スナック ジジ

銀座の灯が青春の象徴だったという人間は沢山いるだろう。町並みは変わり、“いちこし” も ”ジュリアン・ソレル” も ”スイス” もなくなってしまったとはいえ、今なお古き良き時代の思い出はわれわれとともにある。

その銀座に住吉康子が店を持ったのは1983年6月9日、名前は スナック・ジジ。女子高時代演劇部にいた彼女が演じた役の名前がそのままニックネームとなり、友人たちの間では本名をとっさに思い出せないのがいるほど、親しまれた名前であった。

この店の誕生には、1年上の ”マックス” こと畠山先輩の強い勧めがあった。彼女はこれに先立って、友人に請われ横浜、都橋の近くで ”こけし” というスナックをマネージしていたことがある。ヨコハマ、というきらびやかなイメージとはかけはなれた、どちらかと言えばうら寂しい一角だったが、六郷沿いに住んでいた小林章悟が私設応援団長的にひろくワンダー仲間によびかけ、仲間が集うこともたびたびで、荒木ショッペイ夫妻もよく訪れていた。ここへ来た畠山が、”ジジ、おまえ、銀座に出ろ”と強く勧めたのだという。

住吉はいろいろな」友人を通じて、塾体育会のOBたちに知己が多く、そのひとりだった野球部OBの増田先輩(1957年卒)からの紹介で、ホテル日航に近いあの店の権利を得て、スナックとして開業した。バーテンも置かないから、当然カクテルなどというものとは無縁、カウンター1本しかないせせこましい造り、住吉本人だって世にいう ”銀座マダム” とはかけはなれて不愛想。それでも、ここは開業以来、それもどちらかと言えば ”体育会(この場合は」KWVも含めてだが)OB” の、何とも居心地抜群の、理想の止まり木でありつづけた。

何しろ、店の場所がよかった。都心オフィス勤めの人間にして見れば、”帰りがけに銀座でちょっと飲む” プライドを持つことができたし、古びたドアを開けて入れば、先ず5割の確率でワンダー仲間がいた。あれ、今日は誰もいないか、と思って奥を見れば、何年何十年ぶりかで見る高校、中学時代の仲間が、これまた5割くらいのヒットレートでにやにやしているという、まさに ”おれたちケイオー” の場所だったのだ。

KWVで同期以外の常連、といっても枚挙にいとまがないが、なんといっても2年上の三ツ本和彦がダントツだったのは、先ず誰もが納得する事実だろうし、後輩連では41年の田中透、佐川久義、44年の浅野三郎、45年の島哲郎などの名が浮かぶ。同期の仲間は当然としても、後輩年代でも ”じゃ、ジジで” と云うのが決まりだったのだ。

われわれの ”部室” であった ”スナック ジジ” は、2009年3月31日、その ”銀座の灯” を落とした。

 

(36年卒同期文集 ナンカナイ会 その ”ふみあと” から転載)

 

”ビジネスコンピュータ” のころ

1980年代。インターネットも標準OSも存在せず、コンピュータメーカの力量が ”どれだけ他と違うハードウエアを作るか” で測られていた時代。科学技術計算用と事務用途用と性格の違ったマシンが存在していた時代。日本ではその市場の在り方の故にIBMですら苦戦を強いられていたとき、ヒューレットパッカードはそれまでの戦略を大転換し、”ビジネス” 市場向けの製品を投入した。

くりかえすがかのIBMでも優位に立つことのできなかった混戦に、その分野での無名の新参が、しかも ”日本語をしゃべれない” コンピュータを投入したのだ。予想されたとはいえ、絶望的な戦いを強いられたのが ”ビジネスコンピュータ部” だった。その ”HPのガダルカナル” を生き抜き、とにもかくにもシステム事業を存続させ、現在の ”コンピュータメーカとしてのHP” にバトンタッチまで持ち込んだ、という強烈な自負を持ち続けている仲間がいる。その中の何人かが旧交を温めた一夕。これをきっかけに昔の仲間を糾合したいと語り合った。今後の再会をまた改めて企画したく、参加希望者の連絡を待つ。

左から染谷、藤田、麻生、浅原、菅井、中司

 

”とりこにい” 抄 (2) 寺家幸一のこと

寺家と初めて会ったのは、大学進学直後、美ヶ原で行われた新人歓迎ワンデルングのときである。7人いた1年生の中にで、ニッカーボッカーをはきこなし、古びた山靴で現れた彼には第一印象から、山歩きのベテランの雰囲気があった。1級上の徳生さん、同期入部となってこのワンデルングで知り合った美濃島孝俊とともに彼が名門両国高校山岳部の卒業と知ったのはしばらく後のことだった。

