コロナ対策最新情報です  (34 船曳孝彦)

新型コロナウィルス感染症が発生して7か月になります。日本では第2波もやっと峠が見え始めたといってもよいかと思います。永年山を歩いてきた皆さんは良くお分かりと思いますが、これが偽のピークで本峰はまだその先ということもアリ、とは思いますが。

 一流医学誌に、ある種の変異(専門的には382ヌクレオチッド欠損)によって重症度は下がり、酸素補充療法使用率が下がっているという論文が載りました。想定されていたことですが、科学的データとして出始めたのです。

前回も述べましたが、ごく少数のスーパースプレッダーが感染を広めており、それがどういう患者か区別しがたいことが問題です。軽症、無症状感染者と健常者が区別できないのですから、この熱中症が多発し(死亡率は熱中症の方が高い)新型コロナとの鑑別が問題とされているとき、PCRなり抗原検査なりを、何時でも何処でも何回でも行う必要があると思います。感染者との濃厚接触者を知らせるアプリは、検査が行き届いた後の話でしょう。

 厚生労働省は万死に値するといってもよい程の罪を犯しています。

21世紀に入って最初のパンデミック(2009年の新型インフルエンザ)は何とか乗り切れたのですが、その時の総括報告書で指摘され提案された諸問題(PCR検査の準備、迅速検査法の開発導入、医療体制計画など)が、今回のコロナ伝播までに、何一つ対処していなかったことが、今日の右往左往に繋がっています。

PCR検査(もちろん抗原検査も含め)基礎Big Data が整っていない。これでは科学的検討が不能です。やがて収束された暁には、世界的に科学的検討がなされ、次なる感染症対策が検討されるでしょうが、日本のデータは研究対象外となってしまいます。低開発国というか後進国です。

新型コロナ対策で、感染症法第2類に準ずるとしたことも、現在はいろいろ問題があり、新たな類として検討し直すべきであると指摘されても、あるいは新検査法が次々に開発されても、保健所に全て業務を集中していては無理だと指摘されても、一向に改めずに固執していること。信じられない行政です。

 そのような社会ではありますが、この自粛、自粛を迫られる中、どうすればよいのでしょうか。

A葬儀を始め、日本古来の文化、伝統が崩れています。学校教育も、早めの2学期で元に戻ったでしょうか。10代以下のコロナ感染率は低く、重症例は極く稀です。面と向き合っての教育、友達との会話、付き合い方、青春時代特有の交流、これ等は何物にも代えがたい経験です。ウェブ授業では決して補えません。もしこのまま大人になったら、どういう大人になるのでしょう。

B一般の医療離れが進んでいます。感染を恐れての受診自粛は分かりますが、今はもう大丈夫ですといってよいでしょう。勝手にサボって重症化しないようご注意ください。心筋梗塞のカテ処置が昨年比で25%減と言います。心筋梗塞自体が減っている筈はありませんから、その25%のうち相当数が命を落としている可能性があります。

C自粛の枠にオーバーな部分もあります。例えば外出するとき、私はなるべく人のいない道を選びますが、そのような時にはマスクは外しています。電車、バスに乗るときは勿論マスクをしますが。ソーシャルディスタンスも1.2m弱でよいと思います。2mだ1.5mだといっても、後ろの方では密接しています。

国としては、自粛解除の目標を明示し、国民が希望をもって自粛できるような、そしてGo To Travel 東京除外から外すべきかどうかの判断前に、専門家と十分協議して決めるべきと考えます。

D医療崩壊はじわりじわりと内部から進んでいるようです。KWV三田会員の中に、例の10万円をそっくり寄付された方もおられますが、本来は国が手当てをすべき国民の危機だと思います。

 やがて、とりあえずの収束を迎えるでしょう。良い空気の大自然の下で身体を動かしましょう。コロナ鬱になっては元も子もありません。その日のために心身ともに準備しておきましょう。

焼岳へ行ってきました (39年バディ4人組)

部屋からの奥穂~吊り尾根~前穂~明神の夕景

(岡沢)

39年卒の何時もの4人組で中の湯温泉2泊で 焼岳登山と上高地散策を
楽しんで 今帰ってきたところです。 こんな時節なのにねえ!
(三嶋)
コロナ禍と猛暑が続きますが、お変わりない事と思います。
岡澤さんからの連絡で 写真を送付します。
   川面に霧がたつ幻想的な大正池 からの焼岳
8/25に中の湯から 日帰りしましたが、コースタイム6h のところ9h近く、標高差1000m弱 はきつかったですよ!
最後は ”ヤケ”だけで歩いた感じで、謂わば体力の”耐久試験”でした。
しかし 山頂からは奥穂~吊り尾根~前穂~明神 のパノラマは最高で、足下には上高地の眺めに大満足。
中の湯温泉は部屋からの眺望も良く、2泊して のんびり温泉を楽しみました。
暫くはお目にかかる機会がありませんが、お互い健康に過ごしたいですね。
   山頂部の 正賀池
(編集子)4年の夏、所属していた平井ゼミ(社会思想史)の夏合宿設営をおおせつかり(同期翠川と小生はもともと娯楽要員として難関突破、入会できたらしいので当然の成り行き)、よしよし、と場所を上高地にしてしまった。当然購読よりもそちらのほうがメインで焼岳コースを一般向けに設定し、われわれは奥又池をのぞきに行った。このときが小生にとっては唯一の焼岳登山の機会だったのだが、以後、沈黙のまま今日まで来てしまった。ほかに同様の理由で入会を許された37年の山川三千雄、渡辺護、井上(近藤)智香子、それと佐藤(トーゼン翠川)紀子が同行。いやあ、ゼミって楽しかったなあ。

