エーガ愛好会 (301) ショーシャンクの空に (大学クラスメート 飯田武昭)

先日、BSシネマ放送にあった映画「ショーシャンクの空に(The Shawshank Redemption)」(1994年)を観た。私のような年齢になると厳しいストーリーの映画は、例え評判が良かったとしても、もはや観たくないという気持ちが先立つもので、この映画もその種の感情を持ちながら恐る恐る見始めて、結局一気に全部観てしまった。(私は映画がスリル、サスペンス、それに加えてバイオレンスを重視するようになった1970年代以降の映画は、勿論、例外は除いて殆ど見る気がしないし観ていない)。この映画で引き付けられたものは、俳優たちの演技力、撮影技術、場面展開の妙の3つかと思う。

一例で言うと、もともと薄暗い刑務所内ではあるが、度々出てくる囚人たちが食事をするシーンで、囚人の演ずる俳優たちの顔の表情、小さな動作などが生き生きしているのと、そのシーンのライティングが上手い。そんなこんなで最後まで見てしまったが、刑務所内での3回ほどあるリンチのシーンや50年間の刑期を終えてシャバの戻る模範囚(ジェームズ・ホイットモア演ずる)は、社会に馴染めず間もなく首つり自殺するシーンなど観るに堪えないシーンも多々あった。

この映画の原作はスティーヴン・キングの小説「刑務所のリタ・ヘイワース」(※)で、その映画化版権を監督初のフランク・ダラボンが入手してから5年の歳月を構想に費やして製作されたと観終わってから知った(※囚人たちが刑務所内で観る映画「ギルダ」(1946年)に出演しているのが当時の人気女優のリタ・ヘイワース)。

ストーリーは簡単に言うと、刑務所内の人間関係を通して、冤罪により投獄された有能な銀行員が、腐敗した刑務所の中でも希望を捨てず生き抜いていくヒューマンドラマ。主人公アンディ役はティム・ロビンス、囚人仲間の調達員レッド役はモーガン・フリーマン(彼の演技、顔の表情が抜群に良い)、悪徳な刑務所長役はボブ・ガントン。他にウイリアム・サンドラー、クランシー・ブラウン、キル・ベローズ、ジェームズ・ホイットモア等が脇役として出演している。

当初は主人公アンディ役にトム・ハンクス、トム・クルーズ、ケビン・コスナーなど当時のスター俳優が検討された由。他にもブラット・ピット、ジーン・ハックマン、ロバート・ヂュバル、クリント・イーストウッド、ポール・ニューマン、ジョニー・デップ、ニコラス・ケイジ、チャーリー・シーンなどもキャスティング候補に挙がっていたとのこと。

劇場公開当初は主役のティム・ロビンスやモーガン・フリーマンの演技を中心に評論家は高い評価をしていたが、興行的には大失敗作となった。理由は強力な競合作「フォレスト・ガンプ」などが公開された年だったことや女性が殆ど登場しない映画であることなど。しかしその後、アカデミー賞7部門にノミネートされ(結局、受賞はゼロ)て、興行成績は持ち直し、現在では多くの人から映画史に残る傑作の一つとの認識がなされている由。

主人公アンディが脱獄するシーンは息を飲むほどの迫力があるが、脱走後は故郷を超えてメキシコへ逃亡し、その後に刑期を終える友人のレッドも彼の後を追うところで話は終わる。レッドに至っては40年の刑期を終えても何の感傷もなく、最早、刑務所に居続けてもシャバへ戻ってもどちらでもない人間に変わってしまう。

繰り返すが、レッド役を演ずるモーガン・フリーマンは黒人俳優としては「手錠のままの脱獄」の故シドニー・ポワチエに迫り越える演技力と思った。又、脱獄映画は「大脱走」を直ぐに思い浮かべたが、「大脱走」は脱獄までの過程をスティーブ・マックイーン、チャールス・ブロンソンなどの人気俳優が時にユーモラスとも思える演技で楽しませてくれて、脱獄後の逃走シーンからは一転、スリルとサスペンスで盛り上げ、悲劇的な結末となっていた。

