、この件だけは別途、検討してもらえるよう、執行部には要請ずみである。

なお、仄聞によればこの資料保管場所を三国山荘にするという意見もあるようだが、小生個人として大反対である。たしかに ”我らが三国山荘にある”といえば聞こえはいいが、第一に物理的に問題がある(温湿度の差激しく文書の長期保存が不安、外部侵入者の危険あり)し、実質的に高年齢層のOBには浅貝まで行くことすら抵抗を覚えるようになっている現実から、この問題を提起されている方たちの ”気軽に部の歴史やOBたちの足跡をたどってみたい” という要求にこたえるには不向きである。 この案の背景には ”ま、とにかく保管しておけばいいだろう” 位の関心しかないのではないか。80年を超える部の歴史はもっと慎重に考慮されるべきであり、よき対案が示されることを願ってやまない。

3.1に関してだが、消極意見の中に ”我々の代ではすでになじみの場所があるから”という投稿もあった。このこと自体は素晴らしいことで、そのような場所のない人からすれば羨ましい限りだし、それをリプレースしようなどとは夢にも考えなかった。ただ、そのような場所が好ましいというのも、1にのべたような環境条件下にある、あるいはそれが続く、という前提があってのことだろう。後期高齢(!!)時代になればそれなりの前提が必要になるし、頂いた返事の中に、総人数が少く在京の”同期”がいない、という身につまされる話もあった。このような人たちにこそ、考えてもらえる機会だったのではと思うのだが。