新春映画三昧  (34 小泉幾多郎)

今年のお正月は、昨年6月家内の母が亡くなり喪中となった。何年か前から正月には、七福神めぐりをほぼ欠かさず続けてきたが、喪中では如何と思ったが、神社はまずいがお寺なら問題ないとという話を聞き、偶々横浜相鉄線の広報誌相鉄瓦版に掲載されていた瀬谷駅の北と南にお寺ばかり4寺ずつ存在する七福神に達磨大師を加えた瀬谷八福神をお参りしてきた。瀬谷八福神めぐりで体を動かしたせいか、億劫がっていた身体に弾みがついたのか、最近は年に一回行ったかどうかの映画館へ新春早々三つも、しかも毛色の変わった「スターウオーズスカイウオーカーの夜明け」「ダウントンアビー」「キャッツ」の三本。共通点は、キャッツはミュージカルだから当たり前だが、三本とも音楽が素晴らしかった。人物同士の関係性に音楽がつながっていた。

 「スターウオーズスカイウオーカーの夜明け」は、1977年に登場した記念すべき第1作から42年、エピソード9となって完結を迎えたのだ。数作かのスピンオフ作品もあったが、オリジナルの3部作後に16年ぶりに前日譚として3部作、さらに新旧3部作の後日譚として全9部作で完結したのだ。第1作が登場した年は、小生42歳、仕事人間の真っ最中だったが、少なくともその3部作は映画館で観た筈、その後の3部作はレンタルビデオかTVか?。最後の3部作のうちの2作は、昨年12月20日27日に日本テレビで放映したのをしっかり観てから映画館へ。スターウオーズ最大の魅力はジョン・ウイリアムズの音楽だろう。序曲をはじめオペラのライトモチーフ技法を用いた人物毎にメロディーに特色があり何れも魅力的。最後の3部作は女性レイが大活躍するが、その最終作は、第1作からの原点へのリスペクトが感じられ、これまでへのオマージュがふんだんに折り込まれる中で、ダークサイド帝国軍と反乱同盟軍との戦いに決着をつけたのだった。あとで分かったことだが、8・9作目の監督ライアン・ジョンソンは、先日gisanが書かれた「ナイブズ・アウト」の脚本監督で、脚本ではアカデミー賞にノミネートされているとのこと。成程「スターウオーズ」最後のまとめ方が最高だったことに納得がいった。しかし歳は争えない。耳をつんざくばかりの音響。
画面の殆んどがアクション。若き頃、血わき肉躍る興奮が、残念ながら騒音に近ずいてきたことも正直なところと言うのは辛い。

 「ダウントン・アビー」NHKのTVで、貴族や使用人たちの人間模様を毎週観ていたが、映画は、TV最終回から、2年後、国王と王妃が訪問するという手紙が届くところから始まる。手紙は蒸気機関車の音と共に、英国の田園風景を蒸気が白く立ち上げながら走るという素晴らしい出だしと共に届くことになる。しかしこれはTVの第1話の開幕でダウントンアビーの相続人が、タイタニック号沈没で死亡したとの報が、蒸気機関車の走りから話が始まったことを踏襲したのだ。映画は国王夫妻の訪問を主軸に、国王暗殺計画のサスペンス、恋愛、使用人同士の諍い等を含め、華やかな衣裳やダンスパーティ等TVとは違った豪華さを楽しむことが出来た。

 「キャッツ」は、路地裏に捨てられた主人公の白猫ヴィクトリアに、ロイヤルバレー団のプリンシパル、フランチェスカ・ヘイワードを起用した以外は、有名俳優陣が出演。それが人間のプロポ-ションを持ち、全身に毛皮をまとった猫人間として、しなやかに身体をくねらせる半人半獣のこの世に存在しない生き物が何か不気味な存在として賛否両論が巻き起こったとのこと。映画は白猫ヴィクトリアからの目線で描き、圧巻の「メモリー」は孤独な娼婦グリザベラに扮するジェニファー・ハドソンの熱唱に酔いしれることになるが、映画化に当たり新たに作曲された「ビューティフル・ゴースト」が、メモリーを補填する歌として奏でられる。ダンスシーンでは華麗なるタップシーンを線路上で見せたり、擬人化したゴキブリが小人の踊り子らしく踊りまくる。名女優ジュディ・デンチ扮する長老猫を中心に大勢が踊り、最後に「メモリー」を歌うグリザベラを天上への旅たちに選出する部族の母親のような存在は、現在のエリザベス女王の貫録を彷彿とさせるのだった。

