米国の社会制度に思うこと   (37 宍倉勝)

(編集子)米国滞在の長かった宍倉君からの昨今の感想が送られてきた。現在大揺れに揺れている米国の状況は我々から見ても大きな関心事であり、どちらかといえばネガティブなものが多いが、かの国が築きあげてきたインフラの強固さ、忠実さには改めて感心するし、それを信頼して実行しているよき米国官僚組織には敬意を持つ。ひるがえって我が国の相も変らぬ 省益あって国益なし、の現状には愛想が尽きる。新総理、今度はどうか?
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2週間前に米国財務省発行の額面$1,200.00がEconomic Impact Paymentの名目で、私宛てに小切手がおくられてきました。
これは日本の特定給付金10万に相当するものと思います。
更にその後、それを追いかけてThe White Houseヘッドの手紙(給付金の主旨、目的等)が、トランプ大統領サイン入りで(勿論すべて複写ですが)、Follow Upとして送られてきました。
米国の年金は毎月わたしの指定口座に送金されてはいますが、まさか給付金までと驚きました。米国駐在の経験者の皆様にも同じように小切手が送られてきたと思います。
私が1969年米国(LA)に取得してSS#が、米国を離れ13年経った今でも米国の私の身分証明になっています。以上の事に痛く感心させられています。
翻って日本の現状は、10数年以前にスタートした国民番号がい未だに取得数も少なく有効に活用されていません。
日本での定額給付金申請、まず私はNETで申請をしましたが、NET不具合等(?)の理由で、結局紙申請となりました。
3名のIT関連の会社で働いている知り合いの外国人に、日本のIT化について尋ねました。答えは、民間でのIT化は進んでいるが、
政府(行政)関係はかなり遅れているとのコメントでした。安部総理大臣就任時IT化の推進を公約に掲げていましたが、未だに多くの分野でそれが実現されていません。残念ながらITシステムの世界でなにかにつけ日本の立ち遅れが目立ちます。
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(47 武鑓宰)
宍倉さんが受け取られたeconomic impact paymentは以下のような説明になっていますので、宍倉さんは2019か2018年に所得申告されたのでしょうか。小生は申告すべき所得もないのでもらえないものと理解します。
米国年金は家内(米国に住んだことも行ったこともないのですが。。)共々有難く頂いています。トランプが知ったら取り止めとなるのではと惧れますが。
「Who is eligible for the economic impact payment? … Eligible taxpayers
(36 後藤三郎)私は研修ビサでしたが給与はアメリカで最低額-(多分1000ドル/月)を貰っていたので確定申告が必要でした。但し滞在日数が180日以内ですと税金を払わないで済むというので米国から他の国に出張して滞在日数を調整する人もおりました。私はIRS(Internal
RevenueService)と言う税務事務所に出かけて税務申告を行いましたが”出来るだけ見すぼらしい格好で行き生活がきついと”訴えるように先輩からアドヴァイスを貰って出かけました。お蔭で税金は最少額(250ドルほど)で許してもらった覚えがあります。アメリカの社会制度の一面を見た気がしました。因みにアメリカで税金を納めていない海外からの社員は本国の税金も払っていない(180日滞在していないので)と言う輩もおり後年わが国でも租税回避で問題になりました。海外アサインでの仕事は私がNYにいた1970年頃は未だ早い時期でしたので税制以外にもドルの送金も日本からは厳しく管理され年間で一家族で一回のみ500ドルと言う制約があり、アパートの敷金、不動産屋への紹介手数料、ポンコツ中古車の購入などでアット言う間にお金が乏しくなりaerogramと言う開封郵便を使って家族に手紙を送りその書面中で送金をお願いし、日銀に家族が出かけて漸く500ドルが許可されました。その代わりに良き市民として以前、本の中でも書いたようにヴェトナム戦争も踏まえて徴兵登録は行いましたので大丈夫とはいえビクビクして過ごしました。(地域の徴兵登録事務所の人は君は日本人、子供一人(幼児)、年齢30歳オーバーなのでこの国がアウトになるまでは徴兵はないと言われました)。

ミッドナイト イン パリ を観ました

(菅原)少なくともこの1年は映画館で映画を見ていません。今や、映画はテレビで見るようになりましたが、このウッディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」は、わざわざ、日比谷か有楽町の映画館まで行って見て来ました。他に、アレンのどの映画を見たのかWikipediaで調べてみましたが、記憶が判然とせず分かりませんでした。酷い記憶力のせいなのか、それとも、アレンの映画がみな同じようなもののせいなのか。

才気走って見目麗しくと言う言葉は女性に対してのものですが、アレンの映画は正に「才気走って」いますが、残念ながら「見目麗しく」とは行かないところが、常に物足りなさを感じ、終わっても、面白かったなーと言う感慨に浸ることの出来ない小生です。アレンの映画はそんなもんじゃないよとの反論があれば是非お聞かせください。

 

(保谷野)

菅原さん、急遽「ミッドナイト・イン・パリ」を観ました。

作家志望のアメリカ人脚本家が、パリ滞在中毎夜タイムスリップして、ヘミングウエイやピカソ、あるいは、ドガやロートレック等と交流する、という内容で、SF+ファンタジー+パリの観光案内*恋愛・・・そこそこ楽しめましたが、総合的には「凡作の上」といったところでは?ただ、ネットによると、評論家の間では割合評価が高いようで、特に「ジャズの音楽が良い」、とあったので、もう一度サッと観たところ。確かに冒頭の、パリの名所の映像をバックに流れるジャズの調べは心地よく感じました。

