原尞の再新作ミステリ “それまでの明日” を読んだ。デビュー作 ”そして夜は甦る“ で独特の文体にひかれて、短編集は除いてこれまで発表された作品は全部読んできた。
原という人はジャズピアニストとしても知る人ぞ知る存在であるようだがよくは知らない。大学では純文学専攻、チャンドラーに傾倒しハードボイルドミステリを書き始めたと紹介されている。本書も是非お勧めしたいので筋を明かすわけにはいかないが、男のストイックな思いを軸に意外性というミステリの黄金律をはずさない、まさにハードボイルド、と呼べる読みごたえは保証する。早川書房版、1800円。
ハードボイルド文学とは何か、ということはほかのところでも触れた。その一つの要素は作品の文体にあるとされる。専門家によれば、その源流はヘミングウエイにあり、さらにその延長線上にチャンドラーやマクドナルドやそのほかの作品がうんぬんということになるのだが、英文学の専門家でもない素人にわかるわけがない。英語で読んでみてもわからない以上、翻訳を比較することしかないので、同じ ”長いお別れ“ でも清水俊二か村上春樹か、という議論になってしまう。その点、日本人が書いたものなら文体という要素については自分の解釈をすることができる。
原の文体はひとことでいえば生硬である。特に会話の部分はどうも不自然と思われる部分もある。チャンドラーやマクドナルドの原文を苦労しながら読んでみると、チャンドラーの会話部分は多少の古めかしさがあるが、僕らとほぼ同世代のマクドナルドの会話体は、現代風に、生き生きした感じが読み取れると思っているので、なお、原の文体のことが気にかかる。しかしこの固い、ぎこちなさが全編を通して一つの雰囲気を醸し出す。それが僕の気に入っている点でもある。
この ”ハードボイルドのエレメント“ である”文体”にこだわったのだろうと思われる工夫が、日本でのHBの先駆者とされる北方謙三の、特に初期の代表作に顕著だ。 ”体言止め“ がやたらと出てくるのである。たしかに緊迫感、スピード感は伝わってくるのだが、一方、全体の雰囲気がまとまってこないように感じる。たびたびいうのだが、小生のお気に入り、清水俊二訳 ”長いお別れ“ がもつ雰囲気とは際立って違ってしまう。逆に北方作品に比べてむしろぎこちないともいえる原の文体には、ともかく何か”雰囲気“がある。 ぜひ、一読をお勧めするゆえんでもある。
もう一つ、僕が原ファンである理由は、主人公沢崎が活躍する場に西新宿のあたりがとても多いことだ。サラリーマン生活の中期にかなり長い時間を西新宿で過ごした僕には、その場所の雰囲気がよくわかるし、(あ、あそこだ)と思うこともときどきある。古手の文人や呑み助の伝説にあふれるゴールデン街とか、歌舞伎町とかいう場所とはまたちがった、ある種のなつかしい疎外感(意味をなさない合成語だとはおもうが)がある地域である。独特の文化を持ち続けている新宿という街の中に取り残された、金持ちでもなくヤクザにもなり得ない、ごく普通の程度の倫理観と生活観をもちあわせる人間がそれとなく群れ集まっている地域だ。その中で語られる犯罪という非日常なできごと、それが原の紡ぐ ”ハードボイルド“ な雰囲気だ。チャンドラーの世界が今ではどちらかといえばセピア色の30-40年代の話であり、マクドナルドの作品の多くが現代アメリカのパワーエリートの暗黒面の話というようにある意味、隔絶した設定なのにくらべて、ごくそこらにあり得る話なのだ。
沢崎、という探偵のシリーズものだから、常連のサブキャラクタがいる。新宿署の錦織警部や暴力団清和会のやくざ橋爪や相良など、いずれも沢崎とは敵対しつつも共存する、という位置づけである。一方、マーロウを庇護してくれるバーニー・オールズやタガート検事のような人物は出てこないしロマンスめいた存在もない。そのことがもうひとつ、原の作品のもつ、つきはなした雰囲気に関係しているかもしれない。
本人がそう言っているのか、出版社の販売促進戦略なのか知らないが、原の作品は ”長いお別れ“へのオマージュである、と本の帯にかかれている。そういえば、この作品の前に書かれた ”さらば長き眠り“の途中にこういう文章が出てきたのを思い出した。
・・・私は“さよなら”という言葉をうまく言えたためしなど一度もないのだった。そんなことを適切なときに言える人間とはどういう人間のことだろう。
いうまでもなく、これは “長いお別れ” の有名な一節を意識しているにちがいなかろう。
No way has yet been invented to say good-bye to them
・・・警官にさよならを言う方法はまだ発明されていない (山本楡美子訳)
マーロウはかつての親友と思っていたレノックスが立ち去っていく足音を聞き、堪え切れなくなって呼び戻そうとする自分を抑える。それが ”長いお別れ“ なのだ。沢崎にとっては遠のく足音というようなロマンはなく、ただ、電話が切れる、という物理現象で終わってしまう。それが現代の別れ、なのだろうか。
俺たちの別れ、はいつ、くるだろうか。