(編集子感想)毎回思うのだが、小泉さんがこんなに映画や音楽の造詣が深い人だとは想像もしていなかった。ご本人はすでにご記憶にないというのだが、五色スキー合宿最後の夜、卒業生壮行の宴会で、たしか相方はトッパさんだったか椎名さんだったか、このあたりこっちも記憶にないが、ラクダのズボン下姿でやられたパントマイムはただ、ただ、おかしくて、全員爆笑哄笑が絶えなかった。そういうことしか覚えていない小生が悪いのだろうが、これほどイメージの変わった人は80年の人生の中でもはじめてである。先輩、今後とも相変わりなくお付き合いのほどお願い申し上げます。

”ナイブズ・アウト” を観てきた

しばらくエーガにいってないよなあ、なんかない? と二人で夕刊を見て、ダニエル・クレイグが出る、というのがきっかけで府中シネコンへ出かけた。本格的推理劇、しかも密室ものとなるとどんな展開になるのか? クリスティものやらコロンボ警部シリーズまで、テレビでは毎日といっていいくらいミステリをみているが、やはり映画館で見る映画、となると期待が違う。

今までもいくつも推理小説の映画化は見てきたがハンフリー・ボガートとローレン・バコールの ”大いなる眠り(映画の日本語タイトルはどういうわけか”三つ数えろ”なんてものになっている)”、クリスティの ”オリエント急行” ”ナイル殺人事件” ”地中海殺人事件” の3本、エルキュール・ポワロをそれぞれ違った俳優が演じたものが原作の雰囲気を残していて面白かった。。チャンドラーものでは ”さらば愛しき女よ” のロバート・ミッチャムがほかの作品とは全く違った、哀愁を感じさせる演技で感心したものだったが、この ナイブズ・アウトがどんなものか、なによりも007しか印象にないクレイグがどんなものか、楽しみだった。原作のことは全く知らなかったが、ほかの作品にくらべて探偵役の出番はあまり印象に残らず、クレイグは正直、期待外れだった。このつぎの007が春には公開というので、やはりそちらへ出向くことになりそうだ。

前もって知識もなくて見たので、タイトルが何を意味するのかも知らなかったが、現場で原文をみてああそうか、と膝を打った。ナイブズ、とは KNIVES つまり KNIFE の複数形だったのだ。たしかに映画の中では道具の主人公はナイフであり、画面もナイフではじまりナイフで終わる。かなりクラシックであるけれども、現代ものらしく携帯電話が活躍したりカーチェイスもあったりするので、その分救いがあって、陰惨な雰囲気にはなっていなかった。

ストーリーの展開で言えば外部から2階へはしごをかけて侵入するシーンがあって、そのとき、はしごの一部がこわれてしまう。その破片を飼い犬が拾ってきたのをクレイグが見つける。見ている方はここで ! と思うはずだが (これから見る人のためなぜかは伏せる)クレイグはその心配をよそに全く違った結論を出す。見ている方は、実はそのヒントを見ているのだが、僕の場合はすっかりわすれてしまっていた。この辺が映画というツールが提供できる面白みなのだと思わされた。

もう一つ、最後にクレディットタイトルを見るまで気がつかなかったのだが、重要人物のひとりがかの ”サウンド・オブ・ミュージック” のクリストファー・プラマーだったのも嬉しい発見だった。やはり人間、美男俳優と言えども時間は公平にながれるものだ。

