先に紹介したパタゴニアレースの実況が放映されると安田君から連絡があった。
関西有志忘年会の報告 (41 田中透)
平成30年12月14日(金)快晴、朝10時半JR明石駅改札口
岡山から、残り10名は大阪・京都から、そして地元明石からは御
明石港を11:00にフェリーは出発、15分後明石大橋をくぐっ
先ずは会の主旨説明、「関西有志が淡路島岩屋で達者である事を年
冒頭、遠路東京杉並から日帰り自腹招待で参加してくれた河合デシ
あとは、楽しく、飲み、食べ、喋り、又飲みを繰り返しながら、若
この2‾3年KWV三田会は関西ブームで少々沸いております。年
今回の有志による初忘年宴会は来年も、「関西有志岩屋会」と名称
参加者:石谷正樹(S39)、河合国尚(S40)、益田英昭(S
ことばの移ろい (50 笹田敬雄)
・流行語大賞が年末の風物詩として定着して久しい。3年前の大賞は「神ってる」。万年下位に低迷していた広島カープの神懸り的な快進撃を称したものだが、翌年以降も連覇が続き、もはや「神懸かり」ではなくなったせいか、この言葉もいつの間にか消えてしまった。過去の大賞を振り返ってみても、いまだに寿命を保って広辞苑入りを果たせそうな言葉は意外に少ない。
・新語・造語はギャルや若者の専売特許だが、中高年から見ると耳障りなものも多く、言葉の乱れと映る。さしずめ「ら抜き言葉」はその代表例だ。「食べれる」「見れる」などの言葉を採用面接で使った学生は不採用にするという一流企業の人事課長の話も話題になったくらいだ。しかし時代は進み、すでに日本人の7割以上が「ら抜き言葉」を抵抗感なく受け入れたり使ったりしているという。(文化庁「国語に関する世論調査2002年」)。もはや多勢に無勢、市民権を得るのは時間の問題のようだ。
・新語、造語を言葉の乱れとみるか、変化とみるかはなかなか難しい問題だ。次の奇怪な文がおわかりになるだろうか。
「パルー ツンギーテー ナトウ キータルラチー チロタペノ カラマ ポチータリー アマノ カングヤマ」
これは持統天皇の詠んだ
「春過ぎて 夏きたるらし白袴(妙)の 衣乾したり天の香久山」
を金田一春彦氏が奈良時代の音で再現したものである。1300年の時の流れは、もはや変化などという生易しいレベルを超えているが、言葉の移ろいとはこういうことなのだろう。
・変化していくコトバに対する身の処し方としては、頑なにならず、かといって無節操におもねることなく・・・といったあたりだろうか。
金田一氏がどうやって奈良時代の音を再現したかはまた別の機会に。
ポピュリズムとは何か まとめ
いろいろな見方があるのは確かだが、このような問題の背後にはいわゆるグローバリゼーションという世界的潮流があるのではないか。
このグローバリゼーションが引き起こした各国大衆の反応がポピュリズム、ひいてはナショナリズムといわれ、現在の不安定の要因だとされる。ナショナリズムとは愛国心と民族意識の高まりであるという。愛国心のほうは理解できるが、民族意識とはなんだろうか。教科書によれば、民族、という意識は人種とは違う。19世紀以降、帝国主義の高まりによって、西欧から中東までの地域には、人種文化を無視した理由によって国境が敷かれ、一つの国に複数の人種がせめぎあう結果を生んだ。ここで国籍と人種とは別に”民族“という意識がうまれる。ある国の中に民族、という意識が生まれるとそれは偏狭な同族意識になりやすく、それが支配階級に対抗する動機となり、ポピュリズムを生むというのだ。講義で見たビデオの中に日本をとりあげたものがあった。上記の議論を前提とし、日本もまた強烈なナショナリズムに傾いている、という、はやりの言葉で言えばフェイクニューズの類で、出席者の間でも失笑を買うようなものだったが、この時点ですでに300万を超える視聴があったというのだから多少不安にもなる。
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だが、ここまでの議論とは別に、僕が特に考え込んだことがあった。それは “とうとう、世界が大衆社会化したな” という一種の諦観である。