エーガ愛好会 (16)  ”ガス灯” をめぐって

(44 安田)820日放映NHK BSPの「ガス燈」を観ました。二度目です。初回に比べて細部にも注意を払い、より面白く楽しめました。 

品の良いフランスの美男スター、シャルル・ボアイエ(当時45)と、1942年の「カサブランカ」、1943年の「誰が為に鐘は鳴る」の成功でこの時期 “理想の女性像” として絶大な人気を博したイングリッド・バーグマン(当時28)の美男美女の競演が最大の見どころ、舞台は1870年代のロンドン。心理サスペンス映画。ロンドン名物の霧やゆらゆらと揺れるガス燈などを効果的に使った光と陰の映像美も秀逸なモノクロ映画です。 

未解決の殺人事件の被害者の姪(バーグマン)に良からぬ目的で近づき結婚するボアイエ。彼女をノイローゼになるようにじわじわと追い詰めていく悪人であることは、誰の目にも明らか。宝石目当てで叔母を殺し、彼女の宝石を狙って跡継ぎの姪(バーグマン)まで破滅させ病院に送り込もうと画策したボアイエの策謀の数々と彼の演技。バーグマンの恐怖と混乱を表した演技は共に見事と言うしかありません。 

叔母の名歌手(被害者)が遺した宝石の所在を探し屋根裏部屋にまで侵入。そこはバーグマン寝室の真上。不気味な足跡(実はボアイエの)が聞こえてくるが、ボアイエはバーグマンの幻聴だと言い張り、不思議な足跡の音を否定する。さらに、ボアイエ自らが仕組んで、首飾り、絵画、時計、ブローチなどの紛失事件を次から次へと起こし、バーグマンの過失として問い詰め、精神的に攻め立て異常を来たしたように思いこませていきます。外部の人間には妻は体調がよくないなどと言って他人との接触を断たせ、孤独の淵に追いやる。このねちねちとした粘着質の、ボアイエのいたぶり方が秀逸。親切づらをして穏やかに微笑む紳士から、ひとつひとつ計画を実行するたびに、妻を冷ややかな目で睥睨するボアイエの視線のバリエーションは、いくら見ても見飽きない。少し眉を上げてバーグマンを見下ろす高慢な視線は、この男の悪人振りを如実に物語っている。

映画のクライマックスは、少年の頃有名な歌手だった叔母に憧れていて、スコットランド・ヤードの警部になっていたジョセフ・コットンが同じ館に居を構えたボアイエ・バーグマン宅を訪れたことから急展開を見せます。

この映画で出色だと思ったのは、ひとつには招かれたコンサートのシーン。最初はベートーベンのピアノソナタ「悲愴」が弾かれ、次にショパンのバラード一番。演奏の途中で夫は時計が無いと騒ぎだし、探すと妻のハンドバッグから見つかる。夫が仕組んだ謀略だが、妻は混乱で取り乱す。この彼女の動転振りと恐怖をこの「バラード一番」の緊張感ある旋律が伝える。格調高く、けれど緊迫した場面。自分が狂気に陥っていると恐れるバーグマン、迫真の演技。バラードは美しいだけの曲でなく、こんな場面にもピッタリでした。

もうひとつのみどころは、屋根裏部屋でコットン警部がボアイエを捕らえ、ボアイエとバーグマンが二人だけで対峙する場面。バーグマンが見せる強く射るような視線で激しくののしる口調と、ボアイエの何かに憑かれたような、別次元をみているかのような歪んだ欲望に満ちた、しかし観念し諦めた視線は物語を締めくくるのに最もふさわしい見せ場だったと思います。 

ハンガリー系ユダヤ人ジョージ・キューカー監督の映画はこれまで、「素晴らしき休日」1938(ケーリー・グラント、キャサリーン・ヘプバーン)、「フィラデルフィア物語」1940年(ジェームス・ステュアート、ケーリー・グラント、ヘプバーン)、「スタア誕生」1954年(ジュディー・ガーランド、ジェームス・メイソン)、「マイフェアレディ」1964年(オードリー・ヘプバーン)を観ていた。キャサリーン・ヘップバーンをブロードウエイからハリウッドに呼び寄せ、成功に導いたのも彼であるし、俳優の魅力を遺憾なく引き出す能力に長けているとの評あり。ヘップバーン映画10本ものメガホンを執っている。特に女優を輝かせることにかけてはピカイチ。本作のバーグマンも彼女の魅力が見事なまでに美しく引き出されていたと思います。 

舞台でキャリアを積んだ実力の持ち主ボアイエと、若き実力派バーグマンの静かな火花が散る演技合戦、とりわけ彼らの視線の演技は。密室劇であり心理戦が主題である本映画にふさわしく見応え充分でした。紳士然としたボアイエの異常性をはらんだ人物像と、好対照に美しきバーグマンが身も心も閉塞感と孤独感にさいなまれて、現実と虚構の間を行き来する虚ろな心情の息詰まる感じ。伏し目がちになり、時に怯えてすがるように悲痛な視線を他人に向けるも、無力さを痛感して嗚咽する。そんな彼女が最も怯えるのが、タイトルにもなっている寝室のガス燈がある時間になると不安定にゆらめき、燈が小さくなって暗くなる瞬間だ。恐怖の色が顔に浮かび、狼狽しながら「聞こえるはずのない」不気味な音に耳を傾けます。そこに爽快なアクセントとなっているジョセフ・コットン、更には独特の存在感を醸し出して良いスパイスになっているメイド役の、後年テレビドラマシリーズ「ジェシカおばさんの事件簿」で大ブレークした、アンジェラ・ランズベリーが見事な脇役を果たしていました。存分に楽しめた2時間でした。

(HPOB 金藤)

