エーガ愛好会 (16)  ”ガス灯” をめぐって

(44 安田)820日放映NHK BSPの「ガス燈」を観ました。二度目です。初回に比べて細部にも注意を払い、より面白く楽しめました。 

品の良いフランスの美男スター、シャルル・ボアイエ(当時45)と、1942年の「カサブランカ」、1943年の「誰が為に鐘は鳴る」の成功でこの時期 “理想の女性像” として絶大な人気を博したイングリッド・バーグマン(当時28)の美男美女の競演が最大の見どころ、舞台は1870年代のロンドン。心理サスペンス映画。ロンドン名物の霧やゆらゆらと揺れるガス燈などを効果的に使った光と陰の映像美も秀逸なモノクロ映画です。 

未解決の殺人事件の被害者の姪(バーグマン)に良からぬ目的で近づき結婚するボアイエ。彼女をノイローゼになるようにじわじわと追い詰めていく悪人であることは、誰の目にも明らか。宝石目当てで叔母を殺し、彼女の宝石を狙って跡継ぎの姪(バーグマン)まで破滅させ病院に送り込もうと画策したボアイエの策謀の数々と彼の演技。バーグマンの恐怖と混乱を表した演技は共に見事と言うしかありません。 

叔母の名歌手(被害者)が遺した宝石の所在を探し屋根裏部屋にまで侵入。そこはバーグマン寝室の真上。不気味な足跡(実はボアイエの)が聞こえてくるが、ボアイエはバーグマンの幻聴だと言い張り、不思議な足跡の音を否定する。さらに、ボアイエ自らが仕組んで、首飾り、絵画、時計、ブローチなどの紛失事件を次から次へと起こし、バーグマンの過失として問い詰め、精神的に攻め立て異常を来たしたように思いこませていきます。外部の人間には妻は体調がよくないなどと言って他人との接触を断たせ、孤独の淵に追いやる。このねちねちとした粘着質の、ボアイエのいたぶり方が秀逸。親切づらをして穏やかに微笑む紳士から、ひとつひとつ計画を実行するたびに、妻を冷ややかな目で睥睨するボアイエの視線のバリエーションは、いくら見ても見飽きない。少し眉を上げてバーグマンを見下ろす高慢な視線は、この男の悪人振りを如実に物語っている。

映画のクライマックスは、少年の頃有名な歌手だった叔母に憧れていて、スコットランド・ヤードの警部になっていたジョセフ・コットンが同じ館に居を構えたボアイエ・バーグマン宅を訪れたことから急展開を見せます。

この映画で出色だと思ったのは、ひとつには招かれたコンサートのシーン。最初はベートーベンのピアノソナタ「悲愴」が弾かれ、次にショパンのバラード一番。演奏の途中で夫は時計が無いと騒ぎだし、探すと妻のハンドバッグから見つかる。夫が仕組んだ謀略だが、妻は混乱で取り乱す。この彼女の動転振りと恐怖をこの「バラード一番」の緊張感ある旋律が伝える。格調高く、けれど緊迫した場面。自分が狂気に陥っていると恐れるバーグマン、迫真の演技。バラードは美しいだけの曲でなく、こんな場面にもピッタリでした。

もうひとつのみどころは、屋根裏部屋でコットン警部がボアイエを捕らえ、ボアイエとバーグマンが二人だけで対峙する場面。バーグマンが見せる強く射るような視線で激しくののしる口調と、ボアイエの何かに憑かれたような、別次元をみているかのような歪んだ欲望に満ちた、しかし観念し諦めた視線は物語を締めくくるのに最もふさわしい見せ場だったと思います。 

ハンガリー系ユダヤ人ジョージ・キューカー監督の映画はこれまで、「素晴らしき休日」1938(ケーリー・グラント、キャサリーン・ヘプバーン)、「フィラデルフィア物語」1940年(ジェームス・ステュアート、ケーリー・グラント、ヘプバーン)、「スタア誕生」1954年(ジュディー・ガーランド、ジェームス・メイソン)、「マイフェアレディ」1964年(オードリー・ヘプバーン)を観ていた。キャサリーン・ヘップバーンをブロードウエイからハリウッドに呼び寄せ、成功に導いたのも彼であるし、俳優の魅力を遺憾なく引き出す能力に長けているとの評あり。ヘップバーン映画10本ものメガホンを執っている。特に女優を輝かせることにかけてはピカイチ。本作のバーグマンも彼女の魅力が見事なまでに美しく引き出されていたと思います。 

舞台でキャリアを積んだ実力の持ち主ボアイエと、若き実力派バーグマンの静かな火花が散る演技合戦、とりわけ彼らの視線の演技は。密室劇であり心理戦が主題である本映画にふさわしく見応え充分でした。紳士然としたボアイエの異常性をはらんだ人物像と、好対照に美しきバーグマンが身も心も閉塞感と孤独感にさいなまれて、現実と虚構の間を行き来する虚ろな心情の息詰まる感じ。伏し目がちになり、時に怯えてすがるように悲痛な視線を他人に向けるも、無力さを痛感して嗚咽する。そんな彼女が最も怯えるのが、タイトルにもなっている寝室のガス燈がある時間になると不安定にゆらめき、燈が小さくなって暗くなる瞬間だ。恐怖の色が顔に浮かび、狼狽しながら「聞こえるはずのない」不気味な音に耳を傾けます。そこに爽快なアクセントとなっているジョセフ・コットン、更には独特の存在感を醸し出して良いスパイスになっているメイド役の、後年テレビドラマシリーズ「ジェシカおばさんの事件簿」で大ブレークした、アンジェラ・ランズベリーが見事な脇役を果たしていました。存分に楽しめた2時間でした。

(HPOB 金藤)

安田さま  「ガス燈」の写真と素晴らしい解説文、ありがとうございました。
保屋野さま 「ガス燈」は名画だと聞いてはいましたが、私も観るのは初めて、サスペンスだとは思っていませんでした!
モノクロ画面で、霧に包まれるロンドンのl家、ガス燈、豪奢な家の中、調度品等、光の当たる部分と影になる部分が効果的に美しく映し出されていました。
ボワイエは初めから、いかにも悪そうに見える夫役をこれでもかと言うほど
しれっと演じていたのは見事でした。への字眉もこの役作りでしょうか?
揺らめくガス燈に揺らめく心
バーグマンが精神的に追い詰められていく様子がよく描かれていました。
バーグマンは美しい上に、恐怖の表情、演技力はさすがアカデミー賞受賞をしただけの事がありますね。 ウエストの細さにも驚きました・・・
耳の遠い家政婦さんはジェシカおばさんになっていたのですか!!観て良かった映画です!
(安田)ご感想のメールありがとうございます。ひとつだけ訂正させて下さい。

「ジェシカおばさん」で1980年代人気を博したのは若いメードの方で、当時19歳のアンジェラ・ランズベリー。この映画のメイド役でアカデミー助演女優賞候補にノミネートされました。シャルル・ボアイエも主演男優賞候補にノミネート。バーグマンとのトリプルオスカー受賞とはいきませんでしたが、二人とも見事な演技だったと思います。
(金藤)あの若いメードさんがジェシカおばさんになったのですか!!

