野球はスポーツの一つである。
スポーツ(sport)の語源は、ラテン語の「deportare(デポルターレ)」という単語だと言われています。「deportare」は「ある物をある場所から他の場所に移す」という意味があり、そこから派生して「心の重い、嫌な、塞いだ状態をそうでない状態に移す」という意味になったようで、「気晴らしをする」、「楽しむ」、「遊ぶ」などを意味していたそうです。「たかが遊び(気晴らし)にそんなにマジになるなんて、粋じゃないよね!」ということではないかと?
このたかが遊びの「Baseball」に武道の精神を注入し換骨奪胎して、一球入魂の「野球道」に仕立てあげたのが我らが仇敵である早稲田であります.わが国の野球界を強力に支配している「野球道」に対するアンチテーゼとして、早慶六連戦を青年監督として指揮した前田祐吉氏が掲げたのが「Enjoy Baseball」だと言えます。
福澤先生が、塾体育会発足の翌年である明治26(1893)年3月23日付『時事新報』に、「体育の目的を忘るゝ勿れ」という記事を書いています。それを現代文に要約すると以下のような内容です。
教育は知識だけでなく運動による身体の発達も大切であり、学生が体育を重んじる風潮があることは良いことではあるが、体育本来の目的を常に忘れないでいてほしい。身体の錬磨は病気の無い強い体を作り、精神もまた活発爽快となる。心身ともに健康であれば社会すべての困難を乗り越えて行動できるようになるが、これは「立身出世の一手段」に過ぎないのであって、体育を人生の目的としてしまうことは、目的と手段を混同してしまっていると言わざるを得ない。
個人的な曲解かもしれませんが、この「体育の目的を忘るゝ勿れ」と「Enjoy Baseball」は地下水脈で繋がっていると信じております。
(編集子)そういえば現役時代、いろんな機会に繰り返されたのが ”ワンダーフォーゲルとはなにか?” ”山岳部とどう違うの?” という議論だった。僕らは吉田晴彦先輩が説かれた、ドイツでの Wandervogel (ウムラウトがないが)という思想が根底に抜きがたくあった。現実的にワンデルングがマウンテンクライミングになっているという現実とか、山登り、という技術論を離れて、純粋に、いわば正統的というか吉田流というか、そういう活動をしたい、と入ってくる新入部員も多くいて、そういう下級生をどう扱うのか、などといった議論もあった。
翻って現在の現役の活動を見ていると、どうも我々が悩んだ本質論は全くなくなってしまって、単純に Because it is there, というか、自分たちの山登り、それでいいのだ、と割り切っているように見える。そうなってくると、ワンダーフォーゲル、という部名自体が単なる屋号に過ぎなくなってくる。
目的を忘るる勿れ、と enjoy KWV というのはそれでもどこかでつながり得るのだろうか?
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