先般”タウンウオーク”の企画でも書いたが、日本も知らないところばかりである。残された時間に、どれだけの街を尋ねられるかわからないが、まずは近代史の原点たる長崎へ行ってみようということに夫婦一致、珍しく直ちに準備にかかり、この14日から2泊3日の旅を試みた。

長崎、と言ってもそこに抱くイメージは人によってずいぶん違うだろう。すべての国民共通の意識は原爆被害の聖地ということとしても、クリスチャンにとっては伝来時点からの殉教者の地、食通にとっては独特の料理や食材であり、はたまた思案橋ブルースから前川清まで数多いだろう。僕の場合は徹底して明治維新とのかかわりあいである。高校時代に日本史を選択しなかった僕の歴史知識はまず90%が司馬遼太郎の小説からのものだから、”竜馬がゆく”と”坂の上の雲“と”燃えよ剣“と”翔ぶが如く”、この4編がメインテキストであり、単発の作品なら“酔って候”に描かれたわき役ともいうべき人物像や、後日譚としての”峠”なんかも入ってくる。映像で言えばこれは何と言っても栗塚旭の”新選組血風録“に尽きる(新選組!も面白かったがすこし座興にすぎる感じがした)。
だから親しんできた遼太郎文学にたいして僕なりの意識を確定する、けじめをつける?、ということも今回の目的だった。オヤエの興味は当然とはいえ、大聖堂だったり本場ちゃんぽんだったりグラバー邸だったはずであるが、ま、3日間、ほぼ8割は足で歩いた旅だった(中心部には路面電車もあるのだが、端から端まで歩いても、高尾山二往復くらいのアルバイトであろうか)。
今考えてみて、これは夫婦一致した見解なのだが、長崎は “優しい” 街、というのが今回得たイメージである。第一に街路がほかの街のように碁盤目という感覚が全くなく、縦横斜めに優雅に伸び、坂がたくさんあって、それこそ ”坂の上”に何があるかと思わせる。ほんのりした夢がある。清潔である。それとなにより人が優しい。それも観光地ずれした人工的な優しさでなく、ほのぼのとした会話ができる人たちばかりだったのがなんとも嬉しかった。
維新前夜のありようが見つかるかと長州山口を初めて訪れたとき、第一印象として思い浮かべたのは ”山紫水明“ という一句だったが、そのわりに人々には硬質な感じがあり、萩はなんだか人を寄せ付けないような感じがしたし、高知はぼくには明るすぎた。開国当時の歴史をたどるとすればあとは鹿児島と会津若松にはどうしても行かなければならないが、そこはどんな印象を持っているだろうか。土方歳三終焉の地、函館・五稜郭は如何。
今回の第一の目的は坂本龍馬がかの“海援隊”を組織した、”亀山社中”の建物であった。オリジナルそのものではないが、発見された古い図面をもとに忠実に古材を使って再生された、ま、今の感覚で言えば4LDKサイズだろうか。上がってみて愕然とし、かつ感激したのは、竜馬が盟友中岡慎太郎とともに刺客に襲われ、絶命した京都近江屋から伝えられたという屏風と掛け軸があり、そこに飛び散った竜馬の血痕がはっきりと残されていたことだ。あえてしなかったが、手で血痕にふれることすらできた。これはまさに時空を超えた衝撃だった。
最後の日に余った時間をぶらぶら歩いていたら、蘭学者高島秋帆の自宅跡、というのに遭遇した。オランダから砲学を学び、日本での製造に成功、多くの若者が西洋の近代武器を学ぶ礎をつくりながら無実の罪に問われ、12年間蟄居させられた。もしこのブランクがなければ、近代化はもっと早く進んでいたのではといわれた人物である。
現地へ行くまでは、ま、お定まりの古い家と何かの遺品くらいだろうと思って行ってみたのだが、予想に反して、そこは空き地だった。春日の下の、ただの空き地。広さはおそらく三百坪くらいか、古くからの低い石垣に囲まれ、井戸の跡が数か所、ほかに礎と思しきものが散在しているだけ。むろん幾つかの説明板はあったが、まさにそれだけ。

