5月24日のブログ、拝見。「ダブル・クロス」
(中司)この原文に、奇妙なことにフィルビーの名前が散見される。
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
5月24日のブログ、拝見。「ダブル・クロス」
(中司)この原文に、奇妙なことにフィルビーの名前が散見される。
4年前、スコットランド旅行をした時、エディンバラの本屋で何冊か第二次世界大戦関連の本を買った。2冊は早々と読んでしまったがこの1冊だけ何となく手付かずでほうってあった。”自粛” 体制の間に読んだ1冊である。
欧州戦線でヒトラーは欧州を席巻し、最後に英国本土攻略に取り掛かったものの英国空軍戦闘機に阻まれてドーバー海峡を越すことができなかった。歴史に名高いバトル・オブ・ブリテン (映画は 空軍大戦略 となっている)である。この失敗の結果ドイツ側は守勢に立たされ、今度は連合軍が反対側からドーバーを越えて1944年6月6日、南仏ノルマンディに上陸する。反攻必至とみたドイツ側はアフリカ戦線の名将ロンメルのもとで、強固な防御ラインを敷いて 大西洋の壁、と号し、ロンメルはその堅固さを誇って、反抗してくる連合軍はここで一番長い日を迎えるだろう、と断言する。映画 史上最大の作戦(The Longest Day)作戦 はこのノルマンディ上陸作戦を描いたものだが、その初めの部分でジェイムズ・メイスン扮するロンメルがこの有名なせりふを語ることになる。この上陸場所がどこになるか、は連合軍側にとっては最高の機密であり、逆にドイツ側は一刻も早くその場所を特定したかった。ここで英国側は緻密な情報戦をしかけ上陸地点についてありとあらゆる偽情報をばらまく。結果、ヒトラーは連合軍の反攻が北フランスのカレーかあるいはノルウエイであり、ノルマンディ後も英国にはまだ大部隊が残っていて第二波がかならずくる、と信じ込んでしまったため、連合軍は計画通り、ノルマンディに上陸を果たし、以後のヨーロッパ解放戦が始まる。この情報戦の内幕を史実に基づいて書いたのがこの本である。
このアイデア、つまり虚偽情報をばらまいてヒトラーに上陸場所を誤認させ、ノルマンディの防御を手薄にする、という計画は英国情報部 (MI5 とか 6とか、いろいろあったらしい)が思いついた。そのツールとして英国プロパーのスパイではなく、欧州全土に散らばっている各国のスパイを抱き込み、またドイツが英国に送り込んでくる情報部員をとらえて寝返らせて使う、ということが裏切り=ダブルクロス、という標題になっている。このことだけでも、このような大規模の欺瞞作戦は、つまるとことろ欧州だから可能だったのだな、ということがわかる。
著者は本の最終章で、The Double Cross double agents spied for adventure and gain, out of patriotism, greed and personal gain と、この作戦に加わったスパイの多くが決して愛国心に燃えた快男児でもなければ孤高の英雄でもなく、極端に言えば金と快楽とを引き換えに謀略行為を働いた人間だったと述べている(中には真に忠実だった一人がドイツにとらえられ、ゲシュタポの手にかかるが頑として沈黙を守り、収容所から脱出したという、まさに映画的な話が載っているが、その本人は脱出後、消息不明のまま。ただ、このダブルクロスによって得た巨額の金を各国に預金していたので、たぶん,悠々と余生を生きたのだろうという結論になっている)。ほかにも何人かの例が詳細に記されているが、英独両方から多額の金を受け取り、当時の欧州社会での上流階級の豪奢な生活を約束させ、あるものは国際的プレイボーイとして次々と情婦を取り換えていく。