安倍元首相暗殺事件:欧州での反応  (在パリ:平井愛子)

日本の参議院選挙中に安倍元首相は殺害されるという信じられない出来事に言葉がないくらいショックを受けました。こんなことが日本で起こるのだと。蛮行に及んだ男の母親は統一教会だそうです。韓国で集団結婚式をあげる変なカルト教団という事しか知りませんが、何とも短絡的な犯人の発想です。安倍さんは度々この教団でスピ-チしていたそうで、これも首をかしげるものです。

フランスの友人達からお悔やみを言われました。フランスでは日本の首相の中では人気があるのです。でもこの暴力の裏に何かありそうです。今後ちゃんと解明できれば良いのですが。
イギリス人の友人に、ボーリス・ジョンソンが辞職したことを私が思わず“当然の流れよね”と言ったら、これでイギリス中がホッとしているところだ、と返事が返ってきました。

世界の平和への道のりはあまりにも遠いように思います。
安倍元首相の冥福をお祈りいたします。

(斎藤)情報ありがとうございます。

おかしなことに、日本では、特定の宗教団体という言い方で、宗教団体名は一切明らかにされていないんです。ツイッターなどでは統一教会だと断定する投稿が多いですが、これが日本のマスコミの状況だと思います。安倍元総理がその団体で講演を重ねていたという情報も、一部のマスコミを除いて、ほとんどふせられています。事件当日は、政治に対する攻撃という触れ込みで発言する政治関係の方が殆どで、マスコミもそれを訂正する報道は見かけませんでした。
昨日の参議院選挙では、自民党が大勝で参議院で単独過半数を超えました。この事件が投票行動に影響をしたという分析もあり、またこの後3年間、日本では、国政選挙と言われる大規模な選挙は無いということです。自民党はじっくり国造りを進められるのではないでしょうか。

(安田)参議院選挙の自民党大勝に、古代中国三国志の故事「死せる諸葛孔明、生ける司馬仲達を走らす」が思い起こされた(優れた人物は死んでも生前の威風を備えていて、生きている者を恐れさせるというたとえで、既に亡き人物が生きている人物に大きな影響を与えることの喩えとして用いられる)。安倍晋三が優れた人物かどうかは甲論乙駁あろうが、彼の非業の死が判官贔屓の日本人の琴線に触れて選挙結果に影響を及ぼしたのは間違いないだろう。死が最大の選挙応援効果を産んだとは、こんな皮肉なことはない。

素人目にもテレビに映る警備の貧弱さと脇の甘さには驚いた。平和ボケした安全な国神話の無意識な驕りと危険を想像・予知する能力の欠如は明らか。案の定、アメリカの専門家から日本当局の稚拙さと無防備さが厳しく指摘された。「覆水盆に返らず」、事が起こってから猛省するのでは遅すぎる。覇気・緊張感・規律のややもすると欠け気味な日本社会の縮図の一つではなかったかと思わせる。
一方、知る人ぞ知る安倍晋三と統一教会の癒着について、一番関心があるのは、なぜ新聞・テレビ・マスコミが「統一教会」の名前を発表しないのかの点に尽きる。愛子さんご指摘の「統一教会」の大会にビデオメッセージを送っていた事実なども伏せられている。統一教会の創始者・文鮮明と安部の祖父・岸信介元首相の親密度を示したのが左に示す写真。
統一教会は闇に潜む「鵺」(ぬえ)のような存在であろうか?マスコミが公に発表しない(出来ない)理由とは何なのか?明らかにすることを良しとしない政府権力の圧力であろうか?安倍晋三と統一教会の関係とは何だったのか?報道の自由を保証する自由民主主義国家・日本において権力に屈することなく、真実を詳らかにする使命を負うマスコミの鼎の軽重が問われている
銃を自作するほど暗殺に執着した犯人の安倍晋三に対する殺意の本質は一体何だったのか?母親が統一教会信者で、息子(犯人)もかつて信者だったが、分派サンクチュアリーに移籍し、激しく対立したと伝えられている。オーム真理教の悪夢が蘇る。息子にすれば、母親を取られ家庭崩壊を招いた恨みの矛先を安倍晋三に向けたのであろうか。だとすれば、我々一般市民が知り得ない、安倍晋三の教会に於ける隠然たる影響力が恨みの原因だったのであろうか?それほどまでに彼は関与していたのであろうか?
(船津)今回のメディアの報道については何か不思議な感じがしますね。皆各社警察発表の通り「統一教会」の名前を伏せて報道した。安倍さんを狙撃した山上容疑者の供述、多くのメディアは、安倍さんと宗教団体が関係していると「一方的に思いこんで」凶行に及んだ、と報じている。事実なのか?警察取材としても、この表現は適切なのか?あまりに腰が引けている。真実は???
(編集子)単なる素人の推測にすぎないが、統一教会と北朝鮮体制の密着が公然の秘密である以上、これをあらためて公にすれば平壌は得たりとばかりに(日本人はその失敗を我々のせいだとするのか)とあらがうのは目に見えている。このことが長い間の問題の解決を更に遠ざける、という事への危惧があるのではないか? この場合にも 死せる孔明 のたとえはあたはまるのだろうか?