緊急事態解除後の行動について   (34 船曳孝彦)

緊急事態宣言が解除されました。これで新型コロナウィルス感染症を克服できたのでしょうか。WHOまでがJapan Miracle などと言ってくれていますが、正しくはAsia Miracle であって、まだまだ多数の感染者、死者の出ている国が多い中、西太平洋地域の各国は死亡率を抑えて峠を越えたようです。

日本のコロナ対策は正しかったのでしょうか。Oxfordからも、甘すぎたと指摘されています。パンデミックという事態を想定しきれず、水際で何とか抑え込めるという作戦で、感染者から二次感染者へと追いかけ、保健所・帰国者センターという関門一つに絞り込んで管理しようとしてきたのです。PCR検査を制限したのもそのためでしょう。感染が峠に差し掛かるようになって、やっと民間からの力でPCR検査を広げる方向に向かいましたが、Faxによる手計算で、官尊民卑のデータ扱いですので、正確な統一データとはなっていません。検査数という分母が分からないまま分子の数だけ発表されていますので、陽性率、死亡率も分からないままです。コロナか否か不明のまま死亡した人が、国家統計の肺炎・インフルエンザ死亡に加わっています(専門的には超過死亡)。

ともあれ、一応緊急事態は終了しました。今後の感染リスクをどのように考えるべきでしょうか。繰り返し発信してきましたように、PCR検査を受けるべくして受けなかった人がゴマンといる訳ですから、手洗い、うがい、3密を避けるなどの注意は当分守った方が良いと思われます。明るいニュースとしては、感染者からの感染力は発症から1週以内でなくなる(ゼロと言い切れないまでも)という報告も出てきました。何時かは感染しなくなるのは分かっていましたが、意外に早く感染者の体内で抗体が出来た(科学的症名はまだですが)と見てもよいかと思います。無症状ないし軽症感染者にも抗体が出来ますので、多くの人(およそ7~8割)が抗体を持った時、医学的には集団免疫と呼ばれる状態となり、ウィルス感染の終息を迎えることとなります。

そこへ第2波、第3波という問題が起こります。ウィルスは非常に突然変異を起こしやすい性格を持っています。新型コロナウィルスは、RNA分析で、すでに2000以上の型に変異していると言われています。大きく分けてアジア西太平洋型、ヨーロッパ型、アメリカ東海岸型、アメリカ西海岸型と四つに変異し、それぞれ感染力、悪性度が異なっており、日本はじめ西太平洋はこれで救われたと見ることもできます。すなわちヨーロッパで感染爆発した時がすでに第2波だったのかもしれません(科学者は誰もそういっていませんが)。通常、感染が収まって暫くしてから再感染ブームが起こるのを第2波と言っており、本疾患は肺炎ですから、秋、冬に襲って来るのではと心配されています。第2波が強い悪性度を持っていないことを祈り、体力をつけて立ち向かいましょう。その時はPCR検査を始め、国の対応が改まっていない限り、国際的な信用も失い、東京オリンピックも消えてしまうでしょう。

さて解除後のわれわれワンダラーの行動ですが、ハイキング、ゴルフ、サイクリングなどは大いにやりましょう。すし詰めの山小屋泊まりはお勧めしません。都県境制限は、私見としてはあまり意味のないことと思います。その他タウン生活は上記のような一般的注意を守って、良識ある行動をしましょう。

ついでながら、元教育者としていうならば、学校は可及的速やかに再開すべきです。高学年生徒はともかく、低学年生にオンライン授業で教育とは言えません。先生と接して初めて教育と言えます。さらに受験生は大変なハンディです。高校野球を始め、体育部の学生は可哀想に、生涯進むべき道すら変わってくる可能性大です。学校での集団感染の報告もないので一斉休校そのものが必要なかったと思いますし、休校によるデメリットが全く議論されていないのも不満です。大急ぎで失われた3か月半を取り戻すべきです。夏休み半減、土曜日授業、不足教員は定年退職者などで補えます。この際にと、9月入学制度への転換も議論されています。2、3月時点での議論なら可能性あったかもしれませんが、ものすごく多方面、膨大な問題点が待っていますので、拙速な判断は避けるべきでしょう。

