普通部同期の会 日平(ひびら)会開催

慶応普通部の同期生仲間がなんとなく集まる融通無碍の会合 日平会 をしばらくぶりに開催した。幹事 船津於菟彦いわく:

佐藤・田村両君が定期健康診断の為欠席で新たに武島・岡田さんをお迎えして12名で愉しく歓談できました。この会も23年目に入ります。
香山先生の遺稿「すくっと立とう我が友よ」では無いですが、元気に病など例えあっても「すくっと立とう我が友よ」
同期各位、参加希望者は岡野喜久君あてご連絡いただきたい。写真後列左から岩瀬、中司、高山, 武島、日高、田中新弥、飯泉、岡野、岡田、田中権兵衛、前列左船津、右河野。本日欠席だが常連はほかに佐藤光男、田村耕一郎、吉村稔。

好漢、幸あれとー布施明コンサートのこと

1月23日、調布市で開催された布施明ライブツアーへ行く機会があった。

ワイフが見つけてすぐ予約したのだが、テーマが よみがえれ昔日の情熱 というものだったので、我々がよく耳にしていた曲が多いのかと期待していたが、もっと広いレパートリーで、小生が知っていたのは シクラメンのかほり と 霧の摩周湖 と マイウエイ (日本語歌詞)くらいだった。エンデングナンバーはイタリア語でTime to say goodbye。たっぷりと、またある種の安心感をもって2時間を過ごすことが出来た。

自分としては持ち歌に限らずもう少し広い選曲(ジャズナンバーなども)を期待していたのだが、それは別として、圧倒的な声量はまさに驚きの一語。あと2年でデビュー後60年、後期高齢者になったというのは信じがたかった。最近、自分たちの世代の歌手が引退することが多く、そのお別れ的なショウやコンサートに出合うことがあるが、同年代であっても声量が落ちたなあ、と感じさせられたことも少なくないので、特に感じたのかもしれないが。

小生、うかつなことに彼が地元調布の出身だという事を知らなかったが、ユーモアたっぷりなトークもなかなかで、学生時代までの地元の話も好感を持って楽しむことができた。しかし話が進むにつれて、彼自身が昨今の日本のありように不安を持ち、また我々の時代、つまり昔日の良き社会の復活を望んでいることが胸に響いた。米国人女性との結婚もあり、ニューヨーク生活も長かった経験もあることだろうが、そういう思いがこのツアーのタイトルになっていたのだ、ということを改めて知った。まだまだ、引退には早い。好漢、幸あれと思う豊かな気持ちで帰途についた。

(編集子)実は上掲の文章はベイエリア在住の五十嵐恵美君が、小生が珍しくコンサートに行ったことを知って、そのことを彼女のブログに寄稿してくれないかという依頼があったので書いたのだが、驚くなかれ小生のほうにアップするより前に翻訳版が届いたので、それを転載する。

/23/2023 Akira Fuse Concert “Reviving the Passion of the Old Days”

On January 23rd, I had the opportunity to go to Akira Fuse‘s live tour concert held in Chofu City.

As soon as my wife found it, I made a reservation. As the theme of the concert was “Reviving the Passion of the Old Days” I expected that there would be many songs that we had often heard before, but it had a wider repertoire. Few songs I knew were “Smell of Cyclamen” and “Lake Mashu in Fog”, and “My Way” (in Japanese lyrics). The ending number was “Time to Say Goodbye” in Italian. I enjoyed and spent two hours with a certain sense of security.

Personally, I was expecting a wider selection of songs (including jazz numbers) in addition to his own songs, but apart from that, his overwhelming voice and the volume were just a word of surprise. It was also truly a surprise that in two years, 60 years after his debut, he would become a late-stage elderly of 75-years old. Recently, many singers of my generation are retiring, and I sometimes see them sing at their farewell shows and concerts. So, I may have felt that way about Fuse in particular.

I didn’t know that he was originally from Mitaka City and attended a local junior high school in Fuchu City where I live close by. However, as the story progresses with a good sense of humor, it struck me that he himself was worried about the current state of Japan and that he hoped for the revival of the good old days of our times. He was married to an English woman and probably lived in New York for a long time thus perhaps came up with the theme of the concert this time. It’s still too early for him to retire. I went home with a rich feeling and was sending my all the best to the singer in the coming years.

