本を出版します   (44 安田耕太郎)

まもなく世界一周放浪記を自費出版する予定です。

半世紀以上前の学生時代に2年間に亘って東廻りで世界一周の旅をしました。
健康面の相談をS34 船曳先生にしました。盲腸は切って行った方が良いでしょうか、の質問に笑って一言「何を馬鹿なことを」。太平洋を貨物船で横断しましたが、往復切符を持たぬ出国で当時必要だったアメリカビザの獲得をS38大岡先輩に助けて頂きました

アメリカ入国後、カリフォルニア州パロアルトに赴任しておられた、それまでに面識のなかったS36中司ご夫妻宅に泊めて頂きました。KWVの活動経験から勇気をもらい、諸先輩方々の助けをいただき世界一周放浪の旅を終えることが出来ました。自費出版につきましてもS36「ナンカナイ会そのふみあと」本の製本出版に携わったH7田所君をジャイさんに紹介していただき、上梓に向けて尽力していただいています。KWVに所属してなければ、旅も出版もありませんでした。

5大陸50数ヵ国訪問の旅は1968〜70年、21〜23歳の時期でした。
旅行記は、文章24万字、足跡を示す地図20数枚、写真数十枚を含め600頁を超す長文となりました。前書きと目次に続く最初の書き出し部分をご参考までに下記の通りご紹介します。コロナ禍の影響で上梓は予定より大幅に遅れ今夏になる見込みです

世界一周に付き合ったリュックサック

1.  旅のはじまり
1969年11月、僕はジブラルタル海峡を渡るカーフェリーの船上にいた。日本を発ってからすでに1年半が経過していた。横浜港から貨物船に乗り込み、14日間かけてアメリカのウイルミントンに上陸し、旅の第一歩を踏み出したのが遠い昔のように思えた。あれからどれだけの足跡を残してきたのだろうか。
アメリカでの旅費稼ぎの日々、憧れのルート66、中南米15ヵ国踏破、犬と登った5400mアンデス峰、南米フィヨルド海域の軍艦乗船、ヨーロッパ最北端ノースケープの白夜、東西冷戦の象徴東ベルリンの壁でのあわやの危機など、日本では決して味わえない経験をしてきた。そして今、未踏の地であるアフリカ大陸に向けて僕を乗せた船は白浪を立てていた。
出港地アルヘシラスから対岸のセウタへはわずか2時間ほどの船旅だ。しかし、僕に旅の思い出をゆっくりと振り返る暇はなかった。フェリー内で僕はある「仕事」をしなければならなかったからだ。それは、これから向かうモロッコを旅する人の車をゲットすることだった。

ジブラルタルのザ・ロック(The Rock)。別名ヘラクレスの柱(Pillar of Hercules)ともいう。

僕はフェリー乗船直後から車で旅する人とできるだけ会話をした。そして、ドイツ人男性とアメリ人女性のカップルが大きなベンツでモロッコを一週間旅することを聞き出し、親しくなることができた。会話に夢中になるあまり、カーフェリーの船内からジブラルタルの「The Rock」の景観を見逃したほどだ。それから一週間、日・独・米の奇妙な組み合わせでモロッコを旅することとなった。
不安を抱いてフェリーに乗り込んだが、フェリーから下船する際にはベンツの後部座席に陣取っている・・・。これまでに幾度もあった旅の面白さの一端がここに凝縮されているように思える。このような幸運に恵まれるのもこれまでの旅で培われた多くの経験によるものだ。そもそもなぜ僕が世界一周へと旅立ったのか。まず旅の始まりから記したい。

モロッコでベンツ車ヒッチハイク。道端でランチピクニック。