さあ、爽やかな空気に触れて、元気をとり戻しましょう。

Double Cross について   (44 安田耕太郎)

昔から狩猟民族にとっては、当然ながら獲物や敵についての情報が, 生死を決めかねない最も重要な鍵を握る。いわば扇の要だ。農耕民族である我が日本は、さて情報の重要性を充分に認識し、且つ運用しているであろうか?その昔、太平洋戦争で山本五十六がブーゲンビリア島で撃墜されたのもアメリカに暗号を解読されていたのが大きな理由。映画にもなった2013年の元CIA職員エドワード・スノーデン事件は、アメリカ政府による個人情報監視の実態を暴いた。ロシアへ亡命した元CIA職員エドワード・スノーデンの実話をイギリスのガーディアン誌が報じたスクープにより、アメリカ政府が秘密裏に構築した国際的監視プログラムの存在が発覚した。世界の政界著名人の電話盗聴などに驚愕させられた。情報は昔も、現在も、更に将来もその致命的重要性が減じるどころが増し続けていくのは確実であろう。
その昔ヒトラーが第一次大戦の戦場で伝令兵として奮闘し、下級兵士では通常もらえぬ一級鉄十字勲章をもらい誇らしげに掲げているを不思議に思ったことがある。イギリス映画「1917 命をかけた伝令」はまさにその伝令兵の活躍と情報の重要性を描いたもので、映画を観てヒトラーの勲章受賞が納得できた。題名通り、時は1917年、舞台は第一次世界大戦中の激戦地西部戦線。膠着状態の戦線でドイツ軍がわざと撤退して連合軍側をおびき寄せ一挙にせん滅する作戦を実行に移すところで、連合軍もその意図を察知。しかし、前線の部隊へは電話線を切られ無線も使えず連絡する手立ては兵士を走らせて伝える以外に方法はない。その決死のミッションを与えられた若き二人のイギリス兵士の一日を描くドラマです。100年前の戦争の戦場がどんな具合だったのか、塹壕での生活の厳しさと危険性などが良く理解できる、情報の重要性を再認識させられる実話に基づく映画であった。

Sneak Preview (2) (44 安田耕太郎)

(前略)

断念せざるを得なかったアラスカ蟹工船仕事とは別に、日本出発前に資金調達の切り札として詳しく下調べをしていた、稼ぎの良い植木屋仕事を始め、ある有名な日系gardener (植木屋) に雇われた。日系アメリカ人が経営する、ロス市内中心地に近い植木屋の助手が多く住む寄宿舎のようなアパートに宿を定め、腰を据えて資金稼ぎ仕事に専念することとなった。

日本と異なり広い芝生の庭を持つ邸宅の芝刈りが主たる仕事だ。スプリンクラー(sprinkler)と呼ばれる自動散水機による充分な水の供給とカリフォルニアの陽光で芝生の成長は早い。週一回のローテーションで顧客の家を回ってlawn mowerという芝刈り機で刈りとった。一日に数軒ずつ訪れ、毎週繰り返した。
機械は結構なサイズで重く最初は取り扱いに難儀した。伸びた芝の中にスプリンクラーが数メールおきに隠れていて、集中力を欠くと、前へ前へと進む芝刈り機の回転し続ける刃で切り飛ばすことになりかねない。結果は悲惨で突然芝生の絨毯から噴水が吹き上がることになる。

後処理が大問題だ。スプリンカー交換には50センチ四方の穴を結構な深さまで掘り、部品を取り換える。芝生は剥がれ醜いこと甚だしい。弁償したうえで解雇される。また、ドライブとブレーキを巧みに操作しなければ、機械が暴走して運が悪ければプールに飛び込むことにもなりかねない。実際、スプリンカー切断とプールへ芝刈り機がダイビングした事故例を聞いていたが、幸い事故には遭わなかった。

