23年3月 月いち高尾報告  (51 齋藤邦彦)

1.実施概要

(1)日時:令和5年3月31日(金)                               (2)参加者:別紙の通り                         (3)A:多摩自然科学園散策 B:八王子城跡から城山

2.各コース実施状況など

(1)Aコース:多摩自然科学園散策コース

気温20度の陽気に誘われて森林総合研究所多摩森林科学園の桜保存林をゆったり散策。ここでは約600系統1300本の桜が植栽されており寒桜から八重桜まで3カ月にわたって桜が楽しめます。丁度見頃のこの日は大勢の花見客で賑わう中22人のメンバーはそれぞれに満開の桜を愛でながら歩きました。

(2)Bコース:八王子城跡から城山コース

八王子城跡管理棟10:30⇒11:00御主殿⇒管理棟11:40⇒12:10八王子神社⇒12:20頂上曲輪⇒12:30松木曲輪(昼食)13:05⇒管理棟13:30⇒13:50高尾駅

ボランティアガイドさんの案内で御主殿跡を歴史散歩、植物の詳しいガイドさんで花の名前をたくさん教えて頂きました。(半分以上その場で消えた名前でしたが…)ガイドツアーの後山頂まで登り、山頂直下の松木曲輪で桜吹雪の下での昼食、天候にも恵まれ都心までの眺望を存分に楽しみました。城山は急峻な要害で登山道も険しいところがありますが、大先輩の良子姉さんの頑張りには特筆すべきものがありました。(以前登った時より山が2倍高くなっているそうです。)

昨年と変わっていたのは①登山口の鳥居が老朽化のため撤去され②八王子神社の本殿が保護用の建物に覆われていました。

(3)天狗飯店

「月いち高尾」空前の30名を超える懇親会になり天狗飯店を「貸切り」にして頂きました。皆さん話題が豊富で留まるところを知らない会話が延々と3時間続き4時半に解散と相成りました。(とめなければまだまだ…)

 

(4)フォトアルバム

以下のリンクにフォトアルバムを作りました。グループ内公開にしてありますので閲覧やダウンロードのほか、参加して投稿もできますので良い写真をお持ちのかたは追加でアップロードにご協力下さい。

https://photos.app.goo.gl/H1XBzv72HpwyhmJo8

(5)参加者リスト

卒年氏 名多摩森林八王子城山
147伊川
251斎藤
3BWVOB大場
436中司
536吉牟田
636遠藤
736高橋
836鮫島
937矢部
1038町井
1138久下
1239三嶋
1339岡沢
1439西澤
1539蔦谷
1639堀川
1740武鑓
1840藍原
1940
2041久米
2141久米
2241相川
2341柏木
2442保屋野
2542下村
2643猪俣
2744安田
2846村上
2946木川
3046猪俣
3147平井
3247福本
3347水町
3447田端
3548佐藤
3648福良
3751中里
2215
合計37

(注)BWV : 文教女子短期大学ワンダーフォーゲル部

OH  HAPPY  DAY  !!!!

(41 久米)丁度、見ごろの桜が多くやはり自然の風景の中に咲いている桜が
一番美しいと感じました。御衣黄を探し求めて歩きましたがまだ咲いていなかったようで残念でした。
天狗では花より団子という言葉を実感致しました。

(44 安田)さすがコブキ姉位、目のつけどころが違います。この機会に御衣黄桜について学習しました。

御衣黄桜(ぎょいこうさくら)とは、ソメイヨシノが散った後、4月中旬~下旬頃に咲く桜。サトザクラの品種の1つで、開花したばかりの花は淡い緑色、徐々に黄色に変化していき、やがて花びらの中心部が赤く染まっていくのが特徴。

御衣黄桜(ギョイコウザクラ)の学名・原産国・英語名は

「御衣」とは、貴族の着物のこと意味します。緑色の花びらが、平安時代の貴族の衣服の「萌黄色」(モエギイロ)に近いことが由来。名前は江戸時代中期から見られた。

御衣黄桜(ギョイコウザクラ)の花言葉!意味や由来は

『永遠の愛』『優美』『心の平安』『精神美』。控えめで気品のある花のイメージにぴったりの花言葉。落ち着いたグリーンの花びらは、心の平安や優美など落ち着いた花言葉がよく似合う。江戸時代に、京都の仁和寺で栽培されたのが始まりだといわれており、今では沖縄県を除く全国各地でみられるようになった。仁和寺以外には、京都の平野神社、島根県の三刀屋川河川敷、神奈川県のこどもの国、東京都の多摩森林科学園などで見られる。

(42 下村)好天の下で山道を歩くことができ最高でした。お昼にはブドウやコーヒーまでいただき感動。大場さん、前日の用意や荷造り・ボッカ大変だったことと思います。ありがとうございました。 次も楽しみにしております。

