冒頭女性の悲鳴か
実家の母親は既に他界、
拳銃稼業から足を洗った息子ジョンの心の葛藤が克明に描か
容れない関係とその修復が押しつけがましくなく描かれ、実の親子
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
冒頭女性の悲鳴か
実家の母親は既に他界、
拳銃稼業から足を洗った息子ジョンの心の葛藤が克明に描か
容れない関係とその修復が押しつけがましくなく描かれ、実の親子
写真は何であるか。ヘアドライヤーである。形からして古いものである。正確に言うと1980年、松下電器から販売された製品。これが今なお、拙宅の洗面所においてある。その話である。
編集子は卒業と同時に 株式会社横河電機製作所(当時の社名)に入社した。日本経済が大飛躍を始めた時期、多くのいわゆる法文系の友人は金融・商社などへの就職がほとんどで、メーカーを目指す連中はビッグビジネス志向であり、横河のような地味なしかも技術系優先を標榜する会社を選択した小生は当時のトレンドからいえば変わり者だったのだろう。事実、高校時代の親友たちで工学部へ進んだ連中からは、なんだオマエ、横河にいくんならなんで小金井(工学部)へ来なかったんだ、とあきれられたものだった。しかし人間万事塞翁が馬、ではないが、入社面接でお会いした横河正三さんのお目に留まったのか、3年目に創立されたヒューレット・パッカードとの合弁会社(YHP)への移籍メンバーに加えていただき、思ってもみなかった外資系企業で社会人生活を全うすることになった……..とそれなりに覚悟を決め、管理職の末端に加えてもらって張り切っていたころ、創業の勤めを終えて横河電機社長に復帰されていた横河さんから、全く唐突に、それもなんと八王子工場の2階に通じる階段を案内役を兼ねて歩いているとき、”おい、ジャイ、お前、三鷹へ戻れ” と言われた。ボーゼンとしているぼくに、”今度、コンピュータで絵を描く仕事を始めることにした。そこへ行け” とこれまた何が何だかわからない命令だった(三鷹は横河電機本社の所在地)。
確かに他の(いわゆる法文系の)仲間に比べれば数年間、IBMマシンのプログラムを書かされていた経験はあるから、どうせなら多少はコンピュータを知っているやつがよかろう、という選択だったのは間違いないのだが、それにしてもまだCAD なんてものとは無縁だったし、おっかなびっくりの “帰籍” (創立時、横河からの人事異動は “移籍” 扱いだった)だった。このCADビジネスは日本経済の重厚長大路線にのってオートメーションでトップの地位を占めていた横河の第二ステージとして横河さんのスタッフが練り上げたものだったが、それまでの技術陣では畑違いの分野なので、とりあえずアメリカでのCAD専門会社との提携でスタートした。そのため、HPとの間での経験があるやつならいいだろう、という判断だったのだろうと想像する。
今は気安くCAD,などと呼ぶが、80年代、ビジネス自体はまだまだ黎明期にあって、プリント板の原画を描く、いわゆる2次元のものしか実用化されていなかった。横河電機ではこの分野にまだまだ未知数の3次元CAD,つまり現代のCADの領域をめざした野心的な計画がつくられていたのだ。しかし日本市場では何しろ未知数が多すぎ、とても従来のセールス戦略ではらちがあかない、とトップの大英断でシステム一式をユーザに無料で使ってもらおう、という策に出た。そのユーザが松下電器ラジオ事業部で、担当営業が小生だったのだ。今ではPC1個あれば足りるベーシックな機能を発揮させるのに実にHP製のミニコンが5台連結されている、という大物で、技術的問い合わせだの改善要領だのが飛び交い、小生にとってはサンスクリットのお経みたいな情報のやりとりをフォローするだけだったが、スリリングな1年だった。にもかかわらず、結果はペケ。同情してくれた松下の担当者Oさんに慰められながらシステムを引き取りに行った時のキモチは忘れられない。
話が長引いたが、この時、先方がだされた試験問題のひとつがこの写真にあるヘアドライヤーの機構設計で実用になるかどうか、という事だった。システムが戻ってきて、残念無念のキモチのなかで(ほかのシステムが使われたのか、それともまだCADの実用化は出来なかったのか、そのあたりは当然社外秘の事項だからわからないが)手にしたものがこの写真の製品なのだ。それはいまではいわばわが第二、第三の青春の思い出として、洗面台の奥に収まっている。