刈り取った水分をたっぷり含む芝生は、機械に備え付けたバケツのような入れ物にすぐたまる。これが重く、捨てる場所まで運ぶのが一番負担のかかる作業であった。何せ庭が広く持ち運ぶ距離が長いのだ。
植木屋の仕事も日米で天と地ほどの違いがあった。日本では植木屋の助手などにとても雇われる技術も経験もない素人が、この肉体労働に朝7時から夕方まで、週6日間励んだ。慣れてくると能率もあがり、仕事は順調に進んだ。そんな折、思いもしない事故に遭った。

仕事帰り交差点で信号待ちをしていた植木屋の車が追突されたのだ。助手席に乗っていて首に軽いむち打ち症を感じた。雇い主が紹介してくれた交通事故専門の弁護士を訪ねた。病院での診断結果もむち打ち症。診断書を発行してもらう。 日本では治療費の弁償で片が付くくらいの軽傷であったが、そこは訴訟社会のアメリカ。雇い主も弁護士も慰謝料を請求すべきだとアドバイスというより強く主張した。その間仕事は休まず続けていた。

観光で滞在している身分で一番心配したのは、怪我のことでも慰謝料の額のことでもなく、滞在の理由とどういう状況で事故に遭ったのかなど、やってはいけない仕事をしている事実が暴露されかねない質問と事情聴取を相手の弁護士から受けはしないかということであった。法的決着がつくまで2~3か月かかったと記憶するが、その間ひやひやして日々過ごしたのを覚えている。よく理解できない英語で専門外の法律・医学関連の折衝を一人で行えたのは今から思い出しても奇跡としかいえない。辞書を片手に片言で相手の弁護士と交渉したのである。

結果として数千ドルを手に入れた。日本の大卒初任給の数年分に相当する大金だ。「人間万事塞翁が馬」ではないが、人生何が起こるかわからないということ、そして実際対処してみないと結果はわからないということを学んだ。訴訟社会のアメリカの現実の一端も垣間見た。

植木屋助手仕事の稼ぎの良さには、嬉しさを通り越して本当に驚いた。日米の富の格差に愕然としたものだ。今から振り返れば途轍もなく危なっかしい資金調達方法であったのだが、運にも恵まれた。アラスカ就職失敗を経て怪我の功名に救われた。もちろん交通事故慰謝料も大いなる予期せぬボーナス財源となって、併せると充分な資金を手にすることができた。

そんな折、ある有名俳優宅の芝生刈り仕事をすることとなった。「ルート66」「サンセット77」は1950年代後半から60年代にかけて大人気のテレビ番組。劣らず人気を博したのが西部劇 「ララミー牧場」であった。今では名優・監督として有名な若きクリント・イーストウッド出演の「ローハイド」と双璧で西部劇テレビドラマ人気を分け合っていた。

主演のジェス役ロバート・フラーが来日した際の熱気は凄まじく、日本中を虜にした。当時の総理大臣池田勇人に招かれるなど、あのビートルズでさえ受けなかった厚遇振りが話題となったほどだ。戦後15年以上を経て高度成長期にさしかかる日本の上昇気流を感じさせる社会現象でもあったのだろう。そのフラー家の芝刈りをやったのだ。

勿論、事前には知らず、立派な庭の邸宅だな!くらいの気持ちで芝刈りを始めた。ランチのコーヒーを美しい女性が持ってきてくれて雑談になった。「私の夫は映画の仕事で日本に行ったことがあり、とても日本好き。日本でも知られているのじゃあないかしら」と驚きの発言。すかさず尋ねた「夫の名前は?」。ロバート・フラーでテレビ映画ララミー牧場のジェス役と答えが帰ってきてビックリ仰天!以後、フラー家に行くのが楽しみとなった。思わぬ巡り合わせである。

洗足池あたりのこと   (43  中川芳子)

(町井かをる あて)

カボちゃん!すごーい!

