エーガ愛好会 (17)ジョ二イ・リンゴオ のことなど 

(34 小泉 拳銃王 を観た)

鼻の下にひげをたくわえたグレゴリーペックが実在した無法者ジョン・リンゴに扮した西部劇。従来ペックが演じてきた役柄とは、いかにも異質で、最後は、あっけなく殺されてしまう。リンゴは西部きっての早射ちとして名が知られることから、挑戦者が続出して、心が休まることのないガンマンの悲哀を演じる。

ある街でも、リンゴを射とめて名を売ろうとする若者に絡まれ、これを射殺したことから、その兄弟3人に追われることになる。旧知の仲間だった保安官が治める妻子のいる街にやって来るが、此処でもチンピラ若造や息子を殺されたと誤解する父親に狙われたりする。リンゴが会いたい妻は、拒否するものの旧知の保安官や酒場の歌手の説得で、会うことが出来、1年後に牧場を経営し、妻子と3人暮らすことの約束を取り付けたものの、追ってきた兄弟と遭遇。此処で原名のガンファイトが炸裂するものと思ったが、兄弟はあっけなく保安官に逮捕されたものの、ペックは諍いのあったチンピラ若造に撃たれ倒れる。

この映画、西部劇らしきガンファイトは殆んどなく、西部劇の全ては大地からと言われる景観もなく、街中と酒場でのシーンが殆んどで、弟の仇を討たんとリンゴを追う三人の兄弟との時間的切迫感や内攻的で演劇的構成は、1970年前後のニューシネマの先取りとも言える。最後はチンピラに撃たれたリンゴは、苦しい息の中、自分の方が、先に拳銃を抜いたのだから、お前には罪がないと言い、これからは、自分が今まで絶えずガンマンたちから狙われ一瞬たりとも安らげない地獄を生きてきた、その苦しみを、そのチンピラに背負わせようとした。その後教会で葬儀が行われるなか、夕日に向かって一人の男が馬に乗って歩むところで終わる。これがニューシネマもどきの結末。

しかしこの結末に異を唱えた映画評論家がいた。保安官と妻は、とっさの機転で、リンゴに死んだフリをさせたのだ。だから葬儀で、二人とも、賛美歌を歌っていなかった。これでリンゴを狙うガンマンは現れなくなり、これからの静かで平和な暮らしを保証される。馬に乗って去ったのは、リンゴだった?これこそ小生が望むハッピーエンドの結末だが、監督は、ジェシー・ジェイムズを描いた「地獄への道」、グレゴリー・ペックに復讐の怨念に燃える男を演じさせた「無頼の群」のヘンリー・キングだけに、残念ながら、後者の線はないと思われる。

(編集子)この映画、原題は Gunfighter なのだが、小生も小泉さんの感想に同調する。ニューシネマというジャンルではいろんなものを見たが、その中であまり評判にならなかった バニシングポイント が特に好きだ。ニューシネマなる流れの中で売れっ子俳優になったのは沢山思い浮かぶが、この作品の主演バリー・ニューマンはどちらかといえば地味な存在だったように思う。しかしハピーエンドなどはあり得ない展開の中で、満足した笑顔のまま、自らバリアに激突する最後をえらぶ結末は衝撃的だった。

さて、拳銃王。 なんと陳腐な題名か、と思うが小泉さんご指摘のように有名なリンゴオ・キッドの話とくれば、これはもちろん、かの 駅馬車 で若き日のジョン・ウエインが主演した人物であり、荒野の決闘 の 一連の作品のうち、 OK牧場の決闘 ではジョン・アイアランド、トウムストーン ではマイケル・ビーンが演じた実在の人物である。本名は John Peters Ringo で、古典文学を愛する青年だったが兄を無頼漢に殺されて復讐に燃え、3発の弾丸で3人を殺した、というのは史実であるという。駅馬車 では、ウエインがインディアンとの撃ち合いの中で3発だけ残しておいた、その弾丸で3人を倒す シーンが有名だ。ウイキペディアによれば1850年生まれだが1882に惨殺された死体が発見されたという。写真まであるのでご参考までにあげておく。 

小生が好きな日本人ハードボイルド作家 矢作俊彦には、リンゴオ・キッドの休日、というちょっとしゃれた作品がある。主人公がこういう名前で呼ばれている、というだけだが、なぜなのかはわからない。この著者の本名はあきらかでないということだが、司城(つかさき)志朗との共著で面白いHBタッチの本が何冊かある。なかでも 海から来たサムライ という明治初期の史実を織り交ぜた小説は傑作。まだブックオフなら入手できるかもしれない。リンゴオ話からそれてしまったが、ま、いいか。

”徳澤園135年史” を読んで (塾山岳部OB 山川陽一)

「新型コロナウイルスに明け暮れる毎日が続いています・・・」こんな書き出しが常套句になってしまったこの頃です。ある日どこかで突然ブラックスワンが現れて瞬く間に蔓延し、世界中の人々が目に見えない敵に為す術もなくうろたえる日々が続いています。自粛、自粛で遠出もできず、近場の多摩丘陵をひとり歩くのがせいぜいで、しばらくはおとなしく自宅にこもって山の本でも読んで過ごすしかないなと思っていた矢先、手元に一冊の本が届きました。数か月前に甲信山友会の集まりでお会いした菊地俊朗さんからです。

本書は大きく2つのパートから構成され、第1のパートは「上高地牧場50年」と題して菊地さんが執筆されており、第2のパートは「徳澤園の85年」と題し、牧場を閉じてから以降の徳澤園について、現在の徳澤園の当主(4代目)である上條敏昭さんが秘蔵の豊富な写真や資料、多くの人たちからの寄稿文と共に記述されています。