それ以来40年。さすがパナソニック、長持ちしてるなあ、と思われるならばそれは美しき誤解であって、小生、中学時代の坊主アタマから始まって今日まで、GIカットというのか何か知らないが、要は整髪料を必要とするヘアスタイルとはほぼ無縁で過ごしてきたから、当然、このドライヤの使用頻度も極端に少なかったので今まで無傷できている、というのが事実である。ついでに言えば、編集子の父親は40歳後半ですでに髪はほとんどなく、現在90歳を超えて矍鑠としている姉も、先立ってしまった兄も、白髪になるのは早かった。なぜか小生だけ、米寿に近い今日、鬘をしてるにちげえねえ、といわれながら毛髪は質量ともに衰えていない。これはひとえに母親(あさしひんぶん、とはいわなかったが典型的江戸っ子気質だった)のストイックな子育てで長髪を許してもらえなかった中高時代を、ポマード(これも死語か?)にマンボズボン(同世代以外にはわかるまい)にウキミをやつしていた仲間(典型なのがKWVOBにもいるが)に変人あつかいされながら過ごしてきた頭髪マネジメントの結果であろうか。
(菅原)本日、午後、散歩に出かけたが、久し振りに寒くて散歩どころではなかった。貴兄のブログ、「ヘアドライヤー・・・」について、とりとめのないことを二三。、
ヘアドライヤーってのは、男は使わないものと思っていたが。小生、持ったこともないし、使ったこともない。会社に入っても暫くは、GI刈り、スポーツ刈り、慎太郎刈り、だったから。そして、今や、髪の毛を洗うたびに毛が抜けて、念願の禿頭間近。
Computer Aided Design、Computer Aided Manufacturing。製造業の端くれを、売り子として担当していたから、この言葉、忘れたくても覚えてる。でも、分かった振りをして説明していたが、実際には、何をやってるのかさっぱり分からなかった。幸いにも、営業をやってて、小生(IBM)、ジャイ(HP)とは出会さなかった。もし、そうだったら、間違いなく、ジャイにコテンパンにやっつけられていた。くわばら、くわばら。
(編集子)当時、最近急逝してしまった後藤三郎が旭日の勢いだったIBMにいて、事実、小生が大手顧客のトップをhp本社に招待したところ、それを知ってこちらのスケジュールが終わった日(というか瞬間)に出口で待ち構えていてそのままIBMへ拉致?されたりした。もっとも客先が帰途についたあと、名門ハーフムーンベイでラウンドしたりしたものだ。18番に差しかかる丘から太平洋に沈む夕日を堪能したことだった。
12月の「月いち高尾」を、12月14日(水)、実施。前月の「月いち高尾」からわずか2週間後のプランでしたが、何かと忙しい師走を考慮し、早めの忘年山行とした。前日の降雨が嘘のような、初冬の澄み切った青空の下、25名が「高尾山口」に集合した。
今回は3グループに分かれ、高尾山山頂を目指した。
1号路でのシニア―グループ(36/吉牟田、遠藤、鮫島)、リフト+4号路の女性グループ(36/高橋、38/町井、46/猪俣、エスコート役47/伊川)、それに稲荷山ルートグループ(37矢部、39/堀川、岡沢、三嶋、40/武鑓、藍原、41/久米コブキ、42/下村、43/猪俣、44/安田、46/村上、47/福本、48/佐藤、福良、51/斎藤、羽田野、友人/川名、47/関谷)の18人。
1号路のシニアーグループはナンカナイ会の健脚そろい、和気あいあいとコンクリート道の急登を制覇。女性グループは、ケーブルが1時間に1本しかなく、上りは景観が単調なリフトで山上駅へ、そこから4号路経由で山頂へ。
稲荷山グループは、壮観にも18人が一個大隊となって、時には、後ろから登ってくる若者に道を譲りながら、稲荷山展望台まで一気に登り、そこから高尾山山頂に直登、他グループ合流。
昼食、記念撮影後、数グループに分かれ、薬王院に参拝し、今年1年間の「月いち高尾」プランでの無事故と、それなりの良天候下でのプラン遂行に感謝するとともに、今年、不幸にも旅立たれたメンバー3名のご冥福を祈った。
下山後、高尾駅から徒歩15分の、カフェレストラン「TOUMAI」に参集。登山グループ(内2名不参加)に加え34/船曳ドテ夫妻、34/椎名、36/中司、岡、47/平井が駆け付け、29名での忘年会を開始、36/翠川さん、後藤さん、37/菅谷さんのご冥福を祈り、黙祷、ドテ先生の追悼のお言葉、献杯。「月いち高尾」の山仲間を偲んだ。あっという間に2時間が経ち、明るい、希望に満ちた2023年を願い、一本締めで締めくくった。2023年もよろしくお願いいたします。
(46村上)昨日は、大変お世話になりました。
山行、偲ぶ会、忘年会と「新たな出会い」の一日でしたが、この一年、大変お世話になりました。来年も、良い年であることを願っております。