(安田)キャサリーン・ヘップバーンの「旅情」がヴェニスを見事に紹介したように、この映画はパリの観光案内カタログのように、名所を特に芸術に関係する場所を紹介していてパリ好きには堪らないかも。例を挙げると、オランジェリー美術館のモネの大作「睡蓮」、モネのジヴェルニーの家と睡蓮の池、ロダン美術館の「考える人」、ヴェルサイユ宮殿と探偵が逃げ込んだ宮殿内「鏡の間」、ピカソ達がベル・エポック時代(1920年代)住んでいたモンマルトルの集合アトリエ兼住宅「洗濯船」、オペラ座、モンマルトルの「ムーラン・ルージュ」とカンカン踊り+ロートレック、コンコルド広場などなど。夜のシーンの多くを占めたモンマルトルの石畳の裏通りの風情も情緒があって「いかにもパリ」を感じさせて良かった。

登場する過去の有名人も枚挙にいとまがないくらいに出てくる。ピカソの愛人アドリアとして登場し、主人公の小説家と恋仲になる仏女優マリオン・コティヤールは2007年「エディット・ピアフ~愛の賛歌~」でピアフ役を演じ、仏女優としてはシモーレ・シニョレ(1960年「年上の女」)以来、二人目のアカデミー主演女優賞を獲得している。映画のシーンで面白かったのは、マリオンは小説家と会った1920年頃の時代に居座りたいのに、小説家は1890年頃のパリに行きたいと意見が相違して別れてしまう。仏人として彼女の達者な英語にはビックリ。
もう一人、オスカー受賞俳優が登場。つい先日観たばかりの「戦場のピアニスト」で2002年の主演男優賞を獲得したエードリアン・ブロディがサルバトーレ・ダリ役で出演。これにもビックリ。仏人の英語といえば、エンディングのシーンで主人公が雨の中、骨董屋で働く若い女性ガブリエルと偶然橋の上で会い、腕を組んで立ち去っていくが、この仏女優の英語も見事でした。
2000年以降のウォーホル映画では「マッチポイント」と「ミッドナイト・イン・パリ」がベストの2本という評論記事をどこかで読んだ記憶があります。その2本を観たので運が良かったとも思いました。

(菅原)映画の話しではありませんが、実は、小生、海外勤務で、1990/91年、花の都ならぬクソの都(犬の糞)に家族帯同で住んでおりました。W.アレンの映画だったこともあるでしょうが、そのせいで、この映画を見に行ったのかもしれません。少なくとも、最初の3ヵ月は、日本と全く違うことから、毎日、何故こんなところに態々来たのかと悪態をついておりました。例えば、外に出て空を見上げれば「グチャリ」、余所見をすれば、また「グチャリ」。フランス人の家の中では、まさかこんなことにはなっていないでしょう。つまり、自分のところさえ良ければ、他人はどうなっても構わない、と言う公共道徳の欠如であり、甚だしい身勝手さです。また、役所での各種の手続きでも、昼飯時ともなれば、窓口がピシャリと閉められ、勝手にそのへんのビストロに飯を食いに行き、だからと言って、交替する人もいなければ、整理券もなしで、また、新たに並びなおすなど。一言で言えば、日本では想像も出来ない身勝手さであり、これらのことに散々悩まされました。こう言うことを、毎日、毎日、経験すると、パリが大嫌いになる人がいるそうですが、小生、極めてだらしがないもので、結局は、住めば都。

しかし、これは30年ほど前の、昔の話しです。今や、パリも大層立派な都になっているのではないでしょうか。

(後藤)私はニューヨークの郊外の比較的高級住宅地と言われたScarsdaleと言う街に住んでいましたが毎日、乳母車で公園に息子(赤ん坊)を載せて散歩し帰る頃には車輪の轍がくそだらけで臭くマンションの入り口で清掃作業をやっておりました。フランスは兎も角アメリカの知識人たちも犬の散歩は公園がトイレの代わりのようでした。当時のボスに一連の利己的な(真の個人主義ではなく)行動は日本人には理解できないと言ったら”そうなんだ、それがこの国の問題なのだ”と言われ驚きました。公共なものに対する思いやりが日本人と比べると劣るように思いました。恐らく今も公園の糞は変わらないのでは・・。日本もかなり変わって来てしまいましたが。

 

コロナ対策最新情報です  (34 船曳孝彦)

新型コロナウィルス感染症が発生して7か月になります。日本では第2波もやっと峠が見え始めたといってもよいかと思います。永年山を歩いてきた皆さんは良くお分かりと思いますが、これが偽のピークで本峰はまだその先ということもアリ、とは思いますが。

 一流医学誌に、ある種の変異(専門的には382ヌクレオチッド欠損)によって重症度は下がり、酸素補充療法使用率が下がっているという論文が載りました。想定されていたことですが、科学的データとして出始めたのです。

前回も述べましたが、ごく少数のスーパースプレッダーが感染を広めており、それがどういう患者か区別しがたいことが問題です。軽症、無症状感染者と健常者が区別できないのですから、この熱中症が多発し(死亡率は熱中症の方が高い)新型コロナとの鑑別が問題とされているとき、PCRなり抗原検査なりを、何時でも何処でも何回でも行う必要があると思います。感染者との濃厚接触者を知らせるアプリは、検査が行き届いた後の話でしょう。

 厚生労働省は万死に値するといってもよい程の罪を犯しています。

21世紀に入って最初のパンデミック(2009年の新型インフルエンザ)は何とか乗り切れたのですが、その時の総括報告書で指摘され提案された諸問題(PCR検査の準備、迅速検査法の開発導入、医療体制計画など)が、今回のコロナ伝播までに、何一つ対処していなかったことが、今日の右往左往に繋がっています。

PCR検査(もちろん抗原検査も含め)基礎Big Data が整っていない。これでは科学的検討が不能です。やがて収束された暁には、世界的に科学的検討がなされ、次なる感染症対策が検討されるでしょうが、日本のデータは研究対象外となってしまいます。低開発国というか後進国です。

