エーガ愛好会 (199)  遠い太鼓(34 小泉幾多郎)

ラオール・ウオルシュ監督、ゲーリー・クーパー主演の西部劇と来れば、面白いことこの上なしと言いたいところだが、それ程には感動しなかった。先ず舞台がフロリダとなると西部のカラッとしたドライな雰囲気とは正反対のじめじめした湿気と水の多いエキゾチックな変った雰囲気の歴史的戦争映画と言っても良いのかも知れない。

スーパーヒーローのクーパーともなれば、20本を超える西部劇に出演しているが、この映画や「北西騎馬警官隊1940」「征服されざる人々1947」といった西部劇らしからぬ西部劇もある。フロリダ州エバーグレーズ国立公園で美しきロケ撮影が行われ、スペイン統治の17世紀建立の米国本土最古の石造要塞サンマルコス砦も含めフロリダの景観が映し出される。

1840年フロリダ地方はアメリカがセミノールインディアンと7年間苦闘を続けていた。フロリダ地域の防備に当たっていたテイラー将軍(ロバート・バラット)はクインシー・ワイアット大尉(ゲーリー・クーパー)のもとへリチャード・タフト中尉(リチャード・ウエッブ)と偵察兵モンク(アーサー・ハニカット)を送り出す。ワイアットは味方のインディアンのクリーク族の酋長の娘と一緒になり子供をもうけるものの、白人に妻を殺されるという過去を持つ。40人の部下と共に、任務のセミノールを襲い、砦を破壊することに成功し、捕虜になっていたジュディ(マリ・アルドン)等男女を救った。その後はその一隊のセミノールからの逃避行が、沼地の中を鰐や蛇等が暴れ回る中続く。最後は、セミノールの酋長とワイアットの水中でのナイフでの決闘で決着。セミノール族は退散、ワイアットとジュディは結ばれ、エキゾチックな西部劇は終演。

フロリダ地方の湿地地帯の美しきロケ撮影や水中カメラ使用による決闘場面の迫力ある撮影は良かったものの何となくてんこ盛りで全体的に時代の緩さを感じるのだった。また特記すべきは、兵士が鰐に襲われ水中に引きずり込まれるシーンでの叫び声が音響素材として使われた最初のものと言われている。その後、音響デザイナーのベン・バートが「フェザー河の襲撃1953」で使われた矢で射られたウイリアム二等兵の声にちなみ、その声を「ウイルヘルムの叫び」と名付け、その後の映画やTVに音響素材として利用されたとのこと。

(保屋野)小泉さんの完璧なコメントに付け加えるところはないのですが、一言
感想を記します。
舞台がフロリダで、小泉さんの云われるように西部劇らしからぬ西部劇モドキ映画でした。(インディアンは出てきましたが)ストーリーもただインディアンから逃げるだけの単調な「逃避行」、G・クーパーが主演にしては期待外れのエーガでした。
大昔観て面白かった記憶があったので期待して観たのですが、どうも別のエーガだったようです。

(グーグルから転載)この映画は、ある“音”で映画ファンに愛され、親しまれています。それは兵士がワニに襲われて叫ぶ声。効果を高めるためにアフレコで製作された音なのですが、この作品以降、ほかの映画でも同じ声が使われているんです。「スター・ウォーズ」(1977)で、ダース・ベイダーの深い呼吸やライトセーバーなど、さまざまな音を製作した音響デザイナーのベン・バートは、西部劇「フェザー河の襲撃」(1953)でも使われたこの声を“ウィルヘルムの叫び”と名付け、「スター・ウォーズ」や「インディ・ジョーンズ」のシリーズに使用。さらに、ほかの音響デザイナーにも広まり、「バットマン リターンズ」(1992)や「キル・ビル」(2003)など、400本以上の映画やアニメ、そしてテレビゲームでも、主に男性のキャラクターが吹き飛ばされたり、倒されたりする場面であえて、この叫び声をリスペクトをこめて使っているということです。映画史上の名作。“音”にもご注目ください。

アンナプルナ遠望   (42 河瀬斌)

(編集子)山岳展望の放映をきっかけにここ数日、KWV仲間ではその話題が集中している。現地を歩いてきたドクターからの情報である。36年卒の仲間でエヴェレスト展望へ出かけてすでに四半世紀!