菊地さんは山岳ジャーナリストとして「北アルプスこの百年」や「釜トンネル・上高地の昭和・平成史」の著書も著されており、上高地について深い知見をお持ちの方です。かつては杣の山仕事だけの場だった上高地が、牛馬の牧場へと変わり、国立公園の機運の高まりとともに登山者や観光客の基地に変貌を遂げ、最後まで牧場として残った徳澤の牛番小屋が現在の登山客相手の宿に変わっていくまでの姿を綿密な調査を基に史実をたどりながら綴られています。

私が夢中で槍、穂高に通っていたころは、上高地は入下山の通過点でありそこがかつて牧場だったなどとは考えもしなかったのですが、そう言われれば、徳澤園も小梨平もかつてそこで牛や馬が草を噛んでいた場所だったというのは容易に想像できます。帝国ホテルからバスターミナルに至る左岸一帯と小梨平近辺に広がるカラマツ林も自然林を伐倒した後に植林された人工林だったのですね。これらは上高地が原生の自然ではなく人工との絶妙な調和の下にできあがった自然だということを教えてくれています。

そこが牧場だったと言われれば、誰しも次なる疑問は牛や馬はどこからどうやって連れてきたのだろうと思うわけですが、それについても本書でアーそうだったのかという回答を用意してくれています。そんな上高地牧場運営の中心にいたのが徳澤園初代当主上條百次良でした。

「上高地牧場50年」によれば、上高地牧場は今から遡ること135年前(1885年・明治18年)、百次良が国から上高地一帯の国有地80㌶を牧場用地として借り受けた時からはじまりました。それまでの上條家は島々で鍛冶屋を営んでいました。なぜ鍛冶屋かと言えば、当時の島々周辺の多くの人たちの生業が杣の山仕事であり、鋸や斧を作る鍛冶屋が生まれる必然がそこにあったわけです。最盛期には7、8軒の鍛冶屋があったようです。尽山と言われ適木が伐りつくされ、明治政府になると国から禁伐の令がだされ、生業の道が絶たれて困窮の中で活路を見出したのが、百次良が中心になって実現した上高地牧場での畜産でした。

最盛期は400頭を超える牛馬が放牧されていたと言われます。牛馬道は、最初は島々集落の背後の急坂を登って尾根道をたどり、小嵩沢山を経てジャンクションピークから徳本峠に出て上高地に下るルートでしたが、後に島々谷川のルートが整備されて使用されるようになりました。

当初西穂登山口から焼岳山麓にかけてはじまった上高地牧場は、以後、小梨平、明神と場所を移し、最後に徳澤で幕を閉じるまで50年間続きます。その間、釜トンネルの開通、霞沢発電所の建設、焼岳の噴火、国の史跡名勝天然記念物指定、中部山岳国立公園制定、観光客の増加と続き、2代目の当主喜藤次のとき、松本営林署からの提案を受けて牛番小屋を登山観光客の休憩・宿泊施設に衣替えをすることになって牧場50年の幕を閉じることになりました。

「徳澤園の85年」については、現在の当主である上条敏昭さんが幼いころに見聞きしたことを含め、冬期小屋の番人として徳澤を守ってきた人たち、徳澤を足場に活躍した若き岳人たち、徳澤園を愛し山を愛した文人、俳人、画家、映画スター、登山家たちやそれをしっかり支えてきた上條家の人たちの姿について記述され、いくつものコラムで徳澤園に係りが深かったそれらの方たちのメッセージも紹介されています。

プロのライターによる著作と違い決して卓越した構成が施されているわけでありませんが、徳澤園の歩みを後世に伝えたいという上條さんの強い想いと併せ、彼の上高地の自然と人への愛しみが感じられ、心温まる思いで最後まで読み通すことができました。以下断片的になりますが本書に登場する人たちや団体について紹介させてもらいます。

■伝説のクライマー芳野満彦と冬期小屋

冬期小屋は越冬者や従業員宿泊施設として昭和22年に建設され、そこで芳野さんが冬の小屋番をしていたのは昭和25年からの6年間でした。記憶をたどると、私も学生時代冬山の帰路徳澤の小屋に立ち寄っていろりを囲んでしばし彼と話をさせてもらったことがありました。縁は奇なものと言いますが、そのあと冬の剣岳でも、3日間吹雪で足止めを食らった翌朝、朝日輝く稜線でたこつぼからひょっこり顔を出した彼と出っくわしています。

■山岳画家山川勇一郎のこと

芳野さんが冬期小屋で絵の手ほどきを受けたのが山川勇一郎さんだったと知り驚いています。私も、かつて雑誌「山と渓谷」の表紙を飾っていた山川画伯の絵が大好きで、だからということでもなかったのですが、多分記憶の片隅にあったのでしょう。実は私の息子の名前も山川勇一郎です。

■井上靖と氷壁

岩稜会のパーティが冬の滝谷でナイロンザイルが切れて墜死したあの遭難事故をテーマにした井上靖の小説が朝日新聞に連載されたのが昭和31年でした。そのあと大映で映画化され大きな反響を呼びました。その舞台になったのが徳澤園(映画では徳澤小屋)でした。以来、徳澤園は「氷壁の宿徳澤園」という肩書付看板に掛け替えられました。

■八千草薫と映画監督谷口千吉

お二人の新婚旅行が徳澤だったことは知る人ぞ知るということでしょうか。そのあと自然が大好きなお二人は幾度となく当地を訪れています。敏昭さんが上高地観光組合の青年部時代、二人を音楽祭のゲストに迎えてトークショウを企画した際の記述に「宝塚女優の美しさ、しぐさに酔いしれた・・」という一節がありますが、実感がこもっていました。