新型コロナ対策で、感染症法第2類に準ずるとしたことも、現在はいろいろ問題があり、新たな類として検討し直すべきであると指摘されても、あるいは新検査法が次々に開発されても、保健所に全て業務を集中していては無理だと指摘されても、一向に改めずに固執していること。信じられない行政です。

 そのような社会ではありますが、この自粛、自粛を迫られる中、どうすればよいのでしょうか。

A葬儀を始め、日本古来の文化、伝統が崩れています。学校教育も、早めの2学期で元に戻ったでしょうか。10代以下のコロナ感染率は低く、重症例は極く稀です。面と向き合っての教育、友達との会話、付き合い方、青春時代特有の交流、これ等は何物にも代えがたい経験です。ウェブ授業では決して補えません。もしこのまま大人になったら、どういう大人になるのでしょう。

B一般の医療離れが進んでいます。感染を恐れての受診自粛は分かりますが、今はもう大丈夫ですといってよいでしょう。勝手にサボって重症化しないようご注意ください。心筋梗塞のカテ処置が昨年比で25%減と言います。心筋梗塞自体が減っている筈はありませんから、その25%のうち相当数が命を落としている可能性があります。

C自粛の枠にオーバーな部分もあります。例えば外出するとき、私はなるべく人のいない道を選びますが、そのような時にはマスクは外しています。電車、バスに乗るときは勿論マスクをしますが。ソーシャルディスタンスも1.2m弱でよいと思います。2mだ1.5mだといっても、後ろの方では密接しています。

国としては、自粛解除の目標を明示し、国民が希望をもって自粛できるような、そしてGo To Travel 東京除外から外すべきかどうかの判断前に、専門家と十分協議して決めるべきと考えます。

D医療崩壊はじわりじわりと内部から進んでいるようです。KWV三田会員の中に、例の10万円をそっくり寄付された方もおられますが、本来は国が手当てをすべき国民の危機だと思います。

 やがて、とりあえずの収束を迎えるでしょう。良い空気の大自然の下で身体を動かしましょう。コロナ鬱になっては元も子もありません。その日のために心身ともに準備しておきましょう。

コロナをよそに田園は平和です   (39 堀川義夫)

2020年8月12日撮影

寺家ふるさと村は、順調にお米が育っています。

コロナに関係なく、素人目にも稲穂がたわわに実っています。ここで採れるお米は、ほとんど市場に出ることがなく、ふるさとの米を食することがなかなかできません。タイミングが合えば、3kg位の袋詰めを買うことが出来ますが、私は未だ一度しかその幸運に恵まれません。

2020年6月5日撮影

(43下村) おはようございます。自然の力とは凄いものですね。太陽と水だけからたわわに実る米をこんなにたくさん作ってくれのですから・・・。洪水を起こすなどマイナスの面もありますが、改めて自然の魔力を感じます。

原村に来ています。 暑い日が続きますが、こちらは涼風が吹き、緑も真っ盛りで暫しコロナを忘れることができそうです。生い茂っている雑草を刈ったり、薪小屋を整備したり結構やる事がありますね。明日から孫たちが来る予定で、密にならないよう用心して過ごすつもりです。

 

 

 

エーガ愛好会 (14) 新・ガンヒルの決闘  

自粛続きの毎日、懐かしいセーブゲキの連発がうれしい。まずは小泉解説から。(小泉)  グレゴリー・ペックと言えば、理知的で紳士的で誠実な風貌の役柄が似合うと思われるが、過去出演の西部劇を見ると11作品ある。「大いなる西部」のようにペックらしく東部からやってきた紳士風の役柄もあったが、どの映画も所謂西部劇とは一線を画した一癖も二癖もある、また巨匠の監督によるものが多く、それだけに、偉大なる大根などと揶揄されたこともあったが、感じる以上に夫々の役柄をこなしてきたと言えると思う。例を挙げれば、「白昼の決闘」「廃墟の群盗」「拳銃王」「無頼の群」「レッドムーン」等。

 ペック55歳の時の作品。監督はヘンリー・ハサウエイ、西部劇はもとより戦争映画、歴史劇、犯罪映画、冒険活劇の様々のジャンルで楽しませて呉れた。ペックが7年間の刑期を終え出所するところから始まるが、後になって、銀行強盗をした相棒に裏切られ、独り占めされた恨みを晴らしたいことが分かる。裏切った方は、出所が分かり、用心棒風の若者に、ペックの動静を探らせる。その若者と仲間計3人が、自称三銃士で傍若無人の振舞い、冒頭の酒場でのペックとの絡み合いから、ペック対三銃士の争いが最後まで続くことになり、ペックの敵まで殺してしまうので、ペックの出る幕がなくなってしまったのでした。勝手な推測だが、当時監督74歳、ヒッピー等既成概念からはみ出た若者の暴走に不快感を持っていたことが、三銃士の暴走に歯止めがかけられなかったのでは?結局は、ペックと三銃士との争いでの勝利で終わり。

 以上では観る価値もないようだがそうでもない。この映画のもう一つの主題、可愛いい7歳の女の子、投獄される前の恋人に預けておいた200ドルを届けてもらうはずが、恋人の死で、女の子が汽車でやって来る。どうやらペックの子供か否か不明だが、恋人がペックに頼るよう言い残したことは、ペックの子?しかも丁度7年経過。女の子とのロードムービーとしても出色の出来ではないか。同監督がジョンウエインにアカデミー賞を取らせた「勇気ある追跡1968」と同系統の映画。汽車でやってきた折、ペックは女の子を受け取るか否かで悩む。汽車が走り去るも水の補給で一時止まる、その際受け取りを決める。車掌とのやり取りで、帽子を代えるような男に碌な男はいないとペックを非難すると女の子がそれに同調し、同行を拒否するところ。ペックが、フライパンを持ち上げ、中のホットケーキが飛んでなくなったように見せかけ、女の子がガックリすると蓋を取ると中にあって大喜び。雨宿りの積りで入った母親と息子の一軒家で世話になった折の、ペックと母親とのやり取り、女の子を引き取る要望に対し母親は同意。引取れば貴方はここへ戻るでしょうから、も意味深で面白い。三銃士が一家を襲い、ウイリアムテルよろしく、母親に対し、林檎を息子と女の子のどちらかへ載せるよう強制された際、息子を避け女の子に載せる。あとでペックに謝るが、ペックも同じ立場なら同じことをした応える。何しろセリフが面白い。ペックと女の子二人、母親と息子の家に入って行くところでめでたしめでたし。

