“とりこにい” 抄 (1)

山へ行く人の中には自分の山行記録や紀行文やその間の自分の思索などを書く人が多い。スポーツアルピニズム発祥の地である英国をはじめ、欧州諸国には早くからこの伝統があったし、日本でもかの大島亮吉や三田幸夫など日本における登山の先駆者たちから始まって、ご存知串田孫一や深田久弥、僕の好みで言えば上田哲農、などなど、数多くの先達の珠玉の作品がある。

ワンダーにはいってまもなく1年の初夏、当時4年生の金井さんに秩父へ連れて行ってもらい、すっかり秩父の雰囲気が好きになった。このことを金井さんに言ったら、そうか、それならこの人の本が気に入ると思うよ、と紹介されたのが 加藤泰三 ”霧の山稜” だった。なぜ金井さんが僕の好みをズバリ言い当てられたのか,今でもわからないが、第二次大戦で惜しくも散華した、新進気鋭の版画家と嘱望されていた著者の、抑えたユーモアのなかにある一種の諦観のようなものが僕の琴線に触れるものだったのだと思う。ベレー帽をかぶってダークグリーンのシャツが定番だった金井さんは物静かななかに人を惹きつける雰囲気を持った先輩として心に残っている存在である。

卒業して数年たって、きっかけが思い出せないが37年の村井純一郎と交友が復活して、彼から勧められたのが 山口輝久 ”北八ツ彷徨” だった。残念なことに村井は病を得てあまりにも早く旅立ってしまったが、かれの沈着冷静ななかに凛とした信条をもった生き方は、1年後輩にもかかわらず僕自身を見つめなおす機会を与えてくれたものだった。その後、同期で塾山岳部にいた山川陽一の企画で、その八ヶ岳山麓で著者の山口さんと一夕を過ごす機会があって、この本の中で特に僕の気に入っている 紅葉峠 という一文について、話をさせてもらったりした。

今夏、部屋を片付けていたら古いノートがでてきた。題名に とりこにい と書いてあり、このノートを書き始めたころの高揚感というか、今となってはむしろ気恥ずかしい気分にもなるのだが、そういうものを思い出した。

トリコ二-、という言葉がわかる人は今となっては僕らがおそらく最後の世代だろうが、昭和30年代ごろまで、本気で山登りをしている人たちが履いていた重厚な山靴は裏に鉄の鋲が打たれていた。用途によっていろんな種類があって、そのうちの一つがこう呼ばれていた。ちょうど僕らがワンダーにはいるころから、ビブラム(商品名だろうが今は一般名詞となっている)が山靴の常識になり、鋲靴(ナーゲルと俗称されていた)はほんの一部の人のものだった。僕の場合は35年卒の河合さん(40年卒デシこと国尚君の兄上)がこれをはいておられるのを見て、(へえ、この人はすごいんだ)と恐れ入っていた記憶がある。

ビブラムが鋲靴にとってかわるきっかけになったのが通称キャラバン、といわれたズック(この言葉もいまでは死語か)製の軽登山靴で、あっという間に鋲靴は姿を消したが,トリコニーの7番、というのだけが土踏まずの位置に打たれていた。ぎざぎざのついたL字型の鋲は、ふれ込みによると丸木橋を渡ったりするときの滑り止め、というのが定説だった。考えてみると、そのような時にこの鋲を利かすには横向きに歩かなければならなかったのではと今更に思うのだが、実用性がなかったのかどうか、ここからも鋲はいつの間にかなくなってしまった。しかしその運命に堪えて履く人を支えているち沈黙の存在、という意味で トリコニー という言葉は別の意味を持っていたのだろう。そのノートの扉に今となっては気恥ずかしい感じがするのだが、こう書いてある。

  靴の下で 泥をかぶりながら 

  いつも唄っているお前は いとしい トリコ二イ。

  さあ 聞こう 

  人には聞かせない お前の唄を

  いつまでも変わらない お前の唄を

  ひめやかに歌い続けてきた

  トリコ二ーの唄を

もう少し前だったらとても恥ずかしくて、それこそ人に聞かせることもできなかったが、ま、最終コーナーをまわりはじめた老人の懐古か回顧か、いくつかをシリーズで紹介させてもらうことにした。今回は前振りも長いので、うんと短いのを書かせていただく。

 

 仙水峠

 

 峠.。

 のぼりみちに

 ふとふれ合った心が

 また そっとよりそって

 くだりみちへ さしてゆく