(映画の舞台はメイン州であるが、撮影はほとんどオハイオ州マンスフィールドにあるオハイオ州立矯正施設(オハイオ州少年院)跡がショーシャンク刑務所となった)。

リタ・ヘイワースRita Hayworth, 本名Margarita Carmen Cansino、1918年10月17日 – 1987年5月14日)は、アメリカ合衆国ニューヨークブルックリン出身の女優。1940年代にセックスシンボルとして一世を風靡した。

ピントがずれてねえかなあ

今朝、読売の第一面トップ記事、”書店振興、官民で” をみて、(なんかおかしくはないか)という感じを持った。

書店、なんていうから勿体が付くんで、要は本屋、だろう。幼い時から活字中毒の小生はどこでもいつでも、本屋をブラウズするのが習慣になっているので、この 本屋文化の衰退は嘆くべきだと思っている。だからその復活に手を貸そう、という企画に反対ではない。

しかし問題は、本屋があるかないか、ではなく、国民(世界中でそうだろうが)が本から離れている、ということなんであって、そのサプライチェーンが変化している、ということではあるまい。自分のことでいえば、いま、いわばわが人生の最後っ屁、と思ってやっているポケットブックの乱読なんてえのは、アマゾンという形態ができたからこっそ手軽に言えるんであって、もし毎回、紀伊国屋だ丸善だと出かけなければならず、探してるものがなければ特注して何か月も待つ、という過去のスタイルならまずやる気にもならなかったはずだ。本屋があり、本屋文化というか、(ぶらりと本棚を眺める)ことがすきか嫌いか、というのは全く個人レベルの問題であって、お国が騒ぐべきなのは本屋の数ではなく、全世界で起きている情報伝達のシステムそのものの課題ではないのか。爆弾のつくり方からむかしは人目を忍んで本屋の隅っこで盗み読みしていた怪しい本や写真やいまでは動画まで、安易に手に入る時代になってしまっている。そういうことや、それが引き起こす社会問題こそ国が乗り出すべき課題のはずだ。本当に本が読みたいという人にとって、いまや本屋がない、というのは確かに寂しいことには違いないが、それじゃ、本屋さえあれば若者が本を読むようになるのか?

書店、というビジネスモデルがなくなり、そのために苦労する人々がおられることは十分理解するし、その支援をしたい気持ちもわかる。だが、今回の国を挙げての騒動がサプライチェーンの変貌という、もう不可逆的に起きてしまっていて、おそらく経済的には成り立たない現象に竿さすだけならば、これは壮大な無駄だという気がする。それよりも教育現場でデジタル教科書がいいか悪いか、なんてものをしかつめらしく議論しなければならない(小生は大反対だ、もちろん)とか、国会議員大先生からポルノ作家はたまた街のギャングまで広がっているSNSの悪用、ということの対策のほうが、喫緊の政治課題なのではないのか。

東京の空は今日も晴れているが、寝起きの悪い一日になりそうだ。

上野美術館の展覧会    (普通部OB 船津於菟彦)

上野・西洋美術館開催の「モネ展」が賑わっています。日本では印象派の絵画が好まれ何れの展覧会も混雑していますが、昨年10月5日から始まりいよいよ2月11日で東京展は終了致します。巴里・マルモッタ・モネ美術館からの移転美術展です。

印象・日の出』(いんしょう・ひので、フランス語: Impression, soleil levant)は、クロード・モネが1872年に描いた絵画。印象派の名前の由来となる美術史上、重要な意味を持つ作品であす。この絵は国宝級故か今回の展覧会には来日していません。印象派の絵画は見ていて解り易く心がやすらぎます。会社時代も土曜の午後はブリジストン美術館-現アーチゾン美術館-へルノアールに会いに行きました。心安まりますね。

然らば抽象画とは。
抽象画は具体的な対象を描写しない、色や線、形などで描かれる絵画作品です。
実在するものを具体的に描いた絵画を「具象画」といい、目の前の実在する人や風景を再現することに重きを置いています。抽象画は線や色、形、構成に着目することで、絵画の本質的な美しさを追求した絵画作品なのです。難解なイメージを持たれがちな抽象画ですが、あまり考えることなく、純粋に絵画と向き合い、楽しめる魅力があります。