アンナプルナは我々が真近に見ることのできる唯一のヒマラヤ8000m峰ですね。2012年2月にインドで頼まれたライブの脳腫瘍手術と講演の後、家内とネパールのポカラに寄りました。アンナプルナはポカラの町からも見えますが、郊外のダンプスという丘へ金色に輝くアンナプルナの夜明けを見に行きました。地元で神の峰と言われる鋭鋒マチャプチャレも素晴らしい。カトマンズからポカラへ行くフライトは、少々危ないのですが、素晴らしいヒマラヤ観光ができます。ただし帰りの便に乗れるか保証はありません。

(安田)河瀬さんの素晴らしいアンナプルナ実撮の写真が届きました。ありがとうございます。実物を見た人でなければ感じ得ない臨場感の迫力があるのでしょうね。

(菅原)

山と言えば、青山、代官山、大岡山などにしか登ったことのない小生が、アンナ・プルナと言う名前を聞くと青春時代が蘇る。

1950年に、フランス隊が8000m級の初登頂を果たし、その経緯を隊長のM.エルゾーグが「処女峰アンナ・プルナ・・・」として出版した本が、1953年、近藤等の翻訳で白水社から出され、これを何故か小生貪り読んだ(小生の普通部時代)。今にして思えば、次から次に降りかかる危難を不屈の闘志で掻いくぐって行くところが、冒険小説が好きだった小生の嗜好にピタリとはまったからではなかったか。下山の際の悲劇、登頂したエルゾ-グ、ルイ・ラシュナルが凍傷で、足指20本、手指10本を失ったと言うからその下山は、常人には想像も出来ない凄まじいものだったのだろう。

アンナ・プルナとは「豊穣の女神」と言う意味だそうだが、写真を見ても悪さをする山とは思えない。しかし、ネットを見たら、2012年3月時点で、登頂者191人に対し、死者61人と言うから誠にオソロシイ女神だ。写真を見ているだけで充分に満足。

クラシックカメラご案内     (普通部OB 船津於菟彦)

全日本クラッシックカメラクラブと言うフィルムカメラの愛好者の団体で次第に消えかかりつつあるフイルム絶滅危惧種救済団体で1900年より前のカメラで綺麗に撮影した作品など一人一点自薦でPrintも自分で行い出展です。「2023年春のAJCC写真展-クラッシックカメラで撮る楽しみ-展 2月27日月曜日から3月3日土曜日まで銀座で開催致します。今激戦地と成って居るウクライナキエフ-キーウィ-で作られ会員がキーウイーへ行かれ撮影した写真とか1900年以前のカメラで綺麗に撮れている写真等展示されています。

小生2022年秋のAJCC春の写真展には1952年発売の東独カールツアイスイエナが世界初のミラー式一眼レフの「コンタックスD」でレンズはウクライナ紛争が早く終わり「平和」になりますことを念じて東ドイツ製のMIR-1(平和)37㎜F=2.8で今年の銀座撮影会の折りにウインドーの写りに銀座の喧噪をと撮影致した物を展致しました。コンタックスDはメカがコンタックスらしく複雑でやや扱いにくく、今のミラー式一眼レフと違いシャッターを切ると画面がミラーが揚がるためブラッツクアウトしてしまいます.2023年春のAJCC春の写真展は小生が生まれるより前に作られたカメラ。
1935年製造のコンタックスⅠ型で湯島天神の梅が満開の佳き日に撮影した物を出展致します。またまたコンタックスですが、此方はライカに負けじとツアイスイコンが総力をあげて、ライカとは違うカメラをと言うライバル意識満点のカメラで。その操作のし難さはヤレヤレです。非常に凝った操作で暫く使わないと忘れてしまうぐらいです。何故かフィルム巻き上げダイヤルとシャッターダイヤルが同軸しかも前面についていて、シャツターもライカの布製の横走りのタイプと違い縦走りでしかも鎧戸のようにメタルです。まぁこんな複雑なメカニズムのカメラを1930年代に作ったなぁと思います。
黄色がフィルム巻き上げ。赤が高速用シャッターダイアル。ブルーが低速シャッターダイアル。と言う複雑さでしかも操作手順にお作法があり、間違うと故障のおそれ在りという具合です。レンズも当時作られたデッサーで今でも見劣り致しません。ツアイスイコン・イエナで造られていたモノです。その後ソ連に接収され東独でコンタックスは作られましたが米軍が一夜にして技術者とか設備を西ドイツオーバーコッヘンに移動して新生ツアイスイコンとしてコンタックスⅡ型製造されました。なにやら今のウクライナみたいなことが在ったんですね。2022年秋の出展のコンタックスD型はドレスデン-東独-で造られたモノです。

