昨夜は「麻布学園OBオーケストラ演奏会2024」
リラックして、笑みを見せながら鍵盤を叩いていた。インターミッションを挟んで2部は、モデスト・
昨夜の演奏会では、世に知られたラヴェル編曲版ではなく、
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
昨夜は「麻布学園OBオーケストラ演奏会2024」
どの本だったか忘れてしまったのだが、上高地について触れた文章で覚えているのがふたつある。
一つは上高地、という呼称を聞いて、”かの 神河内 を 上高地、などという俗称にしてしまったのか” という、日本アルピニズム黎明期、この地をまさに神の宿るところ、とまで激賞した先人の嘆きであり、もうひとつはウエストンが日本を去る直前、徳本峠で “さよなら、ホタカ” と夫人の肩に涙した、という一節である。
現役時代から僕の記録に穂高の想い出はあまり現われない。縦走の終わりにピリオドとして訪れたとか、秋の定番であった涸沢BCで一般ルートをたどったほかは、卒業して間もなく、山岳部OBだった山川陽一からロープワークの実地訓練をうけながら北尾根を上り、グリセードでテントへ戻る、といういわばクラシックな登行を経験させてもらった程度だ。
2年の秋、涸沢から徳澤に下って来た時、徳澤山荘の前に大きな板看板が張り出してあって、”氷壁、完結” と書かれ、主人公魚津恭太の最後のことが簡単に書かれていたことがあった。この小説の背景にいつも意識されるのが涸沢だし、山に夢を賭ける人たちの ホタカ への想いがずんと胃の中に落ちた気がしたのを思い出す。卒業して間もなく、八方尾根山麓のヒュッテ 白い小屋 に通い始めてから、ストーヴのそばでの、オーナー大野さんのとつとつとした回顧に出てくる穂高、がすべて、僕なんかがわかる由もない滝谷のことと知って、また違う感覚を感じたものだった(なお”氷壁”、未読の方はぜひ一読をお勧めする)。
僕の ホタカ はこの岩稜を真に愛する人たちからすれば、ありきたりの、傍観者の勝手な思いにすぎないのだが、それでもいつか、それでも自分なりに青春の一部であった山々に ウエストン のむこうをはって、あばよ、ホタカ くらいは言いたい、という気持ちがあった。もうひとつ、社会人になった2年目の晩秋、当時関西で工場勤務をしていた田中新弥と落ち合って我々夫婦と3人、岳沢から前穂の秋、としゃれこんだことがあったのだが、その時に河童橋を渡ろうとしたら、なんと向こうから、今でも記憶にあるのだが見事な紅葉をバックに、同期の宮本健(ガン)が歩いてきたのと遭遇するという、誠にエーガ的な出会いをした。快晴の山麓の秋色のなかでのこの遭遇が、僕の ”河童橋” にまつわる想い出だ。現役時代は川内三千雄との名コンビで不死身といわれた宮本だが、宿痾には勝てず、こののち数年を経ずして旅立ってしまった。あの時のガンが歩いてきた、あの橋はどうなっているのか、という思いもあった。
今度のKWVOB会夏合宿が上高地の奥座敷、平湯集中で、なかに上高地散策というプランがあるのを知り、この地を訪れるのも たぶん、行けば今回が最後になるような気がして、参加させてもらうことにした。つまり今度の上高地散策はいい年をしてのセンチメンタルジャー二イ、のつもりだったのだ。古手の同行は同期の高橋良子、1年あとになるが親しくしていた加藤清治、国府田信雄。加藤は同期で三国山荘の主と誰もが認めていた故小林章悟の一番弟子、ミスター山荘と言われた職人肌の男である。