抽象画の概念を確立したのはカンディンスキーもしくはモンドリアンといわれています。純粋抽象絵画や新造形主義といった抽象画の絵画技法を確立し、抽象画の発展に貢献しました。

抽象絵画の楽しみ方が分からないという方もいるでしょう。以下にて抽象画の楽しみについてまとめしたので、参考にしてみてください。
• 色彩・ビジュアルを楽しむ
• 自分なりに想像してみる
• 作品の背景にある歴史を理解する
• 画家について調べる
抽象画に限らずアートの楽しみ方は人それぞれ。純粋に美しい色彩や描写を楽しむのも良し。作品の意図や背景を考えるのも良し。自分にあった楽しみ方で抽象画を楽しんでみましょう。

2025年1月17日 金曜日 パナソニック汐留美術館へ「ル・コルビジェ」展を観に来ています。ピカソでも無くレジエでもなく、不思議な抽象画は海の貝と小石からヒントを得て書き始め、次第に人に移り、最後は海に帰るという事です。

ル・コルビュジエ(Le Corbusier[注 1]、1887年10月6日 – 1965年8月27日)は、スイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家。本名はシャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリ (Charles-Édouard Jeanneret-Gris)。モダニズム建築の巨匠といわれ[1]、特にフランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の三大巨匠(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とみなすこともある)として位置づけられる。

1931年に竣工した『サヴォア邸』は、ル・コルビュジエの主張する「近代建築の五原則」を端的に示し代表作として知られる。近代建築の五原則(きんだいけんちくのごげんそく)は、ル・コルビュジエにより提唱された、近代建築の原則とされているが、 “Les 5 points d’une architecture nouvelle”からの意訳であり、逐 語的に訳すと「新しい建築の5つの要点」となる。• ピロティ (les pilotis)
• 屋上庭園 (le toit-terrasse)
• 自由な設計図 (le plan libre)
• 水平連続窓 (la fenêtre en bandeau)
• 自由なファサード (la façade libre)

ル・コルビュジエの思想は世界中に浸透したが、1920年代の近代主義建築の成立過程において建設技術の進歩にも支えられて、とくに造形上に果たした功績が大きい。彼の造形手法はモダニズムの一つの規範ともなり、世界に広がって1960年代に一つのピークを極めました(その反動から1980年代には装飾過多、伝統回帰的なポストモダン建築も主張された)。

 

 

イスラム移民の波紋    (大学クラスメート 飯田武昭)

昨年12月に菅原さんから紹介のあった「イスラム移民」(飯山 陽著)を遅まき乍ら読んだ。この本で著者の伝えたい主題は菅原さんの文体で、ブログ(12/18付け)に掲載されている分が簡潔にして要を得ているので、そちらに譲るが、この本に記されている貴重な情報のほとんどは、主要メディアには掲載されていない情報を出来るだけ正しく提示するために、著者が苦労して集めている姿が容易に想像される。

一般的にグローバル社会となって、世界の多様な文化が日本国にも持ち込まれ、自身にも迫ってくる社会であることは分っていても、具体的に現在のヨーロッパ(イギリス、フランス、ドイツ、スエーデン)ではどうなっているか、日本ではどうなっているか(大分県日出町、埼玉県川口市など)を限られた貴重な情
報から知ることは大変に必要なことだと改めて思った。

その上で世界の文化の多様性は認識しても《多文化共生(multicultural
coexistence)》というような言葉を、何の気なしに美化して使うような愚はあってはならないと、改めて自戒し、このイスラム移民のテーマを今まで以上に深く考えるべく自問自答する良い機会になった。.
ヨーロッパ数カ国でのイスラム化は急速に進んでおり、日本でも同様な展開が危惧されるが、各人が迫りくる文化の多様性と、どのように向き合うかをしっかり考えて意思を持って、機会を捉えて対処することが少なくとも必要ではないか。

このテーマに関しては安田さんのブログ「イスラム国の現状」(12/30付け)も、問題の現状を知るには大変参考になった。

(編集子)今朝の新聞には、トランプ大統領令の実施にともなう移民問題について、現地での混乱が伝えられている。ほかの国での実情を知らないまま感情的に反応することはつつしむべきだが、他山の石、というべきだろうか。