なかほどにある石塀を回ってみたら、庭のはしに深紅の椿がただ1本、みごとな花を惜しげもなく落としていた。もちろん樹齢から言って当時のものではないが逆に昔に向きあった現代の魂が何かを問おうとして果たせない、その悔しさを吐露しているようで、見ているうちに息苦しくなってきた。この空き地が空き地であるからこそ持ち得る、歴史をつくりながらその結実をわがものとしえなかった人間の恨み、悲しさを表す雰囲気をそのまま、長く伝えて行ってほしいと思ったことだった。椿が散った後、夏草は何を語るだろうか。
原爆記念館は初日に訪れた。ここも広島とは違った、静かな、優しい雰囲気を持ち、ただ、祈りに徹した雰囲気であった。広島を訪れたときに誰しもが持つはずの、戦争への怒り、といういわば外向的な感情よりも、人間の持つ悲劇性を静かになだめよう、という内向的な感じがあった。浦上(爆心地)に存在する数多くのキリシタンの足跡がそのような感じをさらに強くさせるのだろうが。
グラバー邸や出島も一応訪れたし、ちゃんぽんも皿うどんも名物海鮮料理も食べた。カステラも文明堂だの福砂屋なぞは二級品ですよ、と地元の人が言っているブランドをまとめてを買い込む。。。。つもりだったがなんせ高いのに閉口。しかし、確かに上品で甘すぎず、うまいものだった。グラバー邸のあたりは出島がオランダ人専用から解放され、外国人特に英国人が居住した地域であり、いくつかの面白い発見があった。


そんなわけで、観光旅行そのものも満喫できたが、僕には明治維新の背後にあった事柄を改めて感じなおさせた旅だった。今月からはじめたタウンウオークだが、もし、その延長プランがゆるされるものなら、再度、仲間とともに訪れてみたいと思わせる、いい旅だった。帰りは羽田から調布までのほうが長崎―羽田のフライトより長かったが。





酒井政蔵先輩とか百名山二百名山のつわものはともかく、ワンダーにいたおかげで、世の中の多くの人よりはいろんな場所を訪ねて来た。しかし70年以上住んでいるわが東京に関しては、城南から都心の一部くらいしか知らない。意地になっているところもあるが、東京タワーにも上ったことはない。まして城北城東と言われる地域に至っては西も東も分からない、という現状に発奮,一念発起して、まずは城北は柴又あたりを歩こうかと思いついて企画したが一度は雨のため断念。考えてみたら同期の連中にも同じ思いの仲間がいるはず、と、例によっておせっかいな企画を立てた。いわく、”タウンウオークプラン”。高尾山でも遠くなった連中も誘えるかと、まず歩くのは街なか、参加申し込みなど不要、都合により中途切り上げ自由、



例によって10時に京王線高尾山登山口に集合。わずかな霧雨が降っていて、中にはこの天気では中止にするのではと淡い期待をもって私に予定通りに行くのですかと聞いてきた人もいましたが「当然! 行くよ!!」と言うことで、岡沢をリーダーとする一号路組と堀川リ―ダートの稲荷山コースに分かれて10時10分行動を開始。


ワークキャンプの楽しみは夜の打ち上げにあると言っても過言ではない。昨年に引き続き今年も福島屋さんでご挨拶と懇親会を行い、手作りの熊汁をご馳走して頂いた。いつまで続くかはわからないが現役が浅貝の人と関われる貴重な機会であるため、今後も何かしらの形で続いてほしいと思う。山荘に戻ると打ち上げが待っている。今年は青椒肉絲の他に、妹尾昌次さんより鯛茶漬けを振る舞って頂いた。胡麻とほうじ茶が香ばしく、現役一同舌鼓を打っていた。宴は深夜まで続き延々と飲み語らい泥のように眠ったことで、翌朝、WCではおそらく初の現役一同寝坊という結果となった。




快晴の朝富士