見終わったら行こう、と決めていた府中のうなぎ屋が休業。結局、我が家近くのなじみの店で鍋ものをつついた。年始につづいてのハプニングで終わった映画行だった。

ミニ ”接点F” 2020新年会

常連が3人ほど都合つかずだったが相変わらず談論風発

経済学部昭和36年卒F組は多士済々のクラスだった。現役組から3年浪人までそれぞれ気概あり、塾内進学組もレスラーからピアニストまで個性豊かな連中が集まった。第一回のクラス会で会の名前としてそんなみんなの 一期一会 という意味からだろう、接点F という素晴らしい名前を提案したのが山田英樹だった。残念の極みだが山田すでになく、現在は児井正義が中心となり、不定期にミニ、と称しその道のベテラン森田の設営(直近は銀座有楽ビル)で昼酒の会をやっている。今回は関西から飯田武昭が参加。編集子は風邪(まだ新型ではなかった)を発症、欠席。もとF組、参加希望者は児井まで連絡ありたし。

(児井正義)貴信拝承。日頃元気印も鬼の攪乱とは、残念でした。お互い健康第一、まずはお大事に。

昨日は結果的に、岩瀬、溝呂木両君も欠席となりましたが、主賓の飯田君と急遽出席の黒田君を交え(計7名)、時間を延長して、何時もながらの新春大放談会に終始、楽しいひと時を過ごしました。次は暖かくなりましたら(4~5月位に)、何時ものメンバーを招集したいと思いますので、よろしく。

(飯田武昭)先日は沢山集まって頂き大変楽しく話し飲み、歌うことができました。昨日、予定通り宝塚に戻りました。スナップ写真を添付します。黒田兄のアドレスが解らないので全員分を転送ください。海野兄には私から郵送しておきます。

毎回 ”しめ” はカラオケ。岸本が現役時代、銀座六本木と毎夜の社費接待で鍛えた喉を披露することから始まる

(飯田武昭)ミニ接点Fをブログに載せて頂き有難う。貴兄のブログの2017年開設以来をざあ~と!、詳しく!、興味ある記事を読ましてもらいました。

私は高校から塾なので普通部ではないですが、昭和29年普通部卒の集まり「日平会」では貴兄の他、岩瀬君、黒川君はよく知ってます。それと同期の260人位の中の88人もが鬼界へ行ってしまったというその人数の多さに驚かされました。そして横河電機時代の「ハッキリ会」は言いえて妙の命名と笑ってしまいます。

 

私の写っている Youtubeを見てください (39 堀川義夫)

私の写っているyoutube を紹介させて頂きます。お時間があればご覧いただけると嬉しいです。
2015年9月の熊野古道の修験者の道と言われる奥駆道(大峰山脈)を吉野から縦走していて、熊野本宮に着く前々日に、下記のYOUTUBEの制作クルーと会いました。彼らは、イギリスの日本を紹介する番組の制作会社の人たちで、私の逆コースで熊野から吉野に向かう2日目でした。
私は吉野を出発して7日目でした。15分ほどインタビューを受け、いろいろと質問されましたが実際の映像にはあまり映っていません
今日、急にメールが来て懐かしい情景を思い出すことが出来ました。彼らが縦走するにあたり、私が励ましになったようです。
私はこの縦走後、KWV創部80年の京都の式典に参加しています。
堀川さん
こっちの方が長い事映っていますヨ!KWVのTシャツもバッチリ!!https://www.youtube.com/watch?v=9anCc-3B6fE&list=PLgaY1JpnjTtG5a3I1BTR6BYyjDkpBnVaC&index=2ね。浅野 三郎

 

 

 

(47 関谷誠)5年前とは言え、20歳台の若さに見られたとは、さすが堀さんですね! KWVの名がホリさんのTシャツでワールドワイドになりましたね

(39 岡沢晴彦)彼らの大峰奥掛道 最後まで見ました。 4泊5日本当に無茶ですね。 ヨシヲさん 74歳たいしたもんだね。

翌16年から 堀川 飯河 津金 岡沢の4人で 熊野古道の 高野町石道小辺路 伊勢路 18年には飯河 津金 岡沢 と長谷川で中辺路を那智山まであるきました。 よく歩いたものですね。 今はもう78歳 これが最後ですね。

(36 後藤三郎)素晴らしい内容あるVideoですね。KWVの皆に観てもらいたいと思います。

(39 三嶋睦夫)拝見しましたよ。「74才老人」の活躍は見事です!  youtuberなるものが どんなことなのか(ガラケーの私に)良く判ったのも収穫です。

(小日向孝夫)堀川さん 素晴らしいです。いい旅ですね!

