フランスはギイ・ド・モーパッサンの中短編10編ほどを編纂した「脂肪の塊」/「ロンドリ姉妹」モーパッサン傑作選中の中編「脂肪の塊」(1880年、翻訳:太田浩一、発行:光文社古典新訳文庫/2016年)を読んだ。
「脂粉の塊」と言う題名から真っ先に受ける印象は、真面なものではなく、正にドロドロしたものだ。その内容もその通りで、「脂粉の塊」と綽名された娼婦が主人公となっている。
普仏戦争(プロシャ、ドイツ)により、フランスのルーアンがプロシャに占領され、その内の10人ほどが、プロシャの総司令官の許可を取り付け、フランス軍の支配下にあるル・アーヴレに辿り着くことを画策する。乗客は、ワイン問屋を営んでいるロワゾー夫妻、伯爵夫妻、上流階級の夫妻、二人の修道女、それに、民主主義者、「脂粉の塊」と綽名された娼婦。
この旅の途上、小生にとって誠に許し難い事態が発生する。トートと言う町の旅籠で一泊するのだが、翌朝の出発の準備が全く整っていない。どうやら、「脂粉の塊」が当地はプロシャの士官の要求を拒んだことが、留め置かれている原因らしいと判明する。そこで、人間の持つ醜いエゴイズムが赤裸々となる。その一つは、伯爵が、彼女を外に連れ出してこう説得する。「・・・それでも、あの士官の望みをかなえてやるのは嫌だというわけかな。そうした要求には、いままで何度も応えてきたのではありませんか」。もう一つは、ホテルに残った連中が、二人の修道女から、「・・・たとえ、よからぬ行為であったにせよ、その動機いかんによっては、しばしば賞賛されることもございますから」との言質を取り付ける。一晩明けると、無事、乗合馬車は出発する。ところが、途中での食事に対する感謝もなければ、この一夜に対する労いもなく、最後まで汚物でもあるかのように扱われ、「脂粉の塊」は、全員からほっておかれる。途中のディエップに到着と同時に、泣き崩れる「脂粉の塊」で、話しは終わる。何とも酷い、途轍もなく酷い話しだ!こんな愚にもつかぬ話をフォードが映画でやる筈はない!器は、確かに、いずれも駅馬車と乗客だろうが、その中味は正に水と油であり、全くの別物だ。つまり、モーパッサンの「脂粉の塊」とフォードの「駅馬車」は何等の関係もない。
しかし、小生、一体、何故、こんな本を態々読んだのだろう。それは、映画「駅馬車」(1939年)を監督したジョン・フォードが、「駅馬車」は、実は、このモーパッサンの「脂肪の塊」だと語っていることを知ったからだ。そこで、今更なのだが、野次馬根性で、このモーパッサンを読んで見た。確かに、駅馬車(この本では、乗合馬車と言っている)とそれに乗っている人たちの人間模様を描いている点では、それこそ、エーガ「駅馬車」と言えるだろう。しかし、これは換骨奪胎であって、フォードの「駅馬車」の白眉である駅馬車とインディアンとの壮烈、熾烈な追っかけっこは全くないし、当然のことながら、モーパッサンにはインディアンのイの字も全く出て来ない。しかも人間模様を描くと言っても、フォードには、いつもの通り人の温みはあるものの、間違ってもモーパッサンの様にドロドロしたものはいささかも存在していない。
有体に言ってしまえば、フォードの「駅馬車」は「脂粉の塊」の駅馬車と乗客を刺身のつまとして拝借しているだけで、逆に、「駅馬車」は、「脂粉の塊」とは全く無縁のインディアンの攻撃なくして成り立たなかった。そう考えると、何故、フォードが「駅馬車」はモーパッサンの「脂粉の塊」だと言ったのか、その真意が、ボンクラの小生には皆目分からない。
最後に、職業に貴賤なしと言うが、この本は、娼婦にたいする誠に汚らわしくも卑劣極まりない途轍もないイジメがある。最後は娼婦の涙と共に終わるのだが、繰り返すが、これは途轍もなく酷い。
「ボヴァリー夫人」の作家であるフローベールも、傑作だと言って絶賛しているが、小生に言わせると、愚作、駄作以外の何物でもない。あっ、そう言えば、「ボヴァリー夫人」も愚作、駄作だった。
*******************************************************************************
アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン、通称ギ・ド・モーパッサンは、フランスの自然主義の小説家、劇作家、詩人。『女の一生』などの長編6篇、『脂肪の塊』などの短篇約260篇を遺した。 エミール・ゾラの主宰した短編集『メダンの夕』に入れた『脂肪の塊』の評判が高く、作家としての地位を確実にした