(42 保屋野)久しぶりに参加した「高尾の会」、新緑と花見と飲み会を十分
楽しめました。
八王子城山は麓に住んでた父と昔何回も登った山で、父を思い出す、懐かしいハイクとなりました。アラフォー?の大場さん、KWVにこんな美人がいたっけ、と初めてご一緒しましたが、コーヒー付お菓子、美味しかったです。

(38 久下)初めての参加にも関わらず皆様が温かく迎えてくださりありがとうございました。色々とりどりの美しいサクラに感動しました!お陰様で春の一日久しぶりにハイキングを愉しむ事が出来ました。

(BWV OB 大場)昨日は天気に恵まれた花見日和。 楽しい1日を過ごせました。ありがとうございます。 沢山撮った写真を斎藤さんのGoogleフォトアルバムに追加致しました。良かったらご覧下さい。

”古き友” との花見    (34 小泉幾多郎)

月いち高尾多摩森林科学園や八王子城山での花見散策と同じタイミングで小生は、3月28日アサ会(34年卒)、30日は高校クラス会と旧友との花見を楽しみました。

雨の新宿御苑

アサ会恒例の花見、今年は新宿御苑、雨模様のため7名と寂しい参加、食事は高島屋タイムススクア14階天厨菜館で13名参加。
高校クラス会は、平塚在住者の世話役で、平塚市総合公園。計12名参加(男5女7)。食事は園内のレストラン。

平塚日本庭園
日本庭園で亀の甲羅干し

小生の出身校は横浜平沼高校、入校1年前から、第一女子高から男女共学とな
り、1年間男便所がなかった。1年の時は、クラスも男女共学だったのに、2年3年は、当時の教師連中は、勉強が疎かになると判断し、クラスを男女別々にしてしまったが、この花見会は1年の時のクラスで続いている。

WBC ”大谷スピーチ” の反響  (普通部OB 田村耕一郎)

WBC の出来事の中で、私は大試合前の大谷選手のスピーチ内容に最も胸を打たれました。大谷発言は

米国への憧れるのを止めましょう。憧れてしまったら超えられない、今日それを超えるために来た、トップになるために来た。勝つことだけを考えていきましょう!さあ行こう!

でした。”野球の先駆者、ハイレベルの米国選手への憧れを一時ストップして、戦い抜こう!” と米国への尊敬をにじませての力強い発言、この配慮に頭が下がります。この大谷発言が米国ではどのように英語で報道されているか非常に興味を感じていたところ、娘からのNY TIMES抜粋記事が届きましたので転送します。この大谷発言が米国ではどのように英語で報道されているか非常に興味を感じていたところ、娘からのNY TIMES抜粋記事が届きました。

If his teammates needed any more motivation on Tuesday, Ohtani gave it in
a pregame speech.

Standing in the middle of the home clubhouse, Ohtani told the players to stopadmiring their U.S. counterparts.  “If you admire them, you can’t surpass them,” he told them. “We came here to surpass them, to reach the  top.”

Hours later, after the celebration and the medal ceremony and rounds of
television interviews, Ohtani    explained the meaning of his message.

“We want to respect, of course, American baseball, so we do,” he said through an interpreter. “So just looking at the great lineup of great players makes us feel like – how do I say that? I mean, obviously, we have respect,  but at the same time, it looks like we might be beaten down. So just forget those kinds of feelings.    We’re just even. We have to just beat ‘em.”

数字の記憶ー1401 という数字

人間の記憶、というものがどういう現象なのか、門外漢には分からないがともかく日常の人間の営みを越えた、なにか、であることは間違いない。昨日のことも忘れるのが当然の年齢になっても、とんでもない記憶が蘇ることを経験される方も多いだろう。その中で、ある特別な数字だけ、ひょいと思い出すことがある。

編集子は満州から昭和21年に引き上げてきて翌年東京へ出てから、今までに確か7回、引っ越しをしているのだが、その第一号、目黒区のいまでは環状7号に飲み込まれたあたりにあった小さな家の電話番号が06-1788だったとか、小学校の6年生、ほのかな初恋?にときめいた(圧倒的片思いだった)5年生の女の子の住所が大田区石川町173番地だったとか、そういうたぐいだ。何かの出来事が強烈に意識されるとき、併せて数字が脳裏に刻まれる、というのはよくある現象なのだろうか。小生の場合は慶応普通部の入学試験で受験番号が16番だったのもそれだ。当時小学生のあこかれだった赤バット川上哲治の背番号だったのも理由だったかもしれない。もし落第していたら記憶に残ることもなかっただろうが。

数日前、自宅近くのコインパーキングに駐車していた車のナンバープレートが1000番というのに気がついた。このような、きりのいいというか覚えやすいナンバーや自分に意味のある番号を、最近は3000円くらいだったか払えば業者がライセンスナンバーとして手配してくれるようになった。小生クルマそのものには興味はないが、それでも始めて乗った ”ダットサン“ 1500 の中古から今まで、都合7台のクルマのオーナーになった。現在使っているホンダフィットは、これが俺の最後のクルマ、と決めていたので、買い替えるとき注文を出して 1401 という番号を手に入れた。