 最後に、邦題「新ガンヒルの決闘」はいただけない。アンソニー・マン監督「ガンヒルの決闘」とは何の関係もないのにあるように見えてしまう。「ラスト・シューティスト」という題名もあるのだから、原名「シュートアウト」やら「勇気ある追跡」の姉妹編なら「勇気ある銃撃」とか?

(菅原)早撃ちペック、参上。グレゴリー・ペックは、新聞記者だけじゃなく、早撃ちでもあったんだ。小生、非常に気に入らないところがありました。これは脚本のせいなのか、70歳を過ぎた老監督のせいなのか、どっちなのかは分かりません。ペックの目指す相手は、チンピラ ヤクザではなく、自分を裏切って銀行強盗の金を独り占めにしたサム・フォーリー(役者:ジェイムズ・グレゴリー)だったんじゃないでしょうか。そうじゃなかったところに、このエーガの致命傷があったと思います。「西部劇の両巨頭」小泉さん、ジャイ大兄、もし、間違っていたら。ご指摘ください。

でも、早撃ちペック、万歳!

(編集子)ペックの西部劇、といえばこれはもう、 大いなる西部 でありますな。高校時代だったかにみた 勇者のみ なんてのもあった。白昼の決闘 は見よう見ようとおもっていたが機会がなかった。廃墟の群盗 は見たはずだがあまり印象なし。小生にとっては 大いなる西部 が圧倒的で、ウエスタンでは印象が薄い。仔鹿物語、ローマの休日 とか、ジミー・スチュアートとな らんで、よきアメリカ人を演じるのがぴったりという俳優、という感じ。ナバロンの要塞 もあったか。

今日の結末については同感。あれえ! という感じだったね。子役がよかったし、もっと典型的なエンディングだとおもっていたんだけど。小泉解説にある題名についての違和感も同感。殺された友人がいうせりふだから間違いはないが、カーク・ダグラス版と全く関係ないのにこの地名が出てくるのはなぜなんだろうと考えてしまう。ダッジシティだとかツームストーンとかはたまたアビリーンだとかいう地名とは格が違うし、第一存在したかどうかもわからないが、とにかく劇中にはっきり出てくるのだから、日本の題名に出てくるのは自然か。先回あげた、あきらかに興行目的でつけた ”続”荒野の七人 とは違うけどね。

薬師岳から室堂への山中3泊4日の縦走登山 (39 堀川義夫)

今回は本文より先に観客席からの !! で始めよう。

(39 岡沢)どんな体力を持ってるんですかね。 そっくり同じコースを 13年前2007年 に66歳の時 同期の 長谷川 三嶋 飯河 小野 津金 岡沢の6人で縦走しています。 その時は小屋どまりで それでもよく行けたと思ってたのに 堀川は一人でテント行 どうなってるんだね。

私は 昨年 堀川に同行してもらい 飯河と三人で行った 裏剣 仙人池 欅平の山行が最後の縦走だと思ってます。実は 私も同期の三嶋のグループに誘われ 3日4日と 湯檜曽どまりで 谷川岳に行ってきました。 もっともロープウェイ経由ですが3時間近くかかってしまいました。平地歩きでは堀川にまけないんだけれどね。
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7月29日(水)の夕方の飛行機で富山へ。着陸直前のサンセットが美しい。明日は晴れてくれよと祈るばかり。富山の駅に近いAPAホテルに宿泊。翌30日(木)、例年だと富山の駅前から登山口の折立まで直通バスがあるのだが、コロナの為運航休止。この為、地鉄で有峰口へ行き、予約した折立行きバス(40人近く乗車)に乗り換えて8時10分折立に到着。いよいよ。3拍4日の縦走の開始である。登山客はバスだけでなく、結構駐車場には車が多く入山者は多いように思う。出発時は青空も見えたが、ずっと曇りで時々雨具が必要な位の雨。ひたすら我慢して太郎平の小屋に12時40分に到着出来た。まずまずのペースである。途中の高山植物は期待したほどでは無かったが、また、花を愛でるなどの余裕もなく歩いた。小屋の宿泊は予約が必要で普段の定員の多分、40%位に制限していると思うが、まだ、かなり余裕がある。小屋ならではの贅沢ではあるが、乾燥室で濡れた衣類、靴など乾かせるのがありがたい。5時からの夕食を取り始めた頃から晴れてきた! そして、第一の目標の薬師岳が全容を見せてくれた。

7月31日(金)

6時50分にガスで何も見えない中をスゴの小屋を目指して出発。結構調子が良く、かえって何も見えない方が登りに専念できる。頂上まで2時間40分で登り切り言うことなし。只、何も見えないし風が強い。多分10m以上が飛騨側から吹いている。登山路が黒部川に入るとホッとして、ついつい、休憩を取ってしまう。薬師岳から北薬師岳の間は飛騨側からの強風で思うように歩けず、又北薬師からの下りは風が強い上に巨岩地帯で歩くのにバランス感覚が不可欠の地帯だが、歳をとるにつれ、このような登山路は、私の一番苦手で嫌いな道である。思わぬ時間を要し、コースタイムの三割増しでやっと間山に到着した。ふっと、後ろを振り返ると・・・北薬師岳が全容を見せて呉れていた。晴れて来たのでゆっくり休憩を取り一気にスゴの小屋へと向かう。スゴの小屋の宿泊は5名、但し、天泊は10張以上の盛況でしだ。

8月1日(土) 今日は晴れだ!!

