77年前の今日。 この眼下の錦糸公園に2万人弱の人々が空襲で亡くなられ、 仮埋葬されたのだと今は誰も思わないと思います。
以前犬の散歩でこの錦糸公園を毎朝三周していました。
その時に、この写真の左奥のお宅に住まわれているご主人、 犬に気軽に声を掛けてくれる方と偶然、 東京大空襲の話をしたところ、 なんとその方は現在と同じ場所に住んで居られ、 当日は突然の空襲で錦糸公園の中にある防空壕に駆け込んだところ 、既に満員では入れない。 仕方なしに布団を被って物陰に隠れて居たという話を始められた。何時もの明るい笑顔ではあったが、「 その防空壕に避難した人は殆どが死んでしまった」「 自分は布団を被っていて何とか助かった」 そして埼玉の方の知人を頼って逃げ延びたと。「 その行く道道は焼け死んだ人ばかりだった」 小学生の身にどんなに悲しい事で忘れ得ないことと思います。
77年前の3月10日は東京大空襲で僅か1〜
下の2枚の写真は同じ場所から見た風景です。
下右の写真は現在の場同じ場所です。 右側奥のやや霞が掛かったマンションが我が家です。
77年間戦争にかかわらずに平和に暮らしてきた日本。
世界も当然部族とか宗教による紛争はともかく、 世界大戦になるような戦争は無く済んできましたが、 突然核兵器まで使用すること辞せずとロシアは侵略してきた。「 元々俺の土地を奪回して何が悪い」の理論のようです。
今もキエフには最新兵器のピンポイントで攻撃できるロケット誘導 弾が飛んでいることと思います。嗚呼!何時になったら「 過ちは繰り返しません」と言う事が実現するんでしょうかね。
(東京大空襲)
1945年(昭和20)3月10日未明の東京下町(したまち) 地区に対する爆撃を中心とする、 アメリカ軍の大量無差別の航空爆撃作戦。沖縄戦や広島・ 長崎への原爆投下と並ぶ太平洋戦争中の日本における大戦災となっ た。
本格的な本土空襲は1944年夏にアメリカ軍のマリアナ諸島占領 によって始まった。 日本本土がアメリカ軍の新鋭長距離超重爆撃機B- 29の爆撃圏に入ったからである。 アメリカ側は民間無差別攻撃によって日本国民の戦意をくじこうと 、大都市に対する焼夷弾(しょういだん)爆撃を計画した。 それに対する日本側の防空体制はいたって弱体なものであった。 B-29は1944年11月24日、初めて東京を本格的に爆撃、 同月29日には最初の夜間焼夷弾攻撃が行われ、以後、 翌年にかけて敗戦の日まで連日のように空襲が続いた。 9か月に及ぶ空襲は、 延べ4900機により130回に及ぶもので、 38万9000余発の焼夷弾と1万1000余発の爆弾が投下され た。
本格的な本土空襲は1944年夏にアメリカ軍のマリアナ諸島占領
3月10日の大空襲は、ハンブルク爆撃(1943年7~8月) で有名なルメー少将の指揮によって準備された。 下町地区がまずねらわれたのは、そこが家内工業の中心であり、 日本の軍事工業を支えているとの認識がアメリカ軍にあったからで ある。午前0時8分から深川(ふかがわ) 地区に始まったこの空襲の特徴は、 夜間の超低空からのじゅうたん爆撃という点である。 これは火災に弱い日本の都市構造や防空体制の弱点などをついたも のであった。
2時間半の爆撃によって東京下町一帯は廃墟(はいきょ) と化した。約2000トンの焼夷弾を装備した約300機のB- 29の攻撃による出火は強風にあおられて大火災となり、 40平方キロメートルが焼失、鎮火は8時過ぎであった。 焼失家屋は約27万戸、罹災(りさい) 者数は100万余人に達した。 死者は警視庁調査では8万3793人、 負傷者は同じく4万0918人となっている。 資料によって差異が大きいが、「東京空襲を記録する会」 は死者数を10万人としている。
アメリカ軍はこの後、3月12日名古屋、14日大阪、 17日神戸、19、20日名古屋、29日北九州、 4月13日東京山手(やまのて)地区、15日東京・横浜・ 川崎と大都市への夜間空襲を続け、5月末の空襲ともあわせ、 東京の市街地の50.8%が焼失し、国民の恐怖は極限に達した。 その後、空襲は地方の中小都市へと移り、 最後の空襲は1945年8月15日午前1時、 東京西多摩郡に対して行われた。
(編集子)今、頭の筋肉の健康のため、辞書と首っ引きで、エリッヒ・ケストナー(双子のロッテ、とか 飛ぶ教室 など少年少女向けの名作で名高い)の 私が小さな子供だったころ (Als ich ein kleiner Junge war)を読んでいる。いつ読み終えるかわからないが、作者が育った古都ドレスデンの、大戦前の思い出を書いた本である。この街は第二次大戦末期、連合軍による戦略爆撃のためにほぼ完全に破壊された。ウイキペディアの記事をコピーしておくが、古き良き時代が無慈悲に抹殺された歴史の汚点として、東京大空襲と合わせて記憶されていくことだろうし、今はロシア開国の歴史の出発点でもある古都キエフの安全を祈ることしかできないのだが。