ミス冒愛好会 (12)   ”レベッカへの鍵” を思い出した

”レベッカ“ という懐かしい映画をBSの放送で見ることがあった。映画そのもののことは別として、思い出したのが ”レベッカへの鍵“ という小説である。著者は日本では ”針の眼“ という作品で有名になった、イギリスの冒険小説作家、ケン・フォレット。最近は冒険小説、というジャンルには整理しきれない多くの作品を発表している。小生は最近のものは全く読んでいないので多くを語ることはできないが、初期の ”トリプル“ ”獅子とともに横たわれ“ ”ペテルブルグから来た男“ ”コード トウ ゼロ“ あたりは一応読んだ。ここでは”レベッカへの鍵“ という一作品を思い出したことについて書く。

この作品は第二次大戦の裏側でのスパイ活動をテーマにしたもので、ストーリーや出来栄えについてはあまり言うことはないが、スパイが用いる暗号の解読のキーが ”レベッカ“ という小説の中に隠されている、というのが面白かった。この小説の存在が出版元のイギリスだけでなく、ドイツでも有名になっていなければこのストーリーが成り立たないからである。デュ・モ―リェのこの本の出版は1938年であり、英独の間はすでに戦争状態にあったから、この前提は正しい。しかし敵国である英国の民間人の書いた本がドイツ人の間で愛好されていた、というのは、太平洋戦争中敵国文化はけしからんとして英語教育すら抑制されていた我が国の状況とはあまりにもかけ離れている。

また、ご存じの方も多いと思うが、ナチドイツから亡命したマレーネ・ディートリッヒが歌った “リリー マルレーン” という歌が、英独両国でともに有名になり、ドイツ軍兵士も好んで聞いていたといわれている。ドイツ軍上層部は兵士の士気に影響があるとしてのちのこの歌を歌うことを禁じたというのだが、実効性はどうだったのか。スマホなどなかった時代、大げさに言えば短波受信機を持っていなければ聞けなかったはずだが。

もうひとつ、本の題名が思い出せないが、たしかアリステア・マクリーン(あるいはジャック・ヒギンズだったかも知れない)の作品の中で、ドイツ領内に潜入した主人公のスパイがドイツ兵に追いかけられ、必死の思いで公園にあった女子用便所に身を隠す場面がある。ここまで追いかけてきたドイツ兵は当然ここを調べようとするがもう一人の仲間が、よせ、ここは婦人用だぞ、と言ってそれを押しとどめ、言ったほうもそういえばそうだ、と納得して調べるのをやめ、主人公は逃走に成功する、というのである。

この三つの挿話は、たとえ戦争状態にあっても、二国の国民には共通する確固たる文化的な共通点がゆるぎなく存在する、ということを示している。しかも三番目の例では、それが将校などの知識階級出身者にとどまらず、一兵士までが当然と信じていることを示している。

欧州に滞在しておられた(る)方には釈迦に説法だと思うが、”その角を曲がっていけば別の国“ というような感覚で他国と接している中で、数世紀、いやそれ以上の間、違う人種、違う文化が共存してきたのが欧州だろう。しかもその国々には、アルファベットという共通のコミュニケーションツールが存在し,宗派は違ってもキリスト教が共有され、かつてはローマ帝国の仲間であった歴史がある。そういう国家群が、いまなお、異なった言語、異なった文化をそれぞれに保有している。日本で言えば青森語と函館語が存在するようなものだ。物理的に近いとはいえ、大陸とは海を隔てて隔絶した文化圏を育ててきた日本では理解しにくい環境である。

他方、南北アメリカは近世になって欧州人が先住民族を制圧して作った国であり、基本的には支配異民族と先住民族の間に人種的、文化的なギャップが厳然として存在している。欧州にも人種の違いは当然あるわけだが、それは戦争や統合や分裂があったとしても、当初から存在していた、いわば原住民同士のあいだであり、先住民と侵略者という図式とは違っている。中南米では当初から白人優先の経済的支配に疑問を抱かなかった欧州の支配が確立されている(しまった、というべきか)のに対し、アメリカという国はその出発点から、宗教的動機とはいえ、崇高な理想を掲げて立国をしてきた(その理想の中に先住民族やアフリカからの奴隷に疑問を持たなかった、という絶対的な矛盾はあるのだが)。その中心にあるのが多様性、という理想であり、(彼らの定義による)民主主義であって、その分かりやすい看板がいわゆるアメリカンドリームだった。

しかしその経済第一の国是が行き詰まり、なお企業の利益拡大(もっとありていに言えば株主利益の最大化)を追い続けた結果、現在のグローバリズム、という一見、結構な、突き詰めれば人類の未達の夢である世界市民、というようなゴールを掲げた動きが始まった。しかし結末は結局、経済的ギャップを拡大するにとどまって今やその影響が各所にほころびを見せ始めた、というのが現状のように思える。今なお、異なった人種、異なった文化が存在し続ける欧州社会では、すでに何世紀にもわたって存続してきた形はこの グローバリズム というものの掲げる理想をある意味では実現してきたのではないか(移民問題でそれが揺るぎ始め、究極的には現代アメリカ化へ突進してしまうのかもしれないが)。

これからは小生の我田引水になってしまうのだが、現在の世界の状況がSNSという魔物を野放しにした結果、だれも真実がわからないままの情報が独り歩きする (小生がちと詳しいエリッヒ・フロムという学者はこの現象を 匿名の権威 という用語で説明している)。イデオロギーや哲学や論理などを超えた、だれが言い出したかもわからない事が多い、そういうなにかが民衆を支配する、そういう歴史的な時点(大衆社会)に到達してしまったのだ、というのが今、自分が感じていることである(1月26日付 読売新聞28面に参考になる記事が掲載されている)し、今回のアメリカ大統領選に引き続いた混乱はまさにそれだ、という気がする。

レベッカ、からはじまって大げさなことになってしまった。しかしなお、小生は ”俺が愛したアメリカ“ の復権を願う一人ではあるのだが。