ずいぶん変わったのですね!ご指摘頂きましてありがとうございました。
とんだ勘違いをしていました。ありがとうございました。
(編集子)まずはウエストの細さがでてくるあたり、さすが昔から冷静さが頼りだった我がセクレタリ、でありますな。

エーガ愛好会 (15) ゲイリー・クーパーを思い出した

コブキこと久米行子発の何気ないメールから始まったクーパー論議。僕らの年代の代表的俳優のひとりだが、今どきの若いファンの間では誰が匹敵するのだろうか。ジェイムズ・スチュアートと並んで、良きアメリカ人を体現、代表する俳優だった。ウエインやイーストウッドがいわば右寄りのイメージなのに対し、いつも中庸を感じさせ、成熟という表現があてはまる存在だったと思う。

 

(きっかけとなった、安田の記事をフォローした久米のメール)

「眼下の敵」またもや見てしまいました。やはり、ロバートミッチャムが格好よくて満足しました。駆逐艦がUボートを駆逐したのですからこの艦長は勲章物でしょうね。それとクルトユルゲンスのまなざしに時々ゲーリークーパーのまなざしを見つけて驚きました。

(後藤)実は明治36年生まれの亡き母が最も好きな映画俳優がヴァレンチノとゲーリークーパーでしたので私も母のお供で幾つかの映画を中学生の頃観ました。沢山の良い作品の中で特に印象に残っているのはヨーク軍曹””誰がために鐘は鳴る”です。晩年にはフレッドジンネマンの”真昼の決闘”やヘップバーンとの共演ビリーワイルダーの”昼下がりの情事”ありましたが若々しくセリフの歯切れが良かったのは先の2本が特に印象的です。ヴァレンチノに関しては一本だけ”The Son of the Sheik”しか覚えておりません。他に”善人サム”と言う映画も若くてクーパーらしい男前といかにもスカッとした役柄が印象的でした。

しかし真昼の決闘以降の映画はクーパーファンにはあまり面白くありませんでした。ルー・ゲーリックの生涯をテーマの”打撃王”は素晴らしい映画でしたが ”The Pride of Yankees”を何故”打撃王”などと勝手な題名を日本で付けたのか母親はいつもボヤイテおりました。誰が為に鐘は鳴るのイングリッド・バーグマンとのラヴシーンは中学生には刺激が強すぎましたが鼻が邪魔するほど美形の二人のキスシーンは忘れません。

(菅原)小生の一番好きなクーパーのエーガは「真昼の決闘」です。主題歌も良かったし(今でも耳に甦る)、実際の時間とエーガの動きが同期化されていて、ハラハラのしどうしでした。

グレース・ケリー初お目見えの西部劇でもあった

が、それよりも何よりも、孤立無援で悪漢に立ち向かうクーパーが、実にカッコ良かったこと。終わって劇場(日比谷だったか、有楽座だったか、もう思い出せません)を出るに当たって、クーパーの積りで出ました、その恰好良さをを真似て。しかし、誰も気にも留めていませんでしたが。

(小泉)人間の善意が滲み出る人柄、皆さんの適切なるコメントに、こちとらはもうとても出る幕はないものと思っておりましたが、二言だけ言わせてもらいます。KOBUKIさん他の人が言われる通り、自分が歳を取ってみると矢張り勝手ながら、しわ首の目立たなかった若きクーパーが良かったです。西部劇では、平原児、西部の男、北西騎馬警官隊、無宿者、サラトガ本線、征服されざる人々ぐらいまで。打撃王、誰がために鐘は鳴る、ヨーク軍曹も良かった。ヨーク軍曹は、終戦間もなく、中学時代に観て感激した。終戦まで鬼畜米英と教えられてきた者にとって、ヨーク軍曹は戦場では、敵ドイツ人を25名殺害、132名を捕虜にする大功績をあげるが、兵隊に行くまでのクリスチャンとしての人を殺すなという教えに大いに悩み、苦労した挙句に、自由を手にするためには戦いに同意するという、今から思えば、戦意高揚の意識が盛り込まれていたのだが、やみくもに米英をやつけろとけしかけていた日本がアメリカに負けたのも、当たり前だと思ったものだった。

 善意クーパーにも、大いなる危機があった。クーパーファンとしては触れたくないが、魔が差すこともある。1949年48歳の時、摩天楼に主演したとき、25歳年下の共演のパトリシア・ニールと恋に落ち深い関係となってしまった。クーパーは妻ヴェロニカと一人娘マリアのことを考え、家庭を捨てることなく別れたのだった。後日談として、そのニール、ヴェロニカとも再婚したりしたが、クーパー死後20年後、再婚者共に死別、ニールのヴェロニカへの弔意の手紙が発端で、ニールとヴェロニカ、マリアの3人が夕食のテーブルを囲んだという。クーパーの妻と娘は過去のことを忘れ、ニールを許したばかりか。娘のマリアはニールに心当たりの修道院を紹介したとのこと。

(金藤)皆様の素晴らしいコメント、いつも楽しみにさせて頂いております。盛り上がっているのに、すみません、ゲイリー・クーパーについては、アメリカの大スターの他何も書けませんので小さくなっています。「真昼の決闘」「ヨーク軍曹」は観るべき映画に登録させて頂きます。 

***以下、ウィキペディア解説から***

ゲーリー・クーパーGary Cooper、本名: フランク・ジェームズ・クーパー、1901年5月7日 – 1961年5月13日)は、アメリカ合衆国モンタナ州ヘレナ出身の俳優。愛称はクープ