1401、という数字は小生にとって想い出深い番号なのだが、おそらく、日本中にこの番号に小生と同じような甘酸っぱい記憶を持つ方(小生と同年配くらいのはずだ)がだいぶおられるはずだ。勝手な想像にしかすぎないが、数千、あるいは万単位、といった数になるのではないか、という気がする。そのことを書く。

いまではコンピュータ、という単語はあまりにもありふれたものになっているが、昭和30年代、つまり僕らがが学窓を去ろうかというころはまだまだ特殊なもので、技術の分野での話はよく知られていたが、なんといっても高価であり、一般事務分野での使用は官公庁や大企業などいわば大口に限られていた。小生が卒業したのは1961年だが、その2年前、IBM社が 1401 という型名の主に小規模企業(本来は大型機の入出力補助が目的だったようだが)を想定したシステムを発表した。ウイキペディアの解説は以下のようになっている(なお、コンピュータの回路素子が真空管からトランジスタに変わったのがこのシステムの親機として開発された7000シリーズという新鋭機からだった、という事を付け加えれば時代の変遷がより鮮明になるかもしれない)。

”IBM 1401は、IBMが1959年10月5日に発表した可変ワード長十進コンピュータであり、大成功となった IBM 1400 シリーズの最初の機種であり、パンチカードに格納したデータを処理する電気機械式のタビュレーティングマシンの代替となることを意図していた”

こんなことが卒業時点でわかるわけもないし、ましてやコンピュータという存在が自分のサラリーマン人生を左右するものになろうなどとは想像もしていなかった。高校時代から考えていた新聞記者という夢を4年の夏、最終的にあきらめた小生は電機メーカーに就職しよう、という事だけは決めていたが、縁があって当時のオートメーションブームの寵児的存在だった横河電機にご厄介になろうと決め、首尾よく採用してもらった。此処までは良かったのだが,新人教育を修了したときに、”機械統計課配属“ と申し渡されてひたすらに驚いた。機械統計、というのがなにかよくわからないがパンチカードシステムとかいうものを使って、やたらと表ばかり作る業務らしい、という事しか知らず、ましてや自分がそこに配属されるなどは想像もしなかったのだ。しかも、配属先へ連れていかれて課長へ一応のあいさつが終わったとたん、その足ですぐ、教育プログラムへ行け、と自分の机ももらわずに出張させられ、行ったさきではじめて、そのプログラムというのが IBM1401入門コース というのだったのを知った。今考えても乱暴というか無茶苦茶なサラリーマン双六の始まりだった。

当時、横河電機は優良会社の代表であったとはいえ、、創業時点から電機業界で技術者対象の専門メーカーとして地味に発展してきた会社で、いわば玄人すじに知られていたが、規模もそれほど大きくはなかった。しかしわが高度成長を支えたオートメーションブームで業績にはずみがつき、規模の拡大とともに経営の質の向上をめざす一環として、まだまだ問題もあったがコンピュータによる事務効率の飛躍的改善を目指す、という時点にあったのだ。

したがって、小生のサラリーマン第一歩はプログラマー、という想像もしなかった業務だった。当時はまだCOBOLなどというものも話に聞くだけで、すべてアセンブラーでの力仕事だった。横河が導入を決めたモデルは、メインメモリは8キロ(間違いではない、キロである)バイト、ディスク装置は高価すぎて使えず、外部メモリは磁気テープ装置(それもレンタルの安い低速モデル)だけだったから、月末の受注統計になるとそのデータの分類だけで徹夜仕事というシロモノだった。それでも専用のエアコン完備の部屋に収容しなければならず、毎月のレンタルは確か300万円(当時小生の月給は2万円あまり)。なにしろ、小学生からPCだスマホだインタネットなぞというものに囲まれている世の中からすれば想像もできないほど、”コンピュータ” というのは特別な存在だったのだ。

この1401はIBM社にとっては空前のヒット製品であったが、日本ではまだまだ経営トップ層でもコンピュータ投資に及び腰であったことから中規模程度の企業ではメインコンピュータとして採用された。したがって、就職してこの ”マルイチ” で初めてコンピュータなるものと顔を合わせた人たちは全国に相当おられるはずだし、当時の日本の採用慣行から言って小生と似たような環境にほうりこまれた人の数は相当なものになるだろう。百恵くんの歌ではないが、この広い日本のどこかにそういう人たちがいる、と想像するだけでほんのりしてくるから不思議なものだ。