流石、エミ! と言いたくなる名訳。和文英訳のモデルとしてご一読されたい。特に原文最後の数行の英訳、みごとではないか。彼女の完璧性を追求する持ち前の姿勢から、(布施前夫人の国籍)と(調布で生まれたという事実)を再度調べました、というメモが入っていて、前夫人はアメリカ人だとばかり思っていた小生の思い込みを訂正してくれ(上記ボールド体)、また調布生まれというのは間違いで、出生地は三鷹市であることも調べてくれた。この出生地のことは現場で本人も詳しく説明していたのだが、長じては調布あたりによく来ていた、という事もあり、彼自身(聴衆に花を持たせたのは間違いないだろうが)調布の話を度々していたので、小生承知の上で省略してしまったものである。

しかし、ほんわかとした2時間だったことに間違いはない。

(安田)温かいほのぼのとした気持ちでブログを拝読致しました。ありがとうございます。布施明は一歳下の1947年生まれ。将に同世代です。’70年代、彼の歌をよく聴きました。布施が齢75を過ぎて朗々たる歌声で観客を魅了しているというのも驚きではありますが、同姓代としては嬉しい驚きです。

五十嵐恵美さんの名英訳は流石というしかありません。ほぼ2年近くにはなるでしょうか、彼女の秀逸な筆に感嘆するのは。コンサート体験を書き上げるのも早ければ英訳完了も「早撃ちマック」ですね。また加州からの便りを頂けると嬉しいですね。

元夫人(1980~88年)のオリヴィア・ハッセ―の写真添付します。ロミオとジュリエット出演当時17歳。

何はともあれ、現在、彼が元気よく活躍しているのは結構なことで勇気づけられます。

 

(船津)2021-12-9日に「布施明」の美声を聞きました。墨田区の対応で我がブリリアタワー住人の有志とほほ無料で聞きました。中々の美声で昔を思い出しました。そう言えば前の可愛らしい奥さんどうしたのかなぁ。

コロナの現状と対策について   (34 船曳孝彦)

今コロナに対するマスコミの報道は、感染者数と死亡者数の増加に絞られています。確かに死亡者は6万人を超えていていますが、致死率の高い流行となったかというと、そうではないと思います。死亡者はほぼ高齢者、ハイリスク患者に限られており、これまでの傾向と一致しています。感染者数が激増していますので、分母が大となって分子に当たる死亡者数も大きくなっているものと考えます。実際の現場でもエクモなどを必要とする重症者の割合は減っているといいます。これについても国が正確なデータを示すべきです。

報道では新規感染者数が1万人を超えたかどうか、先週の感染者数と比べて増えたか減ったかの報道に過ぎません。「数日自宅で解熱剤を呑んで頑張って治した」「会社にも黙って有給休暇を取った」などの軽症者、無症状者はゴマンといるようです。本当の感染者数は報道される5割増しと見てもおかしくない不確かな数字に過ぎません。私を含め皆さんの周囲にも感染者が出ているでしょう。しかし軽症だからと言って甘く見ないでください。そもそもの発熱外来受診から入院治療まで、高いハードルが続き、取り返しのつかない病状に進んでしまうこともありますので、「絶対に罹らないように」と十分ご注意ください。この先、新たな変異種が入ってきて、より感染力の強い、致死率の高い第9波となることも考えられます。

事実日本で50%を占めているBA.5株から、更に変異したXBB1.5株が北米中心に28%と急増(日本では1%)しています。このヴィルスはワクチン接種者や2度目の感染者(ブレイクスルー)の血清検査で、免疫逃避力がBA.5ブレイクスルー血清の13倍ということですから、ワクチンの感染予防効果が薄くなって(重症化予防効果はあり)いますので怖ろしいのです。これがインバウンド優遇政策に載って日本で流行り出す危険があります。

国としてのゲノム分析を行うべきですが、厚労省を始め国の機関は相変わらずの縦割り行政で、大学や専門研究者の意見、データを無視し続けています。どんな株が増えてきて、致死率がどうか、ワクチンの有効性はどうか、など正しく公表すべきです。この非科学的対応には、在野の医学者、科学者は挙って心配、反論しているのですが、何時までツンボ桟敷に置かれるのでしょうか。

感染症法上の分類で新型コロナを厳しく規制のある2類から5類へと今春にも変更すると、またまた閣議決定されると今日の報道です。なぜ二者択一なのでしょうか。新変異種によって第9波を形成するような感染拡大の恐れが残っています。5類となれば水際対策が取れなくなります。5類に拘らず、フレキシブルに対応、変更(新しく2.5類を設けるなど)すればよいところを、思考停止のまま「きちんと政策は行っているよ」というポーズだけにしか見えません。