付き合い始めてすぐに、彼の持つなんとも言えない暖かい雰囲気、それとなつかしい下町訛りで アサシ ヒンブン などと言うおかしさもあって、僕らは親しみを込めて彼を テラヒャン と呼ぶようになった。卒業後間もなく、当時行政の大失点となった、かの川崎市地盤調査実験の惨事に巻き込まれ殉職する悲劇に巻き込まれなかったら、間違いなく 月いち高尾 なんかにはぶらりとあらわれては天狗飯店で皆を笑わせていただろうと思う仲間の一人である。

(美ヶ原W 前列左端後藤三郎、その隣が寺家。5人目から妹尾、金井、中尾各先輩、その隣が美濃島孝俊)

元気と意地っ張りだけは人に負けない自信はあったが、山歩きの技術経験には全く自信が持てなかった僕はいつか、彼の人格も含めて兄事するようになった。その中で3年の5月、北沢での残雪行に付き合ってくれた、ほんわかとした彼との思い出が今でも心によみがえる。彼が絵をたしなむことを初めて知り、またさらなる敬意を払うようになったのもこのテントサイトでのことだった。

その秋、彼がCLとして主宰した涸沢BCでぼくは天上沢コースを担当して参加した。このときは、これも早く旅立ってしまった宮本健がKWVに持ち込んだ、フランク永井の 初恋の山 を、あたかも申し合わせたように沖天に上ってくれた月の下で一緒に歌った記憶が鮮烈である。

 

     ベースキャンプにて

 

     野呂川の水に絵筆をひたして

     友よ

     君は ささやかな草間地から

     夕空のいろを 思案する

     のこり火にあしをぬくめながら

     ぼくは 考える

     君のチューブがうずめてゆく

     そのかなたにあったものを

     君とぼくとが 

     黙ってみつめていたものを

     ぼくは 思い出す  

     夕空は思慮ぶかく

     ぼくたちの 頭上をおおいかくす

     母乳いろした

     あの 山の ほおえみをとかしながら

ひさしぶりの西部劇 (34 小泉幾多郎)

 今年7月「ゴールデンリバー」9月「荒野の誓い」と珍しく本格的西部劇が二本公開された。

前者はアメリカで西部劇が廃れるなら、フランスでと、ジャヤック・オーディアル監督がアメリカの俳優を中心に西部劇を復活してやろうと思ったかどうか。
仏アカデミー賞4部門で受賞したりで、観たかったのだが、私事でバタバタしたりで観損なった。後者はどうしても観なければと思いつつも、中々腰が上がらず、横浜ブルグ13で上映終了の3日前の9月24日に観ることが出来た。

その感想を直ぐにでも書こうと思っているうちに、9月28日、マンションの階段を駆け下りて、不注意にも転倒、後頭部を打ち付け、近くの脳神経外科に駆け込み、裂傷部分を4針(今はホチキスで4か所)止めることに相成り、CT断層検査では今のところ頭脳への影響はなかったことは幸いで、ご心配なく。とのことで、書くのが遅れてしまった。残念ながら東京でも上映は終わりになってしまっていて、当館では9月6日から上映されていたが、当日は、9時からの上映で一日1回のみ。こんなに早い時間に映画館で鑑賞するなんて初めての経験、しかも驚くなかれ、観客たったの4人。西部劇人気も地に落ちたもの。それでも久しぶりTVでない映画館での西部劇の醍醐味にどっぷり浸かり、のめり込んで感動してしまった。

 先ずは「荒野の誓い」という邦名、古き良き時代のB級西部劇のネーミングに逆戻り、原題Hostiles(敵対者たち)に近い題名が欲しかった。物語りは、インディアン戦争終息後のアメリカ西部、その戦争で功績を挙げた大尉が、7年間捕らわれの身となっているシャイアン族の首長イエロー・ホークとその家族を故郷でもある居留地まで護送するよう命じられるところから始まる。

分断された社会、相手を憎むように教えられてきて、とても理解し得ないと思っていた人間同士がパーティを組んで、荒野を旅するロードムービーなのだ。主人公大尉はバットマンを演じ、西部劇では、「決断の3時10分」のリメイク版に主演したクリスチャン・ベール。 インディアン戦争がもたらした心の闇を抱えながら首長を護衛する任務に就いた大尉、コマンチ族に家族を殺された女性、首長イエローホーク等々の好演技、その旅の中から白人とインディアンという差別的な戦いをを背負わされて来た虚無感から、最終的には普遍的なヒューマニティを謳いあげるという物語りは感動的だ。それに加え、撮影画面の素晴らしさ、大自然の姿が、朝な夕なに、晴天の時も、降りしきる雨の中に描かれる。これが日本人マサノブ・タカヤナギの撮影監督というから誇らしい。