■女性初のエベレスト登山者田部井淳子

ご主人田部井政伸さんが書かれたコラム「徳澤園と淳子」によれば、淳子さんは大の徳澤園好きで、「1年に一度はおいしい食事を食べに徳澤園に行こう」と心に決めていたようで、彼の誕生祝に徳澤園に連れてきてくれたと書いています。

■早稲田大学と徳澤園

早稲田が先なのか敏昭さんが先なのかわかりませんが、早大出身で山岳部にも属していた敏昭さんです。昭和24年から平成7年まで46年にわたり早大の体育実技の場が徳澤園だったことや、その指導に当たったのが山岳部員だったのですから、徳澤園が早大山岳部員の定宿だったことは推して知るべしだと思います。

■関西登高会の人たち

昭和22年(1947年)に徳澤冬期小屋建設の際の世話人が関西登高会を立ち上げた人たちだったと記されています。関西登高会は同年に設立され、以来多くのメンバーが徳澤園をベースに登山活動をしてきています。同会の初代代表だった新村正一さんは奥又白に入山するのに橋を架けたいという強い願望持っており、没後それが実現して徳澤園上流の梓川に架橋された時、新村橋と命名されたということは本書で初めて知りました。

■日大医学部徳澤診療所

徳澤園のキャンプ場からは見えない樹間にひっそりとたたずむ診療所があるのをどれだけの人がご存じでしょうか。日大医学部山岳部の学生が夏季休暇中1か月だけ開くボランティア診療所がそれです。東京駅近くに前出の新村氏らが開業した登山用具店、秀山荘を医学部山岳部のメンバーが訪ねたとき、徳澤で小屋番をやらないかと言われて先代の徳澤園当主進さんに会いに行くことになった。それが事の始まりで、その時進さんから診療所をやってみないかと言われて徳澤園の1室を借りて診療が始まったのが昭和27年(1952年)のことでした。

上高地も時代と共に来訪者が増え外国人も多く訪れるようになった昨今、多様な来客に対応するサービスの提供が不可欠になります。そんな時代のニーズに対応しながらも古くからのファンの人たちを失望させない徳澤園であってほしいと願うのは私だけではないでしょう。バスターミナルから10㎞、自らの足で歩かなければ触れることができない景観の中に違和感なく溶け込んで建つ徳澤園とそこを訪れる人々を迎え入れる暖かいサービス。「あとがき」で5代目の上條靖大さんが次のように述べているのが心に残りました。

「世界が益々多様化し、便利になればなる程、変わらない上高地の価値が増す・・・前に進むことも大変ですが、周りが進む中、現状を維持することの大変さを痛感しています・・・サービスは変わるけれども、ルールは変えない徳澤を大切に継承していけたらと思います」と。

こんな後継者がいる限り上高地も徳澤園も安泰でしょう。

(編集子―山川)

申し訳ないが紙面の都合上一部を削除させていただきました。悪しからずご容赦ください。ワンダー仲間や後輩たちにはとても貴重な情報だと思います。
白根君と二人、小生を引っ張り上げてもらった北尾根のことは忘れられません。小生の山歩きの中でただ一つだけの”本格山登り”でした。その後何回か上高地を訪れる機会はありましたが、結婚する前の秋、オヤエと田中新弥と3人で岳沢から奥穂に行った帰り、河童橋の真ん中で、当時三菱金属の現場にいてしばらく会えなかった仲間と劇的な再会をしたのが強烈な思い出です。その男は2年後、癌でなくなってしまい、このときあったのが最後になってしまったからです。
ま、人生、ですな。また、近々。とりあえず御礼とおわびまで。
(注)河童橋で遭遇したのは同期、宮本健。

 

米国の社会制度に思うこと   (37 宍倉勝)

(編集子)米国滞在の長かった宍倉君からの昨今の感想が送られてきた。現在大揺れに揺れている米国の状況は我々から見ても大きな関心事であり、どちらかといえばネガティブなものが多いが、かの国が築きあげてきたインフラの強固さ、忠実さには改めて感心するし、それを信頼して実行しているよき米国官僚組織には敬意を持つ。ひるがえって我が国の相も変らぬ 省益あって国益なし、の現状には愛想が尽きる。新総理、今度はどうか?
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2週間前に米国財務省発行の額面$1,200.00がEconomic Impact Paymentの名目で、私宛てに小切手がおくられてきました。
これは日本の特定給付金10万に相当するものと思います。
更にその後、それを追いかけてThe White Houseヘッドの手紙(給付金の主旨、目的等)が、トランプ大統領サイン入りで(勿論すべて複写ですが)、Follow Upとして送られてきました。
米国の年金は毎月わたしの指定口座に送金されてはいますが、まさか給付金までと驚きました。米国駐在の経験者の皆様にも同じように小切手が送られてきたと思います。
私が1969年米国(LA)に取得してSS#が、米国を離れ13年経った今でも米国の私の身分証明になっています。以上の事に痛く感心させられています。
翻って日本の現状は、10数年以前にスタートした国民番号がい未だに取得数も少なく有効に活用されていません。
日本での定額給付金申請、まず私はNETで申請をしましたが、NET不具合等(?)の理由で、結局紙申請となりました。
3名のIT関連の会社で働いている知り合いの外国人に、日本のIT化について尋ねました。答えは、民間でのIT化は進んでいるが、
政府(行政)関係はかなり遅れているとのコメントでした。安部総理大臣就任時IT化の推進を公約に掲げていましたが、未だに多くの分野でそれが実現されていません。残念ながらITシステムの世界でなにかにつけ日本の立ち遅れが目立ちます。
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(47 武鑓宰)
宍倉さんが受け取られたeconomic impact paymentは以下のような説明になっていますので、宍倉さんは2019か2018年に所得申告されたのでしょうか。小生は申告すべき所得もないのでもらえないものと理解します。
米国年金は家内(米国に住んだことも行ったこともないのですが。。)共々有難く頂いています。トランプが知ったら取り止めとなるのではと惧れますが。
「Who is eligible for the economic impact payment? … Eligible taxpayers
(36 後藤三郎)私は研修ビサでしたが給与はアメリカで最低額-(多分1000ドル/月)を貰っていたので確定申告が必要でした。但し滞在日数が180日以内ですと税金を払わないで済むというので米国から他の国に出張して滞在日数を調整する人もおりました。私はIRS(Internal
RevenueService)と言う税務事務所に出かけて税務申告を行いましたが”出来るだけ見すぼらしい格好で行き生活がきついと”訴えるように先輩からアドヴァイスを貰って出かけました。お蔭で税金は最少額(250ドルほど)で許してもらった覚えがあります。アメリカの社会制度の一面を見た気がしました。因みにアメリカで税金を納めていない海外からの社員は本国の税金も払っていない(180日滞在していないので)と言う輩もおり後年わが国でも租税回避で問題になりました。海外アサインでの仕事は私がNYにいた1970年頃は未だ早い時期でしたので税制以外にもドルの送金も日本からは厳しく管理され年間で一家族で一回のみ500ドルと言う制約があり、アパートの敷金、不動産屋への紹介手数料、ポンコツ中古車の購入などでアット言う間にお金が乏しくなりaerogramと言う開封郵便を使って家族に手紙を送りその書面中で送金をお願いし、日銀に家族が出かけて漸く500ドルが許可されました。その代わりに良き市民として以前、本の中でも書いたようにヴェトナム戦争も踏まえて徴兵登録は行いましたので大丈夫とはいえビクビクして過ごしました。(地域の徴兵登録事務所の人は君は日本人、子供一人(幼児)、年齢30歳オーバーなのでこの国がアウトになるまでは徴兵はないと言われました)。