アイオワ州グリネル大学で学ぶが卒業はせず両親の持つ牧場で働きながら商業デザイナーを目指して新聞に漫画を書くようになるが、両親がロサンゼルスに移ったために共に移動、セールスマン等の仕事に就くが長続きしなかった。友人のツテで1924年ごろから西部劇映画のエキストラ出演を始め、俳優を志すようになる。1925年、名前をゲーリー・クーパーと変え1926年『夢想の楽園』で本格的にビュー。この映画を見たパラマウント映画の製作本部長は「この男は、うしろ向きに立っているだけで女性ファンの心をつかむ」と見込んで契約した。

1927年、『アリゾナの天地』で主役を演じてからは、しばらくは主にB級西部劇で活躍した。1929年、『バージニアン』で西部劇スターとしての地位を確立する。そして翌年、マレーネ・ディートリヒと共演した『モロッコ』で世界的な大スターの仲間入りを果たす。また、1936年、『オペラハット』でアカデミー主演男優賞にノミネートされるなど、順調にキャリアを重ねていった。

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出演作品は本稿記載のほかにも多くて記載しきれないが、われわれの射程内に入ってくる作品では何といってもマレーネ・ディートリッヒのラストシーンが名高い モロッコ あたりからだろうか。あまり話題にはならなかったようだが、ボージェスト は小生の愛する作品、悪役ナンバーワンに上がることの多いブライアン・ドンレヴィの強烈な印象もあって、何度も見ている。若き日のスーザンヘイワード、レイ・ミランドが共演(やっこにおすすめ。よければDVDお貸しします)。

西部劇なら 北西騎馬警官隊 とか 遠い太鼓 もちろん ベラクルス なんてのも興奮したね。ヴァージニアン はクーパーものではなく、ほかの題名でたしかランドルフ・スコットだったかジョエル・マクリ―の作品を見ているはずだが、題名思い出せず。小泉さん、ご存じありませんか。

コロナをよそに田園は平和です   (39 堀川義夫)

2020年8月12日撮影

寺家ふるさと村は、順調にお米が育っています。

コロナに関係なく、素人目にも稲穂がたわわに実っています。ここで採れるお米は、ほとんど市場に出ることがなく、ふるさとの米を食することがなかなかできません。タイミングが合えば、3kg位の袋詰めを買うことが出来ますが、私は未だ一度しかその幸運に恵まれません。

2020年6月5日撮影

(43下村) おはようございます。自然の力とは凄いものですね。太陽と水だけからたわわに実る米をこんなにたくさん作ってくれのですから・・・。洪水を起こすなどマイナスの面もありますが、改めて自然の魔力を感じます。

原村に来ています。 暑い日が続きますが、こちらは涼風が吹き、緑も真っ盛りで暫しコロナを忘れることができそうです。生い茂っている雑草を刈ったり、薪小屋を整備したり結構やる事がありますね。明日から孫たちが来る予定で、密にならないよう用心して過ごすつもりです。

 

 

 

エーガ愛好会 (14) 新・ガンヒルの決闘  

自粛続きの毎日、懐かしいセーブゲキの連発がうれしい。まずは小泉解説から。(小泉)  グレゴリー・ペックと言えば、理知的で紳士的で誠実な風貌の役柄が似合うと思われるが、過去出演の西部劇を見ると11作品ある。「大いなる西部」のようにペックらしく東部からやってきた紳士風の役柄もあったが、どの映画も所謂西部劇とは一線を画した一癖も二癖もある、また巨匠の監督によるものが多く、それだけに、偉大なる大根などと揶揄されたこともあったが、感じる以上に夫々の役柄をこなしてきたと言えると思う。例を挙げれば、「白昼の決闘」「廃墟の群盗」「拳銃王」「無頼の群」「レッドムーン」等。

 ペック55歳の時の作品。監督はヘンリー・ハサウエイ、西部劇はもとより戦争映画、歴史劇、犯罪映画、冒険活劇の様々のジャンルで楽しませて呉れた。ペックが7年間の刑期を終え出所するところから始まるが、後になって、銀行強盗をした相棒に裏切られ、独り占めされた恨みを晴らしたいことが分かる。裏切った方は、出所が分かり、用心棒風の若者に、ペックの動静を探らせる。その若者と仲間計3人が、自称三銃士で傍若無人の振舞い、冒頭の酒場でのペックとの絡み合いから、ペック対三銃士の争いが最後まで続くことになり、ペックの敵まで殺してしまうので、ペックの出る幕がなくなってしまったのでした。勝手な推測だが、当時監督74歳、ヒッピー等既成概念からはみ出た若者の暴走に不快感を持っていたことが、三銃士の暴走に歯止めがかけられなかったのでは?結局は、ペックと三銃士との争いでの勝利で終わり。

 以上では観る価値もないようだがそうでもない。この映画のもう一つの主題、可愛いい7歳の女の子、投獄される前の恋人に預けておいた200ドルを届けてもらうはずが、恋人の死で、女の子が汽車でやって来る。どうやらペックの子供か否か不明だが、恋人がペックに頼るよう言い残したことは、ペックの子?しかも丁度7年経過。女の子とのロードムービーとしても出色の出来ではないか。同監督がジョンウエインにアカデミー賞を取らせた「勇気ある追跡1968」と同系統の映画。汽車でやってきた折、ペックは女の子を受け取るか否かで悩む。汽車が走り去るも水の補給で一時止まる、その際受け取りを決める。車掌とのやり取りで、帽子を代えるような男に碌な男はいないとペックを非難すると女の子がそれに同調し、同行を拒否するところ。ペックが、フライパンを持ち上げ、中のホットケーキが飛んでなくなったように見せかけ、女の子がガックリすると蓋を取ると中にあって大喜び。雨宿りの積りで入った母親と息子の一軒家で世話になった折の、ペックと母親とのやり取り、女の子を引き取る要望に対し母親は同意。引取れば貴方はここへ戻るでしょうから、も意味深で面白い。三銃士が一家を襲い、ウイリアムテルよろしく、母親に対し、林檎を息子と女の子のどちらかへ載せるよう強制された際、息子を避け女の子に載せる。あとでペックに謝るが、ペックも同じ立場なら同じことをした応える。何しろセリフが面白い。ペックと女の子二人、母親と息子の家に入って行くところでめでたしめでたし。

 最後に、邦題「新ガンヒルの決闘」はいただけない。アンソニー・マン監督「ガンヒルの決闘」とは何の関係もないのにあるように見えてしまう。「ラスト・シューティスト」という題名もあるのだから、原名「シュートアウト」やら「勇気ある追跡」の姉妹編なら「勇気ある銃撃」とか?

