藤沢周平の「一茶」(1978年)、俳人、小林一茶の伝記小説を読む。
藤沢の作品の中でも、一茶なんてと敬して遠ざけて来たが、海坂藩のうの字も出て来るわけではなく、侍もチャンバラもないにしては意外と面白かった。
「丘を少しのぼると、伐り開いた斜面を蔽っているうす紅いろのものの正体がはっきりした。桃の花だった。近づくと花は三分咲きほどで、まだ蕾の方が多かったが、昼近い時刻のきらめくような日の光を浴びて、艶に見えた」。冒頭の部分の抜き書きだ。15歳の弥太郎(のちの一茶)が、奉公のため信濃の柏原から江戸に出立する場面。別にどうと言うこともない言葉なのだが、その情景を見事に活写しており、そこにこそ藤沢だけが持っている魅力の真髄がある。こう言った類いの文章が頻繁に出てきて、酔い痴れる。
確かに、Wikipediaを中心としたネットによれば、骨肉の遺産相続争いあり、スゲー性豪でもあったようだ(例えば、「婦夫月見 三交」などなど。そう言えば、永井荷風の日記「断腸亭日乗」にもその印があったことを思い出した。英雄色を好むと言うが、同時に顕示欲も誠に旺盛だ)、しかし、藤沢は前者についてはさらっと触れているが、後者については一切触れていない。
話しは変わるが、織田信長が如何に酷いことをしたかを知った藤沢は、以後、信長に対する興味を完全に失ってしまったと伝えられている。そんな藤沢が、凡人である一茶に惚れ込んでしまったのは当然のことなのだが、その伝記であるとは言え、それ故に、一茶を語って、浮き彫りになって来るのは、実は藤沢自身ではないかとの思いを深くした。
一茶は、二万にも及ぶ句を作ったと伝えられているが、小生が知っているのは、「すずめの子 そこのけそこのけ お馬が通る」、「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」ぐらい。国許から出て来た江戸では住む家もなく、あっても米櫃の底にコメもないと言う極貧生活を送り、最後は生まれ故郷に帰って、安住の地を得たとは言え、殆どが赤貧洗うがごとしであった一茶は、藤沢と同じく、心優しいひとであった。
(47 関谷)藤沢作品は殆ど読破しました。本作は、確かに、海坂藩の「う」の字も出てこない異色な作品だったことは覚えておりますが、内容は遙か彼方! 書籍は、既に、断捨離済み!