キミは 鷲は舞い降りた を読んだか? ー 冒険小説へのお誘い

(三橋) このあたりで英国ミステリーのもうひとつの別の流れを追ってみよう。冒険小説・スパイ・スリラーの系譜である。そもそも英国にはダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』、ジョナサン・スウィフト『ガリバー旅行記』といった冒険物語の伝統があったが、まだ19世紀には“外套と短剣”という言葉に象徴される古風で通俗的なスリラー小説が流行していた。(中略) また、冒険小説の方面では、『孤独なスキーヤー』や『キャンベル渓谷の激闘』など苛酷な自然条件と英国人の“ジョンブル魂”を描き、この分野を牽引したハモンド・イネスがいた。アリステア・マクリーン、ジャック・ヒギンズ、デズモンド・バグリイ、ギャビン・ライアルらの活躍は、イネスが切り開いた道があってこそのものであった。

小生がこの 冒険小説 というジャンルにひかれたのは、引退後に英語を忘れないようにしようと始めたポケットブック原書版乱読ジャーニーの第一号が、ジャック・ヒギンズの 鷲は舞い降りた だったことだ。ヒギンズは多作で知られる売れっ子作家になってしまい、最近の作品は粗製乱造というか、およそ見るべきものがないのが残念だが、この記念碑的作品の舞台になっている、第二次大戦の秘話というべき初期の作品をいわば芋づる的に読んで行って、小説もさることながらその実態を知りたくなって何冊かのドキュメンタリや記録物に挑戦することになった。この 鷲 は、史実ではあるが実現しなかった、ヒトラーによるチャーチル暗殺計画の話だが、この作品が特に注目されたのは、それまでの小説も映画も当時のドイツ軍人をいわば悪人あつかいしかしてこなかったのに、ヒギンズは彼らの人間性とかあるいはヒューマニズム、というファクタを盛り込んだことだ。同じような背景で書かれた 狐たちの夜 はストーリーの面白さ、という意味では一番だと思っているのだが、欧州戦線で敵味方に分かれはしたが戦前は英国で学んだ知識階級のドイツ青年が国策と個人の間に挟まれてしまうという、同じ時期に勃発した太平洋戦線での日米両国の場合とは全く違う事情がよく描かれている。同じようなテーマだが、よりフィクション性の高いいくつかの作品 双子の荒鷲 反撃の海峡 ウインザー公略奪 なども面白かった。いずれにせよ、現代史の勉強という意味もあるが、戦争とは全く違った、三橋氏の言われる意味での冒険小説、というカテゴ リでのヒギンズは何といっても 脱出航路 に描かれる海との戦いと再び国境を越えたヒューマニズムだろうか。ヒギンズにはもう一つ得意なテーマがアイルランド紛争にまつわるエピソードであるが、中でも 非情の日 はヒギンズ本人も好きだと言っているらしく、心に響く作品だと思っている。ヒギンズのものはデビュー当時からさかのぼって20冊以上読むことになったが、小生のお気に入りは 廃墟の東 という中編である。全体に漂う虚無感の様なものが自分の心の周波数に合致するように思うのだが、一般受けはしなかったようだ。

ヒギンズのいわば先輩筋にあるアリスティア・マクリーンにも素晴らしい作品が多い。中でも 女王陛下のユリシーズ号 は冒険小説、というジャンルにとどまることのない傑作だと小生は思っていて、絶望の淵に追い詰められた男たちの振る舞いと猛烈な嵐、訳者はマクリーンの原文をどう日本語にすればこの本の神髄をつたえられるのか、自分の能力のなさを嘆いた、と告白したくらいの圧倒的迫力がある。良く知られたのはグレゴリ・ペックの ナヴァロンの要塞 、やはり映画化された 荒鷲の要塞 とか 八点鐘の鳴る時 なども歯切れのよい作品だ。