安田さま  「ガス燈」の写真と素晴らしい解説文、ありがとうございました。
保屋野さま 「ガス燈」は名画だと聞いてはいましたが、私も観るのは初めて、サスペンスだとは思っていませんでした!
モノクロ画面で、霧に包まれるロンドンのl家、ガス燈、豪奢な家の中、調度品等、光の当たる部分と影になる部分が効果的に美しく映し出されていました。
ボワイエは初めから、いかにも悪そうに見える夫役をこれでもかと言うほど
しれっと演じていたのは見事でした。への字眉もこの役作りでしょうか?
揺らめくガス燈に揺らめく心
バーグマンが精神的に追い詰められていく様子がよく描かれていました。
バーグマンは美しい上に、恐怖の表情、演技力はさすがアカデミー賞受賞をしただけの事がありますね。 ウエストの細さにも驚きました・・・
耳の遠い家政婦さんはジェシカおばさんになっていたのですか!!観て良かった映画です!
(安田)ご感想のメールありがとうございます。ひとつだけ訂正させて下さい。

「ジェシカおばさん」で1980年代人気を博したのは若いメードの方で、当時19歳のアンジェラ・ランズベリー。この映画のメイド役でアカデミー助演女優賞候補にノミネートされました。シャルル・ボアイエも主演男優賞候補にノミネート。バーグマンとのトリプルオスカー受賞とはいきませんでしたが、二人とも見事な演技だったと思います。
(金藤)あの若いメードさんがジェシカおばさんになったのですか!!

ずいぶん変わったのですね!ご指摘頂きましてありがとうございました。
とんだ勘違いをしていました。ありがとうございました。
(編集子)まずはウエストの細さがでてくるあたり、さすが昔から冷静さが頼りだった我がセクレタリ、でありますな。

エーガ愛好会 (15) ゲイリー・クーパーを思い出した

コブキこと久米行子発の何気ないメールから始まったクーパー論議。僕らの年代の代表的俳優のひとりだが、今どきの若いファンの間では誰が匹敵するのだろうか。ジェイムズ・スチュアートと並んで、良きアメリカ人を体現、代表する俳優だった。ウエインやイーストウッドがいわば右寄りのイメージなのに対し、いつも中庸を感じさせ、成熟という表現があてはまる存在だったと思う。

 

(きっかけとなった、安田の記事をフォローした久米のメール)

「眼下の敵」またもや見てしまいました。やはり、ロバートミッチャムが格好よくて満足しました。駆逐艦がUボートを駆逐したのですからこの艦長は勲章物でしょうね。それとクルトユルゲンスのまなざしに時々ゲーリークーパーのまなざしを見つけて驚きました。

(後藤)実は明治36年生まれの亡き母が最も好きな映画俳優がヴァレンチノとゲーリークーパーでしたので私も母のお供で幾つかの映画を中学生の頃観ました。沢山の良い作品の中で特に印象に残っているのはヨーク軍曹””誰がために鐘は鳴る”です。晩年にはフレッドジンネマンの”真昼の決闘”やヘップバーンとの共演ビリーワイルダーの”昼下がりの情事”ありましたが若々しくセリフの歯切れが良かったのは先の2本が特に印象的です。ヴァレンチノに関しては一本だけ”The Son of the Sheik”しか覚えておりません。他に”善人サム”と言う映画も若くてクーパーらしい男前といかにもスカッとした役柄が印象的でした。

しかし真昼の決闘以降の映画はクーパーファンにはあまり面白くありませんでした。ルー・ゲーリックの生涯をテーマの”打撃王”は素晴らしい映画でしたが ”The Pride of Yankees”を何故”打撃王”などと勝手な題名を日本で付けたのか母親はいつもボヤイテおりました。誰が為に鐘は鳴るのイングリッド・バーグマンとのラヴシーンは中学生には刺激が強すぎましたが鼻が邪魔するほど美形の二人のキスシーンは忘れません。

(菅原)小生の一番好きなクーパーのエーガは「真昼の決闘」です。主題歌も良かったし(今でも耳に甦る)、実際の時間とエーガの動きが同期化されていて、ハラハラのしどうしでした。

グレース・ケリー初お目見えの西部劇でもあった

が、それよりも何よりも、孤立無援で悪漢に立ち向かうクーパーが、実にカッコ良かったこと。終わって劇場(日比谷だったか、有楽座だったか、もう思い出せません)を出るに当たって、クーパーの積りで出ました、その恰好良さをを真似て。しかし、誰も気にも留めていませんでしたが。

(小泉)人間の善意が滲み出る人柄、皆さんの適切なるコメントに、こちとらはもうとても出る幕はないものと思っておりましたが、二言だけ言わせてもらいます。KOBUKIさん他の人が言われる通り、自分が歳を取ってみると矢張り勝手ながら、しわ首の目立たなかった若きクーパーが良かったです。西部劇では、平原児、西部の男、北西騎馬警官隊、無宿者、サラトガ本線、征服されざる人々ぐらいまで。打撃王、誰がために鐘は鳴る、ヨーク軍曹も良かった。ヨーク軍曹は、終戦間もなく、中学時代に観て感激した。終戦まで鬼畜米英と教えられてきた者にとって、ヨーク軍曹は戦場では、敵ドイツ人を25名殺害、132名を捕虜にする大功績をあげるが、兵隊に行くまでのクリスチャンとしての人を殺すなという教えに大いに悩み、苦労した挙句に、自由を手にするためには戦いに同意するという、今から思えば、戦意高揚の意識が盛り込まれていたのだが、やみくもに米英をやつけろとけしかけていた日本がアメリカに負けたのも、当たり前だと思ったものだった。

