エーガ愛好会 (208) 武器よさらば  (42 河瀬斌)

米国軍中尉ヘンリーがイタリア戦線で負傷し、病院入院中に看護婦キャサリンと恋に落ち、妊娠を告げられる。しかし退院後戦争で従軍で尽くした前線の医師が理由で銃殺されるなど、理不尽な戦争に嫌気を感じて脱走、キャサリンと共にボートでスイスに逃亡、平和で幸せな数ヶ月を過ごす。しかし出産で母子とも帰らぬ人となってしまう。
ロックハドソンとジェニファージョーンズの主演でしたが、その先中尉はどうなってしまうのか、後を追って戦死してしまうのか、脱走で銃殺されるのか?そこで映画は終わり、アメリカらしく悲惨な結末を避けているので、現実の戦争の残酷さを伝えるための「武器よさらば」のタイトルは、消化不良に感じました。
 現実のウクライナの戦争はもっと理不尽で、容赦のない戦争ですね。病院や学校がミサイル砲撃されるなど、第二次世界大戦よりさらに戦争の倫理が失われています。この戦争はベトナム戦争と同じだと感じます。戦場にならない大国が武器を補給し、戦場となった愛国心を持った人々が独立を求めて勇敢に戦っているからです。終戦まで後3年はかかると思いますが、強大な軍隊を持ちながら理由のない戦争にいやいや駆り出されて嘘の報道に気が付いた国民が負け、最後は国の独立という強固な意志を持った国民が勝つ?のも、ベトナムと同じだと思います。

(安田)ヘミングウエイ30歳の時(1929年)に執筆した原作小説「A Farewell to Arms」の直訳の邦題がそのまま映画の邦題になっているが、この映画から25年前(1932年)に公開された同じ原作を基にした映画の邦題は「戦場よさらば」になっている。なぜなのか?「武器よさらば」は「戦場よさらば」のリメイクなのだ。

1932年版はゲーリー・クーパーが主役を演じている。1930年制作の、彼がマレーネ・ディートリッヒと共演した映画「モロッコ」も観たが、日本の年号では昭和5年と7年の映画、90年以上昔だ。映像は勿論、白黒で映画の成否はシナリオの面白さと俳優の存在感が勝負の決め手だったと思う。この視点で観れば、個人的な好みだが大根に近いロック・ハドソンの「武器よさらば」はゲーリー・クーパーの「戦場よさらば」には全く敵わない。
第一次世界大戦時代、ヘミングウェイ自身の、イタリア戦線の従軍記者時の体験をもとにしている戦争恋愛物語だという。
映画としての面白さにはイマイチ欠ける感が否めなかった。看護婦のジェニファー・ジョーンズは「黄昏」「慕情」「終着駅」を知るだけに物足らなかった。イタリア映画「自転車泥棒」「終着駅」の名監督ヴィットリオ・デ・シーカがイタリア人軍医役として出演し、アカデミー助演男優賞にノミネートされたのにはビックリした。
(菅原)
この映画を見てない奴が偉そうなことを言うな、ってお叱りを受けるでしょうが、E.ヘミングウェイの小説「武器をさらば」は大変、面白かった。誠に見事なハードボイルドだと思います。
それに較べ、監督(C.ヴィダー)も俳優(特に、R.ハドソン)も極めて凡庸で、恐らく、ヘミングウェイのヘの字も表現出来なかった愚作だったんでしょう。
優れた文学作品の映画化は誠に難しい。勿論のことその逆の場合もあるんでしょうが。
(船津)
全く美男美女が出てロマンチックは良いが最後はなんだかなぁ。固唾を吞みながら観てガックリ。
(編集子)ひところ、ヘミングウエイに凝った時期があった。ヘミングウエイ入門というか、初めて読む人が多いのは 老人と海 か 誰が為に鐘は鳴る だろうか。僕の場合は鐘、のほうだったが、読み終わって間もなくエーガも見た。バーグマンが話題になった大作だったが、ごく普通の作品、という程度の感想しかない。武器よさらば、も本を読み終わってから映画をみたが、こちらのほうがいろんなシーン、特に病院でのカットが心に残る。鐘、のほうが言い方は変だがポジティヴな死に方なのに、こちらは一種の諦観の末に来る、というような感じだろうか。どういうものか機会を逸して、評判のいい 老人と海 のほうは見ていない。 ついでに言うと、ヘミングウエイの中では 海流の中の島々 という作品が一番好きなのだが、今日調べてみるまで、映画化されているのは知らなかった。またDVDが一枚増えそうだ。

”グローバルサウス” とは何か?  (44 安田耕太郎)

友人から送られてきた資料の一部を紹介します。なんとなくわかったような、という思いをお持ちの方に好適な資料と思います。

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 グローバルサウスとは、アジア、中東、アフリカ、ラテンアメリカの地域に含まれる開発途上国や新興国の総称とみられます。先進国を意味するグローバルノースあるいはグローバルウエストに対比する呼び方なのでしょう。一方にアメリカなどの西側先進国があり、他方に中国およびロシアという権威主義国が存在する現在の世界にあって、両者のあいだに位置する国々は、経済的、社会的な発展が北半球の先進国に比べて遅れ、しかも大半が南半球に属するので、グローバルサウスと呼ぶようになっていると思われます。