中国でゼロコロナ政策が一変し、死亡者3などというおとぎ話はなくなりましたが、今まで抑えに抑えていた市民の欲望が一気に爆発的に解放されたとなっては、閉鎖下で静かに確実に増えていた感染も爆発するのは当然の成り行きです。病院の医師は毎日2回のPCRを行っていましたが、全く行わなくなって、PCRキットが社会から消えてしまったという大転換です。感染者数は9億人に達するという説もあります。人口14億人の64%ということになります。公式データがWHOに注意されて診断基準からフラフラ動き、感染者数、死亡者数ともに正確なことは分かりません。しかもこれから数億人規模の人民大移動【春節】を迎えます。感染者数はどのくらい増えるでしょうか。結果として社会的免疫形成の大実験となりました。興味があります。

 

私達はどう対処したらよいでしょうか。希望的な面も含めての私見です。

ポストコロナ社会は、プレコロナ時代の社会の伝統、良さを見直し、次代へ継承することを真剣に考えるべきです。冠婚葬祭が変質しています。人とのつながりが殆どスマホ頼りとなっています。若い人の学力も体力も落ちています。他人のことを考えない人が増えています。TVからは殺伐としたニュースしか流れて来ません。それこそ【もう一度日本】と言いたいところです。

これまでの合理的でない対応でなく、賢く対応しましょう。

先ず、感染しないよう人込みは避けましょう。電車、バスなど交通機関、あるいはデパート・スーパー等の雑踏を極力避け、仕方のない時は絶対にマスクを付けましょう。必須です。常識的に言って住宅街を歩くときなどはマスクの必要ありません。

会食も原則OKと思います。アルコールを飲んでワイワイガヤガヤするのは危険とされています。酒は静かに飲みましょう。

旅行、山行、ゴルフなどは往復を除いて全く問題ありません。エアロゾルに含まれたヴィルスがゴルフ場の空気に漂っている訳はありません。

オミクロン対応のワクチン接種は必要です。変異株に対しても一定の有効性が認められています。重症化を防いでくれます。インフルエンザワクチンもお忘れなく。一日も早く正常な生活に戻れるよう祈っています。

乱読報告ファイル (38)風神雷神 

(普通部OB 船津於菟彦)
上下二冊の長い物語ではあるが、途中から一気に読ませる原田マハの筆力は凄い。お奨めです。あらすじは20××年秋、京都国立博物館研究員の望月彩のもとに、マカオ博物館の学芸員、レイモンド・ウォンと名乗る男が現れた。彼に導かれ、マカオを訪れた彩が目にしたものは、「風神雷神」が描かれた西洋絵画と、天正遣欧少年使節の一員・原マルティノの署名が残る古文書、そしてその中に記された「俵…屋…宗…達」の四文字だった――。

織田信長への謁見、狩野永徳との出会い、宣教師ヴァリニャーノとの旅路……
天才少年絵師・俵屋宗達が、イタリア・ルネサンスを体験する!? と言う縦横無尽な想像力とマハさんの筆致に本の中に引きこまれてしまいそう。織田信長の野望とかイエズス教会の日本への思惑とか天正遣欧少年使節の目的とかが絡んで俵屋宗達は伊太利亜ルネッサンスのカラヴァジョまで絡んでくるとはねーぇ。ノンフィクションだったらこうは書けない「フィクション小説」だから書ける世界ですね。

織田信長の息が聞こえてきそうな描写は凄い。そしてあの俵屋宗達に「洛中洛外屏風」をローマ教皇に届けさせ、密かにローマの洛中洛外絵図を書かせるとはね。俵屋宗達が最後の方のミラノの教会のあのダヴンンチの「最後の晩餐」の壁画の前で若きカラヴァジョと遭遇し会い友好を深めの処はやや長いし、チョット無理があるように思うが、「俵…屋…宗…達の四文字だった――。」の暴騰の答えと原田マハのカラヴァジョへの思い入れがあってのことだと思う。
天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は、1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団である。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案した。豊臣秀吉のバテレン追放令などで一時帰国できなくなるが、1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機で日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれた。
(HPOB 小田篤子)

原田マハさんの小説は、画商や学芸員、キュレーター等から始まり、過去の画家の世界に引き込まれていきます。昨年3月に長崎を旅行し、お土産屋で、長崎文献社発行の案内書、《長崎発ローマ行き、天正の旅》を買い求めました。その本によりますと;