女スパイのひとりはスペインから英国に入国するとき、可愛がっていた子犬を連れてこられなかった(当時英国には犬を入国させないという妙な法律があったらしい)ことを最後まで恨み、土壇場でドイツ情報部に情報を打電*したとき、(これは嘘)というコードを送信してしまう、つまり激情のあまりトリプルスパイになったことも書かれている。このような個人本位のふるまいは英国、ドイツ、フランス、など欧州の先進国が言語こそ違え、物質的生活水準や階級意識は共通のものだったからこそ可能だったのではないか。同じような作戦を日本が中国との軋轢の間でやろうとしても、ましてや欧米との間では到底不可能であっただろう。一定の文化的・歴史的・人種的同一性のもとで戦われた欧州戦線と、三国協定によって中国戦線を対欧米諸国に拡大せざるを得なかった日本の戦争がそのプロセスにおいて、戦後の処理において、大きく違ったのは歴史の必然だったのだろう。このことはドイツの戦後処理(贖罪行為)がなぜ日本と違うのか、という(ここでまた、例の -だから日本はだめなんだー 自虐趣味が出てくるのだが)議論の中核をなすのではないか、と考える。
もう一つ、衝撃的な史実が書かれていて、心底驚いたことがある。
日本を無謀な世界戦争に引きずり込んだのが軍部の一部の人間の策謀であったことは事実であるが、その大きなきっかけがナチスドイツを過信し、日独伊三国協定にふみきったことだったといわれている。その動きを推進したのが当時の外相松岡洋右と駐ドイツ特命全権大使だった大島浩(のち陸軍中将)であるが、大島が滞在中ヒトラーに直接会って情報交換をしていたのは当然で、その内容は秘密電報で外務省に報告されていた。この本が明らかにしたのは、実はこの大島大使の秘密電報はすべて英国情報部に解読されていて、ヒトラーの動きを推測するのに大きな貢献をした、ということだ。日独の協力のため、努力したつもりが実はドイツ崩壊の手助けになっていたとは、これ以上考えられないほどの歴史の皮肉であろうか。
かなり分厚い本で、正直読了まで勇気が要ったが、その価値は大きかった。コロナもまあ、いいこともやるなあ。
*当時はインタネットもファクスもないわけで、スパイはすべて個人で小型送信機を持ち、モールス信号を打っていた。この例では、文面のある部分にダッシュ記号をいれることが偽、という取り決めにしてあったという。つまり英国ではダブルスパイと思っていたが実はもう一皮あったということだろう。
高校1年の時、初めて山登りを経験したのが白馬。栂池から大池経由の旅だったが、その翌年、後立山縦走を目指したときが白馬2度目の登頂。KWVに入ってからはほかの山をあさっていたので、3回目に回帰したのは3年の6月、大嵐の日だった。残念なことにすでに鬼籍に入ってしまった村井純一郎や金沢央などとのことがあらためて思い出される。
OBになってからこの時にも一緒だった菅谷国雄などとともに4度目の山頂を踏んだ。その時にもまずい詩のようなものを書いたのだが、残念だが原文がみつからない。メンバーの何人にかはメールした記憶があるのだが(もしどなたかのファイルに残っていればお送りいただけるとありがたい)。いずれにせよ、白馬ー ”ハクバ” なぞでなく、”シロウマ” ー は山歩きの原点としてぼくの心の中にひっそりと座り続けている。
白馬にて
白馬岳。
厚くよせるガスの波
払いのけ、払いのけ、じっと俺を見つめている
白馬岳。
お前はもう一度、俺にささやく。
はるかな夢、遠い幻 。
過ぎしかた 越えきしかた
そして今 帰りきたったこの頂。
頂に立てば むら雲、くろ雲、雨、そして風。
歓喜のあらしのなかの その一時のしじまのうちに
お前は唄うというのか
訪ね歩み 求めつづけた 俺のこの唄を ?