霧の山稜

今朝、起きてみたらあたり一面、深い霧だった。室温は23度。いつも朝食前に小淵沢駅近くまで新聞を買いに出るのだが、今日は逆方向へ大回りをして八ヶ岳周遊道路(通称ハチマキ道路)へ、途中から甲斐小泉駅へ降りる道へ出た。小海線の踏切まで2キロほどの道が深い森を抜けるこの道で、霧の空気を吸いたかったからだ。途中で車を止めて,車外に出る。すっかり濡れているのであまり深く入るのはやめたが、それでも森の中へ分け入ってみる。15年も前だろうか、渋の湯から森へ入ってみて方向がわからなくなり心細くなった時のことを思い出しながら、しんとした空気を満喫して帰ってきた。

僕にはいわゆるクライマーと呼ばれる人たちの気持ちがよくわかるわけではないが、そのグループの中で著名な芳野満彦の 山靴の音 という本は愛読書のひとつである。大半を占める登攀記録にはほとんど心を惹かれないが、自身で書いた挿絵や短い文章が好きなのである。その中にあるこの一節が特に好きだ。

 

標高3000メートルを超える冬山の霧と山麓の林の霧が同じ色なのかどうか、わからないが、なにか レントゲン色 という一句に心を惹かれる。

山の文学、と言っても芳野とは全く違った雰囲気で好きなのが 霧の山稜 という一冊。2年の夏、金峰からの縦走に連れて行っていただいた金井隆儒さんから勧められて帰京するとすぐに買った本である。今どきなかなかお目にかからない、どっしりとしてそれだけで雰囲気のある本だ。その中の 霧 という一節。

 

霧の中にサルオガセが揺れていた。

シラビソの梢が、無限に重なって続いていた。遠く近くぬれたしわぶきとつぶやきは 落ちる雫の音だった。

 

僕の愛読してやまない本の一冊が愛好者の多いと聞く山口耀久氏の 北八彷徨 である。同氏の人柄もあるのだろうが、彼の文章は多くの場合明るく、時としてユーモラスでもあるが、そのなかでやや違って感じられる 落葉松峠という一文がある。

……..小広い平地になってひらけたその峠は、風と雪と、乱れ飛ぶ落葉松の落ち葉の、すざまじい狂乱の舞台だった。風に吹き払われる金色の落葉松の葉が、舞い狂う雪と一緒に一面に空を飛び散っていた。

滅びるものは滅びなければならぬ! 一切の執着を絶て!

もはやそこに、悔いも迷いも、ためらいもなかった。すべてがただ急いでいた。一つの絢爛を完成して滅びの身支度を終えた自然が、一つの季節の移りをまっしぐらに急いでいた……..

山口氏がこの峠に上った時、どんな気持ちだったのか、2003年夏、畏友山川陽一の計らいで一夕をともにすることがあったので聞いてみたが、それとなくはぐらかされてしまった。それ以上聞くことも失礼と思ってやめてしまったが、なにか口にだすのをためらっておられたような印象が残っている。

だがこの時の同氏の感情と、今、その山麓の霧の中にたたずんでいる自分との間には、何か同じものがあるように思えるのだが。

 

 

 

 

 

ミッドナイト イン パリ を観ました

(菅原)少なくともこの1年は映画館で映画を見ていません。今や、映画はテレビで見るようになりましたが、このウッディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」は、わざわざ、日比谷か有楽町の映画館まで行って見て来ました。他に、アレンのどの映画を見たのかWikipediaで調べてみましたが、記憶が判然とせず分かりませんでした。酷い記憶力のせいなのか、それとも、アレンの映画がみな同じようなもののせいなのか。

才気走って見目麗しくと言う言葉は女性に対してのものですが、アレンの映画は正に「才気走って」いますが、残念ながら「見目麗しく」とは行かないところが、常に物足りなさを感じ、終わっても、面白かったなーと言う感慨に浸ることの出来ない小生です。アレンの映画はそんなもんじゃないよとの反論があれば是非お聞かせください。