1582年、長崎港から13歳前後の4人の少年、「天正遣欧使節」は旅立ちました。
生還率は50%以下という大航海で、千々石ミゲルの母親は反対し体をこわしたそうです。長崎を出港し、船酔いに苦しみ、20日後にマカオに到着しますが、次の風を10ヶ月待って過ごしました。その後、風待ちを繰り返しながら、マレーシア、インドに寄り、2年6ヶ月後の(1984/8/10)ポルトガルに到着。《世界の帝王》と言われていた、フェリペ2世に謁見。
フェリペ2世は彼らの着物、草履、袴、刀、及び書状を上から下、右から左へ読むこと等、大変興味を持ったようです。
スペインを経て、最大の目的地ローマでは国境近くから教皇が送った300名の兵に護衛され、ドイツ皇帝やフランス国王と同じ扱いの謁見を受け、帰りには教皇から、使節の目的でもあった日本での布教のための資金や大名への返書、贈り物、旅費を与えられました。大人気だった4人の少年(東洋の貴公子)は、途中、グレゴリウス13世の崩御により新教皇となったシスト5世の良い宣伝となり、ヴァチカン図書館の「シスト5世の間」に描かれています。
ヨーロッパでは使節に関する書物や小冊子は78種も出され、サムライの子としての礼儀作法やキリシタンとしての誇りを持つ彼らはアイドル的だったようです。
1590年13歳前後で日本を発った少年4人は、8年半後、21,22歳の青年になり帰ってきました。その後4人は秀吉に謁見し、イエズス会に入りますが、それぞれ神に見はなされたように思われる運命をたどっています。
使節が織田信長に託された「安土屏風」は、ヴァチカンの地図画廊に飾られていたらしいのでが、現在もその所在は不明。行方を追っていた滋賀県安土町はローマで、偶然、使節の少年《伊東マンショ》の肖像画に出会いました。肖像画は時空を越え、2006年に長崎に帰ってきました。大村藩士を先祖とする獣医博士の小佐々氏は長年の、家系研究の結果、少年使節で殉教した《中浦ジュリアン》が先祖だと分かったそうです。小佐々氏は仕事で何十回も、少年達が大歓迎を受けた、スペイン、ポルトガル、イタリアに行っており、フランシスコ·サビエルの子孫と知り合ったことからスペインのムルシア州で、”少年使節訪問415年記念講演”を行っています。
(船津)小田さん、小生の駄文に大きな花を添えて戴き有難う御座います。原田マハの次元を越えた空想小説はあたかも事実のように見えてきますね。あの絵は何処へ行ったんでしょうかね。
スペイン・葡萄牙旅行の時に天正遣欧少年使節がこの教会でパイプオルガンを弾いたとかいろいろな「伝説?」遭遇致しました。澳門の教会のファッサードの彫刻の右側の怪物は徳川家康とか????

タレントとアーティスト

読売新聞のコラムに ”タレント” という用語についての疑問がとりあげられていた。外国語とくに英語をいわば日本語化して、本来の意味とは違う使い方が蔓延してしまう例は数多くある。英語の基礎知識を持ち合わせている人は日本語での使い方が原語本来のものと思い込んでしまい、英語会話が必要となった場合に自信満々でつかってみたが全く通じない、という喜劇はよく耳にする。

会社時代、仕事のために来日した日本好きのアメリカ人の一人が、cold という単語の日本語を サムイ と覚えていて、冬のある日、喫茶店に入って、サムイミルク クダサイ と注文した。彼はつめたいミルクを注文したつもりなのに、あたためた牛乳がでてきたのだそうだ。いろいろ聞いてみると、表は寒い、だからミルクを飲みたい可哀そうなガイジンがいる、と思って親切にもミルクをあたためて持ってきたものと思われる。この種の間違いが笑い話で済んでいれば問題ないが、深刻な問題になることもあり得るのではないか。

読売のコラムが指摘したように、talent は本来、才能、資質といったことを表す単語であって、辞書のどこを探しても芸能人を指し示す使い方はない。おそらく、だれかが、有望な新人を売り込むために 彼女にはたぐいまれなる資質がある、といった程度のことをタレントにめぐまれた、というような使い方をし、その後、歌にせよ演技にせよ、世の中に認められるには才能=タレントが必要なのは当然なのだから、その持ち主を指すようになり、現在では本来才能・資質と言われるものとはかけ離れて、芸能人全般を指すようになったのだろう。

此処まではまあ、笑い話で済ませられる程度の誤用というか転化だと納得できるのだが、小生どうしても抵抗するのが昨今のテレビ番組でめったやたらに使われる アーチスト という単語である。この用語は今やほとんど上記の タレント の同義語というような意味になってきている。talent と art は正統的な日本語で言えば、才能 と 芸術 という、共通点がない概念になるはずだ。英語の辞書でも art の訳語に日本語でいう芸能に近い言葉はみつからないし、talent には芸術を意味する訳語は当然、無い。 現在すこしばかりかじっているドイツ語であってもこの二つの概念は die Kunst と片方は die Fahigkeit  或いは,die Begabung という女性名詞、あるいは das Talent という中性名詞 であらわされるし、その行為者は artist か Kunstler であって、そのどこにもここでいう日本製英語の アーチスト にあたる使い方はない。それに該当する原語は entertainer であり Unterhalter であろう。ただしいて言えば、ドイツ語で芸能人、と辞書をひくと後ろの方に Kunstler der Unterhaltungsbranche , 訳してみれば 芸能分野における達人、という解釈がある。日本で言えば文化勲章を受章するに値する俳優、というようなニュアンスであろうか。