促されてトレイルを下ればお前は早くもガスのむこうにかくれ
俺はただ
前だけを見て歩き続ける。
(前略)
断念せざるを得なかったアラスカ蟹工船仕事とは別に、日本出発前に資金調達の切り札として詳しく下調べをしていた、稼ぎの良い植木屋仕事を始め、ある有名な日系gardener (植木屋) に雇われた。日系アメリカ人が経営する、ロス市内中心地に近い植木屋の助手が多く住む寄宿舎のようなアパートに宿を定め、腰を据えて資金稼ぎ仕事に専念することとなった。
日本と異なり広い芝生の庭を持つ邸宅の芝刈りが主たる仕事だ。スプリンクラー(sprinkler)と呼ばれる自動散水機による充分な水の供給とカリフォルニアの陽光で芝生の成長は早い。週一回のローテーションで顧客の家を回ってlawn mowerという芝刈り機で刈りとった。一日に数軒ずつ訪れ、毎週繰り返した。
機械は結構なサイズで重く最初は取り扱いに難儀した。伸びた芝の中にスプリンクラーが数メールおきに隠れていて、集中力を欠くと、前へ前へと進む芝刈り機の回転し続ける刃で切り飛ばすことになりかねない。結果は悲惨で突然芝生の絨毯から噴水が吹き上がることになる。
後処理が大問題だ。スプリンカー交換には50センチ四方の穴を結構な深さまで掘り、部品を取り換える。芝生は剥がれ醜いこと甚だしい。弁償したうえで解雇される。また、ドライブとブレーキを巧みに操作しなければ、機械が暴走して運が悪ければプールに飛び込むことにもなりかねない。実際、スプリンカー切断とプールへ芝刈り機がダイビングした事故例を聞いていたが、幸い事故には遭わなかった。
刈り取った水分をたっぷり含む芝生は、機械に備え付けたバケツのような入れ物にすぐたまる。これが重く、捨てる場所まで運ぶのが一番負担のかかる作業であった。何せ庭が広く持ち運ぶ距離が長いのだ。
植木屋の仕事も日米で天と地ほどの違いがあった。日本では植木屋の助手などにとても雇われる技術も経験もない素人が、この肉体労働に朝7時から夕方まで、週6日間励んだ。慣れてくると能率もあがり、仕事は順調に進んだ。そんな折、思いもしない事故に遭った。
仕事帰り交差点で信号待ちをしていた植木屋の車が追突されたのだ。助手席に乗っていて首に軽いむち打ち症を感じた。雇い主が紹介してくれた交通事故専門の弁護士を訪ねた。病院での診断結果もむち打ち症。診断書を発行してもらう。 日本では治療費の弁償で片が付くくらいの軽傷であったが、そこは訴訟社会のアメリカ。雇い主も弁護士も慰謝料を請求すべきだとアドバイスというより強く主張した。その間仕事は休まず続けていた。
観光で滞在している身分で一番心配したのは、怪我のことでも慰謝料の額のことでもなく、滞在の理由とどういう状況で事故に遭ったのかなど、やってはいけない仕事をしている事実が暴露されかねない質問と事情聴取を相手の弁護士から受けはしないかということであった。法的決着がつくまで2~3か月かかったと記憶するが、その間ひやひやして日々過ごしたのを覚えている。よく理解できない英語で専門外の法律・医学関連の折衝を一人で行えたのは今から思い出しても奇跡としかいえない。辞書を片手に片言で相手の弁護士と交渉したのである。
結果として数千ドルを手に入れた。日本の大卒初任給の数年分に相当する大金だ。「人間万事塞翁が馬」ではないが、人生何が起こるかわからないということ、そして実際対処してみないと結果はわからないということを学んだ。訴訟社会のアメリカの現実の一端も垣間見た。
植木屋助手仕事の稼ぎの良さには、嬉しさを通り越して本当に驚いた。日米の富の格差に愕然としたものだ。今から振り返れば途轍もなく危なっかしい資金調達方法であったのだが、運にも恵まれた。アラスカ就職失敗を経て怪我の功名に救われた。もちろん交通事故慰謝料も大いなる予期せぬボーナス財源となって、併せると充分な資金を手にすることができた。