今日は五色ヶ原まで。まずはスゴノ頭の登りがきつい。3日目で疲れも出て来ている。でも、頑張りました。そして越中沢岳の登りがこれ又きつい! この2つの岩峰は、アミノバイタルで何とか乗り切った。(笑) そして、ほぼコースタイムで五色ヶ原に到着することが出来た。縦走はこうでなくてはいけない。穏やかな天気。心地よい風。適度の登りと適度の下り路。余裕のある時間。これらが、縦走の醍醐味でしょう。私の一番好きな登山スタイルです。ふっと、来年も同じようなことが出来るだろうか? 今回が最後の縦走スタイルの登山になるのではと思うと、おろそかにできないと言う思いがふつふつと沸いてきた。そして、山の神様!来年もよろしくと祈願せずにはいられませんでした。実は出発当日まで山荘のキャンセル待ちをしていたのだが、コロナで定員を大幅減にしている為どうしてもダメで、この為、天泊しなければならないことになってしまいました。そこで、やむを得ず、1泊の為に、テント、シラフ、食料。炊飯道具などを携行しなければならなくなりました。そこで、出来るだけ軽量化するため、テントはツェルトで我慢。寝袋はシラフ用のインナーシーツとカバーだけ、食料はレトルトの素麺とレトルトのビーフシチュウで我慢と徹底して軽量化して臨みました。結果的には天気が良くて助かりましたが、雨だったらどうなったか・・・?? 夜になると物凄く寒くなり、夜中に雨具まで着込んで対応する羽目に!! ご褒美は・・・小屋だと1泊2食で10400円だがテン場は700円で済みました。(笑)

8月2日(日)最終日。

寒かったので睡眠不足気味で、これを補うため出発を遅らせ6時30分まで睡眠した。テンバで仲良くなった人からりんごを貰ったのを齧りながら出発。天気は最高!正に夏山だ! もうこんな気分は味わえないかもしれない、なんて殺生なことを思いながらひたすら、黙々と歩く。気分最高で調子も良い。ザラ峠から獅子岳への登り1時間20分、そして最後の龍王岳への2時間30分を苦しかったけど、ほぼコースタイム通りにクリアして浄土山に到着。やった〜。登り切った  ちょっと、浄土山からの下りは気が抜けたのかハイカーが多くすれ違いがあったからか時間オーバーで、でも丁度正午室堂ターミナルに到着出来た。残念なのはバッテリー不足で最後方は写真が思うように撮れなかったのが残念ではある。楽しみにしていた、みくりが池温泉の入浴もコロナの影響で日帰り客はお断りで入れず、残念。13時15分の扇沢方面へのバスに乗り、帰宅の途に就いた。

歩いてきた薬師岳、スゴの辺り、五色が原の山荘と全部見渡せた! 最高!!

以上、私の私なりの北アルプス縦走は完結ですが・・・来年も出来るかな??と言う思いでの下山となりました。

(編集子)小生の場合はおととしの夏、西穂から笠を観たのをアルプス歩きの最後と思い定めた。北の代表コース表銀、南の入門鳳凰三山は歩かずに終わり。ひとそれぞれ、思いを残すエンディングがある。ホリにはまだ先の話なのだろうけれども。

 

新型コロナウイルス感染症第二波   (34 船曳孝彦)

新規感染者の増加は収まらないようです。これまで、「今一向に減らないのは第2波の襲来ではなく、第1波を抑えきれていないのだ」と、述べてきました。第2波はウィルスの突然変異によって、より感染力が強く、病原性も強い(重症化しやすい)ウィルスになって襲って来るだろうと言ってきました。前にも述べましたが、この新型コロナウィルスはウィルスの中でも変異しやすく、既に何千回もの変異を起こし、大きく分けてアジア西太平洋型、ヨーロッパ型、アメリカ西海岸型、東海岸型の4型に分類されているとも述べてきました。

昨今の日本での感染状態を見ますと、特に大都市以外の感染者数は、4月を中心とした波と7月の急増する波との間に明らかに収まっている時期があり、現在は第2波と見てよいようですので、訂正します。

ではウィルスの変異はどうなっているのかと言いますと、医学的、ウィルス学的根拠を自分で掴んではいませんので、科学者の端くれとしては多少抵抗感があるのですが、東大児玉教授の『東京型に変異し、東京が感染の震源地となっている』という説を支持します。軽症者、無症状感染者の比率が高く、会食、電車だけで感染したのかというような原因不明感染者の増加、欧米と比べて死亡率の極端に低いことを考えると、『東京型』の特徴は感染力が強くなって(罹り易く)、病原性は強くなっていない(むしろ弱くなっている)という印象です。そろそろクラスター重視の大方針の変換(クラスター追跡を否定するものではありません)を検討すべき時と思います。

そもそも、他所の国と比べて桁違いに少ないPCR検査のために、無症状、軽症者が巷に溢れ、そこへGo To Travelなどが加わってきているのが原因と考えます。世田谷区で、“誰でも、何時でも、何回でも“PCR検査が出来るようにという方針を打ち出しました。ニューヨークや韓国で成功した先例があるのです。もろ手を挙げて賛成します。これまでにも山梨大学、新宿区など、その試みが打ち出されては来たのですが、政府は一向に取り上げてきておりません。PCR検査が唾液法や、簡単キット法で素早く、安価で大量に検査できるといわれながら未だに公的には採用されていません。日本で開発されフランスなどで採用され、医師、技師、防護服などの検査用機材も少なくて済むというのに、コロナ禍が始まって半年が過ぎているのです。信じられません。コロナ禍克服に、国は本腰を入れて対処してほしいと念願します。