洗足池のカルガモ親子の写真を撮って送信したいのですが、携帯の写真をPCに取り込めなくて残念です。 

  軽鳬の子を先に行かせて遊ばせて    望子

(堀川義夫)

中川芳子さんんが洗足池で撮った画像と映像を代行して送ります。

(37 杉本光祥)

我々がコロナ自粛をしているうちに、カルガモはもうこんなに育っているのですね。揃っての無事成長を祈るのみです。

コロナの世軽鳧(かる)の一家の末祈る 光祥

いい句を沢山作り続けてください。

(37 菅谷国雄)

カルガモ親子の動画を見ました。
洗足池は学生時代まで緑が丘に住んでいたので私のホームグランド、懐かしく拝見しました。

それにしても俳句の世界、カルガモを軽鳬と詠むのですね。
辞書で「鳬」を探して納得です。

(43 猪股博康)

洗足池懐かしいです。
洗足池のボートによくのりにきました。
今年3月に亡くなった従弟が、博康兄ちゃん(私のこと)と散歩し
その後ボートに乗るというのがとても楽しかったと言っていたこと
思い出しました。ちなみに、実家は小池小学校近くにありました。

そのような記憶があったので、日吉に住んでいた頃に、孫が遊びに
きた時、車で洗足池まできて、ボートにのせてあげてあげました。
彼らにも思い出として残ることでしょう。
池の畔にある中学校で、2年の時、同じクラスでしたね。洗足池に
殊の外思い出を感じます。

こんな鬱陶しいときに、カルガモの愛らしい写真を送っていただき
楽しい思い出をよみがえらせてもらいました。ありがとうございます。

 

(編集子)小生、昭和21年6月に満州から引き上げ、しばらく伯母の所に寄寓後、22年12月から大田区立赤松小学校に入学した。大井町線北千束駅前、というより、本件の発信者もうここと中川芳子の姉上、立川おちえご自宅の真ん前にある、ま、小学校でいえば ”名門”、である。なんたって(在学時の)校歌に ”池は洗足水かがみ” ”花はあけぼの桜山” とあるくらいだし、トーゼン、洗足池あたりではよくあそんだものだ。本件を通じてはじめて菅谷・猪俣両兄と洗足のつながりを知った。ヤブの方は少し年が離れているが、おじいとはどっかですれ違っていたかもしれないと思えば愉快である。もうこのご自宅は大岡山と聞くが、赤松在学中自宅は旧住所で言えば目黒区宮ヶ丘、いまは環状7号にかき消されてしまったあたりに住んでいて、大岡山は毎日のように通っていた。そういう意味でも懐かしい。ヤブともうこ、ひょっとして六中?

新型コロナウィルス感染症緊急事態宣言解除にあたって  (34 船曳孝彦)

大方の予想通り、一部解除と決まりました。世の中、解除ブームに乗って、一気に街に繰り出すような気配に心配しております。日本は無症状感染者が多いと思われますので、第2波の感染爆発を怖れます。友人の科学者からのメールが来ましたので、それも踏まえて書きます。

コロナ対策の厳しさはOxford大学で点数化して評価していますが、それによるとSweden,Singapoleに次いで下から3番目です。大甘と言えます。私は2,3月時点から、このPCR検査低施行率が続けば、ある日感染爆発が起こり、やがて集団免疫獲得が早く到来するのを意図的に待っているのではないかと勘繰っていました。Swedenが大きな犠牲を払いつつ、はっきりした集団免疫獲得政策として対処していることは、今回友人から学びました。

友人も最近の驚くべき四つのニュースと言っています。①コロナの報告がファックスでなされていたこと ②PCR検査が行政検査であったこと ③37.5℃以上4日間の基準は誤解であったとのこと ④感染者は10倍、20倍、30倍いるかもという専門家会議副議長の国会での発言です。