イギリス文化の根底にある海洋へのあこがれ、といったものがテーマになっているのが バーナード・コーンウエル という作家で、ロゼンデール家の嵐 嵐の絆 などはヨット愛好家ならば別の意味でも面白い作品だと思う。三橋氏のコメントにもあるが ギャヴィン・ライアル については先に 深夜プラスワン ちがった空 について書いたが、より現代的なテーマでの傑作が多いし、同氏が触れておられる ハモンド・イネス は徹底して大自然の中での話で、その描写が素晴らしい。多少なりとも山、とか雪、に馴染みのある我々にはより親近感を覚えるテーマが多い。

80年代になると映画でもアピールした トム・クランシイ の レッドオクトーバーを追え に始まる軍事ものが盛んになってきて、昨今では軍事スリラー、というような用語も目に付くし、アマゾンで買うと、その原題に THRILLER というサブタイトルがつく本が多くなってきた。こうなると 冒険小説 の定義そのものも再考されるべきかもしれないのだが、同じ副題がついても、最近小生がはまっている C.J.ボックス のテーマはすべて米国ワイオミングとかノースダコタの荒れ野が背景の、個人対自然のかかわりあい、という部分が多いので同じアメリカ発ではあるのだが、よりおおらかな男の闘いは快い読後感にさわやかさを残す。調べてみるとこの人の和訳はだいぶ以前に出されていて、その後の復刊を聞かない。しかし英文は非常に簡潔だし分かりやすいので、原文をトライされたら如何だろうか。

”冒険小説” といっただけで、ハイブラウな読者、純文学志向の人たちにはおよそ見向きもされない、いわば裏街道筋とでもいうべきジャンルがなぜ心をひきつけるのか。評論家の関口苑生氏は、”冒険小説の主人公は愚直なまでに頑固なおのれの倫理観を持つ”、とし、”その主人公がさらに成長し、自己を獲得していく過程” を描くものを冒険小説である、と定義している。ただ単に暴れまわって破壊行動を繰りかえすだけのものは決して冒険小説ではない、というのだ。このあたりの言い方は、ハードボイルドを語るときにもよく出てくる。グーグルでは (ハードボイルドは、文芸用語としては、暴力的・反道徳的な内容を、批判を加えず、客観的で簡潔な描写で記述する手法・文体をいう)と言い切っているが、決して暴力・反道徳的内容がその定義の必要要素ではあるまい。同じことが冒険小説の定義にも当てはまるので、そういう意味では関口氏の定義には同意する。

ハードボイルド派についてはまた稿を改めるとして、とにかく、年齢的ハンディが日々積みあがっていく毎日、心の憂さの晴らし場所、くらいに考えて、諸兄、せめて 鷲 か ユリシーズ でも読みたまえ。

こっちは大倉山       (34 小泉幾多郎)

白加賀

船津さんに遅れること何日か,こちらヨコハマ大倉山公園。

淡路枝垂

大倉山梅林、今年も梅の季節到来。コロナ禍で中止していた地域振興を図る観梅会が、今年は2月25日(土)26日(日)に、地元商店街による出店、箏曲等の演奏、舞踊のステージ 等が三年ぶりに開催されることで、久しぶりに賑わうことでしょう

野梅

スーパーボウルで感激したこと

今日、何気なくテレビをつけたら、スーパーボウルの中継番組に行き当たった。

小生はフットボールには関心がないので、いつもならほかのチャネルにしてしまうところだったが、ゲームの開始にあたってのセレモニーだったので何気なく見ていたら、アメリカ国歌が歌われる場面になり、出場選手たちがこれを聞いている場面になった。我が国とは違って、顔だけを見てもいろいろな人種がいるのだなあと改めてアメリカという国の成り立ちを改めて感じた。そのうち、ひとりが黙って聞いていながら涙をながしているのが大写しになった。

彼がなぜ涙を流しているのか、もちろんわからない。この場に参加できるまでの努力とか苦労を思い出していたのかもしれないし、なにかもっと個人的な感激だったのかもしれない。しかしそれが 国歌吹奏の時だ、ということに感動した。勝手な想像だが、彼は自分がこの国に生まれ、多くの仲間たちと一緒にその国歌を聞く、という当たり前のことが改めてどんなにすばらしいことなのか、それに思い当って感激したのではないか。