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70年代から80年代、繁栄を続ける西欧社会であらためて ”人間の疎外“ という現象が意識され始めた。機械文明の下でひとびとは自分の意識や良心といった個人の存在を失い、独裁者とか特定の組織の主張が宣伝・広告などのマスコミを通じて大衆を支配していくようになる。その好例がヒトラーとナチズムの支配だったという議論があった。僕が高校時代に遭遇したフロムの ”自由からの逃走“ はまさにそのような本だった。このころの議論が指示した方向はもちろんいろいろあるが、共通して指摘されたのは、ナチズムの史実が示したようにプロパガンダの悪影響であり、それに加担したマスコミの問題だった。そして将来、個人、という単位は消滅し、だれがどこで発しているかわからない、”大衆“の力に左右されていく。近代社会を支えてきた人間の尊厳という概念すら”Mass”の中に埋没してしまうだろうという悲観論、一般に“大衆社会論”と呼ばれた思想が出てきた(ワンダー生活の隙間で、何とかゼミだけは人並みに出ていた僕はこの関係の本だけはフロムの主著 ”Sane Society” を中心に多少なりとも読み込み、卒論も何とか認めてもらえた)。
しかしここまでの議論には、まだ救いがある。マスコミ自体の理性とか自浄作用とかいったものにも期待ができたからである。しかし当時はインターネットという魔物がまだ存在しなかった。個人が組織や社会と接点を持つ能力にはまだ技術的な限界があったし、良心的・理性的な第三者もマスコミを通じて介在できた。しかしSNSというものが登場し、スマートフォーンが常識になった現在、一切の干渉なしに個人は未知の他人に直接、情報なり意見なりを伝達できる。もちろんそのことによる利点は数多くあるが、逆に言えば、個人はマスコミという手段を必要としなくなりつつある。アメリカの大統領がツイッターを使えば自分の主張を日常の言葉で、感情もあらわに各個人に押し付けることが可能になった。フィリピンの大統領は自分が擁護すべき法律を無視して究極的暴力に訴えて大衆の支持を得た。もしかの国に、ワシントンポストか(わが国では悪名高いが)朝日新聞でもあったら、その結果はもう少し理性的なものになったかもしれない。
トランプ現象を単なる選挙手段の巧拙と考えるのはまちがいなのではないか。ポピュリズムのすぐ次には、まさに大衆社会というより大きな、後戻りできない地球規模の混乱が待っているのではないか、というのが僕の感想である。
久しぶりにじっくりと考え込む機会を今回の講義は提供してくれた。先輩の気まぐれに付き合ってくれた安田君に改めて感謝をしたい。
”むかし”の語り部として その2
大分前のことになるが、OB理事会の打ち上げの席で、たしか斎藤伸介(63-記憶違いであれば申し訳ない)から、”ジャイさんたちの代は勝ち組です!”といわれたことがある。彼が言いたかったのは、僕ら36年卒前後6-7年の代の卒業生が実に幸運なサラリーマン生活を送れた、という事実を言っていたのである。たしかに僕ら数代の間、日本経済は急速度で成長し、だれもが(明日は今日よりよくなるはず)と無邪気に信じていた時代だった。これから日本がどうなるか、想像もつかないが、我々がすべて去った後世の歴史は、この時期を20世紀日本の黄金時代だというかもしれない。そんなころのKWVの話をしておこうと思う。
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(文集第8章 百年祭ワンデルングと三田祭 から抜粋)
1858年に創立された慶応義塾が創立百年を祝う年に、大学2年生といういわば”働き盛り”で居合わせたわれわれは幸せであった。日本も戦後という時代を抜け出し、世界も冷戦のさなかとはいえ,いわゆる”パクスアメリカーナ”のもとで、緊張の中にも明るい未来を展望し得る時期、塾全体もまた、底抜けに明るい時期でもあったからだ。
