KWV史上初めての分散集中方式で大成功を収めた八甲田夏合宿のあと、一連の夏のプランが恒例となった秋の涸沢集中で掉尾を飾り、荒木床平総務以下の名執行部は惜しまれつつ引退、1960年10月、われわれ(現在OB会用語によれば36年組)にバトンが渡され、小生を総務(現在は部長)に推薦していただいた。副総務は普通部から親友付き合いをしてきた田中新弥。毎日の部務をなんとか仲間に助けられて夢中な1年だったが、そこで直面した問題について、”ナンカナイ会ふみあと” 第12章から抜粋してみる。これはもちろん回想にすぎないが、現代の新しい学生と部活動のありかたについて、若い世代とくに現役諸君に読んでもらえればありがたいのだが。
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新たな希望と決意をもって責任学年になったわれわれだったが、もちろん、万事がバラ色であったわけではない。一言でいうと、中尾・妹尾・荒木と名総務のもとで受け継がれてきたKWVの伝統とか雰囲気とか言ったもの、それを象徴したのが25周年記念ワンデルングでの先輩各位との素晴らしい交流だったが、それをどのように継承していくのか、そもそも慶応のワンダーフォーゲルとはどうあるべきなのか、といった基本的なことで悩むことが増えてきた。その基本的な原因は何といっても人数の多さであり、それがそのまま、部活動に対する意識、態度の拡大といえば聞こえはいいがありていに言えば拡散であった。
このような状況は、KWVに限らず、当時のいわばブームのように全国規模でできた他大学にあっても同じだったようだ。日本山岳文化学会発行”山岳文化”14号(2013年11月)によると、第二次大戦後、一番早くWV活動を復活させたのは明治大学であり、これに続いて慶応、立教、中央、早稲田、というような順番で活動が再開された。1951年に国立大学として初めてのWV部が東大で発足したということであるが、その時、体育会に所属を申し込んだが”運動部は記録を目指している。ワンゲルのように記録を目指さない者は運動部ではない””相手に勝つことを目的にしない者は運動部ではない”ということで、結局、体育会に所属するまでに10年かかったそうである。この時代、旧来の文化や教育になじんできた人たちにはレクレーションをスポーツとして認めることができなかったからではないか、と筆者は指摘しているが、経済成長と呼応してレクレーションの普及、それと共に全国大学でWV部の創設はあいついだ。しかしどこでも山岳部とWV部とはたがいに強く意識し合っていた、とも言っている。全国の大学WV部の数は、大学進学率の高まりと比例するように増加、大量の部員(100-200人)を抱えた一部にあっては、訓練や命令系統が異常なまでに強化される例もあった、とこの報告は述べている。第二章でふれたが某大学WVとの遭遇でわれわれが見た(編注:北アの小屋で遭遇した某大学Wの ”しごき” の実態)のはその現実の一部だったのであろう。
さて、ここにのべた背景すなわち大量の部員をどのように統率すべきか、また山岳部とは異なった活動や思想をもつWVはどうあるべきか、と言ったことはそっくりそのまま、KWVの課題であった。いくつかの実例を思い出してみる。
1年部員の中に、5人ほどのグループがあった。いずれも高校時代から登山技術の教育を受け、実際のワンデルングにおける行動も十分信頼できるグループだったが、仲間の間での強固すぎるまでのチームワークが排他的になっていく一方、ワンダーフォーゲルとは山登りであるというかたくなな姿勢、などのため、何度かの衝突ののち、退部してしまった。彼らと会い、説得(大人数ではあったが、一度入部したものが退部する、ということは恥辱であると考えていた)するのに何人かの委員会メンバーが大変なエネルギーを費やした記憶がある。
Kというまじめな男がいた。好感の持てる人物だったが、残念ながら心臓の持病を抱えていた。Sという先天的に足首が外側に折れてしまうという奇病を持った1年生には、宮本健が浅貝のスキー合宿でほぼつきっきりで面倒を見たが、どうしてもスキーをすることはできなかった。彼らのように欠陥を持っていても、なお、ワンダーにいたいのです、という学生を何とか支援してワンデルングに連れていくべきか、それとも病気を持つ学生を激しい運動が避けられない部に許容すべきか。委員会の中でも大きな議論があった。
Rはこれもリーダー資格を嘱望されていた好青年だった。しかし彼は”現在のワンデルングには締まりがなく、参加者にも規律がとぼしい。このままでいいのか。この状態がつづくようならば、いつか事故を起こしてしまうのではないか。人数が多いなら多いなりにやるべきことがあるのではないか”、と問いかけ、”リーダー養成を受けたけれども納得がいかないので退部する”という意見を当時発行されていた”やまびこ”という部内紙に書き残して去ってしまった。
女子部員の急増もまた、いろいろな課題を提供した。”ふみあと”に掲載された、当時の代表的な見解を”ふみあと”13号から抜粋する。
体力的にも精神的にも差のある女子部員自身の問題・・・アクセサリーとしての存在で満足するか、苦しかったりしんどかったりしても部員として生活していくかのいずれを取るのか・・・理想は個性の一つに女性というものを持った一人前の部員であること・・・自ら”女の子”という枠を拵えて、萎縮したり甘えてはいけない。女の子だって部員である。体力の差というものは確かにあるが、精神、気力には差がないはずである…問題は気力・・ (佐藤順子)
合宿に女子班を作ろうという声が男子から出たことがある。男子と同じ班に何人かの女子部員がいると、消極性からいつまで経っても一人前の仕事ができない。自主性を養うため、というのが主旨だった・・・手段としてであっても、部に流れている雰囲気と逆方向・・・・共同生活を行う上で、女子がやったほうがいいといいというものもたしかにある。それを自分たちで選ぶのはよいが、女子だからということで目の前のものを回避するのは卑屈 である。 (小山田美佐子)
スキーから雪山へ、といういわば当然の歩みについても議論は多かった。雪山活動そのものに疑義を持つものは少なかったが、それには当然のこととして技術的、体力的な前提条件が伴う。KWVが文連団体であり条件を定めて入部を制限することには疑義がある以上、条件を満たさない部員も許容しなければならないし、部員である以上、部として活動制限を課すことはできない。したがって、プランごとにメンバーや参加希望者と話しあって、範囲なり必要な規範を決めていくしかない。トレーニングについても同様で、スキー合宿や大型プランの前には、リーダーが参加条件として定めることはやったが、体育会のように全員に同じように強制することには抵抗があった。このあたりは、引用した文献にもあるように、”異常なまでに強化された統制”に頼ることはわれわれの選択肢にはなかったのである。
このような現象は、つきつめていえば、ワンダーフォーゲルとは何か、という基本的な、それも”慶応義塾における”という限定詞のもとでの議論が徹底していなかったことに遠因があるだろう。われわれが入部する以前の”ふみあと”には、必ずと言っていいくらい、この種の議論が掲載されていた。われわれの時代にも、もちろん議論や文章はあったが、いずれも”どうするのか”が”なにか”に優先していたような気がする。弁解がましくなるが、それもやはり”人数の多さ”に起因するものだったといえるだろう。一時は廃部すら予想させるほど入部者が減少したものの、現在の現役部員数はある意味で理想的と思える規模になっている。その中で、”理想”と”現実”がバランスをもって実現されることを改めて望みたいものだ。