PCR検査により、陽性者が多数出るでしょう。これが医療崩壊を招くという反論が出ます。しかし検査対象を膨らませての陽性者ですから、必然的に軽症、無症状者が大部分を占めると予想されます。彼らは今閑古鳥の鳴いているホテルや、前からいっている選手村予定施設に1週間~10日収容すれば、回転も早く、医療施設に負担を掛けずに済みます。むしろ医療崩壊の回避に役立ちます。区民、都民、首都圏民が全員受けるような機運に持って行ければ、推計学に詳しくありませんが、新規感染者は急速に減ることが期待できます。陰性の結果であってもすぐ後から感染するかもしれないという危惧は当然あります。だから『何回でも』が必要ですし、医療関係者はそれこそ何回でも必要とします。

医療機関は、コロナ用病床を用意し、コロナ用医療スタッフに人数を割くため、一般のがん治療、成人病治療に手が回らず、赤字が膨らんでいます。これ自体皆さんの健康にとっての大問題なのですが、お気づきになっていない方が多いと思われます。さらに東京女子医大で、ボーナスカット、賃金カットで大量の退職希望者が出たと報じられましたが、8割以上の医療機関が経営困難に陥っており、その何割かは閉院に追い込まれようとしています。医療崩壊です。国は支援するとは言っていますが、とても今程度で支援しきれないことは目に見えています。

第2波『東京型』は幸いにして病原性が弱くて済みそうですが、これを若者たちが本能的に感じ取って、「どうせ罹っても軽症だろう」「調子悪いところなんか全くないから大丈夫」と奔放に動き回っているようにも思えます。政府なり、メディアなりは自覚を促すよう本腰を入れるべきです。

しかし、次の第3波、第4波は、もっと強力かもしれません。それに備えて、十分な体力、気力を蓄えておきましょう。

エーガ愛好会 (13) 荒野の七人

ここのところ、人間グーグル安田vs日野の賢人保谷野の ドクトルジバゴ をめぐるトークとか、久米行子の 眼下の敵 の ”ユルゲンス クーパー論” についてのサブロー反応など、博識者間のやりとりが面白い。それぞれにうなづいてみたり ? などとやっている間、これは文句なし単純明快典型西部劇がBS劇場に登場。なんせブリンナー以外は当時は無名に近かったわき役陣、マックイーン、ブロンソン,コバ―ン、ヴォーンがその後のスターダムにのし上がるきっかけとなった作品だし、タイトルバックに introducing Horst Buchholz と出てくるのもなんともカッコよかった。ブッフホルツはドイツでは評判が高かったようだが、日本で見る機会は少なかったような気がする。テーマ曲は今でもポピュラー曲CDの常連でもあるし、日本映画がハリウッドでリメイクされた (確かではないが、よく知られたという意味では)はじめてのものではなかったか。ま、理屈抜きに改めて4度目を観た。

西部劇がその後アメリカ社会の変貌に従って人種問題や社会観やはたまた心理学的手法とかなんだとか、いろんなことで理屈っぽくなってしまい、論理的にはわかってもなにかすっきりしなくなってきた。やはりセーブゲキてえのはこれなんじゃああるめえか、と思わせる作品だ。

(小泉) クレジットタイトルと共に、打楽器が効果的に使われた小気味よい興奮を誘うエルマー・バーンスタインの音楽に始まり、開巻イーライ・ウオーラック率いる山賊たちが襲ってくる音楽もまた不気味で素晴らしい。タイトルに日本映画東宝作品「七人の侍」にもとずくと書かれているのが好感だ。
>  ご承知の如く、物語は黒沢作品を其の侭巧みにメキシコの寒村に移したものだが、「七人の侍」が人間性重視の野武士たちにタテ社会の成員としての自覚を持たせ、農民のために戦わせたのとは異なり、「荒野の七人」は、七人夫々の技量を際立った特質として付加している。アメリカ社会の個人に対する責任という理念が、七人の男各々の特質を強調しており、その切れ味も鋭い。
> どうやら、主演のユル・ブリンナーが、「七人の侍」を見て感動し「OK牧場」「ゴーストタウン」「ガンヒル」という決闘三部作のジョン・スタージェス監督に映画化を任せたとのこと。ユル・ブリンナーを除く6人のガンマンは、当時売り出しはじめの新人を使い、夫々が、寒村行きのガンマン募集に応じる際の腕前の見せ所から、のちの作品への出演での特質が、萌芽として表れているから驚く。スティーヴ・マックイーンは、早打ちの流れ者で行動力ある最も魅力的存在として活躍する。ホルスト・ブッフホルツは若き渡り者で、進行役を仰せつかりながら、若き農民女性と恋する木村功の役をこなした。「七人の侍」同様7人のうち先出の3人の他の4人が死んでしまうが、その山賊との死闘の中に趣向が凝らされている。ブラッド・デクスターは、最後まで村に宝物があるからこそ山賊と戦ったと思い込みながら死んで行く。ロバート・ヴォーンは早業の抜き打ちで3人を殺すも、いきなり撃たれ、くるりと回り崩れるように倒れる。ジェームス・コバーンはは過去の暗い影を引きずる孤高の男で冷静なナイフの名人も投げ切れず撃たれて息絶える。チャールス・ブロンソンは早撃ちだが、人間的味わいがあり、子供たちに慕われ、子供をかばって撃たれる。
>  要約すれば、ブリンナー以下7人のガンマンと山賊の頭領を含め。個々の強烈なパーソナリティが相殺されずに、男の誇りと意地を賭けての死闘が展開されていて何度観ても面白い。