もしアーティスト、という単語が今後、今通りの意味で日本語として定着してしまうと、サムイミルク的な喜劇ではすまないことになりはしないか。タレント、までは、まあいい、としよう。もう後戻りができないほど日本語になってしまったのだから。しかし今使われている アーティスト=芸能人 という使い方はどうにも我慢できない。言ってみればハイフェッツと北島三郎が同じくくりで語られるのが日本の文化程度なのだ、と言っていると同じだからだ。せめて天下のNHKくらいは 芸術家と芸能人を区別してもいいのではないか。 どうしても英語がつかいたいなら、エンタテイナー という立派な用語があるではないか。得意がって話す本人の教養が疑われることのないようなことのほうが、現在進行加速中の英語授業強化(多少英語を使う場を経験してきた身で言えば、天下の愚挙だとしか思えないのだが)などよりよほど大切なのではないか、とおもうのだが。

(菅原) 100%、同意。もっともらしい英語を使うより、きちんとした日本語があるんだから、英語ではなく、日本語を使って欲しい。
小生が最も気に入らないのは、例えば「チケットをゲットしよう!」。これを聞くと虫唾が走る。 それにしても、タレントとアーティストがごまんといる日本は、何と幸せなことだろう。

(船津)タレントは海外からの接客業のお嬢様を言う事が多いみたい。何の芸も無いですが一応「タレント」とと言う名目で来るようですね。

 

 

 

 

 

 

 

エーガ愛好会 (186) 悪魔のような女  (44 安田耕太郎)

監督は巨匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾー。同監督の世紀の名作1953年制作のイヴ・モンタン主演「恐怖の報酬」の2年後1955年制作のフランス映画サイコスリラーの傑作。クルーゾーはサスペンスやフィルム・ノアールの監督として有名。日本公開当時のポスター(写真貼付)には「映画史上とんでもない大作!!」なる刺激的な見出しが踊っている。

クルーゾーは、映画史上初めて世界三大映画祭(ヴェネティア・カンヌ・ベルリン)の全てで最高賞を受賞した監督でもある。また、ヌーヴェル・ヴァーグの生みの親とも言われている。「悪魔のような女」でシモーヌ・シニョレ(当時34歳)と共演したもう一人の主役を演じたヴェラ・クルーゾー(当時42歳)は監督の妻(1950~60年)で、「恐怖の報酬」に続いて夫の監督作品出演。

この映画公開から現在まで77年経ち、この類のスリラー映画は珍しくなくなったが、公開当時の衝撃の大きさはいかばかりかと想像に難くない。チャールズ・ロートン監督の1955年作品「狩人の夜」、ビリー・ワイルダー監督の1957年作品「情婦」、ルイ・マル監督の1958年作品「死刑台のエレベーター」、ヒッチコック監督の1960年作品「サイコ」などと並ぶサスペンス、サイコスリラーの傑作だと思う。モノクロ映像の光と陰そして音、更には鏡、酒、木箱などの小道具を巧みに使う監督の卓越した手腕が、映画ストーリーの不気味さと恐怖を駆り立てている。全編を通して謎と気持ち悪さが続き(不気味な音楽とモノクロ画面がより増幅させて)、最後までドキドキさせられる。

哀れな死に方をした不幸な妻を見事に演じたヴェラ・クルーゾーはこの映画の5年後、映画の結末のように亡くなる。享年46。1960年の映画「真実」のメガフォンを執った夫アンリ=ジョルジュ・クルーゾーは主演女優のブリジット・バルドーとの親しい仲が取りざたされ、それを苦にしたヴェラは神経衰弱に陥りパリのホテルの浴室で心臓麻痺を起こし急死。服毒自殺との説もある。

映画で元警視の探偵役を演じ事件の解決に一役買ったシャルル・ヴァネルは「恐怖の報酬」でイヴ・モンタンと共演し、カンヌ映画祭男優賞を獲得している名脇役だ。サイコスリラーの古典とも言うべき見応えのある面白い映画だった。

 

 