 インドが、今年1月におよそ125か国からの参加を得て「グローバルサウスの声」というオンライン・サミットを主催しました。同サミットには中国は参加しておらず、岸田総理も国会答弁で、このグループに言及する際には、中国を含めていないと発言しています。これまで、中国は開発途上国の多くを自国陣営に取り込もうと外交努力を重ねてきましたが、もはや中国は世界第二位の経済大国です。急速に台頭するインドのほうこそが、このグローバルサウスのリーダー格ないしは代弁者と見てよいのでしょうか?

 グローバルサウスという言葉が使われだすまでは、「開発途上国」あるいは「発展途上国」という言葉がよく使われておりました。現在も、外務省や他の役所の文書などで使っていると思いますが、「開発途上国」あるいは「発展途上国」にも、国際的に厳格な定義があったわけではありません。「えっ、本当?」と思われるかもしれませんが、先進国でない国々を、そう呼んできたにすぎません。「アジア」の定義に似ていますね。アジアというのは、元来、ヨーロッパではない地域のことを指していましたので、厳密な定義はなく、文脈によってアジアという地域に含める国は変化しますね。アジア競技大会には、イラン、クエートやカタールなども参加しています。

 それでは、「先進国」というのには定義があるのでしょうか?いいえ、それもありません。また、「えっ、本当?」とまた目をこすられる人もおられるでしょうが、普通よく使われる尺度は、金持ち国のクラブと言われるOECD(経済協力開発機構)の加盟国です。ヨーロッパ諸国を中心に、日、米を含め、現在38カ国がこのOECDの加盟国です。

 しかし、このOECDの加盟国よりもお金持ちの国がいくつかあります。トルコはOECDの原加盟国ですが、その経済レベルは比較的に低いですね。日本もOECD加盟国ですが、日本よりも一人当たり国内総生産(GDP)が高くて、OECD加盟国でないのは、シンガポール、カタール、アラブ首長国連合です。それでは、これらの国は先進国なのでしょうか、それとも途上国?

 途上国という時によく使われる基準が、OECDが発表している政府開発援助(ODA)の受け取り国リストです。最新のリスト(2022-23年)を見ますと、2020年時点の一人当たり国民総所得(GNI)が、12,695ドル以下の国々、合計141カ国がリストアップされています。国連によって「後発開発途上国(LDC)」と分類された46カ国(アフガニスタン、カンボジア、ネパールなど)に加えて、世銀の分類による「低所得国」2カ国(北朝鮮、シリア)、「下位中所得国」36カ国(エジプト、インド、ウクライナ、インドネシア、ベトナムなど)、および「上位中所得国」57カ国(ブラジル、メキシコ、アルゼンチン、コロンビア、コスタリカ、中国、マレイシア、モルドバ、タイ、南ア、トルコなど)です。上位中所得国のうち、メキシコ、コロンビア、コスタリカとトルコは、OECD加盟国です。

 このような基準に従えば、世界第二位の経済大国中国は、まだ途上国のグループに属します。他方、シンガポールは属しません。しかし、話をさらに複雑にしますと、国連には、1964年に発足した途上国と新興国による「G77プラス中国」という交渉グループが存在します。気候変動など様々な交渉で、途上国を代表する交渉グループですが、目下134カ国を抱え、この中には、中国、インドはもちろん、なんと日本よりも金持ちのシンガポール、カタール、アラブ首長国連邦もメンバーになっています。

 国連での交渉、特に環境に関する交渉では、途上国が錦の旗とする原則があります。1992年のリオサミットで決まった環境と開発に関するリオ宣言の第7原則「共通だが差異のある責任」です。地球環境の悪化は、すべての国に共通の責任があるものの、先進諸国の長年にわたる経済発展の仕方にこそ主たる責任があるとして、先進諸国は、開発途上国よりも差異のある、重い責任を有するという原則です。気候変動のみならず、あらゆる環境関連の条約交渉で、途上国側はこの原則を盾に、義務的な約束は先進国と若干の経済移行国に押し付け、途上国が義務を課されることは断固拒否してきました。このように、途上国グループに属するということは、大変大きなメリットがあるわけです。

 さらに話は一層複雑化するのですが、世界貿易機関(WTO)には、途上国優遇制度があります。そこでは、どの国が途上国であるかは、加盟時の自己申告に任されています。その結果、現在164のWTO加盟国中、約3分の2が、「途上国」を自称しています。中国、インド、カタール、アラブ首長国連邦といった国々が、「途上国」として大手を振っています。米国は、これに業を煮やして、2019年に一定の卒業基準を提案しました。その提案は、OECD加盟国、G20メンバー、世銀の「高所得国」、世界貿易シェア0.5%以上の4つの要素を基準に、いずれかに該当すれば途上国待遇から卒業させようというものです。しかし、いまだまとまっておらず、わずかに、台湾、ブラジル、シンガポール及び韓国の4か国のみが、卒業に応じる宣言をしているにすぎません。