1401、という数字は、したがって小生のサラリーマン生活の入門切符だったとともに、その後、(あいつはコンピュータがわかるはずだ)という(本人からすればはなはだ迷惑な)過分の評価がついてまわり、コンピュータから離れられない会社生活の在り方を決定した、因縁の数字なのだ。もし、横河電機での出発が 機械統計課 でなければ、たぶん、新規に発足した合弁会社、横河ヒューレットパッカード(YHP) への移籍もなかっただろうし、その後のHP(現在あるHPという会社は僕の愛した会社ではないのだが)での、自分でも納得できた社会人経験は出来なかったはずだ。そういう意味では 1401 は 16 とともに僕のラッキーナンバーなのだと僕は信じている。

ぼくの今の1401,すなわち深紅のホンダフィットは息子の週末ゴルフの脚として以外はほとんど、自宅のガレージですねている。気の毒とおもうべきか、長生きしろよ、というべきか、よくわからないのだが。

(HP時代同僚 坂東正康)坂村健の書いた「TRONからの発想」という本があります。発行は1987年。ぼくが八王子で(佐藤敬幸さんの下で)UNIXやMPE(HP3000のOS)や周辺機器(プリンターやプロッターやターミナル)に日本語をしゃべらせるプロジェクトにマーケティングとして参加していた頃に買ったもので、まだ本棚にありました。

その付録ページにコンピュータの歴史がまとめれらており、そこからIBM関連部分の一部を抜き出すと「1956年には、磁気コアという磁気の作用で1、0の値を記憶する部品を主記憶装置に用いたIBM 704やUNIVAC 1103Aというコンピュータが商品として売り出され、よく使われた。・・・1959年のIBM 7090は論理素子が真空管ではなくトランジスタが用いられた。・・・1958年には集積回路(IC)がテキサスインスツルメント社によって発明された。1964年には集積回路を用いた汎用大型電子計算機のスタンダード IBM 360シリーズが発表された。」

残念ながらこの本には IBM 1401は出てきません。

花見、あちこち

(船津)菜種梅雨?サクラが咲くと雨が降る。不思議と週末になると天気が悪い東京です。21日のお彼岸の日が一番の賑わいでした錦糸公園。その後は小雨に濡れています。まぁ例年より早い花見時期は過ぎていきますね。
(飯田)京都・円山公園の≪枝垂れ桜≫を観てきました。現在の大木は二代目で、初代は昭和22年に樹齢220年で枯死してしまいましたが、その初代の種子から大事に育てられた桜が、樹齢約80年を数える大木に成長しています。
満開の時に好天の下で観たいと思っていましたが、コロナ禍で叶わず、本日やっと念願かなって満喫してきました。

(小田)素敵な数々の写真の後ですが、昨日の日野市役所横の桜並木です。

(安田)故郷・九州の友達から送られた写真です。参考までに。
下関から望む関門海峡と関門大橋、対岸は北九州市門司。平家滅亡の壇ノ浦、宮本武蔵vs佐々木小次郎の決闘の場・巌流島も海峡内にある。

エーガ愛好会(207)  ルイ・マルのこと  (普通部OB 菅原勲)

フランスの映画監督ルイ・マルは、1932年10月30日に生まれ、1995年11月23日に鬼籍に入っているから、63歳で逝去したことになる。その全作品は、共同監督を含め22本だが、その内、小生が観たのは最初の4本に過ぎない。つまり、この後には18本もの映画が控えているわけだ。ところが、僅か4本しか観ていないにもかかわらず、マルを語るとは、それこそ神をも恐れぬ大胆不敵な行為と謗られても返す言葉もない。が、英語で言えば、Better late than neverに倣って、それをまーやってみようじゃないか。

「沈黙の世界」(製作年/日本公開年:1956年)。ジャック=イヴ・クストーとの共同監督で、深海を扱った海洋ドキュメンタリー。つまり、マルは劇映画ではなくドキュメンタリーから出発している。ただし、当時、クストーは、アクアラングの発明者であり水中考古学の先駆者として既に名声を博していたことなどから、その陰に隠れ、マルの存在は極めて薄いものだった。従って、小生の記憶の中では、「沈黙の世界」と言う映画は、クストーの作品であると理解しており、その中でマルの役割がどの程度のものだったかは分からない。

ところが、そのマルは第二作(実質的には第一作だろう)で大変身を遂げる。いや、それどころか第一作であるにもかかわらず、大変な作品を引っ提げて颯爽と登場して来る。それが、「死刑台のエレベーター」(製作年/日本公開年:1958年)だ。原作はノエル・カレフ(ブルガリア出身でフランスに国籍変更)のスリルとサスペンスに満ちた同名小説。彼にはこの他に「その子を殺すな」と言う傑作もある。従って、マルの映画もスリルとサスペンスに満ち溢れたものだったが、それを台詞だけではなく誠に秀逸な白黒の画面/画像で伝えたところに、マルの斬新さがあった。そして、小生は、これがマルの最大傑作だと思っている、時に弱冠26歳。マイルズ・デイヴィスのトランペットも話題になったようだが、ジャズに馴染みのない小生にはそれに言及するだけの素養はいささかも持ち合わせていない。