KWV 三田会 新年会開催

コロナのとばっちりで見送られてきたKWV三田会新年会が3年ぶり、今年は先回までとは場所を変更し、大崎ニューオータニインで開催された。今回参加者のうちの最高齢、32年卒中村弘先輩(ダンブさん)の音頭での乾杯、年男年女各位による鏡割り、と恒例の行事など、時代は変わっても変わらないよきKWVの伝統を味わい、また感謝する半日であった。卒年別参加者は 30年代35人、40年代34人、50年代19人、60年代以降3人で、最も若かったのは平成30年組の川上友輔、高田蒔子両君。現役を代表して山荘担当の土井君が参加して現役の状況などを披露してくれた。現在の現役部員は1年生26(うち女子5)、2年生18(5)、3年生16(5)、4年生14(3)合計74人とのこと、我々(36年卒)のほぼ3割くらいだが、毎週ほぼ2本見当のプランが消化されているという。何をするにもちょうどいいサイズなのではないかと思われる。今後の健闘を期待する。

新年会の開催方法などについては時代の流れもあり、いろいろと議論もあるだろうが今回の参加者の年齢分布をみると、昭和60年以降ほぼ30年のレンジで出席者がおられないのはなんとも寂しい限りである。社会人生活を経て初めて分かることだが、日本の社会では企業で働く人にはその範囲での交流はあっても、それ以外のいわば地元社会での付き合いはほぼないと言っていい。編集子はアメリカでの経験しかないが、かの地でできた友人の多くは会社以外にも教会とか、地元の活動とか慈善活動とかいろいろな面で広い付き合いがあり、会社を離れれば別人のように生き生きとしていて、会社での行動などからは想像もできないくらい、友人たちの尊敬を集める存在だったりした例をたくさん知っている。

わが国にはなかなかこういう地元社会での交流が育つ機会がない。特に東京ではいわゆる下町の風情や人情が希薄になり、隣は何をする人ぞ、が当然になる。企業や学校でのOB会というものがなんとか懐かしい時代を思い出させることはあっても、それは一時的なものにすぎない。また体育会系の場合は常に勝った負けたの世界だから、学生時代の戦績によって付き合い方が決まってしまい、上下の付き合いが発展しにくい、という問題があるようだ。

KWVはその点、それまで単なる名前だけにすぎなかったOB会が 34年卒妹尾先輩と彼を補佐した学年横断的なスタッフのご尽力で、学生時代の交流を一期一会とするのではなく、新しい活動母体として現在のKWV三田会ができた。編集子の例をとると、毎日受信しているほぼ30通くらいのメールの半分以上はこのOB会メンバーからのものであり、それもこの三田会ができて初めて知遇を得た、という人が大半である。パーティの席上,どのテーブルに行っても誰か、知り合いがいた。すべてこのOB会活動で知り合った、それがなければ知ることもできなかった後輩諸君である。山歩きにせよスキーにせよ飲み会にせよ現役時代には全く知らかった先輩後輩との付き合いがしょっちゅうあり、そのおかげである。これはもう、OB会、という回顧の団体ではなく、新しい行動領域であって、特に昨今残念ながら日々,痛感する老い、の現実とそれが惹起しかねない無気力な老境への誘惑を断ち切ってくれる、なにか、なのだ。

上記したようにこの活動というか存在に関わることの少ない平成時代の若手OB各位にはぜひともご一考いただきたいことである。。。。というのが本稿の年頭所感、であろうか。

 

 

 

 

 

 

 

エーガ愛好会 (185) セーブゲキ派から

飯田兄保有のDVDリストというものが出て(考えたら彼にはDVDを買っていない秀作がほかにもあるでしょうが)、エーガ愛好会仲間内が騒然としています。

余り欧州もの、文芸ものを観ずに馬齢を重ねたことを今さらながら反省しますが、われら絶滅危惧種、セーブゲキスクールも何か言わなきゃいけませんな。僕の選んだセーブゲキベスト10は下記の通りですがどんなもんでしょうか?

1.荒野の決闘                             2.大いなる西部                            3.黄色いリボン                             4.捜索者                                    5.シェーン                              6.ウインチェスター銃73                          7.シルバラード                                8.真昼の決闘                             9.駅馬車                                  10.大平原

(保屋野)私はあまり西部劇に詳しくありませんが、ジャイさんの挙げられた中では、「大いなる西部」「ウインチェスター銃73」「真昼の決闘」が良かった。後は「ダンス・ウイズ・ウルプス」「シマロン」「西部開拓史」「ヴェラクルス」が面白かった。また、「縛り首の木」は主題歌が秀逸。

「荒野の決闘」は私には、バート・ランカスターの「Ok牧場の決闘」の方が西部劇らしかった。「駅馬車」や「シェーン」は傑作だと思いますが、「黄色いリボン」「捜索者」はイマイチ。「シルバラード」はあまり覚えていません。なお、「大平原」はまだ観てません。

(飯田)大兄のセイブゲキ・スクールの一員として、私の選ぶベスト10も略、似たり寄ったりですが、シルバラードはTVで近年見た記憶がありますが、あまり覚えていない。平原児は劇場公開で観ていますがその後は再見していないのでベスト10に入るかどうか分かりません。他は異議なし!!