 

(保谷野)

菅原さん、急遽「ミッドナイト・イン・パリ」を観ました。

作家志望のアメリカ人脚本家が、パリ滞在中毎夜タイムスリップして、ヘミングウエイやピカソ、あるいは、ドガやロートレック等と交流する、という内容で、SF+ファンタジー+パリの観光案内*恋愛・・・そこそこ楽しめましたが、総合的には「凡作の上」といったところでは?ただ、ネットによると、評論家の間では割合評価が高いようで、特に「ジャズの音楽が良い」、とあったので、もう一度サッと観たところ。確かに冒頭の、パリの名所の映像をバックに流れるジャズの調べは心地よく感じました。

(安田)キャサリーン・ヘップバーンの「旅情」がヴェニスを見事に紹介したように、この映画はパリの観光案内カタログのように、名所を特に芸術に関係する場所を紹介していてパリ好きには堪らないかも。例を挙げると、オランジェリー美術館のモネの大作「睡蓮」、モネのジヴェルニーの家と睡蓮の池、ロダン美術館の「考える人」、ヴェルサイユ宮殿と探偵が逃げ込んだ宮殿内「鏡の間」、ピカソ達がベル・エポック時代(1920年代)住んでいたモンマルトルの集合アトリエ兼住宅「洗濯船」、オペラ座、モンマルトルの「ムーラン・ルージュ」とカンカン踊り+ロートレック、コンコルド広場などなど。夜のシーンの多くを占めたモンマルトルの石畳の裏通りの風情も情緒があって「いかにもパリ」を感じさせて良かった。

登場する過去の有名人も枚挙にいとまがないくらいに出てくる。ピカソの愛人アドリアとして登場し、主人公の小説家と恋仲になる仏女優マリオン・コティヤールは2007年「エディット・ピアフ~愛の賛歌~」でピアフ役を演じ、仏女優としてはシモーレ・シニョレ(1960年「年上の女」)以来、二人目のアカデミー主演女優賞を獲得している。映画のシーンで面白かったのは、マリオンは小説家と会った1920年頃の時代に居座りたいのに、小説家は1890年頃のパリに行きたいと意見が相違して別れてしまう。仏人として彼女の達者な英語にはビックリ。
もう一人、オスカー受賞俳優が登場。つい先日観たばかりの「戦場のピアニスト」で2002年の主演男優賞を獲得したエードリアン・ブロディがサルバトーレ・ダリ役で出演。これにもビックリ。仏人の英語といえば、エンディングのシーンで主人公が雨の中、骨董屋で働く若い女性ガブリエルと偶然橋の上で会い、腕を組んで立ち去っていくが、この仏女優の英語も見事でした。
2000年以降のウォーホル映画では「マッチポイント」と「ミッドナイト・イン・パリ」がベストの2本という評論記事をどこかで読んだ記憶があります。その2本を観たので運が良かったとも思いました。

(菅原)映画の話しではありませんが、実は、小生、海外勤務で、1990/91年、花の都ならぬクソの都(犬の糞)に家族帯同で住んでおりました。W.アレンの映画だったこともあるでしょうが、そのせいで、この映画を見に行ったのかもしれません。少なくとも、最初の3ヵ月は、日本と全く違うことから、毎日、何故こんなところに態々来たのかと悪態をついておりました。例えば、外に出て空を見上げれば「グチャリ」、余所見をすれば、また「グチャリ」。フランス人の家の中では、まさかこんなことにはなっていないでしょう。つまり、自分のところさえ良ければ、他人はどうなっても構わない、と言う公共道徳の欠如であり、甚だしい身勝手さです。また、役所での各種の手続きでも、昼飯時ともなれば、窓口がピシャリと閉められ、勝手にそのへんのビストロに飯を食いに行き、だからと言って、交替する人もいなければ、整理券もなしで、また、新たに並びなおすなど。一言で言えば、日本では想像も出来ない身勝手さであり、これらのことに散々悩まされました。こう言うことを、毎日、毎日、経験すると、パリが大嫌いになる人がいるそうですが、小生、極めてだらしがないもので、結局は、住めば都。

しかし、これは30年ほど前の、昔の話しです。今や、パリも大層立派な都になっているのではないでしょうか。

(後藤)私はニューヨークの郊外の比較的高級住宅地と言われたScarsdaleと言う街に住んでいましたが毎日、乳母車で公園に息子(赤ん坊)を載せて散歩し帰る頃には車輪の轍がくそだらけで臭くマンションの入り口で清掃作業をやっておりました。フランスは兎も角アメリカの知識人たちも犬の散歩は公園がトイレの代わりのようでした。当時のボスに一連の利己的な(真の個人主義ではなく)行動は日本人には理解できないと言ったら”そうなんだ、それがこの国の問題なのだ”と言われ驚きました。公共なものに対する思いやりが日本人と比べると劣るように思いました。恐らく今も公園の糞は変わらないのでは・・。日本もかなり変わって来てしまいましたが。

 

”とにこにい” 抄 (11) 笠ヶ岳

卒業後毎夏、大体4人くらいを誘い合わせて数日間の縦走をやるのが常になっていった、その5回目くらいだったろうか、三俣から笠へ縦走した。毎日好天に恵まれたが、みんな一様に体力の衰えを嘆き始めたころであった。

 

笠ヶ岳

 

暮れ方の飛騨の空の色に冷やされた

この 花崗岩の亀裂。

倦怠を通り越した疲労がしみわたる

この、亀裂。

国境のスカイラインに作られた

この非情なぬくもりに

俺はいつまで身を任せようとするのだ。

夕照はすでに加賀のプラトオに沈殿したというのに?

