私のC&W

(伊川望 47年)

私たちの年代(?)ではカントリー&ウエスタン(C&W)( 俗称鼻にかかった歌声が特徴?)と称し、銀座5丁目の「ナッシュビル」に時々通い、 ハットとブーツに憧れておりました。

背負子と交換でネスケから入手した5弦バンジョー( 最後までチューニングが上手くできませんでしたが…)を抱え、浮かれていたバブル期を懐かしく思い出しました。

ジャイさんが西海岸で活躍されていた時代に、 私はバブルの恩恵を全身に浴び、疲れ知らずの日々( 連日連夜のお付き合い)を過ごしておりました。

次のブログを楽しみにしております。

伊川拝

追伸①長い間「ウィリアムハンク(?)のユアーチキンハート(? ?)」と思い込んでおりました。

追伸② ナッシュビルで最後に見たステージは高木ブーのバンドでした。

追伸③写真の掲載も如何でしょうか( 例えばグレンキャンベルのジャケットの写真があれば…)

追伸④「アカズの山歩き」も中々面白いブログです。クマ、 アカズ夫妻の“馬鹿が付くほど”の体力には呆れますが…

 

グレン・キャンベルのこと                 

(菅井康二)

グレン・キャンベル追悼をご自身の米国(カリフォルニア) 滞在経験に照らして書かれた記事を非常に興味深く拝読しました。 Giさんとは15年という年齢差もあり当時の米国の事情というか 空気感は知る由もないのですが、アメリカが変わった( 古き良きアメリカが喪失)ことをボブ・ ケネディー暗殺事件が象徴しているというのは納得できます。

その容貌からも歌声からも明らかな善人を感じさせるグレンが歌う 失恋歌であるBy the time I get to Phoenixに漂う哀感は単に個人的なハートブレイクだけでは なく当時のアメリカの世情も反映されたものであることがGiさん の文章で良く分りました。この曲は元々はジョニー・ リヴァースが創唱しましたが、作詞・作曲したジミー・ウェッブ( ”Wichita Lineman”も彼の作品)の才能も大したものだと感じます。

フランク・シナトラはこの曲を “the greatest torch song ever written.”と絶賛しカバーした録音を残していますが、 グレンの若々しい歌に比べるとジャズ・ フレーヴァーのある落ち着いた大人のバラードになっています。 グレンの歌はついこの間のほろ苦い失恋という雰囲気ですが、 シナトラのそれはかなり昔の追憶という感があり比較して聞いてみ るとなかなか面白いです。

(菅井君は塾工学部計測科卒、HP時代の仲間でPCに関してのプロです。今回の小生の暴挙?の面倒をみてくれています)

By the time I get to Phoenix

8月10日、朝の読売新聞がグレン・キャンベルの訃報を伝えた。1937年生まれ、ということだから僕と同い年である。新聞記事では”カントリーソングの大御所”、と書かれていたが、僕にはそういうありきたりの形容詞には収まり切れない、特別の感情がある。

1967年、生まれて初めてアメリカの土を踏み、2週間モーテルでの仮住まいのあと、新聞広告で探し当てたデュープレックス、日本でいう二軒長屋に落ち着き、船便で送った家財道具が何とか届いて、どうやら生活が始まったちょうどそのころ、あの, By the time I get to Phoenix を聞いた。初めて聞いたのがラジオだったのかテレビだったのか、今では記憶がないが、とにかく心にしみるメロディーだった。この曲があっという間に大ヒットし、一躍有名になって、ラジオの定番になっていた大きなシリーズ番組(エド・サリバンショウだったか?)でキャスタが夏休みのあいだ、その代理に彼が抜擢されたことを覚えている。

実はカントリーソング、という用語が何を指すのか、僕にはよくわかっていない。昔からカウボーイソングとかウエスタンミュージックと呼ばれていたものと、ヒルビリーとかブルーグラスとよばれるアパラチアの鉱山地帯からグレートスモ―キー山脈のあたりの人々の歌、その代表がいうまでもなくハンク・ウイリアムズなのだろうが、そういういわばアメリカ人の演歌、といえばいいのだろうか。それはもちろんカリフォルニアでも人々の愛好するものだが、ジャズでもウエストコーストジャズ、というのが独立したジャンルで扱われるように、この”カントリー”にもそのような、いわばシティ感覚でとらえたものがあって、キャンベルはその文脈のなかにあらわれるもののように思える。