(42 保谷野伸)大峰山脈奥駆道の動画、楽しく拝見しました。実は、私もKWV京都イベントの後、同期の萩原夫妻と大峰山に登ったのですが奥駆道はあの何倍もハードなのでしょうね。私も一度挑戦したかったですが、さすがにもう無理ですね。イギリスの若者と堀川さんの会話場面が印象的でした。

(39 長谷川大ニ)堀川さん 素敵なおひげとスマートな出で立ちでのご出演、素晴らしい。つられてyoutube吉野まで見てしまった。

WCや神社に泊まり、夜の9時まで歩いて雨風の中も待ち合わせの時間に間に合うよう歩き続けた英国人は愉快でした。渡り鳥です。億掛けは歩いていないが、八経ヶ岳は飯河と行者還りトンネルから往復した。伊勢路は長かったな。堀川さんはここで足の豆に苦しんだのだっけ?岡澤の記録にあるよう、雲野古道もずいぶん歩いた。小辺路、中辺路、大雲取り越え、小雲取り越え、ついこの間と思ったが、嵐で中止したり都合のつかない年もあったりで10年近くかかっている。奥駆けは結局、吉野金峰山と那智、弥山八経ヶ岳とつまみ食いだが、もういけないかも…。堀川さん、また渡り鳥しましょう。

 

Fair か Equal か

ここ数日、新聞は新型ヴィルス関連の記事で一杯だが、経済面では経団連発の賃金体系改造論が目を引く。これに対しては当然労働側からの発言もあり、どのような形になるかは別として、先回も別のテーマで書いたが、いわゆるグローバリズム (と私見によれば大衆社会化)の浸透によって日本の在り方の変革が否応なしの問題となっているのはあきらかである。

同一労働同一賃金か、安定雇用重視かという論議はそんなに新しいものではない。僕たちはいわゆる”外資系”の環境に放り込まれ、”アメリカ型経営法”の現実にぶつかった1970年代ころからまちがいなく意識していた。

人権重視、法治国家、民主主義、といった原則について異論を唱えるものはなかったにせよ、現実問題として賃金体系、その根幹にあった家族主義的経営となるとこれは観念や主義の問題ではなく文化の問題になってくる。かのキプリングは結局、東は東、西は西 という有名な文句を残して歴史から退場したが、その後の世界大戦やらそれに引き続く現代にあってもその壁は依然としてある。その根幹にある差異は、つまるところ、”公平”という概念を ”fair” を基準として判断するか、”equal” なのかに尽きるのではないか、というのが僕の感想である。同一労働同一賃金、というのは当然、fair を基準とした論議であり、終身雇用は家族主義=運命共同体的な、日本古来の文化を尊重した体系、さらにいえば、弱肉強食の論理にもとづく狩猟民族の倫理と、集団運営が基本の農耕民族の倫理の対決になってくるのだろう。

前者の倫理に基づいた社会には当然、階級制度が生まれる。この 階級 という単語にも解釈によってはいろんな議論があるのだが、昨今の議論は 格差 という用語に置き換えられているように思える。その根源は正にものごとを判断する基準が fair なのか equal なのかということになるだろう。

勃興期というか拡大期というか、部員数が飛躍的に増え、女性部員が急増した僕らの時代の慶応大学ワンダーフォーゲル部にあって、体力差とかいろんな問題に直面した女性部員の立場を明確に定義したのは、33年卒の小林(現松下)千恵子先輩の有名な ”私たちは区別してほしいが差別してほしくない” 宣言だった。このような基本倫理が何なのかが、今の社会には求められるのではないか。賃金体系にしても、何回か議論した英語教育論議にしても、ある種の 区別 を前提に議論する、ということが必要であろう。