(安田)半世紀以上ぶりにこの映画を観た後、3度目の「7人の侍」も観ました。テクニカラーとモノクロ、メキシコの荒野の寒村と日本の農村、真っ青な青空とどんよりとした日本の空、銃と刀・槍、2時間と3時間半、太鼓とギターの音楽に対して不気味な鵺のようなテーマ音楽、陽と陰・・・、全てが対照的。小泉さんの名解説に酔いしれました。さすが西部劇の横綱です。ありがとうございます。
銃によるやや淡白な殺し合いに比べて刀剣では間合いが圧倒的に近いので、緊迫感や殺気の点では7人の侍に一日の長あり。千秋実、加東大介、稲葉義男、志村喬、宮口精二の侍らしくない助っ人浪人に対して、荒野の7人では皆Magnificent Sevenに相応しい個性を売り物にする配役でした。
The King and I ではユル・ブリナーは“I”役に決まっていたモーリン・オハラをデボラ・カーに変えさせたくらいに押しが強い頑固な役者ですから、6人の仲間の配役にも影響力を及ぼしたのではないか。マックイーン、コバーン、ブロンソン、ボーンなどのその後の活躍を知るにつけ、人を瀬踏みする才能も流石だったのではと思いました。

荒野の7人を観た頃は沢山印象に残る映画を観た記憶があって調べてみました。1960年の公開。他に観た映画が凄くて今更ながら驚きました。「サイコ」「アラモ」「栄光への脱出」「アパートの鍵貸します」「スパルタカス」「太陽がいっぱい」「許されざる者」「勝手にしあがれ」「エルマー・ガントリー」「甘い生活」「日曜はだめよ」「雨のしのび逢い」「バターフィールド8」。40年台から続く映画の全盛期後半の大団円の花火を見るかのようでした。

(編集子注)この作品自体がリメイクである上に、この後、日本での題名が 荒野の七人 を冠している(カタカナでずばりマグニフィセントセブン、というのもある)映画は4本あるが、そのうち、いわば正当な続編はブリンナーがクリス、として出てくる “続” だけで、あとは主演もどちらかといえば悪役のイメージがあるジョージ・ケネディやら、なんとデンゼル・ワシントンなんかに変わっていて、ストーリー上のつながりは全くない。

クレジットタイトルもエーガの楽しみのひとつで、昨今のモダニズムとCG技法を多用したものも悪くはないがあまり心に残るものがない。古いもので恐縮だが小生愛してやまないフォード 荒野の決闘 の牧場の柵に刻まれたものとか、地上最大の作戦(何度も言うがなんとつまらない題名にしたもんだ)の波打ち際に転ぶ、主を失った鉄兜とか、印象に残るものが多い。又中学生から高校時代、みんながほぼ一様にもっていただろうアメリカへのあこがれ、それをたきつけるタイトルの作り方のひとつが、主演陣の紹介のあとに1行あらわれるいかにも思わせぶりな、introducing…..という見せ方だった。ただ僕が知る限り、ケイン号の反乱の ロバート・フランシスにしても エルダー兄弟 のマイケル・アンダーソンにしても、こうやってお披露目され、楽しみだな、と思わせた連中の多くはその後は鳴かず飛ばず、フランシスに至っては確か事故死してしまったと思う。そういう意味ではこのブッフホルツなんかは期待通りだったのかもしれない。

 

 

エーガ愛好会 (10)懐かしきオールド西部劇  (34 小泉幾多郎)

ミネソタ大強盗団” を観た。史上名高いジェシー・ジェームズ強盗団が、1876年ミネソタ州ノースフィールドの銀行を襲撃した経緯をリアルなタッチで描いた西部劇。監督は、これが3作目だった「ライトスタッフ」「ライジングサン」のフィリップ・カウフマン、撮影が「荒野のストレンジャー」等クリント・イーストウッドの西部劇を撮ってきたブルース・サーティース、音楽がモダンジャズの大家ディヴ・グルーシンという一流スタッフ。主演はジェシージェームズにロバート・デュヴァル、コールヤンガーにクリフ・ロバートソン等どちらかと言えば準主役級で主役を食ってきた芸達者達が活躍する。

 巻頭、フランク、ジェシーのジェームズ兄弟、コール、ジム、ボブのヤンガー兄弟の他3名計8名の名前と特徴の紹介から始まり、テロップで、当時鉄道会社の西部開拓により、狙われた家族は何の術もなく土地を追われることが多く、この鉄道会社の連中を痛めつけ追い払ったアウトローに恩義を感ずる人が多かったと説明があり、一時ミズーリ州議会は、ジェシーの一団に対する恩赦を与えるという驚きの決議するまでになった。ジェシーの独白にも「俺たちが奪った連中に正直者はいない。鉄道会社、銀行、山高帽をかぶった野郎どもという泥棒から奪ったんだ」というセリフがある。これからすると義賊としての西部のロビンフッド的な描きを期待したが、1970年代のニューシネマの流れは、従来のジェームス兄弟の陰にあったコール・ヤンガーにスポットを当て、強盗団の首班争いから、結果的に、銀行襲撃事件は、コールの苦策もジェシー達のミスも重なり、失敗に終わる。特にジェシーが従来の義賊としてではなく、コールの統率を嫌い。自分本位で市民を平気で撃ち殺す冷酷な面を強調し、逆に市民を味方から敵に回す、時代に取り残された刹那的な男の象徴として描いているのだった。主人公を如何に正当化するかに全力を注いだ「地獄への道1939」のタイロン・パワー扮するジェシー・ジェームスが懐かしく思い出される。

(編集子) ここの所、ドクトル・ジバゴ をめぐる上質(と思いたい)かつやや難解かつやや長めの議論が続いている。映画芸術論も素晴らしいが、今回はこれまた、わが中学時代に胸躍らせた一連の話について、ひとつちがいのお兄様の名調子、ばんざい。