 善意クーパーにも、大いなる危機があった。クーパーファンとしては触れたくないが、魔が差すこともある。1949年48歳の時、摩天楼に主演したとき、25歳年下の共演のパトリシア・ニールと恋に落ち深い関係となってしまった。クーパーは妻ヴェロニカと一人娘マリアのことを考え、家庭を捨てることなく別れたのだった。後日談として、そのニール、ヴェロニカとも再婚したりしたが、クーパー死後20年後、再婚者共に死別、ニールのヴェロニカへの弔意の手紙が発端で、ニールとヴェロニカ、マリアの3人が夕食のテーブルを囲んだという。クーパーの妻と娘は過去のことを忘れ、ニールを許したばかりか。娘のマリアはニールに心当たりの修道院を紹介したとのこと。

(金藤)皆様の素晴らしいコメント、いつも楽しみにさせて頂いております。盛り上がっているのに、すみません、ゲイリー・クーパーについては、アメリカの大スターの他何も書けませんので小さくなっています。「真昼の決闘」「ヨーク軍曹」は観るべき映画に登録させて頂きます。 

***以下、ウィキペディア解説から***

ゲーリー・クーパーGary Cooper、本名: フランク・ジェームズ・クーパー、1901年5月7日 – 1961年5月13日)は、アメリカ合衆国モンタナ州ヘレナ出身の俳優。愛称はクープ

アイオワ州グリネル大学で学ぶが卒業はせず両親の持つ牧場で働きながら商業デザイナーを目指して新聞に漫画を書くようになるが、両親がロサンゼルスに移ったために共に移動、セールスマン等の仕事に就くが長続きしなかった。友人のツテで1924年ごろから西部劇映画のエキストラ出演を始め、俳優を志すようになる。1925年、名前をゲーリー・クーパーと変え1926年『夢想の楽園』で本格的にビュー。この映画を見たパラマウント映画の製作本部長は「この男は、うしろ向きに立っているだけで女性ファンの心をつかむ」と見込んで契約した。

1927年、『アリゾナの天地』で主役を演じてからは、しばらくは主にB級西部劇で活躍した。1929年、『バージニアン』で西部劇スターとしての地位を確立する。そして翌年、マレーネ・ディートリヒと共演した『モロッコ』で世界的な大スターの仲間入りを果たす。また、1936年、『オペラハット』でアカデミー主演男優賞にノミネートされるなど、順調にキャリアを重ねていった。

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出演作品は本稿記載のほかにも多くて記載しきれないが、われわれの射程内に入ってくる作品では何といってもマレーネ・ディートリッヒのラストシーンが名高い モロッコ あたりからだろうか。あまり話題にはならなかったようだが、ボージェスト は小生の愛する作品、悪役ナンバーワンに上がることの多いブライアン・ドンレヴィの強烈な印象もあって、何度も見ている。若き日のスーザンヘイワード、レイ・ミランドが共演(やっこにおすすめ。よければDVDお貸しします)。

西部劇なら 北西騎馬警官隊 とか 遠い太鼓 もちろん ベラクルス なんてのも興奮したね。ヴァージニアン はクーパーものではなく、ほかの題名でたしかランドルフ・スコットだったかジョエル・マクリ―の作品を見ているはずだが、題名思い出せず。小泉さん、ご存じありませんか。

コロナをよそに田園は平和です   (39 堀川義夫)

2020年8月12日撮影

寺家ふるさと村は、順調にお米が育っています。

コロナに関係なく、素人目にも稲穂がたわわに実っています。ここで採れるお米は、ほとんど市場に出ることがなく、ふるさとの米を食することがなかなかできません。タイミングが合えば、3kg位の袋詰めを買うことが出来ますが、私は未だ一度しかその幸運に恵まれません。

2020年6月5日撮影

(43下村) おはようございます。自然の力とは凄いものですね。太陽と水だけからたわわに実る米をこんなにたくさん作ってくれのですから・・・。洪水を起こすなどマイナスの面もありますが、改めて自然の魔力を感じます。

原村に来ています。 暑い日が続きますが、こちらは涼風が吹き、緑も真っ盛りで暫しコロナを忘れることができそうです。生い茂っている雑草を刈ったり、薪小屋を整備したり結構やる事がありますね。明日から孫たちが来る予定で、密にならないよう用心して過ごすつもりです。

 

 

 

エーガ愛好会 (14) 新・ガンヒルの決闘  

自粛続きの毎日、懐かしいセーブゲキの連発がうれしい。まずは小泉解説から。(小泉)  グレゴリー・ペックと言えば、理知的で紳士的で誠実な風貌の役柄が似合うと思われるが、過去出演の西部劇を見ると11作品ある。「大いなる西部」のようにペックらしく東部からやってきた紳士風の役柄もあったが、どの映画も所謂西部劇とは一線を画した一癖も二癖もある、また巨匠の監督によるものが多く、それだけに、偉大なる大根などと揶揄されたこともあったが、感じる以上に夫々の役柄をこなしてきたと言えると思う。例を挙げれば、「白昼の決闘」「廃墟の群盗」「拳銃王」「無頼の群」「レッドムーン」等。

 ペック55歳の時の作品。監督はヘンリー・ハサウエイ、西部劇はもとより戦争映画、歴史劇、犯罪映画、冒険活劇の様々のジャンルで楽しませて呉れた。ペックが7年間の刑期を終え出所するところから始まるが、後になって、銀行強盗をした相棒に裏切られ、独り占めされた恨みを晴らしたいことが分かる。裏切った方は、出所が分かり、用心棒風の若者に、ペックの動静を探らせる。その若者と仲間計3人が、自称三銃士で傍若無人の振舞い、冒頭の酒場でのペックとの絡み合いから、ペック対三銃士の争いが最後まで続くことになり、ペックの敵まで殺してしまうので、ペックの出る幕がなくなってしまったのでした。勝手な推測だが、当時監督74歳、ヒッピー等既成概念からはみ出た若者の暴走に不快感を持っていたことが、三銃士の暴走に歯止めがかけられなかったのでは?結局は、ペックと三銃士との争いでの勝利で終わり。