どこまでを西部劇に入れるか分りませんが、近年BSシネマ等で放映されたものを含めて、私なりに追加してみました。

「シンシナティ・キッド」「華麗なる賭け」「ネバダ・スミス」の3本はs.マックイーン主演。「縛り首の木」(G.クーパー)と J.ウエイン主演で「エルダー兄弟」「オレゴン魂」「戦う幌馬車」「ラスト・シューティスト」、「勇気ある追跡」「静かなる男」。

「許されざる者」(B.ランカスター、A.ヘップバーン)、「墓石と決闘」(R.ライアン、J.ガーナー)、「バッファロー大隊」「モホークの太鼓」「裸の拍車」(J.スチュアート)、「胸に輝く星」(H.フォンダ)「「襲われた幌馬車」(R.ウイッドマーク)。「ワーロック」「ガンヒルの決闘」「リバティバランスを射った男」「ワイアット・アープ」「ボンドー」「征服されざる人々」「OK牧場の決闘」「ジャイアンツ」。

追加ですが、”三人の名付け親” と ”シャイアン” などもありましたね。

(編集子)飯田兄、フォードの名作、三人の名付け親 を忘れてました! 自称ファンとしてお恥ずかしいかぎり。

フォードものの中でも一番感動を呼んだ作品でした。砂漠に逃げる3人のうち、ペドロ・アーメンダリスは運命を悟って自殺し、ハリー・ケリー・ジュニアも命尽きる。2人の幻影に励まされながらなんとか人里へたどり着いたウエインの前にまよったロバがあらわれる。砂漠の中でどこへ行こうかとまよった時、偶然手から落ちた聖書をひらくとそこに地名がでてくる。聖書に詳しい人ならば思い当たることなのでしょうが、信仰が荒野のなかで人を導く、というテーマが伏線でした。ワード・ボンドも心優しい保安官で出てくるし、捨てられた幌馬車にとりのこされた母親がミルドレッド・ナトウィック、つまりフォード一家総揃いでした。この作品の主演3人のうち、ペドロ・アーメンダリスはその後、自分が癌と分かって自殺したそうですが、”ジョン・ウエインはなぜ死んだか” という本によると、彼をはじめとして多くの名優の死因のなかでは、西部の砂漠での西部劇に出演した経験者が非常に多いそうで、著者はこれがアメリカ軍による核実験の場所(ネバダ)に近かったからではないか、と推測しています。セーブゲキ、はストーリーのなかでも、またエーガの撮影という後世の出来事にも、多くの犠牲を生んだ、という事になりますかね。複雑な感情ですが。

(小泉)セーブ劇の感想を時折書いている者として、セーブ劇ベスト10を無視する訳にはいかないと思いましたが、選ぶとなると難しい。Gisanはじめ皆さんのものと大同小異殆んど変わりありません。そのエーガそのものの好き嫌いか、監督か、主演者の好みか…等々選び方にもいろいろあると思いますが、小生としては、主演者の偏りがないような見地から、好きなエーガを選んでみましたら、ありふれたものに落ち着いたようです。

1. 駅馬車(ジョン・ウエイン)
2. 真昼の決闘(ゲーリー・クーパー)
3. 荒野の決闘(ヘンリー・フォンダ)
4. 大いなる西部(グレゴリー・ペック)
5. シェーン(アラン・ラッド)
6. ウインチェスター銃‘73(ジェームズ・スチュアート)
7. 昼下りの決闘(ランドルフ・スコット、ジョエル・マックリー)
8. 決断の3時10分(グレン・フォード)
9. 許されざる者(クリント・イーストウッド)
10.OK牧場の決闘(バート・ランカスター、カーク・ダグラス