 2023年3月2日付の読売新聞は、「グローバル・サウスが存在感」と題する、大きな記事を載せています。この記事を見ると、2050年の世界は、現在われわれが住む世界からは大きく変化している模様です。一方に、ロシアと中国があり、他方に米国と日本、その間に「グローバルサウス」の国々として、インド、インドネシア、トルコ、ブラジル、南アフリカが並べられています。そして、2050年のGDP規模の予測は、中国(55兆ドル)、インド(33兆ドル)、米国(32兆ドル)、インドネシア(10兆ドル)の順で、日本、トルコ、ブラジル、ロシアが、5~6兆ドルです。グローバルサウスは、中露と西側の間のバランス外交で存在感を示そうとしており、その中にあって、インドがグローバルサウスの「代弁者」の座を狙う意図も見えると解説しています。

 グローバルサウスという言葉がはやり言葉になった一因は、途上国がもはや一枚岩ではなく、その中で、経済大国や、非常にリッチな国々と、まだまだ貧しい国々との格差が広がっており、すべてを「開発途上国」というくくりではとらえ難くなっていることがあげられると思います。その実態をオブラートで包み隠すため、「グローバルサウス」という言葉は、曖昧ではあるものの、新鮮味があり、使いやすい新語とみなされるようになったのではないでしょうか? 特に、インドのように台頭著しい新興国にとっては、便利な言葉なのでしょう。「開発途上国」だと主張してきたいくつかの国々が、実際上はだんだんと先進国を上回る経済レベルをおう歌するようになっているように、このグローバルサウスという言葉も、長い歴史の中では、一過性のはやり言葉で、実体の変化とともに、そのうちに消えてなくなるのかもしれません。

 こういう事情で、わたしには、このグローバルサウスという言葉に、何かうさん臭いにおいを感じてなりません。皆さんはいかがでしょうか?従来から慣れ親しんだ「先進国」、「新興国」、「中進国」、「開発途上国」といった言葉遣いのほうが分かりやすい気がするのですが、それだと上述のような諸問題に直面してしまいます。前述のWTOでのアメリカ提案のような、明確な基準があればこれも解決するのですが、そのためには国際的な合意が必要です。

 この国際的な合意が困難なのは、早く先進国グループに入りたいという途上国がある一方で、反対に、できるだけ長く途上国グループに残って、優遇措置を受けていたいと思う国もあって、意見がまとまらないからでしょう。現在途上国グループに属しているいくつかのリッチな国は、実態は先進国並みあるいはそれ以上だけれども、分類上は先進国と途上国との間のグレーゾーンにあるということでしょうか?そして、このようなグレーゾーンにある国も、強いて言えば、グローバルサウスに属しているとみるべきなのでしょうか?他の国のことはいざ知らず、急速な人口減少の日本の将来も心配ですね。

御衣黄桜     (39 岡沢晴彦)

4月4日に小石川植物園へ。黄色の桜が咲いており「仁科蔵王」と説明板にありました。理化学研究所が「御衣黄桜」に重イオンビームを照射して突然変異を誘発させて作り出したとのことです。

(安田)故郷 九州の友人が満開の御衣黄桜の写真を送ってくれました。場所は北九州市小倉の中心地を流れる紫川の岸辺です。見事な萌黄色ですね。

(堀川)

(町井)文京区では有名な播磨坂桜並木にどうしてなのか、一本だけ御衣黄桜があります。小石川植物園の近くです。小石川植物園に御衣黄桜の仲間があるのは知りませんでした。

(久米)御衣黄の花びらの色が緑から次第に中心に赤い筋を付けるというのは新しい知識でした。新宿御苑の御衣黄は美しいという話ですが京都の御衣黄も見事ですね。御衣黄に似ている桜に鬱金(うこん)桜があります。鬱金桜は黄色の花びらです。散る前には見事なピンク色に変化するようです。この花も新宿御苑にはあるようです。

余談ですが日本酒の黄桜は経営者が黄桜(鬱金桜)が大好きなところから命名したそうです。黄桜といえば清水崑の漫画のカッパが私には親しみがあります。来年は新宿御苑に八重さくらと御衣黄と鬱金桜を見に行きたいものです。

(編集子)3月月いち高尾で話題になった桜の一種。藍原くんが思い出したのがきっかけで話題になり、終了後、興味のあった仲間から見事な写真が届いた。

23年3月 月いち高尾報告  (51 齋藤邦彦)

1.実施概要

(1)日時:令和5年3月31日(金)                               (2)参加者:別紙の通り                         (3)A:多摩自然科学園散策 B:八王子城跡から城山