笠ヶ岳。

貴様のシルエットだけが

実ろうとする夢のむなしさを語りかける。

船曳さん、コロナ情報ありがとうございました

船曳先輩のご解説、情報、ありがとうございました。以下、反応のいくつかご紹介します。

(38 川島一郎)ジャイさん、ドテさんのコロナに関するレポート誠にありがとうございます。早速登望会の皆さんに紹介させていただきます。ところで私の住む横浜は今日も気温35度のようです。秋風が恋しい毎日です。

(50 家徳洋一)コロナ騒動も早半年近くになりますが、その影響もあって大変ご無沙汰しています。この間、私はマイルールを設定。行動範囲を東京都内に絞りゴルフ、ジム、月二回程度?のマルでの会食等、最低限のこれまでの生活パターンを維持すべく努めていますが、そろそろ限界?9月には北アルプスにチャレンジすべく準備を始めました。

(編集子注)マルは密にならないの? あんまり広くなかったような記憶があるけど!)
遺憾ながら客が激減しており〜〜。また一定のコロナ対策もこうじています。
いつも奥の一角でやりますので、他の客とは距離があり、参加メンバーに感染者がいない限りは比較的安全だと思っています

(37 加藤清治)

度々のコロナ情報恐れ入ります。神風が吹かず敵前逃亡とは情けない限りです。
(編集子注)これって、安倍さんのことだよね?

(38 岡田恵二郎)ドテ先輩の投稿文拝読しました。大変参考になります。

ありがとうございます。

9月から都立高校生相手のキャリア教育「出前授業」を再開します。取り敢えずは、2日と9日何れも2時間教壇に立ちます。本来ならグループワークで行うものを通常の机の配列で行います。

講師はマスク、フェースシールドを付け、手指消毒用アルコールスプレー及びアルコールウェットシートを持参し、首に携帯スピーカーをぶら下げての授業です。(アメリカではメタノールアルコールを使った手首消毒剤による被害が出始め、FDAが注意を喚起しています。Walmartや Targetも立ち入り検査が入ったそうです。)

(47 内藤茂順)高齢者がコロナ感染を恐れて自宅でじっとしているとフレイル(生活不活発病)になる危険が増します。家事や散歩など日常生活でやれることを続けて元気に暮らせるようにしたいです。
コロナの怖いところは過剰な行動制限によってADL(日常生活動作)が低下することです。デイサービスに行くことを止めたためADLが低下した人がたくさん居ます。ADLの低下は寝たきりに繋がります。病気や怪我によって寝たきりになるよりも過剰な行動制限が原因でなることが多いのです。例えば「尿漏れ」や「歯の手入れ不足」などが原因で寝たきりになるのです。
60歳を過ぎたら二人にひとりは尿漏れの悩みを持っています。他人に会ったときに尿漏れが起きて臭いが漏れたら嫌だとか春先は花粉症でくしゃみをすると尿漏れが起きるから自宅に居ようなどなど行動制限をすることが増え、筋力や気力が衰えていき結果として寝たきりになるのです。寝たきりになってしまうと、大した病気がある訳でも無いのに何が原因だったか全く分からなくなってしまいます。結局、歳のせいとされてしまいますが、本当はひとりで悩み、相談する相手がいなかったからなのです。
尿漏れは、二人にひとりはジャジャ漏れ、クシャミ一回5CC漏れることを知ること。このことを夫婦で共有すること。これができればあとは尿漏れパッドが寝たきり予防をしてくれます尿漏れパッドは30CCから100CC以上のものまであるので生活シーンに合わせて使い分けが出来ます。例えば花粉症でクシャミが出る時は、6クシャミまでなら30CCタイプ、それ以上なら60CCタイプにしておくとか、重い物を持ち上げる時の尿漏れ対策も日常は30CC、大掃除の時は60CC以上にするなど工夫すれば臭いを気にせず動くことが出来ます。因みに生理ナプキンはだいたい吸収量は約10CCで材質材料が尿漏れパッドとは違うので代用は出来ません。代用出来ると思って使ってみたらクシャミ2回で臭うようになったので、もう使わないなどとならないようにしたいです。
(編集子注)ネスケくんは介護専門企業に勤務、経験豊富。

コロナ対策最新情報です  (34 船曳孝彦)

新型コロナウィルス感染症が発生して7か月になります。日本では第2波もやっと峠が見え始めたといってもよいかと思います。永年山を歩いてきた皆さんは良くお分かりと思いますが、これが偽のピークで本峰はまだその先ということもアリ、とは思いますが。

 一流医学誌に、ある種の変異(専門的には382ヌクレオチッド欠損)によって重症度は下がり、酸素補充療法使用率が下がっているという論文が載りました。想定されていたことですが、科学的データとして出始めたのです。

前回も述べましたが、ごく少数のスーパースプレッダーが感染を広めており、それがどういう患者か区別しがたいことが問題です。軽症、無症状感染者と健常者が区別できないのですから、この熱中症が多発し(死亡率は熱中症の方が高い)新型コロナとの鑑別が問題とされているとき、PCRなり抗原検査なりを、何時でも何処でも何回でも行う必要があると思います。感染者との濃厚接触者を知らせるアプリは、検査が行き届いた後の話でしょう。

 厚生労働省は万死に値するといってもよい程の罪を犯しています。

21世紀に入って最初のパンデミック(2009年の新型インフルエンザ)は何とか乗り切れたのですが、その時の総括報告書で指摘され提案された諸問題(PCR検査の準備、迅速検査法の開発導入、医療体制計画など)が、今回のコロナ伝播までに、何一つ対処していなかったことが、今日の右往左往に繋がっています。

PCR検査(もちろん抗原検査も含め)基礎Big Data が整っていない。これでは科学的検討が不能です。やがて収束された暁には、世界的に科学的検討がなされ、次なる感染症対策が検討されるでしょうが、日本のデータは研究対象外となってしまいます。低開発国というか後進国です。