厚労省健康局結核感染課から各都道府県、保健所設置市、特別区あてに出された『ウィルス行政検査について』、および『新型コロナウィルス感染症に関する行政検査依頼』なるものを読みますと、37.5℃発熱かつ濃厚接触者、発熱かつ渡航歴、発熱かつ入院を擁する肺炎症状、医師が疑わしいと診断した患者に対し、季節インフルエンザ検査で陰性なものに対して検査を行うと明記され、地方衛生研究所において実施不可能な時は、公印付きの依頼書とともに直接国立感染症研究所に送付すると書かれ、輸送にあたっての責任者、容器なども厳重に規定されています。とにかく検査を絞り込むことに重点を置いた対応としか思えません。しかも発熱などを誤解ですという神経は許せません。

感染者数は現公表数よりはるかに多い(私の印象では一桁違い)のではないかと思っていますが、専門家会議副議長の立場の人が、しかも国会で10~30倍という発言には驚かされました。立場というものがあります。海外で驚きを持って報じられました。とにかくPCR検査数が他国と比べて2桁も違っては検討に値しないと相手にされなくとも致し方ありません。しかもそのデータの扱いが、FAXであったり、判定日だったり、保健所・地方衛生試験所以外の大学、研究所、病院で独自に検査した数値は加算されていないなど、どうしようもない体たらくとしか言えません。陽性者は感染法に基づき報告し統計されているでしょうが、陰性者は検査数に反映されるようになったのでしょうか。先日の報告ミスがあったという訂正発表は、実はこの陽性者を加えた変更ではなかったかと思います。

保健所の施設数(半減)、人員、予算全て削減しておいて、今回のコロナ対策を、全て保健所を通すような仕組みで対応させようとは、信じがたい政治です。公的病院の併合によるベッド数削減案(コロナ禍で一時延期)にせよ、国立大学の経費削減にしても、利益、経済効率を追求するのが新自由主義であり、これを国の政治基本としていることに諸弊害の根源があると思います。世界でも問題が多発し、新自由主義、これに基づくグローバリズムが崩壊してきているというのに、日本はまだ固持し続けていることに、切歯扼腕しています。

嘆かわしく、まさに日本沈没の危機に瀕しているように感じています。二流国どころか三流国、発展途上国(高度な医療レベルは持っているという自負はまだ捨てていませんので)でなく後退している後進国になってしまいます。

無症状感染者が多いことから、東京の緊急事態宣言解除の日はまだまだ先のことになると思います。

自分だけは大丈夫という信念みたいなもの(これを正常性バイアスというのだそうです)は全く根拠ありません。すべての人がコロナウィルスレセプターACEⅡを持っているのです。クワバラクワバラ

皆さん、くれぐれもご自愛のほどを祈念しております。

 

月いちメンバー家に籠る (25)  (38 町井かをる)

月2回のドイツ語授業がオンラインレッスンになりました!
スマホを持っていないガラケイ人間ですし、5月に入って80歳になってしまった私がオンラインレッスンなんて、まだ信じられません。
勿論、最初の設定は娘がしてくれましたが、8日のお試しレッスンで私の顔が映ったり、チャットをしたり、グループ分けをされたり、ミュートにしたり、解除したり…をあちこちクリックして、どうにかついてゆけました。
三田会費を登望会員から集める仕事も始まりますので、自粛生活は忙しくなりそうです。
(編集子)やってますね。僕も個人教授で足掛け4年位、ドイツ人(日本女性と結婚、永住することを考えているような人です)にレッスンをしてもらっています(ここしばらくにくきコロナのため中止)。なんせ、記憶能力の減退を嘆くばかりです。

”政府対応”記事について     (HPOB 菅井康二)