そんな折、ある有名俳優宅の芝生刈り仕事をすることとなった。「ルート66」「サンセット77」は1950年代後半から60年代にかけて大人気のテレビ番組。劣らず人気を博したのが西部劇 「ララミー牧場」であった。今では名優・監督として有名な若きクリント・イーストウッド出演の「ローハイド」と双璧で西部劇テレビドラマ人気を分け合っていた。
主演のジェス役ロバート・フラーが来日した際の熱気は凄まじく、日本中を虜にした。当時の総理大臣池田勇人に招かれるなど、あのビートルズでさえ受けなかった厚遇振りが話題となったほどだ。戦後15年以上を経て高度成長期にさしかかる日本の上昇気流を感じさせる社会現象でもあったのだろう。そのフラー家の芝刈りをやったのだ。
勿論、事前には知らず、立派な庭の邸宅だな!くらいの気持ちで芝刈りを始めた。ランチのコーヒーを美しい女性が持ってきてくれて雑談になった。「私の夫は映画の仕事で日本に行ったことがあり、とても日本好き。日本でも知られているのじゃあないかしら」と驚きの発言。すかさず尋ねた「夫の名前は?」。ロバート・フラーでテレビ映画ララミー牧場のジェス役と答えが帰ってきてビックリ仰天!以後、フラー家に行くのが楽しみとなった。思わぬ巡り合わせである。
(町井かをる あて)
カボちゃん!すごーい!
洗足池のカルガモ親子の写真を撮って送信したいのですが、携帯の写真をPCに取り込めなくて残念です。
軽鳬の子を先に行かせて遊ばせて 望子
(堀川義夫)
中川芳子さんんが洗足池で撮った画像と映像を代行して送ります。
(37 杉本光祥)
我々がコロナ自粛をしているうちに、カルガモはもうこんなに育っているのですね。揃っての無事成長を祈るのみです。
コロナの世軽鳧(かる)の一家の末祈る 光祥
いい句を沢山作り続けてください。
(37 菅谷国雄)
カルガモ親子の動画を見ました。
洗足池は学生時代まで緑が丘に住んでいたので私のホームグランド、懐かしく拝見しました。
それにしても俳句の世界、カルガモを軽鳬と詠むのですね。
辞書で「鳬」を探して納得です。
(43 猪股博康)
洗足池懐かしいです。
洗足池のボートによくのりにきました。
今年3月に亡くなった従弟が、博康兄ちゃん(私のこと)と散歩し
その後ボートに乗るというのがとても楽しかったと言っていたこと
思い出しました。ちなみに、実家は小池小学校近くにありました。
そのような記憶があったので、日吉に住んでいた頃に、孫が遊びに
きた時、車で洗足池まできて、ボートにのせてあげてあげました。
彼らにも思い出として残ることでしょう。
池の畔にある中学校で、2年の時、同じクラスでしたね。洗足池に
殊の外思い出を感じます。
こんな鬱陶しいときに、カルガモの愛らしい写真を送っていただき
楽しい思い出をよみがえらせてもらいました。ありがとうございま
(編集子)小生、昭和21年6月に満州から引き上げ、しばらく伯母の所に寄寓後、22年12月から大田区立赤松小学校に入学した。大井町線北千束駅前、というより、本件の発信者もうここと中川芳子の姉上、立川おちえご自宅の真ん前にある、ま、小学校でいえば ”名門”、である。なんたって(在学時の)校歌に ”池は洗足水かがみ” ”花はあけぼの桜山” とあるくらいだし、トーゼン、洗足池あたりではよくあそんだものだ。本件を通じてはじめて菅谷・猪俣両兄と洗足のつながりを知った。ヤブの方は少し年が離れているが、おじいとはどっかですれ違っていたかもしれないと思えば愉快である。もうこのご自宅は大岡山と聞くが、赤松在学中自宅は旧住所で言えば目黒区宮ヶ丘、いまは環状7号にかき消されてしまったあたりに住んでいて、大岡山は毎日のように通っていた。そういう意味でも懐かしい。ヤブともうこ、ひょっとして六中?