僕はアタマの体操として週一度、英会話のレッスンを受けている。個人教授ではなく自分の都合にあわせてインストラクタを選べるシステムなのだが、結果としてロンドン生まれの(自称)アクセサリデザイナで日本女性を妻に持つ男との接触が一番多い。毎回、いろんな議論を双方から持ち出すのだが、一度、イギリスが基本的に階級社会であることをどう思うか、と聞いたことがある。この青年の解答は明確だった。ああ、確かに階級はあるよ。俺は労働者階級だと思ってるし、それを疑問に思ったこともないね。やつら貴族階級がいることも別に不満に思ったことはない。それぞれが一番やりたいようにやってるからね。ずっとそれでやってきたんだから、それでいいじゃん、というのである。言っておくが、僕の見方で行くとオリバー・ワトソン君は日本的に言えばばりばりの知識階級の一員であり、日本でいえば自分を労働階級、という単語で定義するには逡巡するグループに属する有能な人物である。彼のような考え方が、どうも僕の知る限りでは英国でも、アメリカでも主導的なようだ。

日本の賃金体系や労働環境がどうあるべきか、それを論じるのは、幸か不幸か、僕らの年代の任務ではなくなった。課題はこれからの世代が fair を基準とするのか equal を社会運営の基本原理とするのか、ということになるような気がする。

 

 

 

 

外国語を学ぶということ (7)   (YHP OB 上南健次)

こういう時代もあったのだと懐かしく読ませて頂きました。

アメリカ生まれ(1935年)の日本育ち(5歳から22歳)のケンは兄、姉(すでにアメリカでの通学経験あり)と違い英語との対面は中学での I am Tom Brown で始まる“Let’s learn English” で周りの人となんら変わりはなかったです。

大きな変化が訪れたのは1958年に徴兵され、日本語は一切無い、完全な英語社会に放り込まれ、半年を過ぎたころに “俺は日本人だ、間違って当たり前だ“ の境地に至って・・、からどんどん前向きに対処し、どんどん会話力が付きました。

日本人は中学から10年近く何らかの形で英語とのお付き合いがあり学んだ単語の数は充分ですので、後は四の五の言わず、単語の羅列で可能な限り早く“日本人だから間違って当たり前”、“お前は日本語は話せないだろう”の境地に入り込めれればしめたものです。

Ken

(編集子注)

上南さん、というのも多少照れるのだが、愛称 ”けんさん” はYHP (現日本HP) 創立時の入社第一号、小生会社時代の親友のひとりである。創立2年目から日本駐在の米人スタッフが増えたため、担当領域にとどまらずバイリンガルの能力を発揮して日米間のコミュニケーションに欠かせない存在になった。専門領域ならともかく、当時まだ力のあった労働組合との交渉など、日本人でさえ苦労する ”腹芸” の場で、労使の橋渡しをする場面など小生も陪席することがあり、その見事な通訳にただ感嘆したものであった。

本稿 ”外国語を学ぶということ” の初めに紹介し、”そこをなんとか” は翻訳できないよ、と教えてくれた人物とは彼のことである。外国 (もっとも本人がその時米国籍をすでに持っていたのかどうかは知らない)の軍隊という特殊社会を経験し、なまじっかな留学生やら企業の駐在員などとは次元の違う環境で体得した、だれだったか語学の権威が言っていた “斬れる英語” とはこういうものだろうな、とあこがれたものだった。

僕らの時代、YHPには単なるゼニカネや成績を越えて、合弁会社という場を得て、なんらかのかたちで日米の懸け橋になろう、という暗黙の了解が全社員の間にあったような気がするし、そういう意味からも英語を学ぼう、というモチベーションがあったのだろう。YHPから日本HPへと変身した時点でできた社史のタイトルがその意気をあらわしているようだ。

“大衆社会” の到来

1月6日付けの読売新聞は2面を割いてポピュリズムの過熱、ということを論じた。ポピュリズムについては昨年、いくつかの投稿をもらって論じたこともあるが、この記事を読んで、現在の世界を蹂躙しているのがグローバリズムを信奉する大企業の行動であり、その結果生まれた多極化と格差の拡大である、ということを改めて認識した。硬くて面白みのない議論だが、この記事を読んで感じたことを書かせてもらう。