国際比較に使える唯一の指標「超過死亡」で明らかになる実態

COVID-19パンデミックに対する我が国の対応策に対してPCR検査数がOECD諸国中では最低水準で諸外国からはまるでこれもガラパゴス化?かと言われ放題の状態でありますが、興味深い記事を見つけましたのでご紹介させていただきます。あえて私の余計な補足は致しませんので記事をじっくりとお読みくだされば幸いです。

https://bit.ly/3clROnE

あくまでも私見ではありますが早期の沈静化を図るには誤差があるとしても感染者と非感染者を識別するPCR検査の数を劇的に増やす方策を考え出すことが必要だと思われます。そして感染者を徹底的に隔離する。さもないと経済というよりは社会のシステム自体が崩壊してしまいます。

本を出版します   (44 安田耕太郎)

まもなく世界一周放浪記を自費出版する予定です。

半世紀以上前の学生時代に2年間に亘って東廻りで世界一周の旅をしました。
健康面の相談をS34 船曳先生にしました。盲腸は切って行った方が良いでしょうか、の質問に笑って一言「何を馬鹿なことを」。太平洋を貨物船で横断しましたが、往復切符を持たぬ出国で当時必要だったアメリカビザの獲得をS38大岡先輩に助けて頂きました

アメリカ入国後、カリフォルニア州パロアルトに赴任しておられた、それまでに面識のなかったS36中司ご夫妻宅に泊めて頂きました。KWVの活動経験から勇気をもらい、諸先輩方々の助けをいただき世界一周放浪の旅を終えることが出来ました。自費出版につきましてもS36「ナンカナイ会そのふみあと」本の製本出版に携わったH7田所君をジャイさんに紹介していただき、上梓に向けて尽力していただいています。KWVに所属してなければ、旅も出版もありませんでした。

5大陸50数ヵ国訪問の旅は1968〜70年、21〜23歳の時期でした。
旅行記は、文章24万字、足跡を示す地図20数枚、写真数十枚を含め600頁を超す長文となりました。前書きと目次に続く最初の書き出し部分をご参考までに下記の通りご紹介します。コロナ禍の影響で上梓は予定より大幅に遅れ今夏になる見込みです

世界一周に付き合ったリュックサック

1.  旅のはじまり
1969年11月、僕はジブラルタル海峡を渡るカーフェリーの船上にいた。日本を発ってからすでに1年半が経過していた。横浜港から貨物船に乗り込み、14日間かけてアメリカのウイルミントンに上陸し、旅の第一歩を踏み出したのが遠い昔のように思えた。あれからどれだけの足跡を残してきたのだろうか。
アメリカでの旅費稼ぎの日々、憧れのルート66、中南米15ヵ国踏破、犬と登った5400mアンデス峰、南米フィヨルド海域の軍艦乗船、ヨーロッパ最北端ノースケープの白夜、東西冷戦の象徴東ベルリンの壁でのあわやの危機など、日本では決して味わえない経験をしてきた。そして今、未踏の地であるアフリカ大陸に向けて僕を乗せた船は白浪を立てていた。
出港地アルヘシラスから対岸のセウタへはわずか2時間ほどの船旅だ。しかし、僕に旅の思い出をゆっくりと振り返る暇はなかった。フェリー内で僕はある「仕事」をしなければならなかったからだ。それは、これから向かうモロッコを旅する人の車をゲットすることだった。

ジブラルタルのザ・ロック(The Rock)。別名ヘラクレスの柱(Pillar of Hercules)ともいう。

僕はフェリー乗船直後から車で旅する人とできるだけ会話をした。そして、ドイツ人男性とアメリ人女性のカップルが大きなベンツでモロッコを一週間旅することを聞き出し、親しくなることができた。会話に夢中になるあまり、カーフェリーの船内からジブラルタルの「The Rock」の景観を見逃したほどだ。それから一週間、日・独・米の奇妙な組み合わせでモロッコを旅することとなった。
不安を抱いてフェリーに乗り込んだが、フェリーから下船する際にはベンツの後部座席に陣取っている・・・。これまでに幾度もあった旅の面白さの一端がここに凝縮されているように思える。このような幸運に恵まれるのもこれまでの旅で培われた多くの経験によるものだ。そもそもなぜ僕が世界一周へと旅立ったのか。まず旅の始まりから記したい。

