ヘアドライヤーにまつわる話

写真は何であるか。ヘアドライヤーである。形からして古いものである。正確に言うと1980年、松下電器から販売された製品。これが今なお、拙宅の洗面所においてある。その話である。

編集子は卒業と同時に 株式会社横河電機製作所(当時の社名)に入社した。日本経済が大飛躍を始めた時期、多くのいわゆる法文系の友人は金融・商社などへの就職がほとんどで、メーカーを目指す連中はビッグビジネス志向であり、横河のような地味なしかも技術系優先を標榜する会社を選択した小生は当時のトレンドからいえば変わり者だったのだろう。事実、高校時代の親友たちで工学部へ進んだ連中からは、なんだオマエ、横河にいくんならなんで小金井(工学部)へ来なかったんだ、とあきれられたものだった。しかし人間万事塞翁が馬、ではないが、入社面接でお会いした横河正三さんのお目に留まったのか、3年目に創立されたヒューレット・パッカードとの合弁会社(YHP)への移籍メンバーに加えていただき、思ってもみなかった外資系企業で社会人生活を全うすることになった……..とそれなりに覚悟を決め、管理職の末端に加えてもらって張り切っていたころ、創業の勤めを終えて横河電機社長に復帰されていた横河さんから、全く唐突に、それもなんと八王子工場の2階に通じる階段を案内役を兼ねて歩いているとき、”おい、ジャイ、お前、三鷹へ戻れ” と言われた。ボーゼンとしているぼくに、”今度、コンピュータで絵を描く仕事を始めることにした。そこへ行け” とこれまた何が何だかわからない命令だった(三鷹は横河電機本社の所在地)。

確かに他の(いわゆる法文系の)仲間に比べれば数年間、IBMマシンのプログラムを書かされていた経験はあるから、どうせなら多少はコンピュータを知っているやつがよかろう、という選択だったのは間違いないのだが、それにしてもまだCAD なんてものとは無縁だったし、おっかなびっくりの “帰籍” (創立時、横河からの人事異動は “移籍” 扱いだった)だった。このCADビジネスは日本経済の重厚長大路線にのってオートメーションでトップの地位を占めていた横河の第二ステージとして横河さんのスタッフが練り上げたものだったが、それまでの技術陣では畑違いの分野なので、とりあえずアメリカでのCAD専門会社との提携でスタートした。そのため、HPとの間での経験があるやつならいいだろう、という判断だったのだろうと想像する。

今は気安くCAD,などと呼ぶが、80年代、ビジネス自体はまだまだ黎明期にあって、プリント板の原画を描く、いわゆる2次元のものしか実用化されていなかった。横河電機ではこの分野にまだまだ未知数の3次元CAD,つまり現代のCADの領域をめざした野心的な計画がつくられていたのだ。しかし日本市場では何しろ未知数が多すぎ、とても従来のセールス戦略ではらちがあかない、とトップの大英断でシステム一式をユーザに無料で使ってもらおう、という策に出た。そのユーザが松下電器ラジオ事業部で、担当営業が小生だったのだ。今ではPC1個あれば足りるベーシックな機能を発揮させるのに実にHP製のミニコンが5台連結されている、という大物で、技術的問い合わせだの改善要領だのが飛び交い、小生にとってはサンスクリットのお経みたいな情報のやりとりをフォローするだけだったが、スリリングな1年だった。にもかかわらず、結果はペケ。同情してくれた松下の担当者Oさんに慰められながらシステムを引き取りに行った時のキモチは忘れられない。

話が長引いたが、この時、先方がだされた試験問題のひとつがこの写真にあるヘアドライヤーの機構設計で実用になるかどうか、という事だった。システムが戻ってきて、残念無念のキモチのなかで(ほかのシステムが使われたのか、それともまだCADの実用化は出来なかったのか、そのあたりは当然社外秘の事項だからわからないが)手にしたものがこの写真の製品なのだ。それはいまではいわばわが第二、第三の青春の思い出として、洗面台の奥に収まっている。

それ以来40年。さすがパナソニック、長持ちしてるなあ、と思われるならばそれは美しき誤解であって、小生、中学時代の坊主アタマから始まって今日まで、GIカットというのか何か知らないが、要は整髪料を必要とするヘアスタイルとはほぼ無縁で過ごしてきたから、当然、このドライヤの使用頻度も極端に少なかったので今まで無傷できている、というのが事実である。ついでに言えば、編集子の父親は40歳後半ですでに髪はほとんどなく、現在90歳を超えて矍鑠としている姉も、先立ってしまった兄も、白髪になるのは早かった。なぜか小生だけ、米寿に近い今日、鬘をしてるにちげえねえ、といわれながら毛髪は質量ともに衰えていない。これはひとえに母親(あさしひんぶん、とはいわなかったが典型的江戸っ子気質だった)のストイックな子育てで長髪を許してもらえなかった中高時代を、ポマード(これも死語か?)にマンボズボン(同世代以外にはわかるまい)にウキミをやつしていた仲間(典型なのがKWVOBにもいるが)に変人あつかいされながら過ごしてきた頭髪マネジメントの結果であろうか。

(菅原)本日、午後、散歩に出かけたが、久し振りに寒くて散歩どころではなかった。貴兄のブログ、「ヘアドライヤー・・・」について、とりとめのないことを二三。、

ヘアドライヤーってのは、男は使わないものと思っていたが。小生、持ったこともないし、使ったこともない。会社に入っても暫くは、GI刈り、スポーツ刈り、慎太郎刈り、だったから。そして、今や、髪の毛を洗うたびに毛が抜けて、念願の禿頭間近。

Computer Aided Design、Computer Aided Manufacturing。製造業の端くれを、売り子として担当していたから、この言葉、忘れたくても覚えてる。でも、分かった振りをして説明していたが、実際には、何をやってるのかさっぱり分からなかった。幸いにも、営業をやってて、小生(IBM)、ジャイ(HP)とは出会さなかった。もし、そうだったら、間違いなく、ジャイにコテンパンにやっつけられていた。くわばら、くわばら。

(編集子)当時、最近急逝してしまった後藤三郎が旭日の勢いだったIBMにいて、事実、小生が大手顧客のトップをhp本社に招待したところ、それを知ってこちらのスケジュールが終わった日(というか瞬間)に出口で待ち構えていてそのままIBMへ拉致?されたりした。もっとも客先が帰途についたあと、名門ハーフムーンベイでラウンドしたりしたものだ。18番に差しかかる丘から太平洋に沈む夕日を堪能したことだった。