 以上では観る価値もないようだがそうでもない。この映画のもう一つの主題、可愛いい7歳の女の子、投獄される前の恋人に預けておいた200ドルを届けてもらうはずが、恋人の死で、女の子が汽車でやって来る。どうやらペックの子供か否か不明だが、恋人がペックに頼るよう言い残したことは、ペックの子?しかも丁度7年経過。女の子とのロードムービーとしても出色の出来ではないか。同監督がジョンウエインにアカデミー賞を取らせた「勇気ある追跡1968」と同系統の映画。汽車でやってきた折、ペックは女の子を受け取るか否かで悩む。汽車が走り去るも水の補給で一時止まる、その際受け取りを決める。車掌とのやり取りで、帽子を代えるような男に碌な男はいないとペックを非難すると女の子がそれに同調し、同行を拒否するところ。ペックが、フライパンを持ち上げ、中のホットケーキが飛んでなくなったように見せかけ、女の子がガックリすると蓋を取ると中にあって大喜び。雨宿りの積りで入った母親と息子の一軒家で世話になった折の、ペックと母親とのやり取り、女の子を引き取る要望に対し母親は同意。引取れば貴方はここへ戻るでしょうから、も意味深で面白い。三銃士が一家を襲い、ウイリアムテルよろしく、母親に対し、林檎を息子と女の子のどちらかへ載せるよう強制された際、息子を避け女の子に載せる。あとでペックに謝るが、ペックも同じ立場なら同じことをした応える。何しろセリフが面白い。ペックと女の子二人、母親と息子の家に入って行くところでめでたしめでたし。

 最後に、邦題「新ガンヒルの決闘」はいただけない。アンソニー・マン監督「ガンヒルの決闘」とは何の関係もないのにあるように見えてしまう。「ラスト・シューティスト」という題名もあるのだから、原名「シュートアウト」やら「勇気ある追跡」の姉妹編なら「勇気ある銃撃」とか?

(菅原)早撃ちペック、参上。グレゴリー・ペックは、新聞記者だけじゃなく、早撃ちでもあったんだ。小生、非常に気に入らないところがありました。これは脚本のせいなのか、70歳を過ぎた老監督のせいなのか、どっちなのかは分かりません。ペックの目指す相手は、チンピラ ヤクザではなく、自分を裏切って銀行強盗の金を独り占めにしたサム・フォーリー(役者:ジェイムズ・グレゴリー)だったんじゃないでしょうか。そうじゃなかったところに、このエーガの致命傷があったと思います。「西部劇の両巨頭」小泉さん、ジャイ大兄、もし、間違っていたら。ご指摘ください。

でも、早撃ちペック、万歳!

(編集子)ペックの西部劇、といえばこれはもう、 大いなる西部 でありますな。高校時代だったかにみた 勇者のみ なんてのもあった。白昼の決闘 は見よう見ようとおもっていたが機会がなかった。廃墟の群盗 は見たはずだがあまり印象なし。小生にとっては 大いなる西部 が圧倒的で、ウエスタンでは印象が薄い。仔鹿物語、ローマの休日 とか、ジミー・スチュアートとな らんで、よきアメリカ人を演じるのがぴったりという俳優、という感じ。ナバロンの要塞 もあったか。

今日の結末については同感。あれえ! という感じだったね。子役がよかったし、もっと典型的なエンディングだとおもっていたんだけど。小泉解説にある題名についての違和感も同感。殺された友人がいうせりふだから間違いはないが、カーク・ダグラス版と全く関係ないのにこの地名が出てくるのはなぜなんだろうと考えてしまう。ダッジシティだとかツームストーンとかはたまたアビリーンだとかいう地名とは格が違うし、第一存在したかどうかもわからないが、とにかく劇中にはっきり出てくるのだから、日本の題名に出てくるのは自然か。先回あげた、あきらかに興行目的でつけた ”続”荒野の七人 とは違うけどね。

薬師岳から室堂への山中3泊4日の縦走登山 (39 堀川義夫)

今回は本文より先に観客席からの !! で始めよう。

(39 岡沢)どんな体力を持ってるんですかね。 そっくり同じコースを 13年前2007年 に66歳の時 同期の 長谷川 三嶋 飯河 小野 津金 岡沢の6人で縦走しています。 その時は小屋どまりで それでもよく行けたと思ってたのに 堀川は一人でテント行 どうなってるんだね。

私は 昨年 堀川に同行してもらい 飯河と三人で行った 裏剣 仙人池 欅平の山行が最後の縦走だと思ってます。実は 私も同期の三嶋のグループに誘われ 3日4日と 湯檜曽どまりで 谷川岳に行ってきました。 もっともロープウェイ経由ですが3時間近くかかってしまいました。平地歩きでは堀川にまけないんだけれどね。
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7月29日(水)の夕方の飛行機で富山へ。着陸直前のサンセットが美しい。明日は晴れてくれよと祈るばかり。富山の駅に近いAPAホテルに宿泊。翌30日(木)、例年だと富山の駅前から登山口の折立まで直通バスがあるのだが、コロナの為運航休止。この為、地鉄で有峰口へ行き、予約した折立行きバス(40人近く乗車)に乗り換えて8時10分折立に到着。いよいよ。3拍4日の縦走の開始である。登山客はバスだけでなく、結構駐車場には車が多く入山者は多いように思う。出発時は青空も見えたが、ずっと曇りで時々雨具が必要な位の雨。ひたすら我慢して太郎平の小屋に12時40分に到着出来た。まずまずのペースである。途中の高山植物は期待したほどでは無かったが、また、花を愛でるなどの余裕もなく歩いた。小屋の宿泊は予約が必要で普段の定員の多分、40%位に制限していると思うが、まだ、かなり余裕がある。小屋ならではの贅沢ではあるが、乾燥室で濡れた衣類、靴など乾かせるのがありがたい。5時からの夕食を取り始めた頃から晴れてきた! そして、第一の目標の薬師岳が全容を見せてくれた。