モロッコでベンツ車ヒッチハイク。道端でランチピクニック。

WANTED ! 古き友 楽譜   (36 後藤三郎)

ウイルス騒ぎで時間もたっぷりあるので以前から気になっていた慶応ワンダーフォーゲルが間違って歌っている ”古き友” についてブログに載せて各位にこの際正しい楽譜から皆さんにお知らせしようと思って楽譜をネットで探しましたが見つかりません。

実はこの件は7-8年前に山岳部の友人から指摘を受けて森田半兵衛さんと一緒に正しい歌い方を何回かの集まる機会で試みましたが長年歌ってきた癖を簡単に修正できずで爾来半ば諦めています。御存じでしょうがこの歌は慶応の山岳部の”創部XX年記念”にスイスからこの歌を頂いて来たとの歴史があり、山岳部の連中はワンダーでこの歌を歌うこと自体は問題ないがメロデーが間違って歌っているので出来れば楽譜を見て修正して欲しいと言われております。

今回は時間も皆さんがあると思うので譜面を見ながら間違っている個所を直せればと思う次第です。誰かこの歌の楽譜を保有している人がいたらブログにアップしてください。

 

(編集子注)確か、何年か前のスキー合宿だったか忘年会だったかで、山岳部にも縁のあった寺田捨巳が正調を披露して、練習した記憶がある。サブには悪いが、俺には確か美しの新人歓迎の時だったと思うが、初めて聞いたときの感動がまだ残っていて、不正調から離れられないきがするんだが。なんたってその方が俺にとっての古き友なんでね。スミマセン。

月一メンバー 家に籠る (24)   (36年組まとめて面倒見よう)

(深谷勝)

ご無沙汰です。小生の日課は、朝5時半起床、犬の散歩30分~1時間(犬のご機嫌により)、午前中は家の掃除、洗濯たまに庭の雑草取り、午後は、近くを流れる「古利根川」の土手を往復約1時間ウオーキング(歩数で7000~8000歩)という生活です。

犬の散歩を含めると毎日1万歩は歩いております。ゴールデンウイークに入り、土手も家族連れのサイクリングが増えてきました。明日、庭の芝刈りを予定しています。最近、PCのジグソーパズルを見つけ、いまハマっています。

(遠藤夫士男)

2月イタリア北部3泊、ミュンヘン2泊後3月 2日に帰国してから82歳の歳と合わせて周囲に特別の関心を持たれ続けた2か月でした。当初「海外旅行者は要注意人物」で肩身の狭い1~2週間でしたが、最近は「2週間以内の渡航歴」と捜査対象から外れました。帰国後2か月、体温36度5分、血中酸素98%前後で安定しています。ただ、毎日の生活態度はお恥かしい限りの体たらくです。「月一」社中各位のメールを拝見するにつけ、反省するばかりです。

昼間から深夜までTVやPCを友とし1万歩以上の散歩は週に1~2回程度、電車やバスは全くご無沙汰です。これから鎌倉へ墓参りに行ってきますが、怖い東京は湾岸道路で素通りし、県外者(車)お断りの鎌倉には朝日奈峠からこっそり入ります。ほんとに「もう収まってもいいコロナ」。

(翠川コメント)イタリア旅行、お疲れ様でした。今の私から見れば貴兄は宇宙人のような存在ですな。今日は紀子と家から武蔵関公園まで11,000歩、歩いて来ました。帰りに「いなげや」で一寸(夕食準備の)買い物。

(高橋良子)

私は12年ぶりにゆったりとした日々を送っております。24時間を自由気儘に自分ために使うことができるなんて、こんな幸せなことがありましょうか。健康と日々の糧も少々ありますしね。