2.各コース実施状況など

(1)Aコース:多摩自然科学園散策コース

気温20度の陽気に誘われて森林総合研究所多摩森林科学園の桜保存林をゆったり散策。ここでは約600系統1300本の桜が植栽されており寒桜から八重桜まで3カ月にわたって桜が楽しめます。丁度見頃のこの日は大勢の花見客で賑わう中22人のメンバーはそれぞれに満開の桜を愛でながら歩きました。

(2)Bコース:八王子城跡から城山コース

八王子城跡管理棟10:30⇒11:00御主殿⇒管理棟11:40⇒12:10八王子神社⇒12:20頂上曲輪⇒12:30松木曲輪(昼食)13:05⇒管理棟13:30⇒13:50高尾駅

ボランティアガイドさんの案内で御主殿跡を歴史散歩、植物の詳しいガイドさんで花の名前をたくさん教えて頂きました。(半分以上その場で消えた名前でしたが…)ガイドツアーの後山頂まで登り、山頂直下の松木曲輪で桜吹雪の下での昼食、天候にも恵まれ都心までの眺望を存分に楽しみました。城山は急峻な要害で登山道も険しいところがありますが、大先輩の良子姉さんの頑張りには特筆すべきものがありました。(以前登った時より山が2倍高くなっているそうです。)

昨年と変わっていたのは①登山口の鳥居が老朽化のため撤去され②八王子神社の本殿が保護用の建物に覆われていました。

(3)天狗飯店

「月いち高尾」空前の30名を超える懇親会になり天狗飯店を「貸切り」にして頂きました。皆さん話題が豊富で留まるところを知らない会話が延々と3時間続き4時半に解散と相成りました。(とめなければまだまだ…)

 

(4)フォトアルバム

以下のリンクにフォトアルバムを作りました。グループ内公開にしてありますので閲覧やダウンロードのほか、参加して投稿もできますので良い写真をお持ちのかたは追加でアップロードにご協力下さい。

https://photos.app.goo.gl/H1XBzv72HpwyhmJo8

(5)参加者リスト

卒年氏 名多摩森林八王子城山
147伊川
251斎藤
3BWVOB大場
436中司
536吉牟田
636遠藤
736高橋
836鮫島
937矢部
1038町井
1138久下
1239三嶋
1339岡沢
1439西澤
1539蔦谷
1639堀川
1740武鑓
1840藍原
1940
2041久米
2141久米
2241相川
2341柏木
2442保屋野
2542下村
2643猪俣
2744安田
2846村上
2946木川
3046猪俣
3147平井
3247福本
3347水町
3447田端
3548佐藤
3648福良
3751中里
2215
合計37

(注)BWV : 文教女子短期大学ワンダーフォーゲル部

OH  HAPPY  DAY  !!!!

(41 久米)丁度、見ごろの桜が多くやはり自然の風景の中に咲いている桜が
一番美しいと感じました。御衣黄を探し求めて歩きましたがまだ咲いていなかったようで残念でした。
天狗では花より団子という言葉を実感致しました。

(44 安田)さすがコブキ姉位、目のつけどころが違います。この機会に御衣黄桜について学習しました。

御衣黄桜(ぎょいこうさくら)とは、ソメイヨシノが散った後、4月中旬~下旬頃に咲く桜。サトザクラの品種の1つで、開花したばかりの花は淡い緑色、徐々に黄色に変化していき、やがて花びらの中心部が赤く染まっていくのが特徴。

御衣黄桜(ギョイコウザクラ)の学名・原産国・英語名は

「御衣」とは、貴族の着物のこと意味します。緑色の花びらが、平安時代の貴族の衣服の「萌黄色」(モエギイロ)に近いことが由来。名前は江戸時代中期から見られた。

御衣黄桜(ギョイコウザクラ)の花言葉!意味や由来は

『永遠の愛』『優美』『心の平安』『精神美』。控えめで気品のある花のイメージにぴったりの花言葉。落ち着いたグリーンの花びらは、心の平安や優美など落ち着いた花言葉がよく似合う。江戸時代に、京都の仁和寺で栽培されたのが始まりだといわれており、今では沖縄県を除く全国各地でみられるようになった。仁和寺以外には、京都の平野神社、島根県の三刀屋川河川敷、神奈川県のこどもの国、東京都の多摩森林科学園などで見られる。

(42 下村)好天の下で山道を歩くことができ最高でした。お昼にはブドウやコーヒーまでいただき感動。大場さん、前日の用意や荷造り・ボッカ大変だったことと思います。ありがとうございました。 次も楽しみにしております。

(42 保屋野)久しぶりに参加した「高尾の会」、新緑と花見と飲み会を十分
楽しめました。
八王子城山は麓に住んでた父と昔何回も登った山で、父を思い出す、懐かしいハイクとなりました。アラフォー?の大場さん、KWVにこんな美人がいたっけ、と初めてご一緒しましたが、コーヒー付お菓子、美味しかったです。