新型コロナ対策で、感染症法第2類に準ずるとしたことも、現在はいろいろ問題があり、新たな類として検討し直すべきであると指摘されても、あるいは新検査法が次々に開発されても、保健所に全て業務を集中していては無理だと指摘されても、一向に改めずに固執していること。信じられない行政です。

 そのような社会ではありますが、この自粛、自粛を迫られる中、どうすればよいのでしょうか。

A葬儀を始め、日本古来の文化、伝統が崩れています。学校教育も、早めの2学期で元に戻ったでしょうか。10代以下のコロナ感染率は低く、重症例は極く稀です。面と向き合っての教育、友達との会話、付き合い方、青春時代特有の交流、これ等は何物にも代えがたい経験です。ウェブ授業では決して補えません。もしこのまま大人になったら、どういう大人になるのでしょう。

B一般の医療離れが進んでいます。感染を恐れての受診自粛は分かりますが、今はもう大丈夫ですといってよいでしょう。勝手にサボって重症化しないようご注意ください。心筋梗塞のカテ処置が昨年比で25%減と言います。心筋梗塞自体が減っている筈はありませんから、その25%のうち相当数が命を落としている可能性があります。

C自粛の枠にオーバーな部分もあります。例えば外出するとき、私はなるべく人のいない道を選びますが、そのような時にはマスクは外しています。電車、バスに乗るときは勿論マスクをしますが。ソーシャルディスタンスも1.2m弱でよいと思います。2mだ1.5mだといっても、後ろの方では密接しています。

国としては、自粛解除の目標を明示し、国民が希望をもって自粛できるような、そしてGo To Travel 東京除外から外すべきかどうかの判断前に、専門家と十分協議して決めるべきと考えます。

D医療崩壊はじわりじわりと内部から進んでいるようです。KWV三田会員の中に、例の10万円をそっくり寄付された方もおられますが、本来は国が手当てをすべき国民の危機だと思います。

 やがて、とりあえずの収束を迎えるでしょう。良い空気の大自然の下で身体を動かしましょう。コロナ鬱になっては元も子もありません。その日のために心身ともに準備しておきましょう。

焼岳へ行ってきました (39年バディ4人組)

部屋からの奥穂~吊り尾根~前穂~明神の夕景

(岡沢)

39年卒の何時もの4人組で中の湯温泉2泊で 焼岳登山と上高地散策を
楽しんで 今帰ってきたところです。 こんな時節なのにねえ!
(三嶋)
コロナ禍と猛暑が続きますが、お変わりない事と思います。
岡澤さんからの連絡で 写真を送付します。
   川面に霧がたつ幻想的な大正池 からの焼岳
8/25に中の湯から 日帰りしましたが、コースタイム6h のところ9h近く、標高差1000m弱 はきつかったですよ!
最後は ”ヤケ”だけで歩いた感じで、謂わば体力の”耐久試験”でした。
しかし 山頂からは奥穂~吊り尾根~前穂~明神 のパノラマは最高で、足下には上高地の眺めに大満足。
中の湯温泉は部屋からの眺望も良く、2泊して のんびり温泉を楽しみました。
暫くはお目にかかる機会がありませんが、お互い健康に過ごしたいですね。
   山頂部の 正賀池
(編集子)4年の夏、所属していた平井ゼミ(社会思想史)の夏合宿設営をおおせつかり(同期翠川と小生はもともと娯楽要員として難関突破、入会できたらしいので当然の成り行き)、よしよし、と場所を上高地にしてしまった。当然購読よりもそちらのほうがメインで焼岳コースを一般向けに設定し、われわれは奥又池をのぞきに行った。このときが小生にとっては唯一の焼岳登山の機会だったのだが、以後、沈黙のまま今日まで来てしまった。ほかに同様の理由で入会を許された37年の山川三千雄、渡辺護、井上(近藤)智香子、それと佐藤(トーゼン翠川)紀子が同行。いやあ、ゼミって楽しかったなあ。

エーガ愛好会 (16)  ”ガス灯” をめぐって

(44 安田)820日放映NHK BSPの「ガス燈」を観ました。二度目です。初回に比べて細部にも注意を払い、より面白く楽しめました。 

品の良いフランスの美男スター、シャルル・ボアイエ(当時45)と、1942年の「カサブランカ」、1943年の「誰が為に鐘は鳴る」の成功でこの時期 “理想の女性像” として絶大な人気を博したイングリッド・バーグマン(当時28)の美男美女の競演が最大の見どころ、舞台は1870年代のロンドン。心理サスペンス映画。ロンドン名物の霧やゆらゆらと揺れるガス燈などを効果的に使った光と陰の映像美も秀逸なモノクロ映画です。 

未解決の殺人事件の被害者の姪(バーグマン)に良からぬ目的で近づき結婚するボアイエ。彼女をノイローゼになるようにじわじわと追い詰めていく悪人であることは、誰の目にも明らか。宝石目当てで叔母を殺し、彼女の宝石を狙って跡継ぎの姪(バーグマン)まで破滅させ病院に送り込もうと画策したボアイエの策謀の数々と彼の演技。バーグマンの恐怖と混乱を表した演技は共に見事と言うしかありません。 