ここ机の前に座ってばかりいましたので、腰痛がでてしまいましたから、近所の整骨院へいきました。これは運動不足もあるでしょうからと思い、2,3日前から近隣をあてどもなくぶらぶらりと探索を、それでも毎回6000歩ばかり歩きました。最近は少住宅が増え地域の様子も変わってしまいました。少住宅の連なりにはいつの間にか地主さんが御殿のような邸宅を建てていました。また他所では庭にプールがあるお屋敷を発見しました。ここはネリマですよ!もうなんだかゴチャゴチャになってきたものだ…と驚きつつ我が陋屋に帰ってきました。

(翠川コメント)長距離ウオーキングをご苦労様でした。殆ど平地でアップダウンが少ないでしょうし、一万歩は歩けますよキット。

私が保谷へ引っ越して来た20年前でも、大泉通が環八と交差する近くに潰れそうな茅葺屋根の農家(空き家だったと思う)がありましたから、矢張り練馬にはダイコンが自慢の農村地帯の名残が残っていました。直ぐ近くの練馬区春日町3丁目に姉達が2軒並んで住んでおります。

「我が陋屋」の「陋」と言う漢字は私のパソコンの変換では出て来ません。
IBMの漢字コード一覧表でやっと見付け入力出来ました(JIS07991でした)。

(鮫島浩吉郎)

3月には医者通い以外はすべて予定がキャンセル。散歩、庭いじり、散歩で過ごしていました。しかし、今は医者は電話で診断、処方箋が郵送され、買い物は娘が代行、散歩も合う人が多く控えめとさらに運動不足になっております。
我慢しかありません。早く終息を願っておりますが、日本は規制が緩やかで大丈夫かと思う毎日です。

(吉牟田正稔)

皆さんと同じく何とか体力が落ちないように 早朝に散歩を心がけてます。
でも本当に退屈ですね。
娘家族と二所帯生活しているがコロナ騒動により娘夫婦が二人とも自宅で
仕事する日が多くなり孫二人も家でブラブラしているので今まであまり気に
していなかったが色々大変です。

パチンコ屋を含め賑わっていた下北沢も1週間前位からさすがに人の流れが
がらりと変わりました。

(岡秀雄)

私の最近の田舎生活は下記の様にして過ごしております。ただし体力・気力・知力の衰えは激しく思うようにはすべて進みません。

元気にしておりますが、テニスクラブも一月前に閉鎖状態になり(時々は32年の荻原先輩夫妻とテニスやティータイムで楽しんでいた)、行く所が減りまして運動不足の状態です。またガラ携帯からiphoneに2月末より変えたので、pcとの関係もあり、てんてこ舞いの日々を過ごしております。

施設(サンシティ)では絶対に感染が無いよう厳しく外部との遮断をしておりますので、外部の人は親子でも避けさせ、内部の人は外出は出来るだけ避ける様にし、外出届を出し帰館時には体温測定と大変面倒になっております。勿論外部業者達の館内立ち入りは原則不可です。

秦野市は田舎なのでコロナ騒動も人口17万弱で感染者は12名のようでして、私は出来るだけ自然の中を散歩していますが、人とは会わない道を通りますし行き交う時も距離はありますので、マスクも不要で生活しております。

マスクは買物に行く時スーパーやコンビニの店内のみ使用します、平日は空いていますのでほとんど無くても大丈夫だとは思いますが、今後はサブの投稿してくれた「コロナ対策・必要な基礎知識」で現金払いは止めようと思います。時間に余裕がある毎日なので運動不足対策として、コロナ対策で新聞が部屋まで配達されないで施設の玄関脇の個人用ポスト迄取に行くようになっているので、毎朝新聞を取りながら館内ウオークを始めました、1号館は8階、2号館は7階、3号館は6階で階段を上り下りして端から端まで歩いて来ると階段上下共350段強で所要時間20~30分、歩数で約3千歩をはじめました。他には天気が良い日は自然の中良い空気吸いながら良い景色を眺め2時間前後歩く生活も続けるようにします。元気にして抵抗力を弱めぬようにはしたいと思い努力しております。