少し前にドイツ、メルケル首相のコロナ対策に関する演説の紹介があった。格調も高く、いかにも優れた政治家の資質がよくわかる文章だったと思う。その後、田村耕一郎など旧友たちから海外諸国の対策とか政治家の動向などについて、貴重な資料が紹介されてきたし、一部は本稿にも紹介してきた。これらを読んで、その内容もさることながら、引用されている政治家各氏の文章の練られかたとか、背後にある教養の高さなどにも感心することが多かった。
数日前、テレビで007シリーズ スカイフォール を観た。長らく M をやってきた名女優ディンチが殉職するやつだ。007の元祖コネリーはともかく、ロジャー・ムーアといいピエール・ブロスナンと言い、近来の007はおふざけが強すぎて多少へきえきしていたのだが、今のダニエル・クレイグとその前のティモシー・ダルトンになって、人間味というか現実味が増し、面白いと思うようになっていたので今回の作品も興味をもって見た。007を擁するMI6の部門が取り潰しの危機に直面する。その公聴会が議会であり、Mが主張を述べるのだが、このくだりのディンチが素晴らしい。なるほど、これが欧米の政治家の教養か、と思わせる数分の演説だ。詳しくは延べないが、こんな演説は残念ながらわが霞が関の議事堂では(維新直後の時代はわからないが)まず聞くことはないのではあるまいか。メルケルのリーダーシップあふれる演説にふれて、それにひきかえてなあ、という感じを持ったのは小生も同じで、この映画のシーンに垣間見るような、政治家、といえるべき人物を支えている文化的教養の違いをあらためて感じる(田中新弥は以前から、国会議員に立候補する人間には資格試験をすべきだ、と主張している)。
ところが昨日の読売新聞のコラム(”ワールドビュー“)に、ドイツの成功は本物か、という一文が載った。西欧諸国の中でドイツは人口当たりコロナ感染症の人数の抑え込みには成功しているのだが、10万人当たりの死者数は10.93人、対する日本は0.78人で、もしドイツの成果具合を日本に当てはめると我が国ならば15,000人を超える死者が出ている計算だというのだ。この数字の意味することをうんぬんする知識は持っていないし、 ”ファクターエックス“ がもし、コーカソイド対モンゴロイドという人種の差からくるものだ、としたら、さらに比較や評価は難しいだろう。だからこの記事が言うように、”ドイツが成功なら日本は大成功だ“ という結論もそうならいいけどなあ、という程度で読み飛ばすつもりだった。
しかしこのなかで、”ドイツの成功を可能にしたのはメルケル氏の指導力で、あの演説がきっかけだった“ という定説に筆者が疑問を呈したところに興味をひかれた。この記事によれば、あの演説が出るまでにドイツ政府の対策は後手後手に回っていて、国境封鎖に強力に反対していたのはメルケル首相その人だったのだ、というのだ。国境封鎖、ということはEUの基本理念のひとつである域内自由交流の否定であり、反対することにも正当性はある。このあたりの事情を異国の素人がうんぬんするのは控えたいが、小生がはて?と感じたのは、はじめにのべた国家指導者の素質、特にその文化的教養から生まれるはずの世界観とか歴史観、と言ったものがいったいなんなのか、ということである。
もう一度、かのメルケル演説とわがシンゾー君をはじめとする昨今の首相各位の演説を比べてみるまでもなく、その内容、格調、影響力の差は残念ながら明らかである。もし、首相の演説(ナチの猛攻を劣勢な空軍で防いだ、かの バトルオブブリテン を支えたというチャーチルの防空壕からの放送のような)が国民を鼓舞し成功に導くのが歴史の原理であるならば、わが国の未来にあまり大した期待は持てない。しかし一方、厳然たる事実として、現在の経済大国を作り上げた基本的な構造が、当時は批判の的でもあった日本列島改造論であることは事実である。この画期的な構想を組み立てたかの首相がメルケルを凌駕する文化的素養の持ち主であり、聞くものをして感動させる人間力を持っていたとは思えない。日本の飛躍的な変革を現実のものにしたのは、ひとりひとりの日本人の勤勉さと公徳心とまじめさ、それと現実には(問題は多々あるのは承知しているが)やはり優秀な官僚制度であって、首相の演説が感動を呼び起こしたので俺たちがやる気を起こしたからだ、などという記憶はない。このことは高度成長の歯車として、時には100時間を超すことも多かった残業地獄をこなし続けてきたわれわれが一番よく知っているはずだ。
思うに、どっちが成功なのか大成功なのか知らないが、欧州の指導的立場にあるとはいえ過去の歴史負荷を引きずるドイツ、日本人と共通点の多いドイツ人、メルケルさんがどうあろうと自分たちの努力をひたすら続けて結果を出した彼らとわれわれの現在にはそういう意味での共通点があるのではないだろうか、という気がするのである。
だがそれはそれとして、多難な国を守り続けるメルケルさんのご活躍を祈念することには変わりはない。わが同期の仲間、横山美佐子は愛嬢によればご家庭では メルケルさん と呼ばれていると聞く。併せてふたりのメルケル、ご健康を祈る。