先日久しぶりに市民の森を散策してきたので、報告。
月いち高尾を引っ張っていただいている、堀川、岡沢の両君が、高
入口のところを何か修理工事を行っていた。本殿裏手から鎮守の森を少
過ぎ
全てが鶴見川流域にあるの
久しぶりに歩
(編集子 足が 攣る なんて字、読めても書けない! よじ登る と同じだっけ?)
大方の予想通り、一部解除と決まりました。世の中、解除ブームに乗って、一気に街に繰り出すような気配に心配しております。日本は無症状感染者が多いと思われますので、第2波の感染爆発を怖れます。友人の科学者からのメールが来ましたので、それも踏まえて書きます。
コロナ対策の厳しさはOxford大学で点数化して評価していますが、それによるとSweden,Singapoleに次いで下から3番目です。大甘と言えます。私は2,3月時点から、このPCR検査低施行率が続けば、ある日感染爆発が起こり、やがて集団免疫獲得が早く到来するのを意図的に待っているのではないかと勘繰っていました。Swedenが大きな犠牲を払いつつ、はっきりした集団免疫獲得政策として対処していることは、今回友人から学びました。
友人も最近の驚くべき四つのニュースと言っています。①コロナの報告がファックスでなされていたこと ②PCR検査が行政検査であったこと ③37.5℃以上4日間の基準は誤解であったとのこと ④感染者は10倍、20倍、30倍いるかもという専門家会議副議長の国会での発言です。
厚労省健康局結核感染課から各都道府県、保健所設置市、特別区あてに出された『ウィルス行政検査について』、および『新型コロナウィルス感染症に関する行政検査依頼』なるものを読みますと、37.5℃発熱かつ濃厚接触者、発熱かつ渡航歴、発熱かつ入院を擁する肺炎症状、医師が疑わしいと診断した患者に対し、季節インフルエンザ検査で陰性なものに対して検査を行うと明記され、地方衛生研究所において実施不可能な時は、公印付きの依頼書とともに直接国立感染症研究所に送付すると書かれ、輸送にあたっての責任者、容器なども厳重に規定されています。とにかく検査を絞り込むことに重点を置いた対応としか思えません。しかも発熱などを誤解ですという神経は許せません。
感染者数は現公表数よりはるかに多い(私の印象では一桁違い)のではないかと思っていますが、専門家会議副議長の立場の人が、しかも国会で10~30倍という発言には驚かされました。立場というものがあります。海外で驚きを持って報じられました。とにかくPCR検査数が他国と比べて2桁も違っては検討に値しないと相手にされなくとも致し方ありません。しかもそのデータの扱いが、FAXであったり、判定日だったり、保健所・地方衛生試験所以外の大学、研究所、病院で独自に検査した数値は加算されていないなど、どうしようもない体たらくとしか言えません。陽性者は感染法に基づき報告し統計されているでしょうが、陰性者は検査数に反映されるようになったのでしょうか。先日の報告ミスがあったという訂正発表は、実はこの陽性者を加えた変更ではなかったかと思います。
保健所の施設数(半減)、人員、予算全て削減しておいて、今回のコロナ対策を、全て保健所を通すような仕組みで対応させようとは、信じがたい政治です。公的病院の併合によるベッド数削減案(コロナ禍で一時延期)にせよ、国立大学の経費削減にしても、利益、経済効率を追求するのが新自由主義であり、これを国の政治基本としていることに諸弊害の根源があると思います。世界でも問題が多発し、新自由主義、これに基づくグローバリズムが崩壊してきているというのに、日本はまだ固持し続けていることに、切歯扼腕しています。
嘆かわしく、まさに日本沈没の危機に瀕しているように感じています。二流国どころか三流国、発展途上国(高度な医療レベルは持っているという自負はまだ捨てていませんので)でなく後退している後進国になってしまいます。
無症状感染者が多いことから、東京の緊急事態宣言解除の日はまだまだ先のことになると思います。
自分だけは大丈夫という信念みたいなもの(これを正常性バイアスというのだそうです)は全く根拠ありません。すべての人がコロナウィルスレセプターACEⅡを持っているのです。クワバラクワバラ