7月31日(金)

6時50分にガスで何も見えない中をスゴの小屋を目指して出発。結構調子が良く、かえって何も見えない方が登りに専念できる。頂上まで2時間40分で登り切り言うことなし。只、何も見えないし風が強い。多分10m以上が飛騨側から吹いている。登山路が黒部川に入るとホッとして、ついつい、休憩を取ってしまう。薬師岳から北薬師岳の間は飛騨側からの強風で思うように歩けず、又北薬師からの下りは風が強い上に巨岩地帯で歩くのにバランス感覚が不可欠の地帯だが、歳をとるにつれ、このような登山路は、私の一番苦手で嫌いな道である。思わぬ時間を要し、コースタイムの三割増しでやっと間山に到着した。ふっと、後ろを振り返ると・・・北薬師岳が全容を見せて呉れていた。晴れて来たのでゆっくり休憩を取り一気にスゴの小屋へと向かう。スゴの小屋の宿泊は5名、但し、天泊は10張以上の盛況でしだ。

8月1日(土) 今日は晴れだ!!

今日は五色ヶ原まで。まずはスゴノ頭の登りがきつい。3日目で疲れも出て来ている。でも、頑張りました。そして越中沢岳の登りがこれ又きつい! この2つの岩峰は、アミノバイタルで何とか乗り切った。(笑) そして、ほぼコースタイムで五色ヶ原に到着することが出来た。縦走はこうでなくてはいけない。穏やかな天気。心地よい風。適度の登りと適度の下り路。余裕のある時間。これらが、縦走の醍醐味でしょう。私の一番好きな登山スタイルです。ふっと、来年も同じようなことが出来るだろうか? 今回が最後の縦走スタイルの登山になるのではと思うと、おろそかにできないと言う思いがふつふつと沸いてきた。そして、山の神様!来年もよろしくと祈願せずにはいられませんでした。実は出発当日まで山荘のキャンセル待ちをしていたのだが、コロナで定員を大幅減にしている為どうしてもダメで、この為、天泊しなければならないことになってしまいました。そこで、やむを得ず、1泊の為に、テント、シラフ、食料。炊飯道具などを携行しなければならなくなりました。そこで、出来るだけ軽量化するため、テントはツェルトで我慢。寝袋はシラフ用のインナーシーツとカバーだけ、食料はレトルトの素麺とレトルトのビーフシチュウで我慢と徹底して軽量化して臨みました。結果的には天気が良くて助かりましたが、雨だったらどうなったか・・・?? 夜になると物凄く寒くなり、夜中に雨具まで着込んで対応する羽目に!! ご褒美は・・・小屋だと1泊2食で10400円だがテン場は700円で済みました。(笑)

8月2日(日)最終日。

寒かったので睡眠不足気味で、これを補うため出発を遅らせ6時30分まで睡眠した。テンバで仲良くなった人からりんごを貰ったのを齧りながら出発。天気は最高!正に夏山だ! もうこんな気分は味わえないかもしれない、なんて殺生なことを思いながらひたすら、黙々と歩く。気分最高で調子も良い。ザラ峠から獅子岳への登り1時間20分、そして最後の龍王岳への2時間30分を苦しかったけど、ほぼコースタイム通りにクリアして浄土山に到着。やった〜。登り切った  ちょっと、浄土山からの下りは気が抜けたのかハイカーが多くすれ違いがあったからか時間オーバーで、でも丁度正午室堂ターミナルに到着出来た。残念なのはバッテリー不足で最後方は写真が思うように撮れなかったのが残念ではある。楽しみにしていた、みくりが池温泉の入浴もコロナの影響で日帰り客はお断りで入れず、残念。13時15分の扇沢方面へのバスに乗り、帰宅の途に就いた。

歩いてきた薬師岳、スゴの辺り、五色が原の山荘と全部見渡せた! 最高!!

以上、私の私なりの北アルプス縦走は完結ですが・・・来年も出来るかな??と言う思いでの下山となりました。

(編集子)小生の場合はおととしの夏、西穂から笠を観たのをアルプス歩きの最後と思い定めた。北の代表コース表銀、南の入門鳳凰三山は歩かずに終わり。ひとそれぞれ、思いを残すエンディングがある。ホリにはまだ先の話なのだろうけれども。

 

”白人ナショナリズム - アメリカを揺るがす文化的反動” について 

大統領選挙目前にいろんな情報が入り乱れる昨今だが、米国で起きている社会的な動きから国際関係が変動するかもしれない、ということを考えさせる本書を読んだ。著者渡辺靖氏はアメリカ研究の専門家で、招かれて義塾SFCの教授をしている人である。編集子が曲がりなりにも提出した卒業論文の主要な論点が米国社会の思想潮流でもあったので、興味をもって読了した。中公新書 800円。

2019年4月20日付け本稿で、同氏の ”リバタリアニズム” について書き、カリフォルニア在住の五十嵐恵美から、現地での反応について情報をもらった(5月15日付け本稿)。今回、同じ著者が書いた表記の本を通読したが、正直、リバタリアニズムなる動きよりもはるかに現実的な問題として衝撃を受けた。