人種間の対立やら異文化のはざまの問題とか極端な経済格差とか銃暴力とか、我々日本人には理解できない障壁を抱えながら、なお、”自分たちの国” という感情がこの国の人たちにはずっと強いのではないか、という気がした。はじめて米国の地を踏んだ時、いろいろな場所場所に米国旗がひんぱんに翻っているのに驚いた。その時はかなり自分の考え方もひねくれていて(国旗でもない限り自分の国という感情が湧かないんだろう)などと考えていた。ちょうどヴェトナム戦が問題になっていた時期でもあったかかもしれない。しかし今日、すんなりとこのシーンに感激したのは、簡単に言えば愛国心というのかもしれないが、僕らがなんとなく口に出しにくくなっているごくごく素朴な気持ちをこの選手は素直に表していたのではなかったのか。

この種の発言をすればやれウヨクだのなんだのという雑音が聞こえ、建国記念日に国旗を掲げるなんてこともなんとなくはばかられるような、現代日本というのはどんな国なんだろうか。そんなことを思った。名前ももちろん知らないこのアメリカ青年の素直な感情が温かく伝わってきて、彼のゲームでの健闘を祈る気持ちになった。いろんなことが起きている国ではあるが、その原点を支える人たちの善意を改めて感じたことだった。

(船津)日本人とて同じだと思います。

戦後、古橋が1500㍍自由形で世界新記録を出して日章旗が揚がった時とか、そして最近ではサッカー・ラグビー・オリンピック・そしてWBCで多分泣くのでは。けして右翼とかでしないのではと思いますが、星条旗と日章旗の成り立ちが違うこともあるかと思います。
星条旗は独立戦争以来、あの騎兵隊も星条旗を掲げ先住民を追い払い象徴に成って居ましたね。そしてあの硫黄島。 これは演出だったとかの説もあるが米国人の心にある星条旗だと思います。
(安田)以心伝心」「沈黙は金」があまねく通用し、尊んできた日本の文化感性とは真逆なアメリカの特徴が表れているのが、国家を象徴する国旗と国歌に対してunitedする、国民の姿勢と向き合い方だと感じる。独立した1776年以来、国民は国旗と国歌の下にアメリカ人としてのアイデンティティを自然と求めるようになったのだと思う。スーパーボウル選手の態度もその典型的一例ではないでしょうか。
(菅原)先ず、米国は独立するに当たって政体の選択を見事に間違えました。現在、米国は分裂しているとか分断されているとか言われています。これは今に始まったことではなく、独立した時点からそれはありました。だから、国名は、単にAmericaで良かったものを、態々、こうありたいと言う願いを込めて、United States of Aとしたわけです。それは国旗も同様で、テキサスじゃないけど統一されていればLone Starで良かったわけです。現実にはそうじゃなかったので、ここでもそうありたいと言う願いを込めて全州を一つの旗に載せたわけです。また、国歌だって、一つの歌の基に一緒になってるんじゃなく、一緒になろうってな意味が強いんじゃないか。

つまり、米国は、絶対王政を選択すべきでした。しかし、歴史は戻ってやり直すことは出来ません。米国は、もしかしたら、例えば、永遠にUnited States of Aの実現に向かって行く、常に青春であり続ける国なのかもしれません。

(編集子)常に青春であり続ける、か。なるほど。スガチューの喝破で一件落着、のようで。

小海線の旅    (HPOB   小田篤子)

車は生活圏で…と決め、小型車を1月に頼んだのですが、部品がなく、5月の連休の頃納車になるとか。ご近所の方は、7月に車検が切れるのに11月の納品で、社用の大型の車は3年待ち…とおっしゃっていました!