叔母の名歌手(被害者)が遺した宝石の所在を探し屋根裏部屋にまで侵入。そこはバーグマン寝室の真上。不気味な足跡(実はボアイエの)が聞こえてくるが、ボアイエはバーグマンの幻聴だと言い張り、不思議な足跡の音を否定する。さらに、ボアイエ自らが仕組んで、首飾り、絵画、時計、ブローチなどの紛失事件を次から次へと起こし、バーグマンの過失として問い詰め、精神的に攻め立て異常を来たしたように思いこませていきます。外部の人間には妻は体調がよくないなどと言って他人との接触を断たせ、孤独の淵に追いやる。このねちねちとした粘着質の、ボアイエのいたぶり方が秀逸。親切づらをして穏やかに微笑む紳士から、ひとつひとつ計画を実行するたびに、妻を冷ややかな目で睥睨するボアイエの視線のバリエーションは、いくら見ても見飽きない。少し眉を上げてバーグマンを見下ろす高慢な視線は、この男の悪人振りを如実に物語っている。

映画のクライマックスは、少年の頃有名な歌手だった叔母に憧れていて、スコットランド・ヤードの警部になっていたジョセフ・コットンが同じ館に居を構えたボアイエ・バーグマン宅を訪れたことから急展開を見せます。

この映画で出色だと思ったのは、ひとつには招かれたコンサートのシーン。最初はベートーベンのピアノソナタ「悲愴」が弾かれ、次にショパンのバラード一番。演奏の途中で夫は時計が無いと騒ぎだし、探すと妻のハンドバッグから見つかる。夫が仕組んだ謀略だが、妻は混乱で取り乱す。この彼女の動転振りと恐怖をこの「バラード一番」の緊張感ある旋律が伝える。格調高く、けれど緊迫した場面。自分が狂気に陥っていると恐れるバーグマン、迫真の演技。バラードは美しいだけの曲でなく、こんな場面にもピッタリでした。

もうひとつのみどころは、屋根裏部屋でコットン警部がボアイエを捕らえ、ボアイエとバーグマンが二人だけで対峙する場面。バーグマンが見せる強く射るような視線で激しくののしる口調と、ボアイエの何かに憑かれたような、別次元をみているかのような歪んだ欲望に満ちた、しかし観念し諦めた視線は物語を締めくくるのに最もふさわしい見せ場だったと思います。 

ハンガリー系ユダヤ人ジョージ・キューカー監督の映画はこれまで、「素晴らしき休日」1938(ケーリー・グラント、キャサリーン・ヘプバーン)、「フィラデルフィア物語」1940年(ジェームス・ステュアート、ケーリー・グラント、ヘプバーン)、「スタア誕生」1954年(ジュディー・ガーランド、ジェームス・メイソン)、「マイフェアレディ」1964年(オードリー・ヘプバーン)を観ていた。キャサリーン・ヘップバーンをブロードウエイからハリウッドに呼び寄せ、成功に導いたのも彼であるし、俳優の魅力を遺憾なく引き出す能力に長けているとの評あり。ヘップバーン映画10本ものメガホンを執っている。特に女優を輝かせることにかけてはピカイチ。本作のバーグマンも彼女の魅力が見事なまでに美しく引き出されていたと思います。 

舞台でキャリアを積んだ実力の持ち主ボアイエと、若き実力派バーグマンの静かな火花が散る演技合戦、とりわけ彼らの視線の演技は。密室劇であり心理戦が主題である本映画にふさわしく見応え充分でした。紳士然としたボアイエの異常性をはらんだ人物像と、好対照に美しきバーグマンが身も心も閉塞感と孤独感にさいなまれて、現実と虚構の間を行き来する虚ろな心情の息詰まる感じ。伏し目がちになり、時に怯えてすがるように悲痛な視線を他人に向けるも、無力さを痛感して嗚咽する。そんな彼女が最も怯えるのが、タイトルにもなっている寝室のガス燈がある時間になると不安定にゆらめき、燈が小さくなって暗くなる瞬間だ。恐怖の色が顔に浮かび、狼狽しながら「聞こえるはずのない」不気味な音に耳を傾けます。そこに爽快なアクセントとなっているジョセフ・コットン、更には独特の存在感を醸し出して良いスパイスになっているメイド役の、後年テレビドラマシリーズ「ジェシカおばさんの事件簿」で大ブレークした、アンジェラ・ランズベリーが見事な脇役を果たしていました。存分に楽しめた2時間でした。

(HPOB 金藤)

安田さま  「ガス燈」の写真と素晴らしい解説文、ありがとうございました。
保屋野さま 「ガス燈」は名画だと聞いてはいましたが、私も観るのは初めて、サスペンスだとは思っていませんでした!
モノクロ画面で、霧に包まれるロンドンのl家、ガス燈、豪奢な家の中、調度品等、光の当たる部分と影になる部分が効果的に美しく映し出されていました。
ボワイエは初めから、いかにも悪そうに見える夫役をこれでもかと言うほど
しれっと演じていたのは見事でした。への字眉もこの役作りでしょうか?
揺らめくガス燈に揺らめく心
バーグマンが精神的に追い詰められていく様子がよく描かれていました。
バーグマンは美しい上に、恐怖の表情、演技力はさすがアカデミー賞受賞をしただけの事がありますね。 ウエストの細さにも驚きました・・・
耳の遠い家政婦さんはジェシカおばさんになっていたのですか!!観て良かった映画です!
(安田)ご感想のメールありがとうございます。ひとつだけ訂正させて下さい。

「ジェシカおばさん」で1980年代人気を博したのは若いメードの方で、当時19歳のアンジェラ・ランズベリー。この映画のメイド役でアカデミー助演女優賞候補にノミネートされました。シャルル・ボアイエも主演男優賞候補にノミネート。バーグマンとのトリプルオスカー受賞とはいきませんでしたが、二人とも見事な演技だったと思います。
(金藤)あの若いメードさんがジェシカおばさんになったのですか!!

ずいぶん変わったのですね!ご指摘頂きましてありがとうございました。
とんだ勘違いをしていました。ありがとうございました。
(編集子)まずはウエストの細さがでてくるあたり、さすが昔から冷静さが頼りだった我がセクレタリ、でありますな。