リバタリアニズムは個人の自由と経済活動の自由を最重視する考え方で、結果として経済的側面では保守、社会的にはリベラルな性格を持つと定義され、現在の仕組みで言えば共和党と民主党双方に共通する性格を持つ。この真逆に位置するのが、個人的にも経済的にも自由度が低く、個人よりも国家の利益を優先する権威主義ということになり、現存する共和党対民主党、という立ち位置はこの中間にある。権威主義、とは国家主義、宗教主義、共同体主義、人種主義などいろいろな思想が入り乱れるが、結果としていままでの米国において主流となったことはないし、米国人の大半にとって忌むべきもの、不当なものと考えられてきた。それは彼らが常に誇りとしてきた建国の思想であり、FREE COUNTRY という一言が世界中の人々にこの国に対するあこがれを抱かせてきた。日本人の多くも、その理想を追求する国に、模範として敬意を払ってきたように思う。現実に我々が憧れ、尊敬してきたアメリカという国の形は1950-60年後半あたりまでの、ケネディが磨き上げた国のイメージだったし、米国人の多くも同じ感覚を持っているようだ。そこにはに移民によって成り立つこの国が数多くの障害を乗り越えても、”建国の思想” を守り続けていくはずだ、という確信があった。

上記の考え方を整理したノーラン・チャートといわれる図

本書でいう白人ナショナリズム、という動きはこのイメージを完全に破壊してしまうものだし、その動きには現在のトランプ政権の在り方と重なる部分が多いのだ。リバタリアニズムまでは数多くある人間主義のひとつであり、ユートピア思想であって、それが現実の社会になるということは(主張している人を含めて)考えにくかったので、アカデミズムの場での話、と思っていられたのだが本書のフィールドワークが語るものが現実化していくという可能性は誠に不気味だ。

我々は贔屓の引き倒しだと思うのだが、黒人への差別などが我々の尊敬する良き米国に対する挑戦だと決めつけてしまう。ケネディの方針に従ってはじまった、人種差別をなくせ、という国家施策がまず、黒人市民への差別の撤廃を目的とするEQUAL OPPORTUNITY という形で始まり、のちに対象が性差別とかそのほかの障壁をなくす、という目的で DIVERSITY というよりポジティブが名称で推進された。ここまではよかったのだが、その流れの中に POLITICAL CORRECTNESS (PC) という動きが主流を占めるようになった。すなわち、DIVERSITY の主張に反することを言ったりしたりすることが反社会的であり、時には訴訟の対象になったりするようになっていく。たとえば議長、という単語がCHAIRMAN だったのが男女差別になるとして CHAIRPERSON といわなければならない、というようなことで、枚挙にいとまがないほど PC の影響は大きい。もちろん、その結果が非白人、女性などの地位向上に役立ったことは評価されるべきだが、この動きによって、特に人種でいえば非白人の行動はたとえ現存する社会や慣習に逆らうものでも是認されることが増えたのに、白人側がそれに反したり抵抗することは反社会的だとされる風潮が増えてきてしまった。

著者がこの調査をしている間にあった、いくつもある関係団体のうち、代表的なアメリカンルネサンス誌の主宰者ジャレド・テイラーとの会話が記されている。

もし日本に外国人が数百万単位で入ってきたら、日本人は違和感を覚えませんか? それに異議をとなえたとき、”日本人至上主義者” や ”人種差別主義者”というレッテルを張られたらどう思いますか? ”白人は嫌いだ” と公言してもさほど批判されないのに、私たちが”ヒスパニックは嫌いだ”というと ”白人至上主義者”と批判されるのです・・・・黒人の命は大切(Black lives matter) ですが、白人の命は大切 (White lives matter) でもあります。

この団体のように、行き過ぎたPCに反発するがいわば温和路線の団体はいくつもあるとのことだが、彼らをナショナリストと呼ぶのは言い過ぎだろう。ただ、反PCの運動がさらに進むと白人優位を堂々とに主張する動きが出てくるし、かつての反黒人団体クー・クルックス・クランの系列に入るような運動も増加しているようだ。どのような団体がどのような主張をしているのかをここで繰り返すことはしないが、その究極にははっきりとアメリカは白人の国であり、その背後には建国以来の歴史とか、明快に人種間には科学的に立証される優劣の差がある(アジア人種が最も優秀でその次が白人、それからアフリカ系人種となるのだそうだ)などという論議が展開される。上記テイラーは若い頃は熱心なリベラルで平和部隊に参加していたが、コートジボワールへ派遣されたとき、そのあまりにもひどい困窮ぶりに驚いていたら、現地の大学生が当たり前です、コートジボアールは白人がいたからこそ発展したのです、と言ったそうである。

さらに冷厳な事実として、2040年代には米国国民の多数が非白人、特にヒスパニックにとってかわられる、ということ(南西部ではすでに起きている)がこの動きに拍車をかけるのは間違いない。また、先走りすれば今回のコロナ問題によって引き起こされた社会不安がグローバリズムへの批判となり、さらには此の米国経済の中心に当たる部分がユダヤ系に握られているという不満など、我々日本人には理解しがたい社会構造もまた、大規模な変動の素地でもある、と著者は指摘する。

ここまでくると、現在米国で澎湃として起きている社会現象は単なる反PCというレベルではなく、明らかにナショナリズム、と言っていいもののようだ。これら白人ナショナリズムに好意を持つ人の多くが現在のトランプ政治の支持者であることは今秋の選挙にどこまで反映されるのだろうか。今まで我々はいわば自動的にトランプ政治に批判的であり、民主党政権の復権を期待してきたように思い、コロナ騒動にともなう現政権のエラーの数々がその期待を裏書きするように思ってきた。国際政治がらみからの考察ももちろんだが、かの国で起きているこの社会的、文化的変動がどう響くのか、予断を許さない状況であるようだ。