タイロン・パワーねえ。あのころの美男子で女たらしでと言えばこの人か,エロール・フリンかはたまたケーリー・グラントか。“キング”とまで呼ばれたクラーク・ゲーブルはワンテンポあとだったかな。風と共に去りぬ では圧倒的だったけど、ほかのいくつかの有名作はなんとなく気が乗らなくて見ないで来てしまった。保谷野くんあたりはあまり気乗りがしないようだが、もうひとりのキング、ジョン・ウエインものは日本未公開ものを米国駐在中にみつけたビデオテープ(!)を含めて大分見ている。生涯に撮ったフィルムは長編153本というが、そのうち西部劇と思われる(古いものは内容までわからない)ものは100本以上あるから、まさに西部劇のキングであったことは間違いないだろうが、演技が評価されることはなかった。しかし彼が二度目の癌を患い、再起不能とわかったとき、モーリン・オハラが全米に涙のメッセージを送ったことはまだ記憶にある。

 

 

”メルケル演説” その後

少し前にドイツ、メルケル首相のコロナ対策に関する演説の紹介があった。格調も高く、いかにも優れた政治家の資質がよくわかる文章だったと思う。その後、田村耕一郎など旧友たちから海外諸国の対策とか政治家の動向などについて、貴重な資料が紹介されてきたし、一部は本稿にも紹介してきた。これらを読んで、その内容もさることながら、引用されている政治家各氏の文章の練られかたとか、背後にある教養の高さなどにも感心することが多かった。

 

数日前、テレビで007シリーズ スカイフォール を観た。長らく M をやってきた名女優ディンチが殉職するやつだ。007の元祖コネリーはともかく、ロジャー・ムーアといいピエール・ブロスナンと言い、近来の007はおふざけが強すぎて多少へきえきしていたのだが、今のダニエル・クレイグとその前のティモシー・ダルトンになって、人間味というか現実味が増し、面白いと思うようになっていたので今回の作品も興味をもって見た。007を擁するMI6の部門が取り潰しの危機に直面する。その公聴会が議会であり、Mが主張を述べるのだが、このくだりのディンチが素晴らしい。なるほど、これが欧米の政治家の教養か、と思わせる数分の演説だ。詳しくは延べないが、こんな演説は残念ながらわが霞が関の議事堂では(維新直後の時代はわからないが)まず聞くことはないのではあるまいか。メルケルのリーダーシップあふれる演説にふれて、それにひきかえてなあ、という感じを持ったのは小生も同じで、この映画のシーンに垣間見るような、政治家、といえるべき人物を支えている文化的教養の違いをあらためて感じる(田中新弥は以前から、国会議員に立候補する人間には資格試験をすべきだ、と主張している)。

 

ところが昨日の読売新聞のコラム(”ワールドビュー“)に、ドイツの成功は本物か、という一文が載った。西欧諸国の中でドイツは人口当たりコロナ感染症の人数の抑え込みには成功しているのだが、10万人当たりの死者数は10.93人、対する日本は0.78人で、もしドイツの成果具合を日本に当てはめると我が国ならば15,000人を超える死者が出ている計算だというのだ。この数字の意味することをうんぬんする知識は持っていないし、 ”ファクターエックス“ がもし、コーカソイド対モンゴロイドという人種の差からくるものだ、としたら、さらに比較や評価は難しいだろう。だからこの記事が言うように、”ドイツが成功なら日本は大成功だ“ という結論もそうならいいけどなあ、という程度で読み飛ばすつもりだった。

 

しかしこのなかで、”ドイツの成功を可能にしたのはメルケル氏の指導力で、あの演説がきっかけだった“ という定説に筆者が疑問を呈したところに興味をひかれた。この記事によれば、あの演説が出るまでにドイツ政府の対策は後手後手に回っていて、国境封鎖に強力に反対していたのはメルケル首相その人だったのだ、というのだ。国境封鎖、ということはEUの基本理念のひとつである域内自由交流の否定であり、反対することにも正当性はある。このあたりの事情を異国の素人がうんぬんするのは控えたいが、小生がはて?と感じたのは、はじめにのべた国家指導者の素質、特にその文化的教養から生まれるはずの世界観とか歴史観、と言ったものがいったいなんなのか、ということである。

 

もう一度、かのメルケル演説とわがシンゾー君をはじめとする昨今の首相各位の演説を比べてみるまでもなく、その内容、格調、影響力の差は残念ながら明らかである。もし、首相の演説(ナチの猛攻を劣勢な空軍で防いだ、かの バトルオブブリテン を支えたというチャーチルの防空壕からの放送のような)が国民を鼓舞し成功に導くのが歴史の原理であるならば、わが国の未来にあまり大した期待は持てない。しかし一方、厳然たる事実として、現在の経済大国を作り上げた基本的な構造が、当時は批判の的でもあった日本列島改造論であることは事実である。この画期的な構想を組み立てたかの首相がメルケルを凌駕する文化的素養の持ち主であり、聞くものをして感動させる人間力を持っていたとは思えない。日本の飛躍的な変革を現実のものにしたのは、ひとりひとりの日本人の勤勉さと公徳心とまじめさ、それと現実には(問題は多々あるのは承知しているが)やはり優秀な官僚制度であって、首相の演説が感動を呼び起こしたので俺たちがやる気を起こしたからだ、などという記憶はない。このことは高度成長の歯車として、時には100時間を超すことも多かった残業地獄をこなし続けてきたわれわれが一番よく知っているはずだ。

 

思うに、どっちが成功なのか大成功なのか知らないが、欧州の指導的立場にあるとはいえ過去の歴史負荷を引きずるドイツ、日本人と共通点の多いドイツ人、メルケルさんがどうあろうと自分たちの努力をひたすら続けて結果を出した彼らとわれわれの現在にはそういう意味での共通点があるのではないだろうか、という気がするのである。

だがそれはそれとして、多難な国を守り続けるメルケルさんのご活躍を祈念することには変わりはない。わが同期の仲間、横山美佐子は愛嬢によればご家庭では メルケルさん と呼ばれていると聞く。併せてふたりのメルケル、ご健康を祈る。