アメリカ到着早々に月賦で買った車はとにかく金がなかったからエアコンもつけなかったが、さすがにラジオはあったので、まもなくKEEN,というラジオ局があるのを知った。アナウンサがKEEN,というコールサインを ”キーン”と発音して”Radio KEEN, 24 hours country music station”とアナウンスしていたから、車に乗ればまずこのチャネルがつけっぱなしになった。この局では当時、バック・オウエンスの曲をよく流していた。今考えるといわゆるベイカーズフィールドサウンド、という奴だったのだろうが、やはり素人の耳にも伝統的なカントリーとはどこか違う、都会的なセンスが感じられた。だが、キャンベルの”フェニックス”には、そのほかのいろんな曲にはない、うまい形容詞がみつからないのだが、ほんのりとしたぬくみ、カントリソング定番の失恋話をテーマとしながら、それを超えた人々の間の共感というようなものがあるように僕には感じられた。

住み始めた長屋にはちいさな裏庭があったが、右隣が学校の敷地でプラタナスの樹とクリンプ塀で仕切られていた。その塀の上をつたってリスがよく現れた。東京では考えられない環境であったが、異国で初めて迎える深い秋の日差しの下に醸し出される平和な時間に、憂愁を帯びたあの”フェニックス”のメロディがピッタリ調和していた。あの歌詞には、常に何かを追い求めて動き続けるアメリカ人の、いわば業とでもいえる人生観と、一方ではその中にしみこんでいかざるを得ない一種の諦観と、最後にそれを自分の事だけでなく、(おお、お前もそうだったのかい、こっちへ来なよ)というような仲間意識、つまり、良き、懐かしきアメリカ人の、というのが、いい過ぎならばカリフォルニア人の、感覚がにじんでいるのだと思われる。

当時はアメリカ自体がベトナム戦争で疲弊し、特に僕の住んでいたサンフランシスコ周辺は反戦運動の聖地であったわけだから、そういうメランコリックな雰囲気もいつの日か失われるのでは、という予感があった。果たしてある朝、ロバート・ケネディ暗殺の報が飛び込んできて、会社でも異様な緊張感が感じられた事を覚えている。この事件を境に、アメリカの変質が始まった。その後、仕事を辞めるまで、カリフォルニアは常に僕のそばに意識されていたが、”フェニックス”を聞きながらに感じていた、あの秋の日の、よきアメリカは戻ってこなかった。いま自分が人生の黄昏にかかろうとするときに、ほんのりと思い出されるものが僕らが垣間見ることができた、good old Americaの中での時間であり、グレン・キャンベルなのである。だから、僕は”恋のフェニックス”などというまったく馬鹿げた、おざなりの日本語タイトルは気に入らない。というより憎悪を感じる。僕にとって、グレン・キャンベルのこの曲は、あくまで、By the time I get to Phoenix でなければならない。

さよなら、そしてありがとう、グレン。

 

 

 

 

棒道のこと

ジャイ様

ブログ第一信拝読いたしました。「棒道」、イヤー懐かしいですね 。ブンヤ屋として最初の赴任地が甲府。3年半の在任中は信玄公( 山梨では信玄と呼び捨てにせず、必ず「信玄公」という) の話はいろいろ聞かされていましたが、なかでもロマン溢れる「 棒道」の話はよく耳にしました。八ヶ岳での遭難取材のついでに、 小淵沢町役場に寄って、「棒道」の所在を聞いたりもしました。 その頃(50数年前)はまだ町内に「上ノ棒道」 のほんの一部が残っているだけでした。

私が新聞記者になったきっかけは、当時読売新聞のコラム「編集手 帳」を15年以上書いていた、高木健夫という評論家の自宅に大学 4年の時、新聞スクラップづくりのアルバイトに通ったのが縁でし た。甲府に在任中、高木さんが、八ヶ岳西麓の長野県原村に別荘を 建てたので、よく出かけていました。その別荘の近くに、信玄の棒 道が通っていたと村長から聞かされ、調べてみたがどこだかわかり ませんでした。

その後、東京本社の社会部になり、3年先輩の小学生の息子が夏休 みの自由研究で、信玄の棒道を見たいというので、小淵沢町内に残 っていた棒道を案内しました。草藪になった部分を探して歩きまし たが見つかりませんでした。その先が今では、ジャイさんの別荘の 前にハイキングコースとなっているとは奇遇ですね。 その周辺は、とくに紅葉がすばらしいとか。10月になったらゴル フを兼ねて、棒道の散策を楽しみたいと思います。  初田正俊

ナンカナイ会夏の集まりだよ!