昭和33年、経済学部に進学はしたものの、経済学そのものには僕は魅力を感じなかった。いまでは死語になってしまったのかもしれないが,”近経”(近代経済学派)と”マㇽ経”(マルクス経済学派)との論争が華やかだったころで、塾にも福岡さんとか大熊さんといった売れっ子的教授のゼミに人気があったし、数理経済学なども登場したころだ。僕はこの風潮には魅力を感じず、社会思想史、という経済学部としてはやや傍流のゼミナールを選択。ワンダーでは翠川(4年次には彼のオクガタたる運命を背負って紀子君も参加)と一緒だった。

社会思想史、とは、基本的には人間社会をより良くするための社会改革に、歴史上どのような論理・学説が説かれてきたかを学ぶことである。僕がこの分野に興味を持ったのは高校3年の時の選択科目で,エリヒ・フロムの ”自由からの逃走” を読んだことがあり、民主主義という思想が実は危機に瀕しているのだ、ということを知ったのがきっかけだった。卒業論文は”エーリヒ・フロム研究” という怪しげなものだったがなんとか及第できた。その論題は、現在の民主主義社会は早晩崩壊し、”大衆社会” に移行するだろう、ということにあった。

民主主義とは、社会を構成する人間が理知的な判断に基づいて情報を得、判断し、その結果に基づいて社会を運営する、ということを基本にする。問題はその判断をするための、偏りのない客観的な情報なり知識なりがどうやって得られるか、という点にある。フロムの論点は、現代社会においては、人々が判断の基本とすべき情報が、偏りのない形で得られることはなく、民主主義の結果だと信じられている人々の行動がすでに何らかの形で、意図的に誘導されてしまっているのだ、ということにある。独裁国家であれば、その主張は独裁者が作り出すものであるから、すなわちその社会の権威は誰か、がわかっている。これに対して現代の民主主義体制では、そういう明確な権威者は存在しえないことになっている。それでも何らかの方向に人々を誘導するものが確かに存在する。それをフロムは ”匿名の権威” と呼ぶ。そしてそれは結局、マスコミニュケーションであり、人々は明確な理由がない限り、それが誘導する方向に進んでしまう。とすれば、社会を動かすのはすでにエリートや有徳者ではなく、自分自身では意思を持たない、大衆になってしまう。この形態が大衆社会とよばれるものなのだ。このことについて、フロムは Are we sane ? (われわれは正気だろうか?) と問いかけ、彼の主著とされる The Sane Society という本を書いた。

フロムはこの民主主義の破滅を ”自由からの逃走” と呼んだのであり、その実例として、欧州人が理想と考えたワイマール政府がヒトラーによって壊滅したことを挙げる。そしてこの“逃走”が、民主主義の権化と信じられているアメリカや西欧諸国において進行しているのだ、と警告し、そのきっかけとなり得るものはマスコミの拡大と個人の組織への従属にあるとした。フロムがこの本を書いたときには、マスコミとは新聞でありラジオであり、せいぜいテレビだった。現在はSNSという怪物が存在し、個人の考えや宣伝が直接、個人に届く時代、米国大統領がツイッターで発信する時代である。マスコミ、という組織的媒体はその可否はともかく、一定の客観性を保ち得たのだが、その存在意義はすでに二次的なものになりつつある。その結果、読売の記事が嘆くように、世界中がいまや過多の情報とそれに対する個人の情緒的反応とに左右されるポピュリズムそのものに動かされている。まさに大衆社会がついに到来したのだ、と思わざるを得ない。

全くの偶然から、いまや、代表的グローバル企業と目される外資系会社でサラリーマン生活を終えた人間としては、どうしても ”グローバリズム” なるもののダークサイドのことを考えざるを得ない。読売の記事が書いたように、格差の問題は日本はまだ救いがあるようだ。日本発、日本製のグローバリゼーションも数多いなかで、この日本的解決が何とか生き延びていくにはどうすればいいのか。いままで 外国語を学ぶ という論題で、日本でのありかたを多少論じてきた。欧州かぶれ、鹿鳴館的行動を排し、倫理と民度の高さにもとづいた行動を通じて大衆社会時代に毅然として対していきたいものだ。

 

外国語を学ぶということ (6)  (36 大塚文雄)