わがKWVも、OB現役一致して念願の山荘建設を果たし、さあこれから、というタイミングに恵まれ、荒木床平総務に率いられた執行部は、塾自治会からの勧誘もあったようだが、部全体で意義のある事業に参画する意思を持ち、委員会でいろいろの案を議論した結果、福沢先生誕生の地から三田まで、慶応義塾の歴史をひもときつつ、”祖国を、俺たちの部が歩く(荒木総務の言)”という、まさにワンダーフォーゲル運動そのものといっていい企画を決定した。今考えると、内容ももちろんだが、この企画そのものを選定したとき、成功は約束されたといっていいように思える。しかしその規模の大きさに比べて、果たして踏破が可能なのかどうか、部員の安全は確保できるのか、委員会メンバーの不安は大変なものであったろう。
ワンデルングは1958年9月28日、第一班の九州中津出発に始まり、11月12日最終班が記念式典会場に福澤本家からのメッセージを届けることによってめでたく終了した。参加延べ人数は152人であり、われわれは各班の中軸を担うことができた。その過程を共有することでさらに友情を深め、仲間内の歴史が書かれ、いくつもの伝説が生まれた。
一方、塾当局は例年執り行われる三田祭にも記念の意味を持たせたため、全塾を上げて各部・グループが参加を希望してコマ取りも熾烈であったようだ。KWVはこの機会に記念ワンデルングを中心に部活動のアピールにつとめたが、もう一つのコアはできたばかりの三国山荘の紹介であった。全国規模のワンダー人気は依然続いており、その中でも部の山荘を有するということは重要であったし、建設過程にOBから現役までの、いわば義塾の誇る”社中”精神が息づいている、ケイオースピリットのあらわれでもあった。長い旅を終えたわれわれはまた新たな挑戦として三田祭活動に取り組んだ。
当時、アマチュアの間で操作できる、今でいう”動画”は8ミリ幅のフィルムを使う通称”8ミリ”であったが、カメラや映写機、さらには編集に使う機器も決して安価なものではなく、それほど多くの部員が使いこなしていたわけではない。われわれの2年先輩にあたる林田新一郎はその先駆者ともいうべき存在で、山荘建設の記録フィルムはコンテ作りからプロはだしのものが出来上がっていたが、100年祭ワンデルングでは何人かの手でばらばらに撮影されたから、それを編集し、画面を見ながら解説を考え、テープレコーダーに吹き込む(”アテレコ”と呼ばれた)作業が必要だった。3年生の手塚信利は家業として映画館を経営していて基本に強い(と信じられていた)ので、彼の家には連続数人が寝泊まりしてこの作業にあたった。
一方、山荘についてはその正確な模型を作ろう、というプランがあって、こちらは”ミスター山荘”小林章悟の自宅で深谷勝を中心としたチームが徹夜の連続で完成させた。この模型は長く保管されていたが、いつの間にかなくなってしまった。初代山荘が焼失してしまったいま、残念の極み。

また、”スキー合宿も浅貝でやるんだ!”という暗黙の合意のなかで、ワークキャンプのあいだからゲレンデ作りを実施していたが、”ゲレンデにロープトウ(さすがにリフトとは言わなかった)を作れ!”ということになって、工学部にいた鮫島弘吉郎と高木圭二がその任を仰せつかった(今考えると上級生にも工学部がいたのになぜ2年生だったのか不明)。ワークキャンプ中のある深夜、東京から”拉致“されてきて工事にあたった鮫島幸吉郎の手記。
松本恭俊(34年卒)さんから「家にエンジンがあるから、それを使って、浅貝の小屋の横のゲレンデにロープトゥーを作りたい。お前らは工学部だから、設計しろ」と髙木圭二と小生に話があった。確かに工学部に在籍していたが、まだ、2年生、何もわからない状態であったが、引き受けてしまった。松本さんの工場を訪問、エンジンのスケッチ、そのあとは設計である。「機械設計便覧」を片手に、2人で図面を書いた。この図面で松本さんから部品を発注してもらった。出来上がった部品、エンジンを積んで、トラックに便乗し17号線を一晩がかりで、小屋まで行く。なぜかこのとき制服を着ていたようである(新注:中司はこれを見ているので確か)。土台を作るため、川から砂利を黙々と部員が運び上げてくれた。これで、使えなかったらと、どうしようか、雪が降るのが怖い気もした。