その画面に優しく奏でられるマックス・リヒターの音楽が、チェロとピアノを主に、あたかも宗教音楽のように深い底から鳴っているような厚みと深さを加えていた。最後に決闘場面で全てが終わった後、大尉がシカゴ行きの列車に乗る女性と首長の孫の二人を見送った後、動き出す列車の最後部に飛び乗るところで、救いで終わるところ、他愛なくも思えるが感動的でもあった。

(中司)

西部劇の新作があったなんで知りませんでした!

決断の…..ってのはグレン・フォードでしたっけ? これからはも少し真面目に新聞を読んで見逃さないようにします。
それもそうですが、頭のけがとはまた大変でしたね。オヤエが隣で髪をそるのかなあ、なんて気楽に言っています。なんせ階段の下りは怖くなりましたね。また、近々お会いします。
(小泉)
「決断の…」は、グレンフォード主演作のリメーク版で、ラッセル・クロウも出てました。

こんな日もありけり

傘寿目前というのにホリこと堀川義夫と彼の相棒たちの活躍ぶりは何回も本稿で紹介してきた。ぼくのたったひとつの自慢はそのホリにテントの張り方を教えたことだ、と事あるごとに宣伝してきたが、どうも信用されていないようだ。

取り出だしましたる古びた写真。偶然にでてきた。新人キャンプ、志賀高原から草津へたしか2泊で越えたときの一葉。コーチ陣は小生の右が杉本光祥、後列右ふたりが丸山進、斎藤嘉彦(37年)。そして一番前、中央にいるのがご本尊である。杉本の左にいるのがアシストしてくれた同期の山口擁夫。新人の生き残りは結局ホリだけだった。新人キャンプが悪かったからか、どうか、は不明。

以下の論議は次回、天狗にて。

百名山全踏破を目指しています!   (51 斎藤邦彦)

昨年の定年退職で始まった「黄金の10年」も2年目に入り今年は(今後の予定を含め)17の山に登りました。KWVの日帰りワンデルング関連が6回、私のバケットリストの一つである日本百名山登頂は10座を踏破し累計91座まで進捗しました。

(1)2/24景信山:春ワン調査行 (2)3/10石老山:春ワン調査行 (3)3/23三毳山:カタクリ見物 (4)4/7シダンゴ山:秋ワン調査行 (5)5/13皇海山 (6)5/24石老山:春ワン本番 (7)6/2空木岳 (8)6/4恵那山 (9)6/25頭高山:秋ワン調査行 (10)7/20幌尻岳 (11)7/22後方羊蹄山 (12)8/9赤石岳 (13)8/20常念岳 (14)9/2羅臼岳 (15)9/4斜里岳 (16)9/5雌阿寒岳 (17)10/26シダンゴ山:秋ワン本番(予定)

特に今年は北海道を中心に日本百名山の登山を進め2回の遠征で5座に登りました。昨年も同様に計画していたのですが、大地震と大停電で延期を余儀なくされたものです。

<7月は幌尻岳と後方羊蹄山>

私にとっては百名山登山の最も難関であると覚悟していたのは幌尻岳です。今回は新冠林道が土砂崩れのため通行できず新冠の小屋が使えないため、とよぬか山荘からのルートを取りました。登山客が集中する中腹の幌尻山荘の予約が取りにくい上に事故が多発している額平川の遡行が難所です。昨年は8月の一か月間に沢を登れたのはわずか10日間だけだったそうです。今年は幸運にも例年に比べて水量が少なく沢靴を履いて15回ほどの渡渉を繰り返して幌尻山荘に到着することが出来、ここから翌日は頂上まで往復することが出来ました。小雨で幌尻岳からの眺望を楽しむことはできませんでしたが、北海道特有の花が咲くお花畑の美しさを堪能することができました。写真は同行してくれた同期の五十嵐隆君です。

後方羊蹄山は真狩登山口から登りました。頂上の御鉢巡りの岩場が想像以上に厳しく時間を要しました。羊蹄山の周辺の地域は以前から別荘分譲地として人気がありますが、最近は中国人が数10㎞四方にわたって土地を買い占めているという噂もあり

ます。今後、国際化がどのように進んでいくのかが心配です。

 