しかしながら、雲は岳沢の雪渓をちらつかせただけで稜線を動かず、穂高を見ることはかなわなかった。焼岳は2度ほど登ったことはあるが、あまり魅力のある山ではない。ただ、大学4年時、所属していた平井ゼミの夏旅行を企画する立場になったので、同学年にいた翠川幹夫としめたとばかり上高地旅行というプランを立て、本来ならば平井先生などと毎日同行すべきところだったが、知らぬ顔で奥又白の池へ行ったことがあった。その時、一応幹事面をして大正池とか焼岳、なんてのを案内したことが思い出され、大正池の澄んだ水と、泰然とした焼岳、親友との想い出をかみしめることになった。
此処まではよかったのだが、好ましい林間の散歩道をへてやってきた河童橋の、いわば惨状とさえいえる現状には声も出なかった。
オーバーツ―リズムとはまさにこれか。人が多いのはシーズンだし想像どおりだったがなんでこんなところにこんなものを作るのか、という気持ちだった。自然保護、という事では先駆者的な行動をとった地元の人たちがいたのに、大正池にホテルを造り河童橋を渋谷まがいにしてしまったのは、やはり欲望か。“神河内” の堕落を嘆いた先達たちに申し訳ない気持ちすら覚えた。
そんなわけで、今回のセンチメンタルジャー二イは消化不良のままに終わってしまった。ただ合計なんと百人という規模で集合し、年代を越えて語り合うことのできる、参加された船曳さん(34年卒-米寿、おめでとうございます)の言葉通り、この日本にふたつとないであろう、最高の同窓会に参加し、その一部であることが誇りに思えた。志賀のスキー合宿に森田先輩が持ち込まれた ”俺達の青春はまだ終わらない” という(タイトルもシンガーも忘れてしまったがいい歌だ―ご存じの方があればぜひ教えてください)、あの歌の通りの週末がただ、うれしかった。幹事各位に改めて感謝し、我々を見守ってくれた桑原、関根両兄に改めてお礼申し上げる。なお合宿の全体報告については別途ご紹介することにし、パートリーダの桑原君のメモの一部を付記する。
(平湯温泉集中夏合宿第一班 リーダー 桑原克己) この度は、夏合宿1班 上高地のんびり散策プランにご参加頂き、誠に有り難うございました。お陰様で天気にもコースにも、また、メンバーにも恵まれ、事故もなく、のんびり楽しく安全にプランが実行できました事、皆さまのご協力のお蔭様と、感謝申し上げます。
エディット・
(編集子)これはKWVのOB連中にしか通じない話題だけど、38年卒の岩木義明が酒席でいつもこの歌を微醺を帯びながらいい声で歌ったものだった。頑健そのもの、小樽潮陵高校出身にふさわしく豪快な滑り、常にジョークを連発するまことに楽しい男のことを思い出す。
やっこがイメージする 愛の賛歌 とはおよそ似つかわしくない、でもどこかやさしい、そういう後輩のことだ。
五輪は29日まで日本が金メダル6個を獲得し、地元のフランスを上回り幸先の良い出足を切ったようです。翻って8月1日から始まる陸上はどうでしょうか。恐らく出る選手出る選手次から次へと予選落ちとなって行くのは間違いありません。勿論、例外はあるでしょう。
何故なら、こう言うカラクリがあるからです。五輪に出場できる選手は、
1. 世界陸上の設定した各種目の参加標準記録を突破した選手(期間限定)。例えば、男子100mは10秒00で、これを突破した日本の選手は、サニー・ブラウン・アブダル・ハキムただ一人。
2. 世界陸上のランキング(これも、期間限定で、試合の質、記録、順位などから得点付けして総合的に順番付けをする。詳細は省く)で出場人数枠内にある選手(例えば、男子100mでは、日本陸連は、37位の東田、52位の坂井を代表に選んだ)。
つまり、2.は世界陸上の単なる頭数の数合わせであって、オナサケでの出場となるわけです。なお、英国は今回から1.の選手には8位までに入賞の可能性はあるが、2.の選手にはそれはないと判断し、2.は代表に選ばなかった。小生は、1.のみにして、2.は撤廃すべきだと思っています。確かに、一方では、「五輪は参加することに意義がある」そうですが。でも、次から次に落選また落選では見るに値しないでしょう.