皆さん、くれぐれもご自愛のほどを祈念しております。
事の始まりは月いち高尾の帰途、川名君との会話から始まった、”エーガ” 談義である。たまたまこの記事が小泉さんの目に留まり、お互い,懐かしいエーガ(どうも映画、という気がしない)の時代の話を始めた。小泉さんとは小生にとっては鬼の3年生、現役時代、ワンデルングで何回もご一緒しているのだが、エーガファンであることは全く知らなかった。
いっぽう、コロナ騒動の少し前、会社時代の同僚で時々本稿に投稿してくれている五十嵐恵美が訪日してくることになり、小生がその世話役になった。結局、コロナ問題で恵美の来日は延期になったのだが、この準備で幹事役をやってくれた、かつて小生のセクレタリだった金藤泰子とメールのやりとりを再開、その延長でこれまた彼女のエーガ愛好ぶりが判明。また普通部高校を通じての友人で小生にそもそもミステリとか映画の楽しさを教えてくれた菅原勲、KWVでは後藤三郎とか最近は安田耕太郎、相川正汎などといったところがメール交換の仲間に加わった。KWV以外はお互い、当然面識もないのだが、このような機会でつながりができる、というのは正にSNS時代の産物でもあり、ある意味、にっくきコロナもそのきっかけと言えるのかもしれない。そのうち、”不要不急”でも外出できるようになったら、ぜひともみんなのご対面を実現したいと思っている(本稿でもご紹介したが、掲載投稿がきっかけになってーこれまた小泉さんが主役なのだがー小生横河電機時代の親友、舟橋利信、47年卒の関谷誠、という3人に共通の話題があることがわかり、一夜、居酒屋で痛飲した実績がある。こういうのを気障にいえば セレンディピティ、というんだろうな)。
とりあえず第一の話題は今は少数派になってしまったが西部劇の話、それからエーガファンなら必ず話題になる、トップシーンとエンディングの論議、はたまた永遠の話題だろうが、自分が好きだったスターの話などなど、まあ、若い人、たとえば川名君あたりにすれば老人のたわごとにしか聞こえないはずだが、そんなことをやっている。このメールのやり取りを金藤がいみじくも映画愛好会(彼女はエーガとはいわないのだ)と名付けた。自粛疲れをいやすことになるかどうか、いくつかの話を(ご本人には許可をもらっていると勝手に思っている)メールのやりとりでご紹介したいと思う。ほかにもご参加いただくことがあればうれしいことだ。
なお、時々画像を転載するが、金藤のアドヴァイスでブログに載せていいものかどうか調べてみた。小生の理解では、その写真がメインではなくあくまで本文に必要な ”引用” で ”引用もと” が明記され、かつ、すでに一般に公開されているもの(したがってグーグルやウイキペディアからの転載は問題ないと理解)であれば著作権の問題はなさそうである。本稿転載の2点はグーグルで公開されているものの引用である(念のため、現在金藤に教えてもらった機関に問合せをしている)。
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(BS103チャネルで西部劇が連続して放映された前後のやりとり)
(中司)今日13時、BS3チャネルで 赤い河 をやっていました。この映画がハリー・ケリー・
(小泉)赤い河は勿論、西部劇の中
また思い出してしまいました。ついでに、去る3月10日、ロック
(中司)ゲイリー・ラッセルはあまり印象にありませんが、ドロシー・
今回、終わり近くになって、バックに流れるテーマ曲が、 Red River Valley と並んで僕の愛唱歌である My Rifle my pony and me (これもウエインの代表作 リオ・ブラボー で、ディーン・マーティンが歌いリッキー・ネルソンがギターを弾く、なんせ、いいんである)と同じことに気がついた。そこで終わった後、何もあるまいがダメモト、とおもいながらグーグルに ”Red River, My Rifle and Me” と入れてみたら、なんと!一発でアメリカ人の女性が同じ質問をしていて、その道の専門の人が明確に答えをだしているではないか。この広い世界で同じ経験をした人がいるということもうれしかったが、この解説によると、この2本は主演ジョン・ウエイン、監督ハワード・ホークス、音楽ディミトリ・ティオムキンという共通点があり、1959年に作った ”リオ・ブラボー”にティオムキンが原曲をそのまま使ったのだそうだ。