<9月は道東の三座:羅臼岳、斜里岳、雌阿寒岳>

一週間の旅行の前半は家族で網走と知床を観光、LS北見の本拠地で生まれて初めてカーリングに挑戦してみました。後半は一人だけ残って快晴の天候のもと山を歩きました。羅臼岳から見る北方四島の一つである国後島は約20kmの距離で間近に見え、どう見ても日本固有の島にしか思えません。早い問題解決が望まれます。

羅臼平からの羅臼岳

斜里岳へは水量豊富な美しい7つの滝が連続する一の沢を遡行し、旧道を下山しました。雌阿寒岳には雌阿寒温泉から噴煙の上がる豪快な火口の縁を経て登り、頂上から阿寒湖やオンネトー湖を見下ろし遠くの大雪山系の山々の展望を楽しみました。

北海道の山歩きはLCC(バニラエア)の飛行機とユースホステルを活用して安い費用で旅行ができるので助かります。中部山岳に行くより交通費、宿泊費とも割安で、私のような年金生活者の大いなる味方です。特にユースホステルは若者や外国人との交流もあり楽しい時間を過ごせます。これらの格安な手段を活用して来年は北海道の屋根と言われる大雪山系に挑みたいと考えています。

 

細田佳嗣(ボへ)のこと

9月12日日経夕刊のコラムにコピーライターの太田恵美さんが彼女の恩師だった細田について思い出を書いている、と後藤三郎から教えてもらった。少し長いが全文を転載する。細田佳嗣、38年度総務。大人数時代のいわば爛熟期を率い、みなから慕われた好漢だった。

恩師 細田佳嗣さんの似顔絵   大田恵美

コツコツと足音をたてて仕事を後ろからのぞいて回る。”つまらんねえ” ”へたくそだなあ”。 そんな憎まれ口に ”また細田歩きが始まったよ” と同僚の心の声が聞こえてくる。

小さな広告制作会社でコピーを書いていた私は縁あって電通の仕事に携わるようになった。半人前の私を一人前にしてくれた恩師が電通のクリエーティブディレクター、細田佳嗣さんだ。

まだ数えるほどしか女性のコピーライターがいなかった1970年後半ごろ、細田さんは化粧品やファッションの仕事を私からあえて遠ざけた。代わりに銀行や住宅メーカー,たばこといった堅い会社の仕事を振ってくれた。

80年、私は日本電建のコピーで若手の登竜門であるTCC新人賞を受賞した。細田さんのアドバイスを受けながら、獲得した自信である。”女性” としてではなく、一人のコピーライターとして育ててくれた。

仕事に対しては厳しく、よく叱る人だった。女性の私には決して言わなかったが、口癖は ”バカヤロウ”。時たま “字がうまいね” ”昼めし、なに食った?” なんて言う。それはホメ言葉だった。

みんなやりたがらに小さな仕事を膨大にこなし、貴重な経験を意欲ある若手にさせた。人望は厚く、部下に慕われた。ずるはしていないか。書いたコピーが誰かを傷つけてはいないか。細田さんの丁寧な仕事を見ながら、自問し続けている。

ある日細田さんは、ちょっと入院してくる、と言って会社をあとにした。その数か月後に急逝した。危篤の知らせを受けたとき、仲間と急いで病院に駆けつけたが、名前をなんど呼んでも返事はなかった。

社内誌の追悼号に一人が、文ではなく似顔絵を寄せた。くわえたばこに、右手は缶コーヒー、左手はポケット。ギョロッとした目つきでこちらを見つめる。ホントにそっくりだった。夫人がお礼につくってくれたテレホンカードの台紙にはその似顔絵がプリントされていた。

男社会の職場で私を大切に守り育ててくれたことがどんなにありがたかったか。師のまなざしは厳しく、優しくもあった。

横浜三渓園散策  (34 小泉幾多郎)

暑い盛りの頃、横浜美術館で稀代の実業家でありながら、芸術にかかわる四つの
側面、コレクター・茶人・アーティスト・パトロンの顔を持ち、横浜の広大な土地に三渓園を造園した原 三渓の生誕150年、没後80年記念の美術展を鑑賞したことで、久し振りに三渓園を訪問したくなり出掛けてみた。

お彼岸の三連休の真ん中の日にも拘らず、花でも紅葉でもない時期からか、それ程の人出もなく、ボランティアらしきガイドさんも手持ち無沙汰の様子だった。相変わらずの池や庭園茶室等の自然美が楽しめたが、