(菅井)1.のみにして、2.は撤廃すべきだと思っています。とするならぱ各競技連盟の世界選手権があれば事足りるので、
(金藤)2. について全く知りませんでした。貴重なお話ありがとうございました。
(編集子)陸上競技の結果は単純明快、スガチューには怒られるかもしれないが、戦略も作戦もあまり意味はなく、要は選手個人生まれながらの身体能力で決まるものだと思うんだがどうだろうか。豊芦原みずほの国のたおやかな自然を愛し、裏山に鹿の声が聞こえれば、取って食うより人の世のあわれの歌にするような環境で育まれたわがヤマト人の体の出来というのか、遺伝子というのかが、昨日までライオンとかけっこをしていたような環境で育った連中のそれとは基本的なところで違いがあるんじゃなかろうか。つまり陸上競技などでは、(純粋に生物学的意味で)人種による選択がすでに決まっているのではないか。チームワークとか、微妙きわまりないテクニックが要求される競技で我が国がメダルに湧くのとは基本的に違う。スガチューが期待するサニーブラウン君も国籍は日本人だが (再度言うが生物学的意味で)純粋なヤマト人ではない。そういう意味で冷静に見ればいいんで、結果にあまり熱くなることもないのではないか?
例によって、”みんながやってるこたあやりたくねえ” 症候が発症し、パリの番組には背をむけてテレビはもっぱらなつメロミステリー(目下、吉永刑事シリーズ、ってのにはまってる)だけしか見ない小生(わがパートナーはそうではない、彼女の名誉のために言っておく)にはあまり興味はないトピックだけど。
(ついでにスガチューに教えてほしいんだが、水上競技にアフリカ系の人の参加が少ないのはやはり構造的なというか政治的思惑なんかがあるんだろうか。身体能力なら、やはり人種的遺伝的能力で行けば陸上と同じようになるんじゃないか、と思うんだが)
西部劇とSFとの融合ということは事前に分かっていたが、配役
追う相手は当初の相手よりもっと悪い下半身の無いド
アン2011」があるが、どれも
(編集子)だから ”三人の名付け親” を見ろって言ってんじゃんけ !
(編集子)僕が ブログ というものに興味を持ったのは、自分の人生航路でたびたび起きていることなのだが、全くの偶然というか、いきあたりばったりのことがきっかけだった。例の通り、ぶらりと入った本屋で、島田君が書いているワードプレスというツールについての入門書(文末参照)に出合ったからだ(注:”ブログ” と ”ホームページ” は運営方法や目的はちがうが実質的には同じものと考えてよい)。
僕が三田を卒業したころ、社会では事務合理化、という流れが起きていて、先進的な企業ではコンピュータの導入がはじまりつつあった。就職した横河電機もその一つで、新人を採用してその中から ”コンピュータ屋” を自家生産しはじめたタイミングにたまたまボクが採用され、何も知らないうちにコンピュータの世界に放り込まれたことが結果的に僕のサラリーマン生活を決定づけてしまった。いろんな仕事をさせてもらったが、退職後10年たち、サンデー毎日生活にも飽きがきはじめたころ(ボケ防止にハードボイルドミステリのほかにもうひとつ、なんか新しいことがないかなあ)と思い始めた、ちょうどそんなタイミングで島田君のいっている入門書に出合ったというわけだ。
僕が実際にプログラムにかかわっていたころはまだCOBOLもうわさに聞く程度のものでアセンブラが常識だったし、”外部記憶” といえばディスクなんてものは1台のレンタルが数十万円とべらぼうで、普通は磁気テープ、という時代、横河電機(当時のことだ、無論)半年間の受注統計、なんていうとデータのソート(ならべかえ、分類)だけで徹夜しなければならない、そんな時代だった。そういう時代の感覚で行くと、島田君が書いている オープンシステム なんてものは夢想もしないものだった。だからワードプレス、というしかけを本屋で買った本1冊の知識で動かす、という事は、いわば快晴無風、新雪の斜面にシュプールをかくような、またとなくスリリングであり、わくわくすることだった。