列車では初めて小淵沢で乗り換え日本一高い駅《1,345.67m》と覚えやすい高さの野辺山に行って来ました。駅近くには又《グレイス》ホテルの看板が…。
野辺山駅は最近は《High Rail=入れる》から滑り止めの砂を出したり、受験生に人気の場所のようです。
スノーシューの目的で行ったのですが、必要もなく、美鈴池や八ヶ岳高原ヒュッテ、音楽堂を歩き回りました。車窓から、一番高い南岳が真ん中に位置する青空に浮かぶ雪の八ヶ岳は、Giさんのお好きなグランドティトンの山々のように見えました。
*写真はヒュッテと、凍った美鈴池。誰もいなく静かでした。

エーガ愛好会 (198) ジェイムズ・ディーンのこと (普通部OB 舩津於菟彦)

主演映画はたった3作。1955年 映画「エデンの東」。「理由なき反抗」。大作「ジャイアンツ」1956年。わずか1年のスターダムだったにも関わらず、現在もジェームズ・ディーンが好んで履いていたジーンズが復刻されるなど圧倒的な人気を誇る伝説のスターである。「ジャイアンツ」の撮影終了から1週間後の1955年9月30日。午後5時59分、カリフォルニア州コレーム近郊の州道46号線と41号線の東側の分岐点で、横から出てきた大学生のフォードと時速135キロで衝突し、ディーンは即死した。

本名ジェームズ・バイロン・ディーン1931年2月8日~1955年9月30日はアメリカの俳優 身長175cmジミー・ディーンとも呼ばれた。インディアナ州マリオンで生まれる。9歳の時に母が病気になり農場を営む姉夫婦に彼を預け育てられた

18歳の時に州政府主催のスピーチ・コンテストでディケンズを朗読し優勝。卒業後、ロサンゼルスのカリフォルニア大学UCLA演劇科に進んだ。俳優業の修行の為大学を中退してニューヨークに移った。

1952年、レストランのアルバイトで生計を立てる一方、ディーンは名門演劇学校アクターズ・スタジオに応募者1000人、150倍という凄まじい競争率を突破して、歴代最年少の21歳で入学したディーンだがスゴ腕の女性エージェントに実力を高く評価され、彼女がテレビ界に売り込んでくれた。1954年23歳にブロードウェーの「背徳者」で若きアラビア人・同性愛者を演じて喝采を受けた。

ディーンは各種新人賞に輝き、その天賦の才に驚いた脚本家ポール・オズボーンは、自身が脚色を手掛ける新作「エデンの東」の主役にディーンを推薦した。「ジミーは私の演出でキャルを演じたのではなく、ジミー自身がキャルそのものだった」(エリア・カザン)。初出演の長編でアカデミー賞にノミネートされたのはディーンを含めて5人しかいない。
ニコラス・レイ監督は「エデンの東」を撮影中のディーンの演技に感動し、彼を主役にした映画を撮るために「理由なき反抗」の原案を自ら執筆。この作品でもディーンは等身大の苦悩するティーンエイジャーを演じ、1950年代の若者たちの象徴となった。
①「エデンの東」
一番だと思う。監督のエリアカザンが素晴らしい。1954年23歳にブロードウェーの「背徳者」で若きアラビア人・同性愛者を演じて喝采を受けた。