舞子 と 芸妓     (41 斎藤孝)

京都の芸者に囲まれて至福の一時だった。「芸者」というコトバしか知らなかった。「舞子」と「芸妓」に分けられてそれぞれ違いがある。82歳の老人なってやっと芸事の伝統世界を理解できた。

煌びやかな京踊りの夜。京都には「花街」と呼ばれる区域がある。「先斗町」や「祇園」は歌で知っていたが行ったことがなかった。花街で芸妓遊びするという優雅な時間は持てなかった。そもそも「京踊り」なるものも良く分からない。

2025年1月26日は生まれて初めて「京踊り」を見に行った。正式には、「北野踊り」という。別名、「上七軒をどり」と呼ぶ。「おどり」でなく「をどり」と書く。場所は、「北野天満宮」の近くにある「上七軒歌舞練場」。本番の公演は3月から始まる。その練習舞台を見物できたのである。

三味線の音色と小太鼓の音、そして気品ある粋な小唄。島田髷・黒裾引きに揃えた「芸妓」と色とりどりの鮮やかな衣装の「舞妓」がそれに合わせながら踊る。服装や髪形の違いから「舞妓」と「芸妓」を見分けることができた。

乱読報告ファイル (71)  西洋の敗北

ここのところ、いろんなところでトランプ以後、の論議が盛んである。この本も本屋ではいかにもこのトランプ論であるように位置付けているが、そういう意味で読むべき本ではない、というのが読後の率直な感想だし、久しぶりに本らしい本を読んだ、という爽快感がある。

ヨーロッパ論についてはシュペングラーの 西欧の没落 に挑戦したことがあるが、正直、ついていくのが精いっぱいで、読後に何を得たのか、自分でもよくわからない、ただ、この文明が崩壊しつつあるようだ、と言うような漠然とした不安感しか残っていない。そこへ行くとこの本は論旨が明快であるうえ、社会思想史、なるものをかじってみた自分にとってなじみのある領域の書でもある。

西洋、という単語を著者はまず明らかにする。その対象はイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、ドイツ、日本であって、これが政治家やジャーナリストが考える今日の ”西洋“ で 日本という ”アメリカの保護国“ まで拡大した、NATOの西洋 であるが、この広義の西洋の中で、イタリアでファシズム、ドイツでナチズム、日本で軍国主義を生み出した三か国は、歴史的に見て自由主義国とは言えない、と定義する。歴史的に見自由主義国とは、圧政を自由主義、民主主義的革命によって成立した国、すなわちイギリス(名誉革命)、アメリカ(独立宣言)、フランス(フランス革命)というのが本論の基本的な見方である。このあたりの論議はさておいて、重要なのは、この ”敗北” が日本にもあてはまる、という著者の歴史観だろう。また著者は現在のロシアがかつてのソ連の延長にあり、プーチンもまたスターリンの延長線上にとらえる、西洋側のロシア観を明快に否定する。

この本が新たに書かれたきっかけがウクライナ戦争であることはあきらかであるが、この戦争に直面しているロシアの現実が、いわゆる西欧諸国のロシア観と大きく違うことが示される。この本では数多くの数字をあげてより詳細にのべているが、その大意は次の二つの文節に凝縮されるだろう。

”プーチンシステムが安定しているのはそれが一人の人間によるものではなく、ロシアの歴史から生じたものだからだ。プーチンに対する反乱という、ワシントンがしがみつく夢は夢物語でしかない。そんな夢物語は、プーチン政権下でロシアの生活状況が改善したという事実を見ようともせず、ロシアの政治文化の特殊性を認めようとしない西洋人の現実否認から生まれる”

(問題の一つは)”西洋の思想的孤独と、自らの孤立に対する無知だ。世界中が従うべき価値観を定めることに慣れてしまった西洋諸国は、心から、そして愚かにも、ロシアに対する憤りを地球全体と共有できると期待していた。しかし彼らは幻滅を味わうことになる。