日本語に限らず、寸分たがわず外国語に訳せない言語は世界中にも結構ある。 欧米は多民族・多言語国家だから、 わざわざ5W2Hで話さない 日常茶飯事 では適訳がないのは普通。補足として最後に”OK?”か”Please”をつける。 仲間内であれば「そこをなんとか。ネ、いいでしょう」、目上であれば 「そこをなんとか。お願いします。」 になる。

ネット検索をすると、 「そこをなんとか」 は ”Somehow there” とあります。 thereが「そこ」で、 Somehow が「なんとか」だから 「そこをなんとか」と思います。Thinkを頭につけて、”Think somehow there”なら 「そこをなんとか考えて」 で  「そこをなんとか」にピッタリ合う。  ”Think someidea there” となると具体性がでるけれど、「そこをなんとか」自体は変わらない。
私の経験では、アイルランドの陶器屋さんの経営会議でテーマは決まったけれど、実行する方法を描き出せないで困っていると、社長がにやりとしながら、”Think somehow there, Fumio”と言って担当が決まったことを思い出します。「なあフミオ。なんとかしてよ」ということです。
Fumioにpleaseをつければ、「そこをなんとかしていただけますか、フミオさん」になる。
  “Think somehow there”は「そこをなんとか」の90%適訳とおもうけれど、いかがでしょう。ただし、忖度ではなく、「明案とか法の抜け道をみつける」 ニュアンスと理解しています。

ナンカナイ会 2020年新年会

例年通り、四谷東京ガス クラブハウスにて2020年新年会を1月10日、開催。参加者は25名(当初予定の栗田ビーバー不参。昨年に引き続き日にちを間違えたのではといううわさが支配的、翌日現在、事情不詳)。

同期以外には?と思われる人もいるかもしれないので、登場人物紹介。

後列左から 岡、翠川、深谷、飯田、山室、阪田、江沢、遠藤、妹尾、田中、大塚、堀野、前田、吉牟田、中司、浅海。前列 後藤、高橋(佐藤)、飯田(岡田)、田中(足立)、鶴岡(今井)、安東、横山(小山田)、中司(水原)、横田(佐藤)。

今回は世話役の安東静雄が入院・手術後のことで心配したが以前より元気で復活。常連では上記ビーバーのほか、他の案件があっての不参2人、自宅療養中5名。卒業時の名簿記載63人、これまでの物故者17人、地方在住者などを考えると実働は40名に届かないくらいと思われるので、年齢的に考えれば誠に結構な参加率と言える。ただ参加者の食欲の減退ぶりは目を覆うばかりで、食べ残しがとても気になる。会場側の都合ももちろんあって、勝手なことは言えないのだが。

夏の集まりは例年なら8月3週くらいだが、オリンピックの混雑が避けられないと思われるので、たぶん9月半ばくらいになる見込み。4月に開催予定の野郎会(35年)卒業60年会合から頂戴している招待の件を確認、ほかは例年のとおりとりたてて議事もなく、談論風発というか、春風駘蕩といおうかはたたま会の性格通り、おい、ナンカナイかい、とやるだけのわやわやと楽しい2時間であった。毎回のことながら、安東・翠川幹事団には感謝の一字。

日曜日はOB会主宰の新年会。例年、同期の方の予定は早くから決まってしまうので調整が難しいことは承知だが、昼酒の連荘は結構きついものであります。

(後藤-翠川)
今日はご苦労様でした。貴兄の丁寧な連絡のお蔭で25名の集まりとなり良かっ
たですね。写真もほとんど私のと変わらないのですがGIさんが少し隠れているよ
うなので私の写真も送ります。明日から恐らく人生最後になるであろうスキーに
遠藤・浅海と一緒に名寄に行きます。

(編集子注:まだ行くのか?と思っていたら、遠藤は2月にはドロミテへ行くんだそうだ。無言。)

 

 

外国語を学ぶということ (5)  (47 関谷誠)

1/6付けの「外国語を学ぶということ(4)」を拝読させていただきました。「そこをなんとか」は英訳できないとのご指摘を読んで皆さんに馴染みのないポルトガル語の表現・言い方を思い出してしまいました。外国語を学ぶということ、の面白さ、楽しさの例としてお読みいただければと思います。