「恋人たち」(製作年:1958年/日本公開年:1959年)。これもドミニック・ヴィヴァン・ドノンの「Point de Lendemain」(英訳本の表題は「Tomorrow」となっている。が、Lendemainとは明日ではなく翌日と言う意味らしい)が原作で、1777年に出版され、1812年に改訂版が出されている。しかし、その内容は、どうもポーノグラフィーとまでは行かないが、可なりエロティックな内容だったらしい。従って、映画化に当たって、マルはその辺の直接的な描写は避けたようだ。この映画は男女の睦の画面があって、それが話題となり、同時にそこに流れる甘みな音楽が一躍有名になった。ブラームスの弦楽六重奏曲第一番第二楽章だ。小生、その睦に誘われてこの映画を見に行ったのだが、それ以上にその背景を流れるブラームスに甚く感激。早速、レコード屋でそのLPを贖って聴いた。ところが、肝心の第二楽章は、大変、良いのだが、残りの楽章はお世辞にも面白とは言い難い。逆に言えば、これは、特に第二楽章を選んで映画音楽に使ったマルの嗜好とか選曲眼を高く評価すべきなのだろう。

「地下鉄のザジ」(製作年:1960年/日本公開年:1961年)。田舎から出て来た、歯抜けの小生意気な女の子がパリで巻き起こすドタバタ喜劇。これもレーモン・クノーの同名小説(1959年)が原作だ。これは話しの筋がどうのこうのと言うより、ハチャメチャなドタバタ喜劇を楽しむ映画だ。従って、この類のものに拒否反応を示す人から見ると、何が何だかさっぱり分からず、誠にツマラナイ映画と言う人も多かろう。小生、この女の子、カトリーヌ・ドモンジョ(当時10歳)が気に入ったのだが、その後、二三の映画に出た後、19歳で引退し、地下鉄の歴史家になったそうだ(地下鉄はウソ)。

こう見て来ると、小生にとってマルの代表作は「死刑台・・・」となる。勿論、他に20本足らずの映画があるわけだが、それこそ、小生、見ていないから何とも言えない。確かに、4本の全てに原作があるが、誤解を恐れないで言えば、話しの筋なんてものは、本を読んでりゃー良いんであって、映画は台詞に加え魅力的な画面とそれに伴う音楽でその意図を如何に伝えるかがその最大の使命となる。往々にして文芸大作と言われる映画が面白くなくなるのは、ただただ筋だけを追っかけているに過ぎない場合が多いからだ。そこになにほどかの、いやそれ以上の工夫が施された画面/画像が加わって初めて映画となる。その意味では、カレフの本「死刑台・・・」とマルの映画「死刑台・・・」は全くの別物と考えるべきだろう。

それにしても、世に言う新しい波「ヌーヴェル・ヴァーグ」とは、一体、何だったのだろう。

(安田)僕は「沈黙の世界」以外の3本と「鬼火」を観ました。日本封切り公開時から随分年を経てからです。ということは、僕が青二才の年齢からちょっとばかり大人になってから。「地下鉄のザジ」は先日、管原さんのご推薦もあり後期高齢者の年齢で初めて観ました。「死刑台のエレベーター」「恋人たち」に尽きます。共通点は、ジャンヌ・モローが両方の映画に主演(鬼火にも出演)。共に白黒映画。「フィルム・ノワール」の範疇に入るのだろうか。そして最も感銘を受けたのは主題曲の素晴らしさ。ヌーベル・バーグの旗手と云われたルイ・マル監督26歳の時のメガフォン作品。一つ選ぶとすればやはり「死刑台のエレベーター」でしょうか。

「恋人たち」はジャンヌ・モローの美しさと官能的な映像美、そして何と言ってもブラームスの弦楽六重奏曲第一番第二楽章が映画を惹き立てる全てと云っても過言でない位素晴らしい。これら2つの映画を観てから、ジャンヌ・モローの主演映画「危険な関係」(1959年作)と「突然炎のごとく」(1961年作)を後年続けざまに観たくらいに彼女に興味を持ちました。

(飯田)ルイ・マル監督作品は私も「死刑台のエレベーター」「地下鉄のザジ」他には奇妙奇天烈な「世にも怪奇な物語」程度しか観ていませんが、「死刑台・・」は特筆すべき出来栄えの作品と思います。

その成功は菅原さん、安田さんの評論、コメントで尽きると思いますが、少し付け加えるとするなら、原作ノエル・カレフ、監督ルイ・マル、主演のモーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー、音楽マイルズ・デイヴィスに加えて、当時のフランス映画界で名を轟かせた撮影のアンリ・ドカエのモノクロ画面のカットとロングパンの撮影の妙があり、演技者では後半にやっと出てくるあの名刑事役リノ・ヴァンチェラのこわもて顔があって、ラストの写真現像室でのシーンで主役二人が、これから受ける懲役10年、20年の刑の重みが増して締まったと思います。

