谷根千  ー 同期タウンウオーク第三回報告

今回は最近有名になってきた 谷根千 の一部を歩いた。台東区の広報はそのパンフレットで次のように述べている。

谷根千とは台東区 ”谷中”、文京区”根津” ”千駄木” の頭の文字を取った造語です。3つの地域とその界隈に広がる、下町情緒あふれる街並みが残る地域で、特に ”谷中” は ”美しい日本の歴史的風土100選” にも選ばれています。由緒溢れる寺社や名所旧跡、ひとつひとつに名前のついて親しみやすい坂が多いのがこの地域の特徴の一つであると言えるでしょう。

翠川幹夫曰

滝野川区(現北区)西ヶ原で生まれ(と言っても小学校に入学する戦中は長野県に疎開しており、戦後は上中里→駒込と移り住んだので西ヶ原での記憶は殆どない)、会社退職まで駒込に住んでいた者として、この辺りは心の古里であります。奇跡的に空襲を免れ、明治時代からの建物も多く残っていることで、その多くの人達が先祖代々住んでいる奇跡の街なんだと思います。
昼食で蕎麦を食べたお店の前の通り(よみせ通り商店街と言うらしいが)は谷田川と言う西ヶ原を水源として上野の不忍池に流れ込んでいた川の暗渠で、父母達が幼少の明治時代には西ヶ原では子供達が泳いでいた由です。
今回訪れた森鴎外記念館、朝倉彫塑館などの主人公は私などが会社でやっと課長になるかどうかと言う年齢で歴史に残る偉業を既に成し遂げていたと言うことに改めて明治人は若くして立派の人が多かったんだと感じさせられました(NHKのピコちゃんに「ボ~ッと生きてんじゃねえよ」と叱られます)。

堀野達男曰:

上野桜木町で生まれ、寛永寺幼稚園、根岸小・中学から都立白鷗高校に進み勉学に励んだ??私にとって根岸、上野、谷中は守備範囲。 あれから70数年!変わり行く都心の中でも昔の風情を残す谷・根・千はこれから行く機会も減ることで是非参加したかった。根津駅から東大に向かって4~5分の所に住んでいる高齢の姉達が土地・建物を売却して介護付き老人ホームに入居することになった。

不動産業者との売却活動、48年前の相続時に登記漏れした私道の登記で九段下の法務局に日参、来週から売買契約の実行、引っ越しをサポート中。男一人となった今、昔のものは引き取りを「No」と言えず段ボール箱が幾つ来るか戦々恐々!収納場所は無いぞ!岡さんが言っていた年取ってからの引っ越しは大変だぞを只今体験中!それにしても女性は物が多すぎる。そんなに持って行ってホームに収納出来るの?

堀野からはほかにもいろいろアドバイスをもらったが本人は都合つかず不参。当日、千代田線根津駅集合者は 翠川夫妻、岡、吉牟田、山室、栗田、高橋、深谷、高島、中司夫妻。参加予定だった遠藤は親戚にご不幸があり残念ながら欠席、合計11人で根津神社から森鴎外記念館へ出て、三崎(さんさき、と詠むのだそうだ)通りで堀野ご推薦の “菊見せんべい” で懐かしいホンモノのせんべいを購入。結構でした。

このような情緒に関心のない高島がその間に ”11人分席がある!” と、例によって独断専行強硬作戦で確保したそばやで昼飯。これまた、結構。高島も時にはいいことをするんだと一同納得。出てきたところで突然妙齢の美人から声を掛けられ、”外人の方をご案内しているんですが、この方がどうしても皆さんのお写真をとりたいというので、お願いできますか、と。一同仰天するも、ま、国際親善の一助にとカメラに収まる。聞けばオーストラリアの人とか、かの地の週刊誌に ”老人大国日本” なんて記事になるのかもしれない。不思議な体験だった。

それから予定通り谷中銀座(ここで1個30円というメンチカツを栗田が発見、夕食用にとならんだがとても順番がこないとあきらめる一幕あり)、”夕焼けだんだん”を登ってから、”ルノワール” で小憩、ここで山室、栗田、高島は帰宅。その後オヤエ切望の朝倉彫塑館、翠川ご執心の大名時計博物館などを歴訪。このあたりでだれてしまい、予定していた和菓子屋 ”喜久月”は割愛して不忍通りへ下り、千駄木で解散。送歩行距離5.2キロ ほぼ1万歩。この間、不忍通りをのぞくと今様のコンビニスーパーの類の影なし、すべて昭和のころの小規模の店や家ばかり。よかったねえ。

今回の経験から、夏の日にアスファルトの上を歩くのはまっぴらとわかったので、第四回は9月末に予定する。

高橋良子 追曰

昨日は有難うございました。蒸し暑さのせいで少々疲れましたが
散策大いに楽しめましたよ。おせんべ屋さんで手に入れた”浪漫チックマップ”を我が家に戻ってから見てビックリ!
この谷根千の界隈には明治、大正、昭和をとうして子爵、男爵等貴族の屋敷や富豪の邸宅があり作家、画家などの文化人たちも多々居住していたということです。今尚著名人の墓所も沢山あり日本の文化促進に貢献した偉人たちを思い出すところでもありましょう。
余談ですが、この地図で詩人・彫刻家の高村光太郎、智惠子夫妻居住跡を見つけました。千駄木の桜のある広い通りに面し高いアトリエが聳え、二階の窓に赤いカーテンが垂れていて西洋葵の鉢が外に向かって置かれていた、と室生犀星は”我が愛する詩人の伝記”と言う作品の中で書いています。
その頃、1910年前後私は貧窮にあえいていた。田端の百姓家に下宿していた私は毎日の散歩コースにあるそのアトリエを羨望の目でみていた。私はある時期待をもってその家の戸口の呼び鈴を押した。1分30秒ほどして戸口に付いている小窓のカーテンが開き訪問者の風体容貌を見破ってバカにしている目つきの女の顔が現れた。
「たかむらはるすです。いつかえるかわかりません」といい終わると、カーテンをサーと閉めてしまった。それは紛れもなく智惠子夫人だった。
高村光太郎、智惠子夫妻居住跡には訪れなかったので、現在どうなっているか知りませんがこの作品によって当時の風景が見えてきませんか?