(38 久下)初めての参加にも関わらず皆様が温かく迎えてくださりありがとうございました。色々とりどりの美しいサクラに感動しました!お陰様で春の一日久しぶりにハイキングを愉しむ事が出来ました。

(BWV OB 大場)昨日は天気に恵まれた花見日和。 楽しい1日を過ごせました。ありがとうございます。 沢山撮った写真を斎藤さんのGoogleフォトアルバムに追加致しました。良かったらご覧下さい。

”古き友” との花見    (34 小泉幾多郎)

月いち高尾多摩森林科学園や八王子城山での花見散策と同じタイミングで小生は、3月28日アサ会(34年卒)、30日は高校クラス会と旧友との花見を楽しみました。

雨の新宿御苑

アサ会恒例の花見、今年は新宿御苑、雨模様のため7名と寂しい参加、食事は高島屋タイムススクア14階天厨菜館で13名参加。
高校クラス会は、平塚在住者の世話役で、平塚市総合公園。計12名参加(男5女7)。食事は園内のレストラン。

平塚日本庭園
日本庭園で亀の甲羅干し

小生の出身校は横浜平沼高校、入校1年前から、第一女子高から男女共学とな
り、1年間男便所がなかった。1年の時は、クラスも男女共学だったのに、2年3年は、当時の教師連中は、勉強が疎かになると判断し、クラスを男女別々にしてしまったが、この花見会は1年の時のクラスで続いている。

WBC ”大谷スピーチ” の反響  (普通部OB 田村耕一郎)

WBC の出来事の中で、私は大試合前の大谷選手のスピーチ内容に最も胸を打たれました。大谷発言は

米国への憧れるのを止めましょう。憧れてしまったら超えられない、今日それを超えるために来た、トップになるために来た。勝つことだけを考えていきましょう!さあ行こう!

でした。”野球の先駆者、ハイレベルの米国選手への憧れを一時ストップして、戦い抜こう!” と米国への尊敬をにじませての力強い発言、この配慮に頭が下がります。この大谷発言が米国ではどのように英語で報道されているか非常に興味を感じていたところ、娘からのNY TIMES抜粋記事が届きましたので転送します。この大谷発言が米国ではどのように英語で報道されているか非常に興味を感じていたところ、娘からのNY TIMES抜粋記事が届きました。

If his teammates needed any more motivation on Tuesday, Ohtani gave it in
a pregame speech.

Standing in the middle of the home clubhouse, Ohtani told the players to stopadmiring their U.S. counterparts.  “If you admire them, you can’t surpass them,” he told them. “We came here to surpass them, to reach the  top.”

Hours later, after the celebration and the medal ceremony and rounds of
television interviews, Ohtani    explained the meaning of his message.

“We want to respect, of course, American baseball, so we do,” he said through an interpreter. “So just looking at the great lineup of great players makes us feel like – how do I say that? I mean, obviously, we have respect,  but at the same time, it looks like we might be beaten down. So just forget those kinds of feelings.    We’re just even. We have to just beat ‘em.”

数字の記憶ー1401 という数字

人間の記憶、というものがどういう現象なのか、門外漢には分からないがともかく日常の人間の営みを越えた、なにか、であることは間違いない。昨日のことも忘れるのが当然の年齢になっても、とんでもない記憶が蘇ることを経験される方も多いだろう。その中で、ある特別な数字だけ、ひょいと思い出すことがある。

編集子は満州から昭和21年に引き上げてきて翌年東京へ出てから、今までに確か7回、引っ越しをしているのだが、その第一号、目黒区のいまでは環状7号に飲み込まれたあたりにあった小さな家の電話番号が06-1788だったとか、小学校の6年生、ほのかな初恋?にときめいた(圧倒的片思いだった)5年生の女の子の住所が大田区石川町173番地だったとか、そういうたぐいだ。何かの出来事が強烈に意識されるとき、併せて数字が脳裏に刻まれる、というのはよくある現象なのだろうか。小生の場合は慶応普通部の入学試験で受験番号が16番だったのもそれだ。当時小学生のあこかれだった赤バット川上哲治の背番号だったのも理由だったかもしれない。もし落第していたら記憶に残ることもなかっただろうが。

数日前、自宅近くのコインパーキングに駐車していた車のナンバープレートが1000番というのに気がついた。このような、きりのいいというか覚えやすいナンバーや自分に意味のある番号を、最近は3000円くらいだったか払えば業者がライセンスナンバーとして手配してくれるようになった。小生クルマそのものには興味はないが、それでも始めて乗った ”ダットサン“ 1500 の中古から今まで、都合7台のクルマのオーナーになった。現在使っているホンダフィットは、これが俺の最後のクルマ、と決めていたので、買い替えるとき注文を出して 1401 という番号を手に入れた。

1401、という数字は小生にとって想い出深い番号なのだが、おそらく、日本中にこの番号に小生と同じような甘酸っぱい記憶を持つ方(小生と同年配くらいのはずだ)がだいぶおられるはずだ。勝手な想像にしかすぎないが、数千、あるいは万単位、といった数になるのではないか、という気がする。そのことを書く。

