コロナ禍で3年間取りやめていた大倉山観梅会が昨年に引き続いて
エーガ愛好会 (257) 次郎物語 (HPOB 小田篤子)
大変印象に残った映画です。でも今はもう悲しい映画はとても切なくて見ることができません。もとより涙腺は緩い方ですが、歳とともにストレスに耐えられなくなっています。 小学校時代、クラスで見に行った映画鑑賞会を思い出し懐かしい気持ちになりました。
連休中日 深大寺は梅の香
エーガ愛好会 (256) コルドラへの道 (34 小泉幾多郎)
2月(金)のBS1西部劇は、「クイック&デッド」「誇り高き男
「ハスラー」等の名匠ロバート・ロッセン監督唯一の西部劇。19
主人公クーパー扮するソーン少佐が、
主人公ソーン少佐に反発しながらも、その人間性を理解していく農場主をセック
(編集子)助演のメンバーがなつかしい。リタ・ヘイワースとはねえ! ラナ・ターナー とか ローレン・バコール とか。 水泳選手から転向した、足に100万ドルの保険かけてる、ってのは誰だっけ? 全然タイプは違うけど、ジューン・アリスン だの パイパー・ロ―リー とか?
(飯田)助演のリタ・ヘイワースに絡んで、懐かしい女優の名前があったので思い出しました。
ラナ・ターナー、ローレン・バコール、ジューン・アリスン辺りまでは当時の映画ファンなら出る名前でしょうが、パイパー・ローリーはなかなか直ぐに出て来ない女優。私も彼女の映画を数本見ていますが、直ぐにタイトルが思い出せません。トニー・カーティスとスポーツカーに同乗して、猛スピードで髪を靡かせて疾走するロングカットのシーンが特に印象に残っていますが、トニー・カーティスと後に大統領になったロナルド・レーガンとの共演が多かったようです。
ウイッキペディアで調べると、パイパー・ローリーは父親がポーランド系、母親がロシア系で、昨年亡くなっています。(1932年~2023年10月(91歳没)トニー・カーティス等の相手役に飽き足らず、ニューヨークへ渡り、アクターズ・スタジオで演技を学び直し、「ハスラー」(ポール・ニューマン主演)の演技でアカデミー主演賞候補にノミネートされています。
百万ドルの脚線美の方は、多分シド・チャリシーでしょう。でも、もしかしたら水泳選手で世界記録保持者だった前歴の≪水着の女王≫と称されたエスター・ウイリアムズかも。私はシド・チャリシーの大ファンです。
(船津)パイパー・ローリーは「かわぃぃ」の元祖かなぁ
17歳で映画デビュー。ロナルド・レーガンやトニー・カーティス
シド・チャリシー(Cyd Charisse、1922年3月8日 – 2008年6月17日)はアメリカ合衆国の女優、ダンサーである
MGMの二枚看板はフレッド・アステアとジーン・ケリーだったが
OB会 スキー合宿 (50 実方義宣)
エーガ愛好会 (255) サイコ (44 安田耕太郎)
これは60年以上前のティーンエイジャーの時、初めて観た19
「情婦」の苦い経験から約3年後、高校生になって封切りの「サイ
精神異常者のアンソニー・パーキンスが10年前に亡くなった母親
「捜索者」「間違われた男」「リバティー・バランスを射った男」
ジャネット・リー、33歳の時の出演、11年前の「若草物語」か
事件が起こるクライマックスのモーテル場面に至る前に、警察官の
事件が起こったモーテルに近接して建つ不気味な2階建屋敷はNo
(編集子)”この映画の結末は誰にも話さないでください” という煽情的な新聞広告が出た翌日、学校へ出てみたら、並んだ教室のすべての黒板に ”サイコの犯人はアンソニー・パ―キンズです” とでかでかと書かれていた。チクショー、なんて言いながらそれでも見に行った。クライマックスで椅子ががらりと回転して母親があらわれるシーンはさすがに戦慄した記憶がある。安田君と違って2度見る気は起きなかった。
横手-渋峠ー芳が平 快晴のツアーを楽しみました (47 熊倉康世)
俺の第二の青春ーその終着駅