(翠川幹夫)

既にご連絡のとおり、今年の夏の集まりは8月24日5時、四ツ谷東京ガス四谷クラブです。まだ連絡のない方、至急確認をお願いします。

今回の ”ふみあと”にワンデルング記録は記載されていますが、参考までに2001年から、新年会と夏の集まり、そのほかの会合の記録をまとめてみました。いままでの最大人数は33人です。今年はこれを上回りたいものですが。

2001/1/25(木)銀座クルーズ・クルーズ
2001/8/17(金)ユニコン倶楽部
2002/1/16(火)カシーヌ(タネ紹介)
2002/12/12(木)キリンシティー銀座中央
2003/4/17(木)新橋キリンシティー
2004/1/15(木)キリンシティー
2004/11/27(金)赤坂プリンスホテル創部70周年記念式典
2005/1/14(金)銀座「お多幸」
2005/8/23(火)キリンシティー
2006/1/13(金)銀座「お多幸」
2006/8/22(火)東京ガス青山クラブ
2007/1/12(金)銀座「お多幸」
2007/8/21(火)東京ガス四谷クラブ
2008/1/10(木)交詢社*
2008/8/21(木)東京ガス四谷クラブ*
2009/1/10(土)東京ガス四谷クラブ
2009/8/5(水)東京ガス四谷クラブ
2010/1/9(土)東京ガス四谷クラブ
2010/5/22(土)日吉キャンパス協生館創部75年パーティー
2011/1/15(土)東京ガス四谷クラブ
2011/8/25(木)東京ガス四谷クラブ
2012/1/14(土)東京ガス四谷クラブ
2012/8/23(木)東京ガス四谷クラブ
2013/1/12(土)クルーズクルーズ新宿
2013/8/22(木)クルーズクルーズ新宿*
2014/1/11(土)クルーズクルーズ新宿
2014/8/28(木)東京ガス四谷クラブ
2015/1/8(木)東京ガス四谷クラブ
2015/8/27(木)東京ガス四谷クラブ
2015年10月  三国山荘へ旗掲揚台を寄贈
2015/11/7(土)帝国ホテル 創部80周年記念パーティー
2016/1/7(木)東京ガス四谷クラブ
2016/8/25(木)東京ガス四谷クラブ*
2017/1/7(土)東京ガス四谷クラブ
2017/8/24(木)5:00pm 東京ガス四谷クラブ

*参加人数33名(最大)

 

八ヶ岳山麓から  その1

僕のブログの記念すべき第一号発信を八ヶ岳南山麓にあるセカンドハウスで書いている

一応 ”別荘地”なるもののじっこに2002年に建てた小屋だ。場所は北杜市小淵沢。別荘、というイメージが定着した箱根とか蓼科とか軽井沢とかいった土地柄ではないし、大手の企業がやっている大規模・ハイクラス志向のものでもない。それまで聞いたこともなかった小さな不動産会社がひらいた場所なのだが、一応のインフラはあるし、管理も行き届いているので、僕ら夫婦が目的としている”二か所定住”スタイルを貫くに不満はない。しかしなにより気に入っているのは、家の文字通り真ん前を”棒道”が通っていて、その向こうが秋深まればゴージャスな紅葉がみごとな、深い原生林になっていることだ。