ディーンは各種新人賞に輝き、その天賦の才に驚いた脚本家ポール・オズボーンは、自身が脚色を手掛ける新作「エデンの東」の主役にディーンを推薦した。

原作はジョン・スタインベックの同名小説で、その後半部分をポール・オズボーンが脚色した。
1955年 映画「エデンの東」が完成し、映画では父親の愛に飢え苦しむ繊細な息子を鮮烈に演じきった。父母との愛。兄弟の愛。キリスト教徒でなくても感じる「愛」の映画だ。旧約聖書のカインとアベルをモチーフにして扱っているとおり、キャル(カイン)は兄、アーロン(アベル)は弟、とするのが正しい。しかし映画公開後、日本語文化圏ではキャルを弟、アーロンを兄として翻訳されている。原文では「お互い名前で呼び合う」「ブラザー(兄・弟の区別はない)と語る」「ふたりは双子である」ということを考慮して、字幕を訳し直した太田直子は、「兄・弟の区別を一切つけなかった」としている。
キャル役は観客に大きなインパクトを与え、アカデミー最優秀主演男優賞にノミネートされる。
②「理由なき反抗」
ジェームズ・ディーンの「ひねくれモン」の性格を最も強調された映画だ。あの下から見上げる様な「愁い在る顔」彼しか出来ない演技。
そしてプレイトウ少年(サル・ミネオ)の好演が光る。最後がどうも納得いかないなぁ。
③「ジャイアンツ」
保屋野さんの曰く:
ストーリーも面白かったけど、やはりE・テーラーの美しさが際立つ作品ですね。もちろん、R・ハドソンやJ・ディーン等の脇役も魅力的でした。
そして、あの主題歌とラストの名曲「テキサスの黄色いバラ」も良かった。
主題歌は確か小坂和也が「山よ谷よ・・・」と歌ってましたね。
「幸せは金で買えない」のは事実ですが、「金は幸せの大きな手段」というのも事実、まあ、何事も「ほどほど」なのが一番ということでしょうか。
保屋野さんご指摘の通りエリザベステーラーの映画だ。しかし、「ひねくれモン」ジェームズ・ディーンも負けては居ないが後半やや捻くれすぎては。保屋野さんご指摘の「お金では買えない物がある」からか。女流作家エドナ・ファーバーが12年の歳月をかけ執筆したベストセラー小説を映画化した大河ドラマである。
ドラマの中心となるベネディクト家は、移り行くテキサスを映す鏡である。監督のジョージ・スティーヴンスは、その日常的な細部を克明に悠然たるテンポの演出で描くことによって、雄大なテキサスのエピックを完成しようとした。リアリズムを基調として、澎湃たるテキサスの発達史を描きだそうとしたわけで、野心的な試みである。また、女性の自立の問題や人種問題など、21世紀になった現在でも直面している問題に対して、先駆的な問題意識を観客に届けている。
1955年9月30日。ディーンは銀色のポルシェ550スパイダー、ポルシェ初の市販レーシングカーでカリフォルニア州サリナスで行われるレースに向かった。彼自身、半年前に西海岸パーム・スプリングのレースで2位に入賞している。この新車は当初トレーラーで運搬される予定だったが、ディーンが慣らし運転をする為自らハンドルを握った。
夕刻、速度違反で切符を切られたが、その後も疾走は続いた。そして2時間後の午後5時59分、カリフォルニア州コレーム近郊の州道46号線と41号線の東側の分岐点で、横から出てきた大学生のフォードと時速135キロで衝突し、ディーンは即死、同乗者自動車整備士ラルフ・ウッタリックは車外に投げ出され、骨折したものの生命に別状はなく、大学生も軽傷だった。ディーンは故郷フェアマウントの公園墓地に埋葬された。
死後、「理由なき反抗」「ジャイアンツ」が公開され、人々は若き名優の夭折を惜しんだ。ディーンは「ジャイアンツ」でもアカデミー賞にノミネートされた。
「エデンの東」「ジャイアンツ」と、没後2年連続してノミネートされたのは、ハリウッドの歴史上ディーンただ1人である。

後年、事故現場には「James Dean 1931 Feb 8 – 1955 September 30 PM5:59 ∞」の字が刻まれたモニュメントが建てられた。彼が残した言葉として、「優しさこそ、ほんとうの強さだ」、「永遠に生きるつもりで夢を抱け。今日死ぬつもりで生きろ」などがある。

日本人でジェームズ・ディーンの関連の資料などの収集家として世界的に大西清太氏は神戸の実業家は、世界のオークションなどで彼の記念的な写真などを収集し、コレクターとして世界でも有名だったが、最終的に「アメリカで生まれたものは、アメリカに戻す」として、現地の博物館などに寄贈し、さらに自費で、世界的な彫刻家水井康雄にジェームズ・ディーンの記念碑として150トンの巨大作品(13m x 4,5 x 1.2m)の彫刻壁「希望の壁」を制作依頼した。
(グーグルより転載ー希望の壁)
1985年(昭和60年)ハリウッド映画界の神話と言われたジェームズ・ディーンのファンの大西清太が、アメリカの事故現場カリフォルニアのコレームにメモリアル彫刻を設置する意向で、《希望の壁》Le mur de l’espoir を依頼した。 水井は、3年間にわたって現地にも足を運び準備を進め、水井の住まいであるフランスのラコストの石灰岩を使用し、150トンの巨大作品(13m x 4,5 x 1.2)として完成したが、現地の土地の所有者との折り合いが最終的につかず、現地設置には至らなかった。本作には、ディーンの死は多くのファンを悲しませた絶望であったが、残された彼の映画作品がその絶望を開くという意味がこめられている。裏側には往時のディーンの顔が彫刻されている。作品は2006年(平成18年)ディーンの事故死から51年後に、水井の住まいであるラコストの庭に野外設置という形でおさまっている。