(金藤)My rifle, my pony and me という歌を知りませんでしたのでYouTube で聞いてみました。 Film appearances の中に、「赤い河の谷間」
”赤い河” 原題 Red River
ジョン・ウエインの代表作のひとつで、オールドファンとくに女性に圧倒的な人気のあった、モンゴメリ・クリフトが初めて出演した西部劇である。歴史的背景としては、テキサスから肉牛を中部の消費地まで届けるため、チザムという男がテキサスからカンサスまでトレイルを開拓した。このチザムトレイル(と想定される、映画ではあきらかにしていない)をウエインとクリフト指揮のカウボーイ群がたどった話である。やはりウエイン主演で チザム という活劇ものがあり、これも早晩、BS103 に登場するだろうと心待ちにしている。この話には、実在の人物であるビリー・ザ・キッドが登場し、リンカーンウオーとよばれた大騒動を引き起こす。シリアスな赤い河と違って、あっけらかんとした娯楽大作である。
”赤い河” の Red River と Red River Valley は同じものか?
1.北アメリカ大陸に Red River という河は2本存在する。うち1本はミネソタ、ノースダコタのあたりから始まり、北上してカナダを流れる。この流域には開拓初期、レッドリバー植民地という地域があった。2本目はテキサス、オクラホマにまたがるミシシッピーの支流である。
2.西部開拓時代、牛肉は主として中部諸州から提供され、テキサス牛(ロングホーンと呼ばれる種類)はまだ流通していなかった。一方、大陸横断鉄道が徐々に伸び、カンサスあたりまで敷設されるようになり、ジェシー・チザムによってテキサス南部からカンサスまでのトレイルが開かれた。この道をたどって、テキサスの牛をカンサスまで運ぶという冒険がはじまった。
3.映画 ”Red River” はこのチザムトレイル開拓史をベースにした物語であり、その脚本のベースになった記録もあるのでこのような話は史実として裏書される(これによって成功者となったチザムを主人公にした単純明快勧善懲悪なウエイン作品が前述した ”チザム”(1970年)である。
4.ま、ほかの俳優ならわからないが、ジョン・ウエインが come and sit by my side if you love me, なんていうシーンは想像もできないし、僕が思い込んでいる Red River Valley はどう見てももっとロマンチックな場所であってほしいから、たぶん、上記1番目のレッドリバー植民地であるのだ、と結論したい。
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今回の結論。西部劇、というだけでそっぽを向く人が多いのもよく知っている。文句を言う前に、先ず、この映画をみたまえ! DVD1本、自粛費用としては安いもんだぜ。
気が狂いそうです。毎日毎日ワンパターンの生活にうんざりしています。山は行っても問題ないのでは、と思うのですが・・・??
パチンコ屋は自粛規制にも関わらず営業をし続け、また、そこに行く馬鹿が沢山いるという現実は本当に理解しがたい! ゴルフ場はやっているところが多いようですね。山はだめでゴルフ場は良い、と言うのもうなずけないですね。まあ、この際はお上の方針通りに従う従順な市民に徹しきりましょうかね。
また、寺家ふるさと村の話で恐縮です。これしかないのです!!!ふるさと村から500mも行くと町田市に入りますが、昨日初めて下三輪玉田谷戸横穴墓群と言うところに行ってみました。説明は以下の写真の通りです。
アヤメ? カキツバタ? 私には区別がつきませんが・・・?? 結構群生して咲いています。Googleで調べると花びらの付け根に以下の違いがある様です。
【アヤメ】花弁の根元が白と黄色、網目模様がある
【ハナショウブ】花弁の根元が白と黄色、模様なし。アヤメの後にハナショウブの時期(6月)が来る。
【カキツバタ】花弁の根元が白一色で模様なし
と言うことは、これはアヤメ???