いまの時点で島田君の投稿を得て、あらためて、(ああ、そういうことか)と思い当たることばかりだ。あと何年、自分に残された時間があるのかわからないが、高尾山歩きも早晩、あきらめなければならないかと思い始めた今、ブログつくりはまたとないスリルと多くの友人たちとのつながり(これこそ認知症予防に最高のものだというドクター篠原の忠告をきいたばかりだ)を与えてくれている。本稿の内容は多少、専門的な部分を含んでいるのでとっつきにくいとは思うのだが、僕につづいてこの世界に入ってみようか、という仲間が現れるのを楽しみに待っている。
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(島田) 同期の友人の誘いのもと、退職後で暇な時間を持て余していた時、
WordPressはグローバルでも日本でもシェア約50%
HPを運営するためにはHP作成ツールだけではサービスを提供で
WordPressの開発環境ではダッシュボードと言う管理画面
そして、
WordPressではPHPのソース内容、
WordPressの立ち上げに約半年携わっているが、 その中で思ったことはWEB上での情報量の多さ。
まだ、
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(別に宣伝をしているわけではないが、現在の小生のブログはこの本1冊だけを頼りに作られている ― もちろん、幾度もコージこと菅井康二君のヘルプをもらってのことだが。別の言い方をすれば、日本語が読めて、Eメールが一応使えて、もひとつ、MSワードの基本がわかっている、という程度の知識があれば、エラソーに言っているが ”ジャイさんのブログ” 程度のことは誰でもできる、ということだ。 やってみないか?)
コロナ禍が一段落したかと思ったら、バイデンさんがコロナになってしまいましたね。確かに一時期ほど病原性は高くないものの、今の日本には第11波が来ていて、皆さんの周りにもコロナ患者さんがうようよおられるはずです。後遺症も、特に高齢者は油断できません。そういえば、バイデンさんも、この随筆の読者の多くも、また執筆者自身も高齢者でしたね。一方で、トランプさん、運のいい方ですね~。銃弾が右耳をかすめたとか。身代わりで亡くなった方は本当にお気の毒です。全米ライフル協会から絶大な支援を受けているトランプ氏。今後は態度が変わるでしょうか? 米国の銃社会同様、変わらないでしょうね。
アメリカの話はその位にして、今日は耳慣れない「殿様の枕症候群」の話です。時代劇なんかでよく見かける背の非常に高い枕が殿様枕です。実際に昔の殿様があんな枕をしていたとは考えられないけどね。
先日、急患で50歳ぐらいの男性が私の外来を受診されました。朝起きたら、急に片方の腕が動かないことに気づいたそうです。よく訊くと、前日の日曜日、ソファーに横になり、片方のひじ掛けに頭を乗せたままテレビをみながら、酒を飲んでいたところ、そのまま寝てしまい、翌朝、起きたら左手が全く動かなくなったとのことでした。