(菅原)早撃ちペック、参上。グレゴリー・ペックは、新聞記者だけじゃなく、早撃ちでもあったんだ。小生、非常に気に入らないところがありました。これは脚本のせいなのか、70歳を過ぎた老監督のせいなのか、どっちなのかは分かりません。ペックの目指す相手は、チンピラ ヤクザではなく、自分を裏切って銀行強盗の金を独り占めにしたサム・フォーリー(役者:ジェイムズ・グレゴリー)だったんじゃないでしょうか。そうじゃなかったところに、このエーガの致命傷があったと思います。「西部劇の両巨頭」小泉さん、ジャイ大兄、もし、間違っていたら。ご指摘ください。

でも、早撃ちペック、万歳!

(編集子)ペックの西部劇、といえばこれはもう、 大いなる西部 でありますな。高校時代だったかにみた 勇者のみ なんてのもあった。白昼の決闘 は見よう見ようとおもっていたが機会がなかった。廃墟の群盗 は見たはずだがあまり印象なし。小生にとっては 大いなる西部 が圧倒的で、ウエスタンでは印象が薄い。仔鹿物語、ローマの休日 とか、ジミー・スチュアートとな らんで、よきアメリカ人を演じるのがぴったりという俳優、という感じ。ナバロンの要塞 もあったか。

今日の結末については同感。あれえ! という感じだったね。子役がよかったし、もっと典型的なエンディングだとおもっていたんだけど。小泉解説にある題名についての違和感も同感。殺された友人がいうせりふだから間違いはないが、カーク・ダグラス版と全く関係ないのにこの地名が出てくるのはなぜなんだろうと考えてしまう。ダッジシティだとかツームストーンとかはたまたアビリーンだとかいう地名とは格が違うし、第一存在したかどうかもわからないが、とにかく劇中にはっきり出てくるのだから、日本の題名に出てくるのは自然か。先回あげた、あきらかに興行目的でつけた ”続”荒野の七人 とは違うけどね。

薬師岳から室堂への山中3泊4日の縦走登山 (39 堀川義夫)

今回は本文より先に観客席からの !! で始めよう。

(39 岡沢)どんな体力を持ってるんですかね。 そっくり同じコースを 13年前2007年 に66歳の時 同期の 長谷川 三嶋 飯河 小野 津金 岡沢の6人で縦走しています。 その時は小屋どまりで それでもよく行けたと思ってたのに 堀川は一人でテント行 どうなってるんだね。

私は 昨年 堀川に同行してもらい 飯河と三人で行った 裏剣 仙人池 欅平の山行が最後の縦走だと思ってます。実は 私も同期の三嶋のグループに誘われ 3日4日と 湯檜曽どまりで 谷川岳に行ってきました。 もっともロープウェイ経由ですが3時間近くかかってしまいました。平地歩きでは堀川にまけないんだけれどね。
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7月29日(水)の夕方の飛行機で富山へ。着陸直前のサンセットが美しい。明日は晴れてくれよと祈るばかり。富山の駅に近いAPAホテルに宿泊。翌30日(木)、例年だと富山の駅前から登山口の折立まで直通バスがあるのだが、コロナの為運航休止。この為、地鉄で有峰口へ行き、予約した折立行きバス(40人近く乗車)に乗り換えて8時10分折立に到着。いよいよ。3拍4日の縦走の開始である。登山客はバスだけでなく、結構駐車場には車が多く入山者は多いように思う。出発時は青空も見えたが、ずっと曇りで時々雨具が必要な位の雨。ひたすら我慢して太郎平の小屋に12時40分に到着出来た。まずまずのペースである。途中の高山植物は期待したほどでは無かったが、また、花を愛でるなどの余裕もなく歩いた。小屋の宿泊は予約が必要で普段の定員の多分、40%位に制限していると思うが、まだ、かなり余裕がある。小屋ならではの贅沢ではあるが、乾燥室で濡れた衣類、靴など乾かせるのがありがたい。5時からの夕食を取り始めた頃から晴れてきた! そして、第一の目標の薬師岳が全容を見せてくれた。

7月31日(金)

6時50分にガスで何も見えない中をスゴの小屋を目指して出発。結構調子が良く、かえって何も見えない方が登りに専念できる。頂上まで2時間40分で登り切り言うことなし。只、何も見えないし風が強い。多分10m以上が飛騨側から吹いている。登山路が黒部川に入るとホッとして、ついつい、休憩を取ってしまう。薬師岳から北薬師岳の間は飛騨側からの強風で思うように歩けず、又北薬師からの下りは風が強い上に巨岩地帯で歩くのにバランス感覚が不可欠の地帯だが、歳をとるにつれ、このような登山路は、私の一番苦手で嫌いな道である。思わぬ時間を要し、コースタイムの三割増しでやっと間山に到着した。ふっと、後ろを振り返ると・・・北薬師岳が全容を見せて呉れていた。晴れて来たのでゆっくり休憩を取り一気にスゴの小屋へと向かう。スゴの小屋の宿泊は5名、但し、天泊は10張以上の盛況でしだ。

8月1日(土) 今日は晴れだ!!

今日は五色ヶ原まで。まずはスゴノ頭の登りがきつい。3日目で疲れも出て来ている。でも、頑張りました。そして越中沢岳の登りがこれ又きつい! この2つの岩峰は、アミノバイタルで何とか乗り切った。(笑) そして、ほぼコースタイムで五色ヶ原に到着することが出来た。縦走はこうでなくてはいけない。穏やかな天気。心地よい風。適度の登りと適度の下り路。余裕のある時間。これらが、縦走の醍醐味でしょう。私の一番好きな登山スタイルです。ふっと、来年も同じようなことが出来るだろうか? 今回が最後の縦走スタイルの登山になるのではと思うと、おろそかにできないと言う思いがふつふつと沸いてきた。そして、山の神様!来年もよろしくと祈願せずにはいられませんでした。実は出発当日まで山荘のキャンセル待ちをしていたのだが、コロナで定員を大幅減にしている為どうしてもダメで、この為、天泊しなければならないことになってしまいました。そこで、やむを得ず、1泊の為に、テント、シラフ、食料。炊飯道具などを携行しなければならなくなりました。そこで、出来るだけ軽量化するため、テントはツェルトで我慢。寝袋はシラフ用のインナーシーツとカバーだけ、食料はレトルトの素麺とレトルトのビーフシチュウで我慢と徹底して軽量化して臨みました。結果的には天気が良くて助かりましたが、雨だったらどうなったか・・・?? 夜になると物凄く寒くなり、夜中に雨具まで着込んで対応する羽目に!! ご褒美は・・・小屋だと1泊2食で10400円だがテン場は700円で済みました。(笑)