リノ・ヴァンチェラはこの映画でも、ジュラール・フィリップ主演の画家モジリアーニの半生を描いた「モンパルナスの灯」であの面構えでラストに出てくる悪徳な画商の名演技に匹敵する存在感だと思います。

(船津)このエーガに出て来るカメラは一時入れ込んだミノックスカメラ。独逸の空軍の英雄に送られた。

(編集子)小生も難しいことはさっぱりわからないが、死刑台のエレベータ、あのデイヴィスのトランペットは印象に残っている。映画そのものよりも音楽が記憶に残る、というのはよく経験する。小生の場合はなんといっても 白い恋人たち だが。

エーガ愛好会 (206)熱血教師映画2本   (42 保屋野伸)

昨日、今日と雨だったので、先日放映された、熱血教師モノのエーガ2本をビデオで観ました。

①   いまを生きる

ロビン・ウイリアムスが名門スクールの型破りな新任教師役。大昔、会社の研修で観た映画でしたが、ほとんど忘れていたので、改めて新鮮で楽しめました。生徒の自殺が、教師の「個性を重視する教育」のせいだとされ学校を去るラストシーンで、生徒達のある抗議行動が感動的。

*ルート・ロイベリック主演の「朝な夕なに」を思い出しました。

②   コッホ先生と僕らの革命

ドイツ帝政時代、イギリス留学でサッカーを学んだ教師が、サッカーを教育の一貫に取り入れ、最後に成功する実話。モデルのコンラート・コッホはドイツサッカー界の父といわれた人物。

*熱血教師の映画やドラマは「外れがない」と云われますが、日本でも次のドラマが大ヒットしました。

①3年B組金八先生(武田鉄矢) ②熱中時代(水谷豊)③スクールウオーズ(山下真司)~熱血教師ではありませんが、映画では、二十四の瞳(高峰秀子)

 

誤嚥性肺炎について   (普通部OB 田村耕一郎)

 

友人から、親戚の方に起きた事故に関して、注意喚起のメールをもらいました。参考になると思いますので紹介します。

1.誤嚥性肺炎って?

誤嚥性肺炎は、食べ物や唾液などが誤って気道に入り込んだときに、一緒に口やのどの細菌やウイルスが入り込むことで起きる肺炎で、70歳以上の高齢者の肺炎の7割を占めています。

通常、食べ物や唾液を飲み込むときは、空気の通り道である気管にフタがされ同時に食道が広がるので、食べ物や唾液などは食道にだけ入ります。ですが、高齢者や脳卒中などで体にマヒがある人は、このフタの働きが低下して飲み込むときに気管がしっかり閉じにくくなって「誤嚥」が起きます。このときに、口の中やのどにいる細菌やウイルスが食べ物や唾液と一緒に気管から肺に入り、誤えん性肺炎を引き起こします。

一般に、肺炎を発症すると38℃以上の発熱や強いせきなどが起こりますが、誤えん性肺炎ではそうした典型的な症状が現れにくく、「ハアハアと呼吸が浅く速い」「何となく元気がない」「体が異常にだるい」「食欲がない」といった症状が多くみられます。また「せん妄」といって、話す言葉やふるまいなど意識に混乱がみられることもあります。高熱が出るまで、軽い咳込みと食欲がなくなった程度なのに誤嚥性肺炎を起こしていたというケースもあります。

2.口は万病のもと

誤えん性肺炎が高齢者に多い理由は、主に「えん下障害」「せき反射の働きの低下」「口の中が清潔に保たれていない」「体力や抵抗力の低下」の4つとされています。中でも特に重要なのが3番目の「口腔ケア」です。口腔ケアがしっかり出来ていれば、口の中の細菌が少ないので誤嚥しても誤嚥性肺炎になりにくいです。

口腔ケアは誤嚥性肺炎の防止だけではありません。口の中が不衛生で細菌が多いと、様々な疾患を引き起こすことが分かっています。入れ歯のケアをほとんどしていないと高齢からくる誤嚥に、口腔内の不衛生が重なって、誤嚥性肺炎になることがあります。

3.口腔ケアで万病予防

口腔ケアには、歯みがきやうがいなどで口内を清潔に保つだけでなく、口内の働きを良くして「嚥下機能」を向上させるためのリハビリも含まれます。口腔ケアのうち、口内を清潔にするケアを「器質的口腔ケア」、口や喉の筋肉を鍛えるケアを「機能的口腔ケア」と呼びます。

「器質的口腔ケア」は、日常的に行う歯みがきやうがいで、歯に付着した食べかすや汚れを落とし、虫歯や歯周病、口内炎を防ぐ効果があります。また、歯ぐきや舌、頬の内側などの汚れにも細菌が多く繁殖しているため、口の中にある肺炎の原因菌を減らせます。入れ歯の場合は、はめっぱなしにすると雑菌が増えやすいので、寝る前は必ず外しましょう。