いよいよ雪が降り試運転だ、寒さでエンジンがかからない、小屋で大きなやかんにお湯を沸かし、エンジンを温める。やっとエンジンが動き出し、ロープも回りだした。何人ひっぱりあげられるか?恐る恐るロープにつかまる。2人~3人を引き上げてくれ、計算通りだとやっと強がりを言った。しかし低温の中エンジンをかけるのが大変、毎朝大きなやかんで御湯を持ち上げ,仲間がエンジンを温める仕事も率先して引き受けてくれた。雪の降る前、深谷、妹尾は雪が降ると大変だと、エンジンに雪囲いをし、運転中水分でロープが伸びると、調整してくれたそうである。最近になって、私の知らないところで仲間全員が、多々助けてくれたことを知った。仲間はありがたいと、改めて感じる次第である。
ここに記したいくつかの愉快なエピソードからもわかるように、100年祭のあったころの我々の生活はまさにワンダーの周りをまわっていたのだ、ということを改めて感じるが、街の姿も徐々に復興する経済とともに新しい形に変わりつつあった時代である。テレビ文化の拡大によりアメリカの文化、それも50年代後半の熱気が押し寄せ、風俗などもめまぐるしく変わっていった。日吉から近かった自由が丘にはまだ当時珍しかったジュークボックスを置いた喫茶店ができたし、渋谷や銀座にはハワイアンやカントリーソングをライブ演奏する店もできた。これに影響されて、テントサイト夕食後のミーティングにそれまでの”山の唄”にくわえて、新しいジャンルが持ち込まれるようになった。1級上にいた森永正幹がウクレレを持ち込み、それが一種のブームになったのは、先輩方から聞いていた”ドイツのワンダラー”のイメージの中に革の上着でギターを抱えて歩く、というような憧れに近い感情があったのかもしれない。この”カントリーソング”派は、森永から田中新弥へ伝承し、1学年下では荒木隆司や福永浩介(五色のスキー合宿の時、かのザイラーの映画にあこがれてウクレレを抱えて滑ったりした)、その次には綽名まで”ウクレレ”になった林裕や大原誠三郎などに受け継がれた。将来に微塵も不安を抱かず、学生時代を謳歌した時代の記憶である。
閑人会 (44年同期) 忘年会 (44 般若隆)
ポピュリズムとは何か その2 (44 安田耕太郎)
イギリスの高級紙The Guardian)にポピュリズム関連の記事がシリーズで掲載された。ここで同紙は次のように言っている。
第一は近隣諸国から流入する移民・難民の増加である。
ポピュリズム台頭の要因とそれを増殖させた土壌と社会環境を考察
1990年代にはノルウェー、スイス、
ヨーロッパではポピュリスト政党の得票は1998年の7%
夜の紅葉探訪 (36 翠川幹夫)
KWV忘年ゴルフ会 (37 菅谷国雄)

12月5日、ワンダー有志による平成最後の忘年ゴルフが行われた。
最年長は80歳超えの36年組から若手は未だ現役の52年組まで、ある者は自慢の腕を試めさんと、又ある者は義理と人情にかられて痛む体に鞭打って総勢30名、府中CCに集合した。終日曇り空ながら師走にしては気温も高くまずまず、懇親会では速いグリーンに悩んだ失敗談に花が咲く。無事終了が何より、和気藹々賑やかにお開きとなった。ただ、途中クラブハウスで行方不明になる者も出るなど、認知症の進行も懸念され世代交代必死の、正に平成最後のゴルフ会でもあった。
振り返れば、学生時代は殆んどが縁がなく、むしろ敬遠していたゴルフ、夫々社会に出てから仕事の付合いなどで始めたゴルフも、いつの間にか懇親を深める格好の場に変わり、ワンダー仲間も各代競う様にゴルフ会が催されて来た。