8月2日(日)最終日。

寒かったので睡眠不足気味で、これを補うため出発を遅らせ6時30分まで睡眠した。テンバで仲良くなった人からりんごを貰ったのを齧りながら出発。天気は最高!正に夏山だ! もうこんな気分は味わえないかもしれない、なんて殺生なことを思いながらひたすら、黙々と歩く。気分最高で調子も良い。ザラ峠から獅子岳への登り1時間20分、そして最後の龍王岳への2時間30分を苦しかったけど、ほぼコースタイム通りにクリアして浄土山に到着。やった〜。登り切った  ちょっと、浄土山からの下りは気が抜けたのかハイカーが多くすれ違いがあったからか時間オーバーで、でも丁度正午室堂ターミナルに到着出来た。残念なのはバッテリー不足で最後方は写真が思うように撮れなかったのが残念ではある。楽しみにしていた、みくりが池温泉の入浴もコロナの影響で日帰り客はお断りで入れず、残念。13時15分の扇沢方面へのバスに乗り、帰宅の途に就いた。

歩いてきた薬師岳、スゴの辺り、五色が原の山荘と全部見渡せた! 最高!!

以上、私の私なりの北アルプス縦走は完結ですが・・・来年も出来るかな??と言う思いでの下山となりました。

(編集子)小生の場合はおととしの夏、西穂から笠を観たのをアルプス歩きの最後と思い定めた。北の代表コース表銀、南の入門鳳凰三山は歩かずに終わり。ひとそれぞれ、思いを残すエンディングがある。ホリにはまだ先の話なのだろうけれども。

 

”白人ナショナリズム - アメリカを揺るがす文化的反動” について 

大統領選挙目前にいろんな情報が入り乱れる昨今だが、米国で起きている社会的な動きから国際関係が変動するかもしれない、ということを考えさせる本書を読んだ。著者渡辺靖氏はアメリカ研究の専門家で、招かれて義塾SFCの教授をしている人である。編集子が曲がりなりにも提出した卒業論文の主要な論点が米国社会の思想潮流でもあったので、興味をもって読了した。中公新書 800円。

2019年4月20日付け本稿で、同氏の ”リバタリアニズム” について書き、カリフォルニア在住の五十嵐恵美から、現地での反応について情報をもらった(5月15日付け本稿)。今回、同じ著者が書いた表記の本を通読したが、正直、リバタリアニズムなる動きよりもはるかに現実的な問題として衝撃を受けた。

リバタリアニズムは個人の自由と経済活動の自由を最重視する考え方で、結果として経済的側面では保守、社会的にはリベラルな性格を持つと定義され、現在の仕組みで言えば共和党と民主党双方に共通する性格を持つ。この真逆に位置するのが、個人的にも経済的にも自由度が低く、個人よりも国家の利益を優先する権威主義ということになり、現存する共和党対民主党、という立ち位置はこの中間にある。権威主義、とは国家主義、宗教主義、共同体主義、人種主義などいろいろな思想が入り乱れるが、結果としていままでの米国において主流となったことはないし、米国人の大半にとって忌むべきもの、不当なものと考えられてきた。それは彼らが常に誇りとしてきた建国の思想であり、FREE COUNTRY という一言が世界中の人々にこの国に対するあこがれを抱かせてきた。日本人の多くも、その理想を追求する国に、模範として敬意を払ってきたように思う。現実に我々が憧れ、尊敬してきたアメリカという国の形は1950-60年後半あたりまでの、ケネディが磨き上げた国のイメージだったし、米国人の多くも同じ感覚を持っているようだ。そこにはに移民によって成り立つこの国が数多くの障害を乗り越えても、”建国の思想” を守り続けていくはずだ、という確信があった。

上記の考え方を整理したノーラン・チャートといわれる図

本書でいう白人ナショナリズム、という動きはこのイメージを完全に破壊してしまうものだし、その動きには現在のトランプ政権の在り方と重なる部分が多いのだ。リバタリアニズムまでは数多くある人間主義のひとつであり、ユートピア思想であって、それが現実の社会になるということは(主張している人を含めて)考えにくかったので、アカデミズムの場での話、と思っていられたのだが本書のフィールドワークが語るものが現実化していくという可能性は誠に不気味だ。

我々は贔屓の引き倒しだと思うのだが、黒人への差別などが我々の尊敬する良き米国に対する挑戦だと決めつけてしまう。ケネディの方針に従ってはじまった、人種差別をなくせ、という国家施策がまず、黒人市民への差別の撤廃を目的とするEQUAL OPPORTUNITY という形で始まり、のちに対象が性差別とかそのほかの障壁をなくす、という目的で DIVERSITY というよりポジティブが名称で推進された。ここまではよかったのだが、その流れの中に POLITICAL CORRECTNESS (PC) という動きが主流を占めるようになった。すなわち、DIVERSITY の主張に反することを言ったりしたりすることが反社会的であり、時には訴訟の対象になったりするようになっていく。たとえば議長、という単語がCHAIRMAN だったのが男女差別になるとして CHAIRPERSON といわなければならない、というようなことで、枚挙にいとまがないほど PC の影響は大きい。もちろん、その結果が非白人、女性などの地位向上に役立ったことは評価されるべきだが、この動きによって、特に人種でいえば非白人の行動はたとえ現存する社会や慣習に逆らうものでも是認されることが増えたのに、白人側がそれに反したり抵抗することは反社会的だとされる風潮が増えてきてしまった。

著者がこの調査をしている間にあった、いくつもある関係団体のうち、代表的なアメリカンルネサンス誌の主宰者ジャレド・テイラーとの会話が記されている。

もし日本に外国人が数百万単位で入ってきたら、日本人は違和感を覚えませんか? それに異議をとなえたとき、”日本人至上主義者” や ”人種差別主義者”というレッテルを張られたらどう思いますか? ”白人は嫌いだ” と公言してもさほど批判されないのに、私たちが”ヒスパニックは嫌いだ”というと ”白人至上主義者”と批判されるのです・・・・黒人の命は大切(Black lives matter) ですが、白人の命は大切 (White lives matter) でもあります。