蛇足:監督から見るとジョン・フォードは1と3。2はフレッド・ジンネマン監督がヒューマニズムの立場から英雄的な行動を問いかけ、クーパーが英雄でない普通のヒーローを熱演。4の「大いなる西部」のグレゴリー・ペックは「無頼の群」で復讐に凝り固まった牧場主を熱演したり、「白昼の決闘」「廃墟の群盗」「拳銃王」等で異色の人物を演じた。5のアラン・ラッドは「ネブラスカ魂」「烙印」「赤い山」等の西部劇にも出演したが、「シェーン」以上のものはなかった。6のスチュアートはアンソニー・マン監督のもと、これ以外に「怒りの河」「裸の拍車」「遠い国」「ララミーから来た男」の計5本、デルマー・デイビス監督との「折れた矢」でインディアンと白人の関係を逆転させた。7の「昼下がりの決闘」はサム・ペキンパー監督が、盟友二人の最後の哀愁を描写。7の「決断の3時10分」は「折れた矢」のデルマー・デイビス監督が、フォードに悪役を、「シェーン」の父親役ヴァン・へフリンと対決させ心理戦を見所とした。9の「許されざる者」はマカロニウエスタンから監督業に登り詰めたクリント・イーストウッドが、師と仰ぐ、セルジオ・レオーネとドン・シーゲルに捧げ、最後の西部劇と公言した監督主演作。10の「OK牧場の決闘」はジョン・スタージェス監督の決闘三部作(他に「ゴーストタウンの決闘」「ガンヒルの決闘」)で西部劇のあらゆる魅力が詰め込まれた傑作。

 

乱読報告ファイル (37) 高峰秀子 ベストエッセイ  (普通部OB 菅原勲)

図書館の年末年始の連休明けに、早速、新刊と言うより新着の棚を覗いてみた。余り食指が動く本はなかったが、その中に一つだけ「おや」と言う本を見つけた。その文庫本は「高峰秀子 ベスト・エッセイ」(2022年、筑摩書房)とある。まー、エマヌエル・トッドよりは難しくなかろうってんで借りて来た。

ところで、高峰に関しては、小生、映画は「二十四の瞳」しか見ていないし、これまでさして興味ある女優ではなかった。従って、その随筆も読んだことはない。この「ベスト・・・」は、松山善三・高峰秀子夫妻の養女だった斎藤明美(元:週刊文春の記者)が、高峰が書いた数多ある随筆の中から編纂したもので、高峰の取っ掛かりとしては、それこそベストそのものだった。と言うのは、「食わず嫌いは損のもと」と言う言葉があるが、小生が正にそれを地で行くボンクラだったからに他ならない。しかし、面白くて面白くて、あっと言う間に読み終わり、こりゃーただものじゃーねーな、ってのが第一印象。月並みな表現だが、目から鱗。

話しは、彼女の父親の妹(高峰の叔母)が子をなさず、その間、貰うあげないなど色々ひと悶着があったようだが、最終的にその養女となる。この養母が最後まで、金銭面を含め、高峰の私生活の足を引っ張りまくることになるのだが、実は、活弁士をやっていたことがあり、その芸名が「高峰秀子」だったことから、平山秀子(本名)が高峰秀子になったと言うことのようだ。
兎に角、売れっ子で売れっ子で、5歳から撮影所に入り浸り、学校には殆ど行っていない、いや、行けなかった。後に「文化学院」に入学したが、禄に学校に行っていないことから、学長から、「俳優か、さもなくば、学校か」と選択を迫られ、即、俳優と答えたから、学歴は全くないに等しい。従って、読み書き算盤ではないけれど、例えば、字を読むことについても大変な努力をしたようだ。
出自が真面でないこと、学歴がないことなど、それが引け目で、ひねくれ、劣等感の塊になっても可笑しくなかったが、そうならずに済んだのは、超一流の人たちとの交流があったからではないかと勘繰っている。例えば、司馬遼太郎、志賀直哉、安野光雅、梅原龍三郎、黒沢明、越路吹雪、有吉佐和子、小津安二郎、池島新平、扇谷正造、などなど。また彼らとの交遊録がこのエッセイの白眉でもある。その一例を挙げるなら、松山善三・高峰秀子夫妻とはならず、クロさんこと黒沢明・高峰秀子夫妻となっていた可能性も充分にあったらしい。

「ベスト・・・」読了後、直ちに、高峰の処女作である「巴里ひとりある記」を読んだ。これは、1953年の出版だから、彼女が29歳の時。確かに、ミーハーのきらいがあるのは否めないが、それははじめの部分だけ。その内、直ぐに、高峰らしい視点で冷静に巴里を眺め、大いに楽しみ、そして、平山秀子を満喫している。だいぶ前に、林芙美子の「下駄で歩いた巴里」(1930年代)を読んだが、何か貧乏くさくて余り面白くなかった。しかし、巴里と言う街は、それほど人を惹きつけるものなのか。それは女だけには限らない、男でも、確か詩人の荻原朔太郎が「フランスへ行きたしと思へどもフランスはあまりに遠し・・・」。これもなんだか寂しいねー(これ、高峰の口調)。一言で言えば、知ったかぶりはしない、カッコー良くも見せない。つまり飾りっけの無さがその最大の美徳だろう。
今現在、高峰に入れ込んで、「わたしの渡世日記」から抜け出せず、この世のものとは思えないヒエロニムス・ボスは、暫しお預けだ。