(編集子 石渡博士、返事してやってもらえますか?)
(編集子注)先回紹介したが、安田耕太郎君が近々、著書を刊行する。刊行に先立って、その一部を何回かに分けて紹介してもらうことになった。HP社において、マーケティングに参画していて少しばかり理論をかじった時、製品発表に先立って、戦略的に行う部分的な開示を Sneak Preview ということを教わった。今回以降、何回かに分けてお届けする。
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(1)犬と5400m 峰を登る
平和を意味するラパス(La Paz)は色々な面で世界でも稀有な都市である。標高が町の一番低い所でも3600メートルある。ランドマークである標高6438メートルのイリマニ山Illimani (ボリビア第2の高峰)が町の至近25キロに聳えている。東京からみて横浜の位置に北アルプス級の2800メートルの山が聳えているようなものである。Illimaniは先住民の言葉で「黄金のコンドル」を意味する。古くから信仰の対象となっていた崇高な山なのだ。
すり鉢状の盆地に都市が建設され、標高が低い、酸素濃度が高い底の地域から人が住み始め、富裕層が住む住宅街も底に集まっている。政治行政の中枢建物も商業施設も底に集まっている。すり鉢状の山腹には底から段々上に住宅がびっしり建っていった。底と上部は400メートルの高度差がある。
朝プーノを発ってチチカカ湖を船で渡り、ボリビア領の湖畔の町から乗ったバスが北の方角からラパスに近づくと、あっと驚く風景が目の前に現れる。色彩も綺麗な夕焼け時に崖の上から見下ろすと、すり鉢状の盆地に町が広がり、左手南東の方角には巨大なイリマニ山が仁王様にように聳えている。強烈な印象が残る光景だった。
インディヘナと呼ばれる先住民が多く目立った。女性は長い髪を三つ編みにして垂らして帽子をかぶり、色鮮やかな民族衣裳に身を包んでいる。 街は都市計画など無しに盆地の底から発展したに違いないが、ごちゃごちゃした混沌が独特の魅力を醸し出していた。
情報収集の為日本大使館を訪れた。立ち寄る日本人が少ない時代、親切に対応してくれた。ラパスから北へ15キロ離れた山に東京大学の宇宙線研究所があり日本人も常駐している。ちょうどそこに行く研究者がいるので紹介する、との予想外の嬉しい話の展開。
2日後、研究所の車で連れて行ってもらった。研究所施設は1962年開設でブラジルとの共同運営。4500メートルを超える高所に位置していた。早めの昼食などご馳走になり、2時間ほど歩けば頂上に行けるよ、との言葉に乗って独りで登ることにした。独りといっても人間は一人だが研究所で飼っている犬が一緒についてきた。勿論、初対面であったがこの人なつっこい犬は途中で自分の棲家(研究所)に戻りもしないで頂上までついてきた。5000メートルを超える高山を犬と一緒に登ったのだ。今でも信じられない体験だった。酸素も薄く2時間ではとても達する高さではなかった。
3時間以上かかった。後で調べると頂上の高さは5385メートル。チャカルタヤ山といった。秋とはいえ前年の雪が残り眼下には氷河も見えた。ラパスへ向かう飛行機が眼下を飛んでいく。ラパス近くの6000メートルを優に超えるイリマニ山の威厳ある姿と大パノラマをしばし堪能し、5000メートルを超える頂上からイリマニ山遠景写真を撮った。忘れ得ぬ一枚だ。犬と一緒の写真も貴重な一枚だ。
単独行はどうしても足早になるもの、高山病の兆候が出始め吐き気がしてきた。無事研究所に降りて暫く休憩して研究者の車でラパスに戻ったが、ちょうど日暮れ時でラパスの夜景が綺麗であった。