俺の第二の青春ーその終着駅

青春とは、と議論があれば必ず引用されるのが、米国の詩人サミュエル・ウルマンの “Youth is not a time of life; it is a state of mind”青春とは人生のある期間を指すのでなく、心の持ち方を指すものである) というくだりだろうか。編集子は幸い経済的にも恵まれて中学からの一貫教育で育ち、受験地獄も経験することがなかった。特に大学4年間をワンダーフォーゲル部という理想郷に過ごすことが出来た。この時期を自分の青春時代、というのは当然であろう。しかしウルマンの言うように、それが人生のある期間を指すのではない、とすれば、人によっては第二、第三の青春を謳歌する幸運に恵まれることもある。それはまさに自分に起きたことだった。

1960年代、高度成長前夜の日本で、まだ数の多くなかった大学卒業者、特にいわゆる文科系の学生は多くは金融、あるいは商社を選ぶものが多く、メーカー、それもビッグビジネスでない会社を選択するものはあまりいなかった。自分は天性の天邪鬼的性格ゆえ、”あんまりでかくなくて確かな会社” と考えていた時、縁あって当時はまだ横河電機製作所、とよばれていた横河電機に就職ができた。この会社は当初から技術と職人芸を目指していたから、すぐれたエンジニアは数多くいたが、文化系の人間はあまりいなかったので、企業規模が拡大すれば、それなりの展望は大いにある会社だった。入社2年目、米国の計測機器メーカーの雄、ヒューレット・パッカードとの合弁会社(略称YHP)が設立され300人近い従業員がこの会社に “移籍” されることになり自分もその中に選んでもらえたた。しかし立ち上がりの3年ほどは苦境が続き、新会社から従業員を親会社にひきとってもらう ”帰籍” という屈辱の事件があった。しかしこのことによって、残されたYHP社員の間には強固な一体感が生まれ、文字通り社長から新人まで、”赤字解消”というゴールを目指して、”働き方改革” などは糞くらえ、の奮闘を重ねた。この時期を振り返って、後日創立以来初めての専務に抜擢された浅井修之は ”この会社には俺達の青春がいっぱいつまってるんだ” と言ったことがある。まさに自分にとって、文字通り 第二の青春、だった。数年して赤字は解消、その後は米国親会社の発展もあって順調に拡大し、現在の日本HP(合弁解消)が生まれる。

この過程で、”法文系大卒” がすくなかったことが幸いして、編集子は数多くの職場を経験することが出来たが、退職するまでのちょうど時間的に中点にあたる時期、営業部門にできた ”東京支社”という組織の長を経験した。その後、会社としてのYHPは順調に成長を重ね、編集子もその過程で幸い役員にも推薦され、いわばサラリーマン双六を上がっていく結果になったのだが、この ”のぼり階段” での自分には、浅井が言ったころの、”俺達の青春” という高揚感は全くなかった。自分で言うのもおこがましいが、この時期にいくつか手掛けたプロジェクト(人の恨みを買う結果になったものもふくめて)の成果はそれまでに闇雲にやってきたことよりはるかに会社の業績には寄与した、と言い切る自信はあるのだが、である。

ウルマンを再度引くならば、やはり青春とは人生の一時期、ではなくて、心の持ちよう、なのだという事を改めて感じる。自分の第二の青春はYHP八王子工場の片隅にはじまり東京支社の4年間で終わったのだ、と。

その4年間、数多くの人たちの支援をいただいた。その中での一つのグループが昨日、集まった。この席にいるべき何人かがすでに境を異にしてしまったのが何とも悔しい。曽山光明、坪内和彦、近野俊郎。彼らの御霊安らかにと皆で偲んだことだった。

後列左から田辺賢治、編集子、浅原弥生、木内和夫、前列左から天堀兵衛、菅野節子、田中一夫