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ブラジルで使われているポルトガル語に”jeitinho brasileiro”<ジェイチンニョ・ブラジレイロ> と云う表現がある。単語”jeito”は辞書に「方法、手段、様子、性質、巧みさ、振る舞い等々」とあり、また名詞に”inho”を付けると「愛情、親密さ、軽蔑等々」の意味合いが込められる(”Makotinho”は「マコトちゃん」とでも云える表現になる)。また”brasileiro”とは、ブラジルの、とかブラジル流、を表している。

この”jeitinho brasileiro”<「ブラジル流jeitinho」>は謂わば「そこをなんとか」のニュアンスで良く使われ、英語では”Brazilian way ”とかに訳される。とあるブラジルの蘊蓄集は(以下”jeitinho brasileiro”を(JB)と記す)次のように解説している。

(JB)は咄嗟の課題対処方法を意味し、ほとんどは形式ばらない、ブラジル人が問題を解決する術である。この(JB)はおかれた状況によってマイナス側面要素がある一方でプラス面もある。

1946年、ある外国人がブラジル領事館にビサの申請を行った時に「そこをなんとか」とお願いしたのが(JB)の代表例としてあげられている。当時、ビザ取得の手続きをスムーズに進めるには職業を「農業従事者」とするのが一般的だった。ところがある申請者は実際には医者だったにも関わらず「百姓」で通してもらったとの事。これがブラジル流やり方、生活スタイルのプラス的な代名詞になった。

マイナス面としては腐敗・汚職、教養のなさ、公徳心のなさ、狡猾、悪趣味等と関連する。 ここで(JB)とは、自己利益のために第三者をだます行為である。多くのブラジル人は、「なんとかなるさ」の概念を、難しい問題、局面を正しくない方法、規則や法令さえも違反して実行する。

問合せの為に銀行に行くが、長蛇の列に遭遇してしまう。自分の要件は「簡単」「単に問い合わせをするだけ」でもあり、列に並ぶことはないだろうと考える。こうして、長蛇の列で待つ者の目を無視して、直接窓口に赴き、非難ごうごうの中、何食わぬ顔で要件を済ませてしまう。正しくは、要件が簡単か否かに関わらず、他の顧客と同様に列に並ぶべきであろう。自己の問題解決の為に、(JB)で間違ったやり方で、他の顧客をないがしろにする自己中。

(JB)はこの例のように不愉快なことをもたらす要因となる一方で、ブラジル人のもっとも優れた気質を表す。ブラジル人は陽気で開放的な性格が特徴であるが、確かに、他国の人々に比べ、ストレスを感じるような局面においてさえも、形式ばらず、平静を保てると云える。プラス面の要因として、(JB)は人生を軽く、創造的、柔軟にそして楽観的に導く考えであり、あらゆる社会的規範を尊重しながら問題解決することである。

家族が週末を避暑地で過ごす楽しみとしてビーチでの日光浴、トレイルランニング、その他の野外活動等々を前から計画していた。旅行の前日、天候が急変し、太陽の下での計画を取り止めなければならなくなってしまったが、この家族にとって、これは問題ではなかった。即刻、週末の計画を見直し、室内での楽しみ(ボーリング、ゴーカート、等々)に切り替えた。言い換えれば、計画の突然の変更に腹立つたり、残念がったりせず、それでは、可能な範囲、方法で「そこをなんとか」と別の楽しみ方を考えるのがブラジル流だ。

いろいろな議論はあるにせよ、(JB)はブラジル人が特定な課題、任務、状況、問題までも解決する能力として良く使う表現である。

ただし、最近では(JB)は「創造性」の同義語から「悪意・不誠実」に変化してしまったようだ。トランプさんにしろ、キムさんにしろ、イランの指導部の皆さんにしろ、プラス面での“jeitinho brasileiro”を発揮してもらいたいものだ。一方で言えば、ゴーンの自己中の身勝手な行動はまさにJBのマイナス的 ”そこをなんとか” のように思えるのだが。