これがその「殿様の枕 症候群」の一つの形です。このような姿勢を長く続けていると、頸椎(首を形成している7つの骨)やその周囲の組織が圧迫されて、両手がしびれたり動かなくなったり、肩の強いハリが起こったりします。しかし今回の患者さんは片方の手だけ動かず、しかもいわゆるしびれはなく、運動麻痺だけでした。首の骨がその周囲の神経を圧迫したかと思いましたが。打腱器というやわらかいトンカチみたいな診察道具で腕の反射をみると左手のそれが非常に高いのです。これは専門的な知識で言うと、麻痺の原因が頸部の骨よりももっと上位の、例えば脳の病気の可能性を示す所見でした。脳のMRIをすぐ撮ってみると右脳に出来たばかりと思われるかなり大きな脳梗塞が見つかりました。頸から脳に行く血管がムリな姿勢を長く続けたために圧迫されてそこに血栓ができ、それが脳に飛んでできた脳塞栓(脳梗塞の一つの型です)と診断できました。幸い、その方の麻痺は2―3週で治療により可なり良く成られましたが、もっと大きな血栓だったら、こんなに良くはなられなかったでしょう。
日本人は「枕を高くして眠れる」という事はいい表現に使いますが、高い枕では首がムリに伸展してしまい、それを長時間続ければいろいろな症状が出ます。これが「殿様の枕症候群」です。「殿様枕」と同じように、「ソファのひじ掛け」などに頭を長時間載せていることは、頸の骨ないしそこから出てくる神経や、内頚動脈や椎骨動脈という脳に行く大事な血管を圧迫する可能性があります。血管が裂けること(動脈解離)もありえます。
いつも食事が終わると、やれやれとソファに寝そべって、首をひじ掛けに載せて、スマホを長い間いじったり、うたた寝しながらテレビを見ているアナタ!! そう、君ですよ。血圧や糖尿病ばかりでなく、こんなところにも気を使ってください。同時に、ソファに寝転がって、スマホばかりみているお孫さんたちにもこの知識をひけらかして、注意してあげてください。少しは爺・婆としての立場が上がるかも。
北アルプス並みの高山がいきなり海面からそそり立つ。海岸線は断崖絶壁。リアスと呼ばれる複雑な奥深い入り江はU字谷を形成している。山頂には残雪があり幾筋もの滝が流れ落ちている。
ノルウェーのソグネ・フィヨルドは雄大な神々しい大自然だった。同船したインド人はつぶやく。フィヨルドは神の存在を感じるほど美しい・・・!
こんな絶壁に囲まれた湾はヴァイキングにとり絶好の隠れ場であった。
ヴァイキングの語源は、フィヨルドのことをヴィークと呼ぶことから、そこに住む民を「ヴァイキング」と呼ぶ。英雄伝説『サーガ』はルーン文字によってヴァイキングの偉業を石碑に刻む。キリスト教布教以前のフィヨルドの歴史。
ノルウェーのヴァイキングは「ノルマン人」と呼ぶ。
フランス・ノルマンディーに定住したノルマン人は、11世紀にイングランド王国を征服。フランス語をイングランドに広めたノルマンディー公ウィリアムは文化人だった。角のある兜を被った海賊や略奪を働く戦士姿のヴァイキングからは想像もできない。さらにロシアとウクライナの建国にも関係し、遠くビザンチンまで足を運んでいる。 ヴァイキングは略奪を専業としていたのではなく交易の民だった。ノルウェーのソグネ・フィヨルドからノルマン人は出航していった。
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(編集子が世界史にはなじみが全くないため、例によって余計なお世話かも知れないがウイキ解説を記載。今や常識になった、”ヴァイキング料理” という名前は日本のどこかのホテルが思いついたものだと理解しているが、でヴァイキングとの関係はよくわからない。博識の読者のご教示を待つ)
ゲルマン人の一部のノルマン人が、9~11世紀に北ヨーロッパから各地に移動を行い、中世社会に大きな変化をもたらした。 ノルマン人はインド=ヨーロッパ語族のゲルマン人に属し、スカンディナヴィア半島やユトランド半島(デンマーク)で、狩猟や漁労に従事し、造船や航海術にたけた民族だった。4~6世紀のゲルマン人の民族大移動の時期には北ヨーロッパに止まっていたが、8世紀ごろから人口増加は始まり、9世紀になるとさかんに海上に進出して海賊を兼ねながら交易に従事するようになった。このような9~11世紀のノルマン人の移動は、第2次民族大移動ともいわれている。