この団体のように、行き過ぎたPCに反発するがいわば温和路線の団体はいくつもあるとのことだが、彼らをナショナリストと呼ぶのは言い過ぎだろう。ただ、反PCの運動がさらに進むと白人優位を堂々とに主張する動きが出てくるし、かつての反黒人団体クー・クルックス・クランの系列に入るような運動も増加しているようだ。どのような団体がどのような主張をしているのかをここで繰り返すことはしないが、その究極にははっきりとアメリカは白人の国であり、その背後には建国以来の歴史とか、明快に人種間には科学的に立証される優劣の差がある(アジア人種が最も優秀でその次が白人、それからアフリカ系人種となるのだそうだ)などという論議が展開される。上記テイラーは若い頃は熱心なリベラルで平和部隊に参加していたが、コートジボワールへ派遣されたとき、そのあまりにもひどい困窮ぶりに驚いていたら、現地の大学生が当たり前です、コートジボアールは白人がいたからこそ発展したのです、と言ったそうである。

さらに冷厳な事実として、2040年代には米国国民の多数が非白人、特にヒスパニックにとってかわられる、ということ(南西部ではすでに起きている)がこの動きに拍車をかけるのは間違いない。また、先走りすれば今回のコロナ問題によって引き起こされた社会不安がグローバリズムへの批判となり、さらには此の米国経済の中心に当たる部分がユダヤ系に握られているという不満など、我々日本人には理解しがたい社会構造もまた、大規模な変動の素地でもある、と著者は指摘する。

ここまでくると、現在米国で澎湃として起きている社会現象は単なる反PCというレベルではなく、明らかにナショナリズム、と言っていいもののようだ。これら白人ナショナリズムに好意を持つ人の多くが現在のトランプ政治の支持者であることは今秋の選挙にどこまで反映されるのだろうか。今まで我々はいわば自動的にトランプ政治に批判的であり、民主党政権の復権を期待してきたように思い、コロナ騒動にともなう現政権のエラーの数々がその期待を裏書きするように思ってきた。国際政治がらみからの考察ももちろんだが、かの国で起きているこの社会的、文化的変動がどう響くのか、予断を許さない状況であるようだ。

自粛ムードで有り余る時間に、ぜひこの本を読まれることをお勧めしたい。

 

新型コロナウイルス感染症第二波   (34 船曳孝彦)

新規感染者の増加は収まらないようです。これまで、「今一向に減らないのは第2波の襲来ではなく、第1波を抑えきれていないのだ」と、述べてきました。第2波はウィルスの突然変異によって、より感染力が強く、病原性も強い(重症化しやすい)ウィルスになって襲って来るだろうと言ってきました。前にも述べましたが、この新型コロナウィルスはウィルスの中でも変異しやすく、既に何千回もの変異を起こし、大きく分けてアジア西太平洋型、ヨーロッパ型、アメリカ西海岸型、東海岸型の4型に分類されているとも述べてきました。

昨今の日本での感染状態を見ますと、特に大都市以外の感染者数は、4月を中心とした波と7月の急増する波との間に明らかに収まっている時期があり、現在は第2波と見てよいようですので、訂正します。

ではウィルスの変異はどうなっているのかと言いますと、医学的、ウィルス学的根拠を自分で掴んではいませんので、科学者の端くれとしては多少抵抗感があるのですが、東大児玉教授の『東京型に変異し、東京が感染の震源地となっている』という説を支持します。軽症者、無症状感染者の比率が高く、会食、電車だけで感染したのかというような原因不明感染者の増加、欧米と比べて死亡率の極端に低いことを考えると、『東京型』の特徴は感染力が強くなって(罹り易く)、病原性は強くなっていない(むしろ弱くなっている)という印象です。そろそろクラスター重視の大方針の変換(クラスター追跡を否定するものではありません)を検討すべき時と思います。

そもそも、他所の国と比べて桁違いに少ないPCR検査のために、無症状、軽症者が巷に溢れ、そこへGo To Travelなどが加わってきているのが原因と考えます。世田谷区で、“誰でも、何時でも、何回でも“PCR検査が出来るようにという方針を打ち出しました。ニューヨークや韓国で成功した先例があるのです。もろ手を挙げて賛成します。これまでにも山梨大学、新宿区など、その試みが打ち出されては来たのですが、政府は一向に取り上げてきておりません。PCR検査が唾液法や、簡単キット法で素早く、安価で大量に検査できるといわれながら未だに公的には採用されていません。日本で開発されフランスなどで採用され、医師、技師、防護服などの検査用機材も少なくて済むというのに、コロナ禍が始まって半年が過ぎているのです。信じられません。コロナ禍克服に、国は本腰を入れて対処してほしいと念願します。

PCR検査により、陽性者が多数出るでしょう。これが医療崩壊を招くという反論が出ます。しかし検査対象を膨らませての陽性者ですから、必然的に軽症、無症状者が大部分を占めると予想されます。彼らは今閑古鳥の鳴いているホテルや、前からいっている選手村予定施設に1週間~10日収容すれば、回転も早く、医療施設に負担を掛けずに済みます。むしろ医療崩壊の回避に役立ちます。区民、都民、首都圏民が全員受けるような機運に持って行ければ、推計学に詳しくありませんが、新規感染者は急速に減ることが期待できます。陰性の結果であってもすぐ後から感染するかもしれないという危惧は当然あります。だから『何回でも』が必要ですし、医療関係者はそれこそ何回でも必要とします。

医療機関は、コロナ用病床を用意し、コロナ用医療スタッフに人数を割くため、一般のがん治療、成人病治療に手が回らず、赤字が膨らんでいます。これ自体皆さんの健康にとっての大問題なのですが、お気づきになっていない方が多いと思われます。さらに東京女子医大で、ボーナスカット、賃金カットで大量の退職希望者が出たと報じられましたが、8割以上の医療機関が経営困難に陥っており、その何割かは閉院に追い込まれようとしています。医療崩壊です。国は支援するとは言っていますが、とても今程度で支援しきれないことは目に見えています。

第2波『東京型』は幸いにして病原性が弱くて済みそうですが、これを若者たちが本能的に感じ取って、「どうせ罹っても軽症だろう」「調子悪いところなんか全くないから大丈夫」と奔放に動き回っているようにも思えます。政府なり、メディアなりは自覚を促すよう本腰を入れるべきです。

