乱読報告ファイル (58)  長いお別れ     (普通部OB 菅原勲)

「長いお別れ」(著者:R.チャンドラー/1954年、訳者:清水 俊二、発行:早川書房/1976年)を読む。

何故、50年近くも経った今頃、「長いお別れ」を読み始めたのだろうか。それは、それこそ70年ほど前、原書で「The Long Goodbye」に挑戦したのだが、見の程知らずにも程があり、分からない単語がやたら出て来て字引を引き引きだから、話しが一向に進まない。当然のことながら、話しもまるで頭に入って来ない。それで、1頁も行かないうちに断念し、途中棄権と相成ってしまった。そこで、今回、日本語での再挑戦となった次第だ。ところが、期待が大きかっただけに、失望も大きかったのは甚だ残念だ。人間関係で、どうにも、肌が合わない、相性が悪い、理解できない、ソリが合わない、気が合わない、波長が合わない、ウマが合わない、などなどの人がいる。それと同じように、「長いお別れ」は、小生にとって誠に相性の悪い相手となってしまった。

では、何故、「長いお別れ」が相性の悪い相手になったのだろうか。推理小説、探偵小説と言えば、典型的な例として、殺人が起こり、警察なり、私立探偵なりが、その犯人を突き止めるべく捜査を開始し、最終的に、犯人を論理的に指摘するまでの過程を描く。勿論、その変形(ヴァリエイション)は多岐に亘る。この「長いお別れ」も主人公、テリー・レノックスの妻の殺人から始まり、私立探偵、フィリップ・マーロウが捜査に乗り出すが、そうこうしている内に、レノックス自身も死んでしまう。マーロウは私立探偵らしく、レノックの身辺を嗅ぎ回るが、さて、彼は何をしようとしているのか、全く判然としない。それに、文章が必ずしも歯切れが良いとは言えず(原書を読んでいないから、偉そうなことは言えないが、これは翻訳の至らなさのせいなのか)、無駄口、減らず口、特にマーロウのそれは終始相変わらずなのだが、小生にとってはまるでピント来ない。

また、この作品が発表された1954年は、時代が時代だけに喫煙の場面が散見されるが、それ以上に驚いたのは、お酒を飲む場面が頻繁に出て来ることだ。それが原因なのかどうかは分からないが、重要な登場人物の二人は、紛れもなく重度のアル中で、しかも、この二人は死体となって発見される。

つまるところ、話しがとにかく冗長で、事件の核心部分に中々切り込まず、その周辺をうろつくばかりで前半が終わり、後半も一気に謎解きをすることもなく、売れない私立探偵の退屈な一日などの記述に付き合わされる。登場人物の作家であるウェイドに、「・・・読者は長編をよろこぶんだ。ばかなものさ。・・・」と語らせている様に、無駄に長い長編を有り難がってはいけないと、チャンドラー自身が戒めているのだが、何せ、全部で532頁、これではその意に沿うとは、到底、言えないだろう。

あとがきに代えてで、清水は、「長いお別れ」はチャンドラーの代表的傑作であると述べ、推理小説の歴史のなかでとりあげても、「長いお別れ」は後世まで伝えられる名作であろう、と心底から惚れ込んでいる。でも、小生、この後、読み始めた砂原浩太郎の時代小説「武家女人記」と題名された短編集の劈頭を飾る「ぬばたま」、これの方が遥かに相性の良い相手だった。だからと言って、砂原の方がチャンドラーより優れていると言いたいわけではない。小生にとって、正に相性がピッタリ合ったと言うべきだし、これこそが、正に読書の醍醐味となる。

結局のところ、小生にとっての最高のハードボイルド小説は、E.ヘミングウェイの「武器よさらば」だと、勝手に決めつけている。しかし、ハードボイルド小説と言っても、その探偵もの、少なくともチャンドラーに限っては、その良さ、面白さがいささかも分からず、終生に亘って、凡そ縁なきものに終わることになりそうだ。

(編集子)わが友スガチューとの付き合いはなんと4分の3世紀の長きにわたるのだが、これほど意見の違ったことはあまり覚えがない。

小生、 ”長いお別れ”、一応原書も何とか真面目に読んだし、少し前に話題になった村上春樹訳も読んだ。そのうえで、清水俊二訳のすばらしさというか、スガチュー用語でいえば、これほど相性のいい翻訳本に出合ったことがない、と思っているのだ。

スガチューはあくまで推理小説として真っ向からこの本を読んでいる。至極当然の話なのだが,小生は少し違って、”長いお別れ” を純粋な推理小説としてよりもハードボイルド文学の原点に忠実に、すなわち、自分をいわば第三者の視点から見つめることができる男の生き方とそこから生まれる抒情を書いたもの、という風に読んできた。この本には、確かに冗長な部分、特に中段に長々と出てくるロジャー・ウエイドなる人物との関わり合いなど、が何を語ろうとしているのか、についてはよくわからない部分もある。そういう意味からも、純正?な推理小説、という見方ではなく、自分の感性と共通するものがこの本にはある、と小生は思っているので、スガチューのいう推理小説の王道ではないのかもしれないが、 ”ギムレットにはまだ早すぎるね” という有名なセリフが妙にむねにひびく、愛読書の一つ、と言える名作なのだ、と信じている。ぼくらふたりの論議をきっかけに、未読のむきにはぜひともご一読ありたいと思うのだが。