尚、ヤマレコに「昨日の登山記録」を公開いたしました。
https://www.yamareco.com/
ヤマレコのメンバーでなくても 1 山行記録 2 高尾山で検索し、画面の下へ、スクロールすれば 3 記録分類 高尾山 メンバー rnmmby 期日:12月14日 でご覧になれます。
(福本)昨日の山行、偲ぶ会&忘年会、大変お世話になりました。また、沢
偲ぶ会も兼ねてでしたが、盛会とはこのようなことを言うのではと
(斎藤)本日の「月いち高尾」お疲れさまでした。私が撮影した写真をお送りします。来年もよろしくお願いしたします。
(下村)初冬の好天の中、快適なトレッキングを楽しむことができました。
偲ぶ会、忘年会も盛り上がって、2022年のよい締めくくりにな
来年もまたよろしくお願いいたします。
(船曳)月一高尾 プランとしては参加できませんでしたが、忘年会に出席出来て大変
実はまだまだ闘病の最中で、主治医からは『自宅でよいから入院中
こうして10年以上年齢差のある友人と歓談できることは、替えが
(久米)久し振りの「月一高尾」天候好し、メンバー良し、コース良し、体
忘年会も偲ぶ会も素敵な会場で亡くなれた方々に思いをはせること
元々、11月は毎年、夏の疲れが出て体調を崩すことが多かったので事前に日程など調整していましたが、その通りになってしまいました。今回は山より身体の癒しの為にふらっと伊那谷方面の旅に出ました。初日は、茅野でレンタカーを借り、日本一星空が美しいと言われる恵那山の麓の阿智村にある月川温泉泊。
星空を期待しましたが、生憎、薄雲に覆われちらほらしか星は見えませんでした。前回は5月に恵那山に行った時にも神坂峠の萬岳荘でテントを張り。一杯やりながら星空を期待しましたが、見ることが出来ませんでしたので、これで2連敗です。再挑戦の楽しみが出来ました。(WEBから引用した阿智村の星空)
翌日はこの地方を40年前に家族旅行で来た「天竜ライン下り」とその時に泊まった大鹿村の「右馬允」(うまのじょう)と言う懐かしい民宿にやっと再訪することが出来ました。
天竜ライン下り 昔は急流下りで有名だった(?)のではと思うのですが、ダムが出来たりして急流は無くどちらかと言えばのんびり川下りの感です。高速道路を通すための新しい橋も出来ていて、道路の下が遊歩道になっていました。乗船して、大昔はさぞや可愛かったであろうガイドさんの案内で、名残の紅葉が川面に映る紅葉を楽しみ、船頭さんが網打ちをして魚を取ったり、客を飽きさせない工夫をしていました。到着して降りたところからバスで元に戻るときは、俳優峰竜太の生家の前を通ったりしました。
親父の33回忌 親父が逝って32年(1990年没)、11月23日に33回忌を迎えました。堀川家のルーツは和歌山県の湯浅と言う所です。有田ミカン、そして醤油の発祥地として有名です。大阪で妻をめとり、二人の子(兄と私)を成し、兄の家族が現在19名、私の家族が11名となっています。親父から見れば一族郎党33名と言うことになります。兄の2人の娘、我が家は2人とも娘で皆他家に嫁いでいますので兄の長男のだけが堀川家を苗字として継承するだけで他はいません。昔のように「家」を重んじる時代であれば私は養子を迎えるなどしなければならなかったでしょう。私にとっては良き時代になったと思っています。この写真は書いてあるサインの日付から51歳の時のものと思われます。若禿ですが、なかなか、良い男ぶりだったと思います。
行く秋を楽しむ11月30日に月いち高尾で高尾山へ。ちょっと、天気が心配でしたが温かい天気で、楽しいワンデリングが出来ました。
紅葉がしっかり残っていてうれしかったこと、体調が少し持ち直すことが出来たのは、何よりでした。
(安田)「大砂塵」確か1〜2年前に放映された記憶が。
(小田)「大砂塵」はビィエナの大きな瞳と「ジョニー ギター」を白いドレスでピアノで弾く姿が印象に残っています。
(菅原)アーネスト・ボーグナインは悪役から、「マーティ」(1955年)でアカデミー賞をとってから良い子に変わっちゃいました。いささか残念。ジョーン・クロフォードは、確か「失われた心」(1947年。日本公開1950年)を親父と見たとき、迫真の演技に吃驚し、「スゲーナー」と言ったら、親父が軽蔑のまなざしで「アー言うのをスゲーって言うのか」の一言に忽ち沈黙。その後、ジョーン・クロフォードは、それこそ「クサイ演技」をしていたことに気付かされました。まー、いずれにせよ、みんな大昔の話し。
テレビで夏井いつき先生は「プレバト!!」の中で2013年11
俳句って何だろうか?