このような事実はいつから、どうして発生してきたのか。その最も基本的な原因は、西欧諸国(本論の西洋の定義ではなくより広範な意味での)における価値基準が変化したこと、その根本が我々日本人の感覚では理解できないのだが、宗教とくにプロテスタンティズムが消滅したことにあり、それが著しいのは、そもそもプロテスタントの論理によって成立したアメリカである、というのが本書の問題意識のようだ。

僕は宗教というものが理解できず、ましてやカソリックとプロテスタントとの教義のことなど、わかるわけはないのだが、大陸での迫害からアメリカに脱出した人たちの支えがプロテスタントとしての矜持であったことは、マックス・ウエーバーの主著(”プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神”)によって解説されている。この本もおっかなびっくり覗いたくらいなのだが、勤勉とたゆまぬ努力によって自分を高め、その結果によってのみ社会が進展する、というのが基本だろう。この倫理が潰えてしまったのがいまの西洋の現実っであり、結果的に富の偏在や権力への執着を招き、結果が例えば米国の現実を生んでいるのだ、と著者は言うのだ。この思考過程は現実をしめす各種の数字によって納得できる議論が展開される。詳細について解説する能力などないので、僕なりに理解し感じたことだけをまとめてみる。

1.我々(日本人、としておこう)にはソ連とロシアの区別がついていない。ロシアの国力は一般的な知識をはるかに超えて大きい。これは率直に反省すべきことのようだ。

2.ロシア(ソ連ではなく)もまた、民主主義に基づいた国である(著者は権威主義的民主主義、と呼び、少数派の権利尊重という、我々の使う意味での民主主義の不可欠な条件を満たしていないからだ、と定義する)。プーチンはソ連型の権威主義と完全に異なり、ソ連時代の計画経済の失敗から、国家が中心的役割を担う(権威主義)が市場経済を尊重し、労働者層に特別の注意を払う。片や今の西洋では大衆を基本的にはポピュリストにしか意味のないものとして軽蔑する風潮がある。

3.西洋の代表であるべきアメリカはプロテスタンティズムの基本を逸脱することが続き、富の著しい偏在と、一部エリートの理論第一の政治が弱者救済という名目のもとに逆差別を生み、国の分断を引き起こしている。今回のトランプ政権への期待はそういう内在する課題(陰謀論など)の裏返しであろう。著者はこの観察の結論として、今のアメリカは ニヒリズムに支配されている、と結論する。これは恐ろしい予言ではないか。

4.NATO諸国の間に生じている摩擦もその根底には、上記したとおりロシアの現実についての誤解があり、それがスカンディナビア諸国の中立放棄などの結果を引き起こした。他方、欧州各国を除いた ”そのほかの国” がロシアに理解を示し、あるいは公然とロシアに加担している、しようとしている現実は明確である。このあたりの議論で、著者は hubris (傲慢、自信過剰)という単語を使っているが、これは特にアメリカの行動を理解するのに意味があると感じる。

5.このような 西洋の混乱 の理由が宗教の変節によるのだ、と言われても我々日本人(基本的には無宗教)には理解しがたいのが当然かもしれない。著者は人類学の大家でもあるのだが、その見方からすると、日本とドイツは家族構造が類似していて(そのほかの西欧諸国とは違って)、いわゆるグローバリゼーション論者とは一線を画し、国々はすべからく違う存在だと考える点で共通しているのだそうだ。このあたりについて考えることが、文頭にかいた トランプ以後、についての議論にも資するのかもしれない。

やっと一応読了はしたが、論旨には賛成する点が多く、特に中段で展開される論旨は明確な数字をベースとした、説得力に富む明快なものなので、一息いれたうえ、覚悟して再読したい、と思っている。こういう本は珍しい。

 

エマニュエル・トッドはフランス人口統計学者歴史学者人類学者学位Ph.D.ケンブリッジ大学1976年)。研究分野は歴史人口学家族人類学。人口統計を用いる定量的研究及び家族類型に基づく斬新な分析によって広く知られている。フランスの国立人口学研究所に所属していたが、2017年に定年退職した[2]2002年の『帝国以後』は世界的なベストセラーとなった。経済現象ではなく人口動態を軸として人類史を捉え、ソ連の崩壊英国のEU離脱や米国におけるトランプ政権の誕生などを予言した。