大銀杏の倒木

驚いたことに、内苑の茶室春草蘆の傍に生える銀杏の大木の上部が、先日の台風15号で折れ落ち、半分近い高さになっていたこと。倒木の残骸は、きれいにかたずけられていたが、この近辺は、銀杏の黄色で埋まり、特に落葉で黄色く染まることが見ものとなるのだが今年の秋はどうだろう。

まだ生きてはいる様子だが、銀杏の葉は半分以下になるのかも知れない。他にも、上に登る三重塔への道は、倒木が整理されず、登ることが禁止されていた。台風15号は、千葉県では、倒木等が原因での停電等の被害のニュースに同情したが、三渓園での倒木のことは、来て初めて知ったのだった。横浜付近では、他にも被害が出ているかも知れない。

大池と三重の塔

ピークを踏まない北アルプス紀行 その2 (39 堀川義夫)

この1枚を撮りたくて行ったようなもの。大満足。携帯の写真とは思えない

三日目 9月6日(金) 快晴

夜中にトタンにあたる雨音で2回ほど目を覚ましたが、夜明け前は星空が綺麗だったし何よりも期待通りに仙人池に映る朝焼けの劒を見ることができました。今回の山旅の最大の目標が達成されて、大満足!!

今日は阿曽原温泉小屋までコースタイム6時間の道のりで、一か所だけ仙人温泉

仙人小屋の源泉小屋から40分ほどの登りがあるだけの認識でひたすら下る。下る。3人ともゴロゴロ石のある沢沿いの道は苦手で、バランスの悪さ、脚力の低下に悩まされながら頑張るも暑い! 標高が下がるにつれ暑さがこたえます。ほぼコースタイムの2割増しの時間をかけて、標高880mの仙人谷ダムに到着しましたが、下りの3時間は結構消耗してダムサイトで大休止。

元気を取り戻し、阿曽原温泉に向かうのですが、すっかり忘れていましたが、ここから150mの登りです。しかも急登。想定外の急登で、汗でぐっしょり、頭もくらくらするほどで何とか登り切りましたが、きつかった。ここから大体標高1000mで有名な黒部渓谷の水平道が始まりました。阿曽原温泉小屋の上部に着き、小屋へは約150m下り、2時少し前に無事到着。疲れた! ここでもチェックインをしながらロング缶を一気飲み。旨い!!

高熱隧道の入り口

阿曽原温泉は吉村昭の小説「高熱隧道」で有名です。風呂は、昔のイメージで小屋のすぐ下にあると思っていましたが風呂まで5分ほど下ります。正にトンネルの前にある湯船に浸かり、3人で貸切の状態で温泉を満喫! 後から来た人に記念写真を撮ってもらいました。良い湯でした(小屋に戻る15分の登りがなければもっと良いのに・・・)。8年前(70歳の時)は、この小屋をスキップアウトして、仙人池ヒュッテから欅平まで一気に下り名剣温泉に泊まったのですが、もうそんな無茶は金輪際できません。夕食を食べながら小屋のご主人の立山談義を聞きコーヒーテイストの焼酎をふるまわれ、ゆっくり休みました。

第四日目 9月7日(土) 快晴

他の小屋と違い、朝食は1時間遅く6時からで、6時40分ごろ欅平に向かって出発しました。いきなり150m程の急登です。元気なつもりでも疲労が蓄積しているのでしょう。水平道に戻るためのこの急登は結構きつくやっとの思いで水平道に戻りました。ここからは高低差は余りありませんが、まかり間違えば千尋の谷へ真っ逆さまであの世行きです。ストックを着くとき空を切り、そのまま谷へ落ちるケースが多いとか? 又、結構、整備が行き届いてなく足場の老廃、安全確保のための針金、ロープ等の不整備が目立ちます。天井の岩に頭をぶつけたり、気の休まることがない道で疲れました。

水平道を行く。右側は千尋の谷

それでも、コースタイム約5時間半を、最後は新しい靴のせいか、足の豆に頭が痛くなるような痛みに耐えながら欅平に到着しました。

やったぜ!!

最後は、おまけでトロッコ電車の途中駅にある黒薙温泉に行き、ゆったりと温泉に浸かり、山のいで湯と山菜中心の夕食に舌鼓を打って、ゆっくり休むことが出来ました。

 

第五日目 9月8日(日) 快晴

朝一(10時36分)の宇奈月行きのトロッコ電車で帰宅の途に、 午後5時に無事に帰宅しました。

後の話と写真はいずれ天狗飯店で。みんなで行こう錦秋の高尾山! 連絡は小生まで。