定義 連歌の上の句である「5・7・5」で作られた定型詩で、十七語、
一つは俳句の元となる「形式」が生まれたのが室町から鎌倉時代だ
俳人として有名なのは江戸時代の松尾芭蕉(まつお ばしょう)、与謝蕪村(よさ ぶそん)、小林一茶(こばやし いっさ)、加賀千代女(かがの ちよじょ)ら。大正・明治時代には正岡子規(まさおか しき)、高浜虚子(たかはま きょし)、中村汀女(なかむら ていじょ)、種田山頭火(たねだ さんとうか)らがいます。
松尾芭蕉
『 古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音 』
与謝蕪村
『 春の海 ひねもすのたり のたりかな 』
小林一茶
『 やせがえる 負けるな一茶 これにあり 』
『 雪とけて 村いっぱいの 子どもかな 』
正岡子規
『 柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺 』
高浜虚子
『 遠山に 日のあたりたる 枯野かな 』
加賀千代女
『 朝顔に つるべ取られて もらひ水 』
中村汀女
『 咳の子の なぞなぞあそび きりもなや 』
季語が俳句の季語か季題という論争も在りそもそも季語が必要ない
友人が続けてこんな事を言っています:
そういえば昔「俳句第二芸術論争」というのがありましたね。
私も俳句ほど選者によって評価の異なる芸術はないと思っています
そう言う事で俳句には沢山の「派」が出来て、自分の嗜好に合った
コチトラ廃人ですがパートナーは長年俳句の世界で過ごして来て、
倒影の紅葉なほ炎ゆ池ほとり
濃紅葉や紺大空に瑕瑾なし
山本健吉さんが「俳句とは何か」と問われたときに、「俳句は滑稽
夏目漱石にも影響を与えた英国人画家ルイス·ウェイン(
中国の現状に精通している友人からの情報を転載します。メディア報道とあわせてご参考まで。
極端なゼロコロナ政策の是正などを求めて、中国各地で若者たちが
■「誰が与えた権力なんだ!」PCR検査のテントを破壊 SNS投稿で強まる「ゼロコロナ政策」への反発
SNSに投稿された防護服を着た警察官に住民たちが物を投げつけ
こうした市民の不満は、厳しいゼロコロナ政策に向けられたものだ
■「白紙運動」抗議デモで掲げられたA4の真っ白な紙 そこに若者たちが込めた意味は…
抗議デモは、中国各地に拡大。そして今回のデモの特徴が「白紙運
■「ネット規制にデモの要因」天安門事件リーダー王丹氏が見る白
習近平と若者が衝突しているのは、ネットの検閲にとても力を入
1989年の時は、最初から『共産党政権は退陣せよ』とは言い
峰岸徹。余貴美子。吉行和子。
(安田)「おくりびと」封切り時に映画館で観ました。随分前のことです。それまで「納棺師」なる専門職の存在、そしてその仕事内容をほとんど知らず、特に死に装束の段取りなどに大変驚きました。鳥海山を仰ぎ見る酒田の自然と街並みの美しさが印象的でした。主役がチェロ弾きだということでオーディオ製品も登場しますが、僕の勤めていた会社の製品を撮影に貸し出しました。そこのところは注意して観ました(笑)。この映画を観て数年後に母親が故郷九州で他界しましたが、実家での「おくりびと」が死に装束を施す行程を何とも表現のしようのない気持ちで見届けました。映画ではない現実のこととして実感させられました。
木本と広末もさるものでしたが、山崎努、余貴美子、笹野高史のベテラン脇役は見事な演技と役割で映画を締めていました。NHK番組「ファミリー・ヒストリ―」の語りをやっている余貴美子の語り口が大変気に入っています。山崎努は黒澤明映画「天国と地獄」の誘拐犯役で大いに注目。40年後の演技を観るのはイイモンですね。笹野高史は、藤沢周平作・山田洋次監督の「武士の一分」が忘れがたい。彼は昔から老けて見えますが、実は僕より2歳若い。余人を以て代えがたい役者ですね。