「機能的口腔ケア」は、口や喉の筋肉を鍛えるケアで、食べ物や唾液がうまく飲み込めるようになるほか、円滑なコミュニケーションにもつながります。よく噛み、よく話すことで脳に刺激を送り、気持ちの安定もサポートできます。

機能的口腔ケアの代表例が「嚥下体操」です。下の要領で口周りの筋肉をほぐしたり鍛えたりします。また、「パタカラ体操」といって、「パ」「タ」「カ」「ラ」を組み合わせて発声練習して、口と舌の動きを滑らかにします。

<https://blog.ushinomiya.co.jp/blog/data/blog_img/9488_7_org.png>

口腔ケアは、単に歯や歯茎のためだけでなく、健康長寿とQOL(生活の質)の維持・向上に必要不可欠です。まだ習慣になってない方は、ぜひ今日から取り組みましょう。

“パーソナルコンピュータ” の歩みを思い出そう  (普通部OB 舩津於菟彦)

米インテルの共同創業者で「ムーアの法則」の提唱者として知られるゴードン・ムーア氏が24日、米ハワイ州の自宅で死去した。同氏の設立した財団とインテルが発表した。94歳だった。

ムーア氏は長年の同僚だったロバート・ノイス氏とともに1968年にインテルを設立。79年から87年まで最高経営責任者(CEO)を務め、同社を世界的な半導体メーカーに育てた。「半導体の集積度は2年ごとに倍増する」という同氏の予測はムーアの法則と呼ばれ、長らく半導体やIT(情報技術)産業の技術革新における指針となった。インテルCEOのパット・ゲルシンガー氏は「ムーア氏は洞察力と先見性によってテクノロジー産業を定義した。トランジスタの力を明らかにすることに貢献し、数十年にわたって技術者や起業家に着想を与えた」と声明を出した。

現在のシリコンヴァレーには数多くのスタートアップ企業が存在しているが、もしインテルの共同創業者であるロバート・ノイスとゴードン・ムーアがいなければ、こうした状況にはなっていなかったかもしれない。そう思える理由のひとつは、マイクロプロセッサの大量生産を最初に始めたのがインテルだったからだ。マイクロプロセッサは現在、スマートフォンやパソコン、サーヴァーなど、あらゆる種類のコンピューターを動かす基幹部品になっている。また、もっと詩的で深遠な理由もある。それは、ムーア氏とノイス氏が安定した企業の職を捨て、自分たちの手で会社を立ち上げ、夢を追求した起業家たちの先駆者だった から、というものだ。

そんな中に日本人も負けては居なかった。卓上電気計算機のビジコンの嶋正利は単身インテルに乗り込み卓上電気計算機用の4004の開発した功績は大きい。その後ビジコンを退職しリコーに転職。インテル社は次期製品として8008を開発。その性能向上にあたり特許戦略および他社による競合製品開発阻止のために、当時インテルのCEOだったロバート・ノイスが嶋をスカウトし1972年インテルに転職。8080では当初より主任設計者を務めて4004の時と同様にほとんど一人でロジックを組み上げ、8080のパターンの隅には嶋家の家紋が刻まれている。その後ファジンらCPU開発チームの主力メンバーと共にスピンアウトしザイログ設立に加わり、Z80やZ8000を設計した。Z80は8ビットマイクロプロセッサのベストセラーのひとつである。

嶋正利は1943年8月22日に生まれる.1967年東北大学理学部化学第二学科卒業.ビジコン社に就職し,電算部門で,各種のプログラミング言語に関する教育を受けプログラマとなる.1967年10月に電卓部門に移り,ハードワイアード論理方式を使った電卓の試作を担当する.当時日本は電卓の供給基地であり,OEMビジネスに適した論理方式を導入することを模索していた.嶋は,1968年11月に,10進コンピュータ・アーキテクチャとROMを使ったストアード・プログラム論理方式のプリンタ付き電卓を開発した.1969年6月に渡米し,10進コンピュータ・アーキテクチャを基本にした事務機向け汎用LSIシステムを開発する過程で,インテル社と協同で世界初のマイクロプロセッサ4004の開発を1971年3月に成功させた.16ピン・パッケージという制限のために4ビットの時分割システムバスを導入し,システムを,プロセッサである4ビットのCPU(4004),命令を格納するROM(4001),データを格納するRAM(4002),出力拡張ポート(4003)の4種類のLSIのみで構成した.当時の科学計算機用電卓には入出力機器としてキーボード,表示(CRT),プリンタ,応用プログラムを読み込むカードリーダなどがあった.開発における最も困難で解決しなければならなかった問題は,電卓というアプリケーション・プログラムを実行しつつ,低性能プロセッサと低速メモリという条件下で,プログラムを使って多種の入出力機器の制御をリアルタイムにどのように行うかであった.問題の解決のために命令セットの最適化と簡単なモニタの導入などを行った.CPUには2,300個のトランジスタを使い,750KHzの動作周波数で約0.065MIPSの性能を達成した.チップ面積は12mm角であった.また,嶋は,4004を使ったプリンタ付き電卓を1971年に開発し,世界初のマイクロプロセッサ使用者となった.電卓の命令用メモリ量は1Kバイトであった.マイクロプロセッサは,知への道具である「知的能力」を人類にもたらし,マイコンへの道を拓いた.1971年9月にリコーに移り,ミニコンへのI/Oタイプライタの接続,大型計算機のチャネルへのグラフィック・ミニコンの接続,高速プリンタの電子制御,ミニコンを使ったドラム記憶装置のテスタ設計に従事した.これらの一連の設計を通してマイクロプロセッサ開発の基礎ができあがった.
今の目の前にあるアップルiMac27インチは当時の空調してテープがクルクル廻るオフコン以上の性能になっているし、LSIはナノの単位になり日本はに遅れてしまっている。