しかし、次の第3波、第4波は、もっと強力かもしれません。それに備えて、十分な体力、気力を蓄えておきましょう。

”とりこにい” 抄 (10) 飯豊の夏

コロナに振り回されているうちに8月になってしまった。今はただ、暑いだけの日々しかないが、夏山を歩いた記憶はやはりこの月に多い。

数えてみればほぼ60年ほどになるある八月のこと。サラリーマン生活が4年もたつと、友人たちも新しい任地に去ったり、休暇があわなかったりで、毎夏出かける旅も現役時代とは違った組み合わせになることが増えていた。なんせ、同期だけで70人を超える仲間がいた時代だから、合宿なんかをのぞいた、いわゆる一般プランでは、卒業するまでいちども一緒になったことがない仲間の方が多かったから、OBになってから妙に新鮮な気持ちで歩いたものだ。

あの夏 - 好天に恵まれた飯豊の縦走は今考えても伸びやかな、のんびりしたものだった。

切り合せにて

 

ひろびろとふきわたる風はみちのくの風。

はろばろと受け止める山はみちのくの山。

そよぎたつ くさはらに 泥靴。

友の眼と俺の眼に むかしの夢。

越後から吹き寄せる風は 八月の風。

みちのくの夏のそのおわりに

チングルマは秋をうたう。

エーガ愛好会 (13) 荒野の七人

ここのところ、人間グーグル安田vs日野の賢人保谷野の ドクトルジバゴ をめぐるトークとか、久米行子の 眼下の敵 の ”ユルゲンス クーパー論” についてのサブロー反応など、博識者間のやりとりが面白い。それぞれにうなづいてみたり ? などとやっている間、これは文句なし単純明快典型西部劇がBS劇場に登場。なんせブリンナー以外は当時は無名に近かったわき役陣、マックイーン、ブロンソン,コバ―ン、ヴォーンがその後のスターダムにのし上がるきっかけとなった作品だし、タイトルバックに introducing Horst Buchholz と出てくるのもなんともカッコよかった。ブッフホルツはドイツでは評判が高かったようだが、日本で見る機会は少なかったような気がする。テーマ曲は今でもポピュラー曲CDの常連でもあるし、日本映画がハリウッドでリメイクされた (確かではないが、よく知られたという意味では)はじめてのものではなかったか。ま、理屈抜きに改めて4度目を観た。

西部劇がその後アメリカ社会の変貌に従って人種問題や社会観やはたまた心理学的手法とかなんだとか、いろんなことで理屈っぽくなってしまい、論理的にはわかってもなにかすっきりしなくなってきた。やはりセーブゲキてえのはこれなんじゃああるめえか、と思わせる作品だ。

(小泉) クレジットタイトルと共に、打楽器が効果的に使われた小気味よい興奮を誘うエルマー・バーンスタインの音楽に始まり、開巻イーライ・ウオーラック率いる山賊たちが襲ってくる音楽もまた不気味で素晴らしい。タイトルに日本映画東宝作品「七人の侍」にもとずくと書かれているのが好感だ。
>  ご承知の如く、物語は黒沢作品を其の侭巧みにメキシコの寒村に移したものだが、「七人の侍」が人間性重視の野武士たちにタテ社会の成員としての自覚を持たせ、農民のために戦わせたのとは異なり、「荒野の七人」は、七人夫々の技量を際立った特質として付加している。アメリカ社会の個人に対する責任という理念が、七人の男各々の特質を強調しており、その切れ味も鋭い。
> どうやら、主演のユル・ブリンナーが、「七人の侍」を見て感動し「OK牧場」「ゴーストタウン」「ガンヒル」という決闘三部作のジョン・スタージェス監督に映画化を任せたとのこと。ユル・ブリンナーを除く6人のガンマンは、当時売り出しはじめの新人を使い、夫々が、寒村行きのガンマン募集に応じる際の腕前の見せ所から、のちの作品への出演での特質が、萌芽として表れているから驚く。スティーヴ・マックイーンは、早打ちの流れ者で行動力ある最も魅力的存在として活躍する。ホルスト・ブッフホルツは若き渡り者で、進行役を仰せつかりながら、若き農民女性と恋する木村功の役をこなした。「七人の侍」同様7人のうち先出の3人の他の4人が死んでしまうが、その山賊との死闘の中に趣向が凝らされている。ブラッド・デクスターは、最後まで村に宝物があるからこそ山賊と戦ったと思い込みながら死んで行く。ロバート・ヴォーンは早業の抜き打ちで3人を殺すも、いきなり撃たれ、くるりと回り崩れるように倒れる。ジェームス・コバーンはは過去の暗い影を引きずる孤高の男で冷静なナイフの名人も投げ切れず撃たれて息絶える。チャールス・ブロンソンは早撃ちだが、人間的味わいがあり、子供たちに慕われ、子供をかばって撃たれる。
>  要約すれば、ブリンナー以下7人のガンマンと山賊の頭領を含め。個々の強烈なパーソナリティが相殺されずに、男の誇りと意地を賭けての死闘が展開されていて何度観ても面白い。

(安田)半世紀以上ぶりにこの映画を観た後、3度目の「7人の侍」も観ました。テクニカラーとモノクロ、メキシコの荒野の寒村と日本の農村、真っ青な青空とどんよりとした日本の空、銃と刀・槍、2時間と3時間半、太鼓とギターの音楽に対して不気味な鵺のようなテーマ音楽、陽と陰・・・、全てが対照的。小泉さんの名解説に酔いしれました。さすが西部劇の横綱です。ありがとうございます。
銃によるやや淡白な殺し合いに比べて刀剣では間合いが圧倒的に近いので、緊迫感や殺気の点では7人の侍に一日の長あり。千秋実、加東大介、稲葉義男、志村喬、宮口精二の侍らしくない助っ人浪人に対して、荒野の7人では皆Magnificent Sevenに相応しい個性を売り物にする配役でした。
The King and I ではユル・ブリナーは“I”役に決まっていたモーリン・オハラをデボラ・カーに変えさせたくらいに押しが強い頑固な役者ですから、6人の仲間の配役にも影響力を及ぼしたのではないか。マックイーン、コバーン、ブロンソン、ボーンなどのその後の活躍を知るにつけ、人を瀬踏みする才能も流石だったのではと思いました。

荒野の7人を観た頃は沢山印象に残る映画を観た記憶があって調べてみました。1960年の公開。他に観た映画が凄くて今更ながら驚きました。「サイコ」「アラモ」「栄光への脱出」「アパートの鍵貸します」「スパルタカス」「太陽がいっぱい」「許されざる者」「勝手にしあがれ」「エルマー・ガントリー」「甘い生活」「日曜はだめよ」「雨のしのび逢い」「バターフィールド8」。40年台から続く映画の全盛期後半の大団円の花火を見るかのようでした。