棒道、というのは武田信玄が信濃攻略のために作った軍用道路と言われていて(近年の研究では信玄以前に存在した道だ、という説もある)、現在の地名でいえば穴山あたりを起点にして長野県和田峠まで、三本のルートがあった、というのだが、現時点でその痕跡が明瞭で保護されているのはそのうちの”上の棒道”の部分である。穴山は武田勝頼が築いた新府城のあったところで(中央線に新府駅がある)このあたりが起点というのはうなづける説であるが、この”上の棒道”の核心部は小海線甲斐小泉駅近くの小荒間という集落から始まり、小淵沢カントリクラブの敷地をかすめて小淵沢インターからくる道路の下をくぐり、通称 ”鉢巻道路”と呼ばれる八ヶ岳周遊道路を原村へむかう途中で消える。小荒間から山道に入り、標高差でほぼ100メートル、最後のピッチを登ったところで拙宅の前に飛び出すということになっている。ハイキングシーズンにはハイカーが言ってみれば軒先を歩いていくので、別荘管理規定がなければコーヒースタンドでもやれば小遣いくらいは出るかもしれない。コースは地元の管理が行き届いていて、快適であるし、中ほどにはきれいな、小さな流れが2本ある。古いガイドブックで権現あるいは編笠への案内を探すと小泉から棒道をたどるのが標準になっているので、ベテランの登山家には知られたルートだったのだろう。名著”北八ツ彷徨”で知られる山口耀久氏の続編”北八ツ挽歌”にも一部、棒道のことが出てくる。

卒業して2年で結婚して、そのあと2年は夫婦で結構山を歩いた。その間に、村井純一郎(37年卒)とひょんなことから付き合いが再開し、彼の勧めで北八ツに足を運ぶことが増えた。子育て期に入ると、多少ひけめを感じながら、単独でもいろんなルートを歩いたが、なかでも当時の高見石小屋の雰囲気が好きだった(今の高見石にはあの頃のロマンはまったくないのだが)。それに比べて南八ツは夫婦で真教寺尾根から赤岳のラッシュをやったことがあるだけで、全く縁はなく、特にその南を限る権現岳は一度行ってみたいところだった。会社をひいて2年たち、2001年9月の初週、翠川幹夫、深谷勝、中島英次、岡秀雄、安東静雄に我々夫婦というメンバーで小淵沢地内の観音平から編笠へ上り、ついでに西岳を回って青年小屋へ泊まり、翌日、権現へ行くという旅を楽しんだ。考えてみるとこの時のメンバーとは現役時代、合宿などをのぞくと一般プランでは全く顔を合わせたことがなかった。30年を超える時間を経過してそれに気が付くというのものんきなものだが、この時の仲間が現在”月いち高尾”の中心になってほぼ毎月顔を合わせているのもなにかの因縁だろうか。

重要なのは、このワンデルングによって、僕ら夫婦が小淵沢、という土地を知った、ということである。そしてその後の経過がすでに記憶から抜け落ちてしまっているのだが、ある日、口の達者な営業マンに連れられて、たしか小雨が降っていたと思うのだが、今の場所を見に来た。まだほとんど家もない、原野といっていいくらいの場所だった。清水の舞台から飛び降りる、といえば言い尽くされた表現だが、そんな気持ちで契約した理由の一つは、この場所が”棒道”という歴史ロマンに隣り合っている、ということだった。信玄軍団の侍たちが歩いた道がそこにある。ローマを訪ねたとき、”シーザーが歩いた石畳を俺は今歩いている!”と興奮したものだったが、同じような、不思議なたかまりがあった。

契約を決意する前の3月に、八方尾根の帰りだったような気がするのだが、この場所へ来てみたとき、膝を没する新雪が森をうずめていた。尾崎喜八の文章に、同じように雪に埋もれた、友人が作った小屋の入口へ、”僕もいつの日か、襟巻をはためかせてここへ滑り込むだろう”というような一節があった。襟巻がキルティングに変わったにせよ、その日が来年には来る!という気持ちが湧いてきて、決意をさらに固めたものだった。

その後12年を経ているが、あの時のような積雪があったことは一度もない。何冬かして、悔しくて土地の人に聞いてみたら、あの時はとてつもない大雪だったがあんなことはもうないね、といわれてなんとも悔しい思いをした。

とにかく、棒道と編笠・権現。この二つに出会わなければ僕らはこの好ましい土地に来ることはなかった。満州から引き揚げ、以来の東京育ちのゆえ、故郷、というものを持たない僕には、このあたりの人と人情、ちょっと歩けば文字通り日本農村の原点、というようなたたずまいは心のフルサト、とでもいうべきものになりつつある。これからも花鳥風月を楽しむ、というような高尚な気持ちにはならないだろうが、デッキに座ってミズナラの林を過ぎていく風の音をききながらジントニックをすする、程度の恰好はつけながら、第二の故郷の時間をすごすつもりだ。