青春とは、と議論があれば必ず引用されるのが、米国の詩人サミュエル・ウルマンの “Youth is not a time of life; it is a state of mind”(青春とは人生のある期間を指すのでなく、心の持ち方を指すものである) というくだりだろうか。編集子は幸い経済的にも恵まれて中学からの一貫教育で育ち、受験地獄も経験することがなかった。特に大学4年間をワンダーフォーゲル部という理想郷に過ごすことが出来た。この時期を自分の青春時代、というのは当然であろう。しかしウルマンの言うように、それが人生のある期間を指すのではない、とすれば、人によっては第二、第三の青春を謳歌する幸運に恵まれることもある。それはまさに自分に起きたことだった。
1960年代、高度成長前夜の日本で、まだ数の多くなかった大学卒業者、特にいわゆる文科系の学生は多くは金融、あるいは商社を選ぶものが多く、メーカー、それもビッグビジネスでない会社を選択するものはあまりいなかった。自分は天性の天邪鬼的性格ゆえ、”あんまりでかくなくて確かな会社” と考えていた時、縁あって当時はまだ横河電機製作所、とよばれていた横河電機に就職ができた。この会社は当初から技術と職人芸を目指していたから、すぐれたエンジニアは数多くいたが、文化系の人間はあまりいなかったので、企業規模が拡大すれば、それなりの展望は大いにある会社だった。入社2年目、米国の計測機器メーカーの雄、ヒューレット・パッカードとの合弁会社(略称YHP)が設立され300人近い従業員がこの会社に “移籍” されることになり自分もその中に選んでもらえたた。しかし立ち上がりの3年ほどは苦境が続き、新会社から従業員を親会社にひきとってもらう ”帰籍” という屈辱の事件があった。しかしこのことによって、残されたYHP社員の間には強固な一体感が生まれ、文字通り社長から新人まで、”赤字解消”というゴールを目指して、”働き方改革” などは糞くらえ、の奮闘を重ねた。この時期を振り返って、後日創立以来初めての専務に抜擢された浅井修之は ”この会社には俺達の青春がいっぱいつまってるんだ” と言ったことがある。まさに自分にとって、文字通り 第二の青春、だった。数年して赤字は解消、その後は米国親会社の発展もあって順調に拡大し、現在の日本HP(合弁解消)が生まれる。
この過程で、”法文系大卒” がすくなかったことが幸いして、編集子は数多くの職場を経験することが出来たが、退職するまでのちょうど時間的に中点にあたる時期、営業部門にできた ”東京支社”という組織の長を経験した。その後、会社としてのYHPは順調に成長を重ね、編集子もその過程で幸い役員にも推薦され、いわばサラリーマン双六を上がっていく結果になったのだが、この ”のぼり階段” での自分には、浅井が言ったころの、”俺達の青春” という高揚感は全くなかった。自分で言うのもおこがましいが、この時期にいくつか手掛けたプロジェクト(人の恨みを買う結果になったものもふくめて)の成果はそれまでに闇雲にやってきたことよりはるかに会社の業績には寄与した、と言い切る自信はあるのだが、である。
ウルマンを再度引くならば、やはり青春とは人生の一時期、ではなくて、心の持ちよう、なのだという事を改めて感じる。自分の第二の青春はYHP八王子工場の片隅にはじまり東京支社の4年間で終わったのだ、と。
その4年間、数多くの人たちの支援をいただいた。その中での一つのグループが昨日、集まった。この席にいるべき何人かがすでに境を異にしてしまったのが何とも悔しい。曽山光明、坪内和彦、近野俊郎。彼らの御霊安らかにと皆で偲んだことだった。
後列左から田辺賢治、編集子、浅原弥生、木内和夫、前列左から天堀兵衛、菅野節子、田中一夫
野見山暁治展に行ってきました (普通部OB 舩津於菟彦)
アーチゾン美術館へマリー・ローランサン展を拝見に参りましたが
野見山 暁治(のみやま ぎょうじ、1920年〈大正9年〉12月17日 – 2023年〈令和5年〉6月22日)は、日本の洋画家。位階は従
福岡県穂波村(現飯塚市)にて、炭鉱経営者の子として生まれる。
2023年6月22日、心不全のため死去。102歳没。日本政府
因みに最初の妻、内藤陽子さんはフランスに呼び寄せてわずか1年
小生は慶応高校の新聞を造つて居たときか大学時代でも写真も撮