(編集子注)この作品自体がリメイクである上に、この後、日本での題名が 荒野の七人 を冠している(カタカナでずばりマグニフィセントセブン、というのもある)映画は4本あるが、そのうち、いわば正当な続編はブリンナーがクリス、として出てくる “続” だけで、あとは主演もどちらかといえば悪役のイメージがあるジョージ・ケネディやら、なんとデンゼル・ワシントンなんかに変わっていて、ストーリー上のつながりは全くない。

クレジットタイトルもエーガの楽しみのひとつで、昨今のモダニズムとCG技法を多用したものも悪くはないがあまり心に残るものがない。古いもので恐縮だが小生愛してやまないフォード 荒野の決闘 の牧場の柵に刻まれたものとか、地上最大の作戦(何度も言うがなんとつまらない題名にしたもんだ)の波打ち際に転ぶ、主を失った鉄兜とか、印象に残るものが多い。又中学生から高校時代、みんながほぼ一様にもっていただろうアメリカへのあこがれ、それをたきつけるタイトルの作り方のひとつが、主演陣の紹介のあとに1行あらわれるいかにも思わせぶりな、introducing…..という見せ方だった。ただ僕が知る限り、ケイン号の反乱の ロバート・フランシスにしても エルダー兄弟 のマイケル・アンダーソンにしても、こうやってお披露目され、楽しみだな、と思わせた連中の多くはその後は鳴かず飛ばず、フランシスに至っては確か事故死してしまったと思う。そういう意味ではこのブッフホルツなんかは期待通りだったのかもしれない。

 

 

火打と妙高の旅  (39 堀川義夫)

7月17日(金)から2泊3日の予定で火打山と妙高山に行きました。以下は、コロナ過の中での交通機関、山小屋の状況、登山内容など報告します。参考になれば幸甚です。

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梅雨は明けないし、コロナで山に行けるのやら行けないのやら良くわからないが家内のショートステイが予約で来たので、えーい、何とかなるだろうと出かけてみた。

★往路は東京駅まで田園都市線の始発を利用したので、空いている。東京から長野への新幹線は1車両に私の友人と2人の他1名の計3名しか乗車していない。途中、高崎、軽井沢で何人か乗ってきたが、長野で全員降車。長野から妙高高原は、通学列車で結構混雑していたが、3つ目の駅で大半が下車し、妙高高原駅で下車したのは我々2名だけ。そして、笹ヶ峰行のバスは大型バスにやはり3名しか利用者はいませんでした。ということで、コロナに感染するリスクはほとんど心配なし。

★登山届を出し、協力金一人500円を寄付して木製バッジを貰い高谷池ヒュッテ目指して10時50分に出発。空は梅雨空ながら雨は降っていない。何とか小屋までは雨が降らないようにと祈りつつ良いペースで登山開始。コースタイム3時間35分のところ途中で昼食を取り、14時40分頃小屋に到着。

高谷の池越しの火打

まあまあのペースで登ってこられた。そして、小屋番に夕食は5時30分からですよ、それまでに小屋へ戻って下さいよと念を押されながら15時に火打山へ向かう。火打山はガスで見えていない。ただ、ピークを踏みに行くのみ!!池塘の高谷池、途中のお花畑、天狗の庭(池塘地帯)は素晴らしい。疲れが出てきたのか、空身に近いのにコースタイム通りに歩くのが精いっぱい。お花畑で遊んだ分遅れて17時40分帰着。小屋番に遅れを怒られながら(笑)カレーライスの夕食を頂きました。ビールが旨い!

★小屋のコロナ対策

*館内は全員マスク着用

*寝床は宿泊者が5名で空いているせいもあるけど一人ワンブロックづつで、前面左右は透明のビニールで覆われ、完全な個室状態。言わばカプセルホテル。

*布団、枕、毛布などはもちろん用意されているが、予約の際、出来れば個人のシラフ、インナーシーツ、シラフカバー等を持参するように勧められる。私はシラフカバーを持参。確かに寝具はいろいろな人が利用するわけだから良いアイディアだと思いました。小屋利用の場合これからは常備品にすることにします。

翌日、明け方まで雨が降ったようでしたが、曇りで遠望も利くまあまあの天気に恵まれ、昨日、登った火打山、北アルプスも結構近くに見えるなか、6時20分妙高山を超えて燕温泉へ出発。気持ちが良い。小1時間で黒沢池ヒュッテに到着。

黒沢池ヒュッテ

ここはコロナで本年は営業を断念。営業していませんでした。外輪山の大倉乗越を通過し、途中、雨で崩壊した登山路を慎重にクリアして妙高山への登り標高差450m地点に到着。雨がパラパラと来たので雨具を着け頂上に向け急登を開始。コースタイム1時間30分。きつい! 昨日とは打って変わり、身体が重い! なんとコースタイムを1時間もオーバーして、やっとの事、頂上に到達。記念写真もそこそこに下山開始、ところが下りもスピードが上がらない。言訳ではないが、非常に石がごろごろして歩きにくいこと、この上もなく大幅に時間オーバーで15時30分にバテバテで燕温泉に到着。到着と同時に大粒の雨が降り始めた。ラッキー!! 宿泊のプチホテルの出迎えを受けて赤倉へ。

宿泊はユアーズイン。友人の紹介で宿泊しました。                   慶應医学部ヒュッテの隣で、非常に気持ちの良いオーナー夫妻で温泉付き、料理も大変美味しく言うことなし。ぜひ、スキーシーズンに行きたいものです。ご主人はテレマークを教えています。

何れにしても、近年は急登、急降下は本当にこたえる。もう少し、足腰の訓練をして鍛えないとだめだと身に染みての下山でした。

 

(久米行子)火打山・妙高いらしたのですね。2006年のKWV夏合宿で火打山・妙高を登りました。火打山は高山植物の宝庫ですね。晴れていれば360度の眺望が素晴らしいのですが・・・確かに妙高の登り、下りはきつい物がありますが下山してからの宿泊所のお食事はおいしそうで羨ましく思いました。まだまだお元気なことです!

(編集子)赤倉塾医学部ヒュッテは高校のとき何回か利用した。その後火災で全焼し、立て直しの寄付をだいぶ払った(つまり、父親が)が、その時も再建したあとも一切挨拶をもらった覚えがない。この文章をみて思い出した。なんなんだ、医学部は。