各代のゴルフ会にも誘われて参加して来たが「100人ゴルフ」も思い出が多い。記憶もおぼろげになってしまったが、そもそもの始まりは40年ほど前、故荒木庄平さんの発案だった。私の同期、今は人吉で闘病を続けている福永浩介君の衆議院選挙に挑戦する、その激励会を兼て故川鍋達朗さん経営の「夷隅CC」でのオールワンダー・ゴルフ大会が行われた。その後KWV三田会の組織再編と発展に併行し、形を変えて「100人ゴルフ」が盛大に行われて来た。最盛期には23年卒の吉田晴彦先輩が養老温泉に泊まり込みで参加されたり、32年卒の伊豆山康夫先輩がブラジルから駆け付けて来られたり、正に「100人ゴルフ」に相応しい盛り上がりだったが、近年は会員の高齢化に伴い年々参加者が減少して寂しさ一入の感がある。世間一般、ゴルフ人口も減っているのでやむを得ない傾向と思えばそれまでだが、人生100年時代、老いて益々盛んなワンダー仲間の登場を期待したいところだ。
来春には桜咲く頃に、府中CCにで「オールワンダー懇親ゴルフ」がある。 誘い合わせて賑やかにやりたいものだ。
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府中カントリクラブ、今回の使用ティで全長6042ヤード、天候は薄曇りから晴れという絶好のゴルフ日和だった。前回のチャンピオン佐藤充良(48)、毎回BGを狙う矢部精一(37)、傘寿ながら週一回ラウンドという老練浅海昭(36)、豪打連発の40年組藍原瑞明や淵田晴彦らを抑えて優勝はネット69で斎藤邦彦(51)。なお実情を考慮して(?)このコンペではBGの表彰はないが、今回は淵田春彦(83)。その外特記すべきことは品川正良がハーフ70の壁を破ったことである。次回のBB戦がどうなるか、楽しみになった。
斎藤君の51年卒の代は雨男軍団の別名があり、過去担当の日帰りワンデルングを何回も流していたが、今年は春(大月)秋(飯能)と2回無事終了、忘年ゴルフも学年優勝といいことずくめだった。以下、斎藤君の投稿。
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12月5日(水)「府中カントリークラブ」にて開催されたKWV忘年ゴルフ大会において図らずも優勝の栄に浴させていただきました。グロススコアでは到底及びませんが「新ぺリア方式の隠しホール」がズバリ的中し大きめのハンディを頂いたおかげだと思います。有難うございました。とりわけ菅谷先輩には今回も予約手配等を頂き深く御礼申し上げます。サポート頂いた伊川先輩、安藤さんにも感謝いたします。このような立派なコースと素晴らしいメンバーでラウンドすることは珍しいので私は大変楽しみにしています。
この大会は元々36年卒組と37年卒組の対抗戦として始められたと伺っています。今回は参加者30名のうち36年卒組が最高齢で4名、37年卒組が8名というご参加でした。私の計算では平均年齢は75.9歳ですが100を切るスコアの方が4割の12名という成績で驚異的にお元気なコンペだと思います。若いころからの精進の賜物でしょうか?
次回からもできるだけ大勢の仲間を誘って参加したいと思っています。ご参加の皆様がますますお元気で、3月末の定期大会と12月のこの大会が末永く開催されますよう願っています。
斎藤君撮影の菅谷君挨拶。太陽に向かっていたがハレーションは発生せず。
ネリカン先輩へ (H21 羽村太雅)
ご無沙汰しております。最近は仕事も家庭も忙しく、なかなかKWVの集まりに出席できず
さて、ブログを拝見しました。
太陽系内の天体で、肉眼で見えるのは、太陽と月、5惑星(水金火
肉眼で見える「星(恒星)」などは他は全て太陽系の外側にござい
太陽系の外側には、太陽系に似た規模の恒星系が多数あります。肉
銀河系の外側には、無数の銀河があり、それぞれの銀河に「星の数
Powers of Ten
https://www.youtube.com/watch?
北極探検隊が帰還時に方角を決めた実際上の方法は不勉強のため存
(編集注)羽村太雅君、H21卒、150年記念W時には現役を代表して協力してくれた。天文学のプロである。ネリカン兄、ご納得いただけましたかな?