(幸い、このあたりには佐川久義(41年)夫妻、下村祥介(42年)、吉田学(47年)夫妻などの諸君が拠点を持っているし、少し離れるが蓼科には荻原年(32年)、徳生勇二(35年)両先輩を始め、久米吉之助夫妻、石渡美知江(46年)君らがいる。この夏には下村君の肝いりで第一回八ヶ岳山麓会、なるものをやろうということになっていて、そのような意味でもKWVの絆が固められる楽しみもある。)

 

編笠と権現

編笠と

権現のあいだに

雲がかかっている

 

夏の終わりの雲だ

 

あの稜線を駆け上がった心臓の鼓動は

まだ

どこかに新しいのだが

今の心は

どうしてもそこへ行かない

 

夏の終わりの雲だ

 

それでは、また。

 

 

おい、大丈夫か?

(大塚文雄より送信)
ブログ開設を祝していいのか、感心していいのか、 はたまたお気の毒と思っていいのか?
他人事ながら判断に窮します。ブログに挑戦した知人の話では、 一定の間隔で書き続けると苦行になるそうです。 長さにもよるでしょうが。月2回挨拶版ほどの長さを書き続ける締日との戦いの行方はいかに ?

ブログを開設しました

僕もとうとう、数えで80歳になりました。会社を辞めたのが1999年10月31日ですから、”無職”生活もほぼ20年ということです。

勤務していたヒューレット・パッカードを辞める、といったとき、多くの部下から、”ジャイさん、これからどうするんですか?”という質問を受けました。役員定年まで2年を残してやめるということから、どこかほかの外資系会社へいくのだろうと想像していた人がほとんどだったようです。今後一切仕事はしない、俺には学生時代からの素晴らしい友達が山ほどいるから、これからはやつらとの再会を楽しみたいから辞めるむんだ、と言ったとき、彼らの一致した反応はまさに羨望そのものだったと思います。

日本の社会においては仕事を離れた翌日から、どんなに社会的地位を持とうと高給を食んでいようと、人間関係の喪失に悩む人が数多くいます。僕にとって一番身近な例が父親でした。サラリーマンとしてはいわば人臣位を極め、いわゆる財界人として日向に居続けた人でしたが、母に先立たれ、最終的に引退後、しばらくは部下の人たちも訪ねてはくれたようですがそれもいつしか絶え、訪れる友人もなくまさに落魄、というべき晩年を過ごしていました。それを見ていたので、俺は違う道を歩く、という気持ちが強かったのです。僕には数え切れないほどの、時としては命を預けあったことさえある、強い絆で結ばれた友人がある、ということがその支えでした。しかも幸運なことに、KWVではOB会が活性化され、そのおかげで後輩の諸君とも親しくなることができてその輪はひろがりましたした。勤務していたHP社も米国会社にしてはOBを大事にする気風があった(今は疑問だが)し、慶應には三田会の伝統があり、高校や普通部時代、さらには小学校時代の恩師やクラス仲間とも交流を続けています。本当に恵まれた環境だとつくづく感じます。

しかし20年という時間の経過は残酷です。仲間の幾人かはこの間に鬼籍にはいり、自分の足も時としてはよろめくようになりました。これから後何年、元気でいられるかわかりませんが、その間、この輪を保ち、できることなら広げたい。仲間たちの消息を伝え、自分のありようやら意見やらをできることなら共有して、この輪を保っていきたい。そんなこともあって、思い切ってブログ、とやらを始めることにしました。

ただ、”ブログ”というシステム本来の、いわば不特定多数の人たちとの交流、ということは目的としませんので、本件のご案内は慶応義塾大学ワンダーフォーゲル部(KWV)OB会、会社時代の親しい友人の方々、学生時代からの長い付き合いの方々に限らせていただき、コメントやサイトへのご投稿はサイト直接ではなくメールで小生あて頂戴することにしました。ただサイトの目的上、公開掲載すべきか、ごく個人的な交信とするかは僕のほうで判断、選択させていただきますのでご容赦ください。

ま、あと何回続くか、自分でもよくわからないのですが、これが自分にとって開いた社会への窓、と考えています。原則(狙い)として月2回程度、更新をしたいと思っています。よろしくお付き合いいただければ幸甚であります。

今回の冒険?を理解し、初心者をあきらめずにご指導いただいているHP社時代からの畏友、菅井康二くんに改めて感謝いたします。