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我がpersonal computerの歴史は兄が米国から帰国時でフロッピーディスクて動くアップルⅡ型が最初の出会いで、自分がpersonal computerを購入したのは日本では未だpersonal computerがが生まれて間もないときに、大阪に飛ばされて単身赴任してやること無いのでこれからは何だろうと、当時NECがボトーの上に乗せたようなむき出しのpersonal computerから、NECとか日立がやっとpersonal computerらしき形の物を発売した頃です。日立レベル3は当時としては最先端のCPUモトローラーのHD68091MHzを搭載してメモリーは24KBとい物でした、本体298,000円はもとよりプリンターとかディスプレー(カラー画面の物は高くて買えない)グリーの物とかフロッピーレコーダーなど何か買うと10万円以上の代物でした。また、プリンターは勿論フルファベットとカタカナしか打てない物はドットプリンターで音が猛烈に大きい。寮で夜間打ち出すときなど枕を被せて–
そしてソフトなど殆ど無くて、BASICのみでシコシコ入れたりして遊んでいましたが、何しろ時間がが掛かるスワップ一つやってもトイレに行って帰ってくるぐらい時間を要した。それでも一応未だ少なかったパソコン講座に通ったり居しましたが、これが元で鉄鋼関係から情報産業へと転勤になりました。良かったのか悪かったのか???? あぁ遠い昔の半世紀も前の話しですね。未だその時の本が取ってあります。結局物にならず現在至っています。
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(編集子)サンフランシスコから101号線で1時間ほど南に位置するパロアルトはスタンフォード大学の所在地だが、ここにはラジオ工学の泰斗とよばれたターマン博士がいて、その門下生だったデヴィッド・パッカードとウイリアム・ヒューレットが博士にすすめられてHP社をおこし、ヒューレットが特許を取った低周波発振器の製造を始めた。その性能が当時映画 ファンタジア を作ろうとしていたハリウッドに認められて世に出、その後 (現代のアラビアンナイトだ)とまでいわれた飛躍をとげるのだが、このHPの成功が引き金となって、パロアルトからサンノゼあたり、かつては茫々たる果樹園だった地域が、現在のシリコンバレー、と呼ばれるエレクトロニクスとその延長線上にある情報産業の一大集積地になった。
HPの歴史にはいろいろとトピックがあるのだが、ある日、一人の青年がヒューレットのもとにやってきて、自分のアイデアを説明し、HPで使ってほしいと要請した。その時、ヒューレットはそれよりも自分で会社を興す方がいいと青年を激励した。その青年がヒューレットのァドバイスをもとに作った会社がアップルコンピュータだったのだ。この時、もしヒューレットが同意していたら、その結果はどうだっただろうか。歴史にIFはない、というの、一若造ではあったがHPという組織体の末端で会社の文化を多少は知っていた経験から興味はつきない。
別の話だが、船津の書いているPCの勃興期からその発展、インテルの拡大といった業界の動きを着実にフォローしたHPは関係分野での測定器を続々と送り出し、おおいに業績をのばした。その後、パッカードは、カリフォルニアで起きたいわゆるゴールドラッシュをひいてこう語ったことがある。ラッシュで設けたのはもちろん、金鉱を掘り当てたやつさ。だけど彼らの仕事が増えれば作業着がいり、給料を運ぶ馬車がいり、その給料を預かる銀行がいる。そうやって大きくなったのがリーバイスだとかウエルズファーゴなんて連中さ。HPは金鉱を探すのはほかの連中にまかせてジーンズや馬車を造ろうとしてるんだよ。
この大原則で小生が働いていた時代のHPは米国の Most Admired Company リストの常連だった。HPの変貌はやはり金鉱探しに手を伸ばし始めた時期に始まった。その結果をどう判断するのか、これまた興味は尽きないが。