いまではコンピュータ、という単語はあまりにもありふれたものになっているが、昭和30年代、つまり僕らがが学窓を去ろうかというころはまだまだ特殊なもので、技術の分野での話はよく知られていたが、なんといっても高価であり、一般事務分野での使用は官公庁や大企業などいわば大口に限られていた。小生が卒業したのは1961年だが、その2年前、IBM社が 1401 という型名の主に小規模企業(本来は大型機の入出力補助が目的だったようだが)を想定したシステムを発表した。ウイキペディアの解説は以下のようになっている(なお、コンピュータの回路素子が真空管からトランジスタに変わったのがこのシステムの親機として開発された7000シリーズという新鋭機からだった、という事を付け加えれば時代の変遷がより鮮明になるかもしれない)。

”IBM 1401は、IBMが1959年10月5日に発表した可変ワード長十進コンピュータであり、大成功となった IBM 1400 シリーズの最初の機種であり、パンチカードに格納したデータを処理する電気機械式のタビュレーティングマシンの代替となることを意図していた”

こんなことが卒業時点でわかるわけもないし、ましてやコンピュータという存在が自分のサラリーマン人生を左右するものになろうなどとは想像もしていなかった。高校時代から考えていた新聞記者という夢を4年の夏、最終的にあきらめた小生は電機メーカーに就職しよう、という事だけは決めていたが、縁があって当時のオートメーションブームの寵児的存在だった横河電機にご厄介になろうと決め、首尾よく採用してもらった。此処までは良かったのだが,新人教育を修了したときに、”機械統計課配属“ と申し渡されてひたすらに驚いた。機械統計、というのがなにかよくわからないがパンチカードシステムとかいうものを使って、やたらと表ばかり作る業務らしい、という事しか知らず、ましてや自分がそこに配属されるなどは想像もしなかったのだ。しかも、配属先へ連れていかれて課長へ一応のあいさつが終わったとたん、その足ですぐ、教育プログラムへ行け、と自分の机ももらわずに出張させられ、行ったさきではじめて、そのプログラムというのが IBM1401入門コース というのだったのを知った。今考えても乱暴というか無茶苦茶なサラリーマン双六の始まりだった。

当時、横河電機は優良会社の代表であったとはいえ、、創業時点から電機業界で技術者対象の専門メーカーとして地味に発展してきた会社で、いわば玄人すじに知られていたが、規模もそれほど大きくはなかった。しかしわが高度成長を支えたオートメーションブームで業績にはずみがつき、規模の拡大とともに経営の質の向上をめざす一環として、まだまだ問題もあったがコンピュータによる事務効率の飛躍的改善を目指す、という時点にあったのだ。

したがって、小生のサラリーマン第一歩はプログラマー、という想像もしなかった業務だった。当時はまだCOBOLなどというものも話に聞くだけで、すべてアセンブラーでの力仕事だった。横河が導入を決めたモデルは、メインメモリは8キロ(間違いではない、キロである)バイト、ディスク装置は高価すぎて使えず、外部メモリは磁気テープ装置(それもレンタルの安い低速モデル)だけだったから、月末の受注統計になるとそのデータの分類だけで徹夜仕事というシロモノだった。それでも専用のエアコン完備の部屋に収容しなければならず、毎月のレンタルは確か300万円(当時小生の月給は2万円あまり)。なにしろ、小学生からPCだスマホだインタネットなぞというものに囲まれている世の中からすれば想像もできないほど、”コンピュータ” というのは特別な存在だったのだ。

この1401はIBM社にとっては空前のヒット製品であったが、日本ではまだまだ経営トップ層でもコンピュータ投資に及び腰であったことから中規模程度の企業ではメインコンピュータとして採用された。したがって、就職してこの ”マルイチ” で初めてコンピュータなるものと顔を合わせた人たちは全国に相当おられるはずだし、当時の日本の採用慣行から言って小生と似たような環境にほうりこまれた人の数は相当なものになるだろう。百恵くんの歌ではないが、この広い日本のどこかにそういう人たちがいる、と想像するだけでほんのりしてくるから不思議なものだ。

1401、という数字は、したがって小生のサラリーマン生活の入門切符だったとともに、その後、(あいつはコンピュータがわかるはずだ)という(本人からすればはなはだ迷惑な)過分の評価がついてまわり、コンピュータから離れられない会社生活の在り方を決定した、因縁の数字なのだ。もし、横河電機での出発が 機械統計課 でなければ、たぶん、新規に発足した合弁会社、横河ヒューレットパッカード(YHP) への移籍もなかっただろうし、その後のHP(現在あるHPという会社は僕の愛した会社ではないのだが)での、自分でも納得できた社会人経験は出来なかったはずだ。そういう意味では 1401 は 16 とともに僕のラッキーナンバーなのだと僕は信じている。