自粛ムードで有り余る時間に、ぜひこの本を読まれることをお勧めしたい。

 

新型コロナウイルス感染症第二波   (34 船曳孝彦)

新規感染者の増加は収まらないようです。これまで、「今一向に減らないのは第2波の襲来ではなく、第1波を抑えきれていないのだ」と、述べてきました。第2波はウィルスの突然変異によって、より感染力が強く、病原性も強い(重症化しやすい)ウィルスになって襲って来るだろうと言ってきました。前にも述べましたが、この新型コロナウィルスはウィルスの中でも変異しやすく、既に何千回もの変異を起こし、大きく分けてアジア西太平洋型、ヨーロッパ型、アメリカ西海岸型、東海岸型の4型に分類されているとも述べてきました。

昨今の日本での感染状態を見ますと、特に大都市以外の感染者数は、4月を中心とした波と7月の急増する波との間に明らかに収まっている時期があり、現在は第2波と見てよいようですので、訂正します。

ではウィルスの変異はどうなっているのかと言いますと、医学的、ウィルス学的根拠を自分で掴んではいませんので、科学者の端くれとしては多少抵抗感があるのですが、東大児玉教授の『東京型に変異し、東京が感染の震源地となっている』という説を支持します。軽症者、無症状感染者の比率が高く、会食、電車だけで感染したのかというような原因不明感染者の増加、欧米と比べて死亡率の極端に低いことを考えると、『東京型』の特徴は感染力が強くなって(罹り易く)、病原性は強くなっていない(むしろ弱くなっている)という印象です。そろそろクラスター重視の大方針の変換(クラスター追跡を否定するものではありません)を検討すべき時と思います。

そもそも、他所の国と比べて桁違いに少ないPCR検査のために、無症状、軽症者が巷に溢れ、そこへGo To Travelなどが加わってきているのが原因と考えます。世田谷区で、“誰でも、何時でも、何回でも“PCR検査が出来るようにという方針を打ち出しました。ニューヨークや韓国で成功した先例があるのです。もろ手を挙げて賛成します。これまでにも山梨大学、新宿区など、その試みが打ち出されては来たのですが、政府は一向に取り上げてきておりません。PCR検査が唾液法や、簡単キット法で素早く、安価で大量に検査できるといわれながら未だに公的には採用されていません。日本で開発されフランスなどで採用され、医師、技師、防護服などの検査用機材も少なくて済むというのに、コロナ禍が始まって半年が過ぎているのです。信じられません。コロナ禍克服に、国は本腰を入れて対処してほしいと念願します。

PCR検査により、陽性者が多数出るでしょう。これが医療崩壊を招くという反論が出ます。しかし検査対象を膨らませての陽性者ですから、必然的に軽症、無症状者が大部分を占めると予想されます。彼らは今閑古鳥の鳴いているホテルや、前からいっている選手村予定施設に1週間~10日収容すれば、回転も早く、医療施設に負担を掛けずに済みます。むしろ医療崩壊の回避に役立ちます。区民、都民、首都圏民が全員受けるような機運に持って行ければ、推計学に詳しくありませんが、新規感染者は急速に減ることが期待できます。陰性の結果であってもすぐ後から感染するかもしれないという危惧は当然あります。だから『何回でも』が必要ですし、医療関係者はそれこそ何回でも必要とします。

医療機関は、コロナ用病床を用意し、コロナ用医療スタッフに人数を割くため、一般のがん治療、成人病治療に手が回らず、赤字が膨らんでいます。これ自体皆さんの健康にとっての大問題なのですが、お気づきになっていない方が多いと思われます。さらに東京女子医大で、ボーナスカット、賃金カットで大量の退職希望者が出たと報じられましたが、8割以上の医療機関が経営困難に陥っており、その何割かは閉院に追い込まれようとしています。医療崩壊です。国は支援するとは言っていますが、とても今程度で支援しきれないことは目に見えています。

第2波『東京型』は幸いにして病原性が弱くて済みそうですが、これを若者たちが本能的に感じ取って、「どうせ罹っても軽症だろう」「調子悪いところなんか全くないから大丈夫」と奔放に動き回っているようにも思えます。政府なり、メディアなりは自覚を促すよう本腰を入れるべきです。

しかし、次の第3波、第4波は、もっと強力かもしれません。それに備えて、十分な体力、気力を蓄えておきましょう。

”とりこにい” 抄 (10) 飯豊の夏

コロナに振り回されているうちに8月になってしまった。今はただ、暑いだけの日々しかないが、夏山を歩いた記憶はやはりこの月に多い。

数えてみればほぼ60年ほどになるある八月のこと。サラリーマン生活が4年もたつと、友人たちも新しい任地に去ったり、休暇があわなかったりで、毎夏出かける旅も現役時代とは違った組み合わせになることが増えていた。なんせ、同期だけで70人を超える仲間がいた時代だから、合宿なんかをのぞいた、いわゆる一般プランでは、卒業するまでいちども一緒になったことがない仲間の方が多かったから、OBになってから妙に新鮮な気持ちで歩いたものだ。

あの夏 - 好天に恵まれた飯豊の縦走は今考えても伸びやかな、のんびりしたものだった。

切り合せにて

 

ひろびろとふきわたる風はみちのくの風。

はろばろと受け止める山はみちのくの山。

そよぎたつ くさはらに 泥靴。

友の眼と俺の眼に むかしの夢。

越後から吹き寄せる風は 八月の風。

みちのくの夏のそのおわりに

チングルマは秋をうたう。