ぼくの今の1401,すなわち深紅のホンダフィットは息子の週末ゴルフの脚として以外はほとんど、自宅のガレージですねている。気の毒とおもうべきか、長生きしろよ、というべきか、よくわからないのだが。

(HP時代同僚 坂東正康)坂村健の書いた「TRONからの発想」という本があります。発行は1987年。ぼくが八王子で(佐藤敬幸さんの下で)UNIXやMPE(HP3000のOS)や周辺機器(プリンターやプロッターやターミナル)に日本語をしゃべらせるプロジェクトにマーケティングとして参加していた頃に買ったもので、まだ本棚にありました。

その付録ページにコンピュータの歴史がまとめれらており、そこからIBM関連部分の一部を抜き出すと「1956年には、磁気コアという磁気の作用で1、0の値を記憶する部品を主記憶装置に用いたIBM 704やUNIVAC 1103Aというコンピュータが商品として売り出され、よく使われた。・・・1959年のIBM 7090は論理素子が真空管ではなくトランジスタが用いられた。・・・1958年には集積回路(IC)がテキサスインスツルメント社によって発明された。1964年には集積回路を用いた汎用大型電子計算機のスタンダード IBM 360シリーズが発表された。」

残念ながらこの本には IBM 1401は出てきません。

花見、あちこち

(船津)菜種梅雨?サクラが咲くと雨が降る。不思議と週末になると天気が悪い東京です。21日のお彼岸の日が一番の賑わいでした錦糸公園。その後は小雨に濡れています。まぁ例年より早い花見時期は過ぎていきますね。
(飯田)京都・円山公園の≪枝垂れ桜≫を観てきました。現在の大木は二代目で、初代は昭和22年に樹齢220年で枯死してしまいましたが、その初代の種子から大事に育てられた桜が、樹齢約80年を数える大木に成長しています。
満開の時に好天の下で観たいと思っていましたが、コロナ禍で叶わず、本日やっと念願かなって満喫してきました。

(小田)素敵な数々の写真の後ですが、昨日の日野市役所横の桜並木です。

(安田)故郷・九州の友達から送られた写真です。参考までに。
下関から望む関門海峡と関門大橋、対岸は北九州市門司。平家滅亡の壇ノ浦、宮本武蔵vs佐々木小次郎の決闘の場・巌流島も海峡内にある。

エーガ愛好会(207)  ルイ・マルのこと  (普通部OB 菅原勲)

フランスの映画監督ルイ・マルは、1932年10月30日に生まれ、1995年11月23日に鬼籍に入っているから、63歳で逝去したことになる。その全作品は、共同監督を含め22本だが、その内、小生が観たのは最初の4本に過ぎない。つまり、この後には18本もの映画が控えているわけだ。ところが、僅か4本しか観ていないにもかかわらず、マルを語るとは、それこそ神をも恐れぬ大胆不敵な行為と謗られても返す言葉もない。が、英語で言えば、Better late than neverに倣って、それをまーやってみようじゃないか。

「沈黙の世界」(製作年/日本公開年:1956年)。ジャック=イヴ・クストーとの共同監督で、深海を扱った海洋ドキュメンタリー。つまり、マルは劇映画ではなくドキュメンタリーから出発している。ただし、当時、クストーは、アクアラングの発明者であり水中考古学の先駆者として既に名声を博していたことなどから、その陰に隠れ、マルの存在は極めて薄いものだった。従って、小生の記憶の中では、「沈黙の世界」と言う映画は、クストーの作品であると理解しており、その中でマルの役割がどの程度のものだったかは分からない。

ところが、そのマルは第二作(実質的には第一作だろう)で大変身を遂げる。いや、それどころか第一作であるにもかかわらず、大変な作品を引っ提げて颯爽と登場して来る。それが、「死刑台のエレベーター」(製作年/日本公開年:1958年)だ。原作はノエル・カレフ(ブルガリア出身でフランスに国籍変更)のスリルとサスペンスに満ちた同名小説。彼にはこの他に「その子を殺すな」と言う傑作もある。従って、マルの映画もスリルとサスペンスに満ち溢れたものだったが、それを台詞だけではなく誠に秀逸な白黒の画面/画像で伝えたところに、マルの斬新さがあった。そして、小生は、これがマルの最大傑作だと思っている、時に弱冠26歳。マイルズ・デイヴィスのトランペットも話題になったようだが、ジャズに馴染みのない小生にはそれに言及するだけの素養はいささかも持ち合わせていない。

「恋人たち」(製作年:1958年/日本公開年:1959年)。これもドミニック・ヴィヴァン・ドノンの「Point de Lendemain」(英訳本の表題は「Tomorrow」となっている。が、Lendemainとは明日ではなく翌日と言う意味らしい)が原作で、1777年に出版され、1812年に改訂版が出されている。しかし、その内容は、どうもポーノグラフィーとまでは行かないが、可なりエロティックな内容だったらしい。従って、映画化に当たって、マルはその辺の直接的な描写は避けたようだ。この映画は男女の睦の画面があって、それが話題となり、同時にそこに流れる甘みな音楽が一躍有名になった。ブラームスの弦楽六重奏曲第一番第二楽章だ。小生、その睦に誘われてこの映画を見に行ったのだが、それ以上にその背景を流れるブラームスに甚く感激。早速、レコード屋でそのLPを贖って聴いた。ところが、肝心の第二楽章は、大変、良いのだが、残りの楽章はお世辞にも面白とは言い難い。逆に言えば、これは、特に第二楽章を選んで映画音楽に使ったマルの嗜好とか選曲眼を高く評価すべきなのだろう。

「地下鉄のザジ」(製作年:1960年/日本公開年:1961年)。田舎から出て来た、歯抜けの小生意気な女の子がパリで巻き起こすドタバタ喜劇。これもレーモン・クノーの同名小説(1959年)が原作だ。これは話しの筋がどうのこうのと言うより、ハチャメチャなドタバタ喜劇を楽しむ映画だ。従って、この類のものに拒否反応を示す人から見ると、何が何だかさっぱり分からず、誠にツマラナイ映画と言う人も多かろう。小生、この女の子、カトリーヌ・ドモンジョ(当時10歳)が気に入ったのだが、その後、二三の映画に出た後、19歳で引退し、地下鉄の歴史家になったそうだ(地下鉄はウソ)。

こう見て来ると、小生にとってマルの代表作は「死刑台・・・」となる。勿論、他に20本足らずの映画があるわけだが、それこそ、小生、見ていないから何とも言えない。確かに、4本の全てに原作があるが、誤解を恐れないで言えば、話しの筋なんてものは、本を読んでりゃー良いんであって、映画は台詞に加え魅力的な画面とそれに伴う音楽でその意図を如何に伝えるかがその最大の使命となる。往々にして文芸大作と言われる映画が面白くなくなるのは、ただただ筋だけを追っかけているに過ぎない場合が多いからだ。そこになにほどかの、いやそれ以上の工夫が施された画面/画像が加わって初めて映画となる。その意味では、カレフの本「死刑台・・・」とマルの映画「死刑台・・・」は全くの別物と考えるべきだろう。

それにしても、世に言う新しい波「ヌーヴェル・ヴァーグ」とは、一体、何だったのだろう。

(安田)僕は「沈黙の世界」以外の3本と「鬼火」を観ました。日本封切り公開時から随分年を経てからです。ということは、僕が青二才の年齢からちょっとばかり大人になってから。「地下鉄のザジ」は先日、管原さんのご推薦もあり後期高齢者の年齢で初めて観ました。「死刑台のエレベーター」「恋人たち」に尽きます。共通点は、ジャンヌ・モローが両方の映画に主演(鬼火にも出演)。共に白黒映画。「フィルム・ノワール」の範疇に入るのだろうか。そして最も感銘を受けたのは主題曲の素晴らしさ。ヌーベル・バーグの旗手と云われたルイ・マル監督26歳の時のメガフォン作品。一つ選ぶとすればやはり「死刑台のエレベーター」でしょうか。

「恋人たち」はジャンヌ・モローの美しさと官能的な映像美、そして何と言ってもブラームスの弦楽六重奏曲第一番第二楽章が映画を惹き立てる全てと云っても過言でない位素晴らしい。これら2つの映画を観てから、ジャンヌ・モローの主演映画「危険な関係」(1959年作)と「突然炎のごとく」(1961年作)を後年続けざまに観たくらいに彼女に興味を持ちました。

(飯田)ルイ・マル監督作品は私も「死刑台のエレベーター」「地下鉄のザジ」他には奇妙奇天烈な「世にも怪奇な物語」程度しか観ていませんが、「死刑台・・」は特筆すべき出来栄えの作品と思います。

その成功は菅原さん、安田さんの評論、コメントで尽きると思いますが、少し付け加えるとするなら、原作ノエル・カレフ、監督ルイ・マル、主演のモーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー、音楽マイルズ・デイヴィスに加えて、当時のフランス映画界で名を轟かせた撮影のアンリ・ドカエのモノクロ画面のカットとロングパンの撮影の妙があり、演技者では後半にやっと出てくるあの名刑事役リノ・ヴァンチェラのこわもて顔があって、ラストの写真現像室でのシーンで主役二人が、これから受ける懲役10年、20年の刑の重みが増して締まったと思います。

リノ・ヴァンチェラはこの映画でも、ジュラール・フィリップ主演の画家モジリアーニの半生を描いた「モンパルナスの灯」であの面構えでラストに出てくる悪徳な画商の名演技に匹敵する存在感だと思います。

(船津)このエーガに出て来るカメラは一時入れ込んだミノックスカメラ。独逸の空軍の英雄に送られた。

(編集子)小生も難しいことはさっぱりわからないが、死刑台のエレベータ、あのデイヴィスのトランペットは印象に残っている。映画そのものよりも音楽が記憶に残る、というのはよく経験する。小生の場合はなんといっても 白い恋人たち だが。