本、がもたらすもの

ここ数年、自分の英語に関する知見を増やそうと思い、ミステリや冒険小説に絞って、ポケットブックを原書で読み続けてきた。それなりの効果があったと見えて、本来目的としてきたとおり、ボキャブラリもだいぶ増えてきたので、ここらで少し、”名作” というかクラシックなミステリ作品を読んでみようという気になった。

ミステリの大御所、といえば英国のアガサ・クリスティだが、同時代にアメリカで活躍した作家として、それも当時米国の知的活動の中心だったニューヨークを舞台に、東部のインテリ層に愛好されたヴァン・ダインとエラリー・クインがよく知られている。クリスティの人気は抜群で、翻訳書を本屋でみないことはないが、この二人は多少マニアックな人しか読まないらしく、あまりみかけない。その程度の知識でアマゾンを探したのだが、在庫されている作品は思ったより少なく、価格もものによっては1万円クラスのものもあるのに驚いた。だが考えてみれば僕らが生まれる前に書かれた作品だから新品を探すのが大変なのはやむを得ない。こういう時は ”中古 だが 保存状況よし”、の中から何冊かを購入しているが、今回もそうして注文しておいたものの4冊目、Greek Coffin Mysery (邦題:ギリシャ棺の謎)が昨晩届いた。驚いたことに体裁がポケットブックではなく、立派な装丁の、新品といってもいいような立派な ”本” なのですっかり気に入ってしまったのだが、その目次のページを開いてさらにうなってしまった。

各章の第一文字を順に並べるとそれが本のタイトルと著者の名前になるという誠にしゃれた仕掛けで、クイーンもののいわば ”売り” でもある、”読者への挑戦” の表明が裏表紙になっている。粋なつくりである。

エラリー・クインと名乗った従兄弟ふたり

実はエラリー・クインというのは従兄弟同士二人の筆名で、そのことはよく知られていたが、ヴァン・ダインは実は高名な文学評論家であったハンチントン・ライトという人のペンネームで、ライトはこのことは深く秘匿していた。読者の間でもその真相が話題になっていたらしいが、ある友人が(その手法はよく覚えていないが、たしか別名で手紙を送り、返信の筆跡をライト本人との私信のものを比較した、というのだったと思うが)秘密を暴き、沈黙代としてニューヨーク第一の高級料理店でディナーをおごらせた、ということが知られている。

クイーンが代表作となった 国名シリーズ10冊の題名を***** mystery  ということにして人気をあおれば、ダインは彼の12作の題名を  *****   murder case   として対抗した、などといった裏話も楽しい。

ただ、クインの作品はものの2ページも読めば、3年かかって稼ぎ貯めたはずのボキャブラリではとてもすまされない big words やら表現やらがでてくるし、描かれている社会現象の違いや、会話そのものの現代との違いが歴然としてくる。だから今、同じニューヨークで話されるスタイルは全く違ってしまっているはずだ(そういう意味で、僕はセリフを現代語で話し、結果として現代の発想や感覚が反映されていくという、今放映中の大河ドラマ 光る君 なんてのは作為が先走りしていて、王朝時代の雰囲気というものを反映していないと思うので、みるのをやめてしまった)。

ヴァン・ダイン

こういうトリビアというか、ファンの間で語り継がれ愛される、いわば 作品の余韻というかそういうものは、やはりそれが形に残り手元に置かれ、その存在を物理的に感じ、いわば愛情がこもってくる、本 というメディアによっているからだと思う。映像や音響による効果は事実を的確に、客観的に伝えるという意味では本よりもはるかに優れているだろうが、いわゆる行間を読む、というような知的動作を生むことは難しい。本で書かれた文章は著者そのもののものだが、映像化される過程では第三者の感覚によってその印象は当然、変わってくるだろう。

今回はたまたま米国発の話がきっかけだが、日本でも著者や編集者の中には工夫を重ねて ”本” への動機付けをはかっている人も多いはずだ。社会のありようがすべて ”アプリ” と グーグルで片付けられるようになりつつあるいま、行間を読み、余韻を楽しむ、そういう空間は本を読む、ということからでなければ生まれてこないような気がするのだがいかがであろうか。

 (10月11日 読売新聞朝刊記載記事記事)

 

“白い恋人たち” 補論  (大学クラスメート 飯田武昭)

マンシーニ論のなかで、ジャイさんの言う映画音楽ベスト1 “白い恋人たち” は自分も大好きな曲です。

想うに、この曲の良さの秘密の一部は先ず、ワルツ調の3拍子で特に1拍目に3連符(16分音符の3連符)を入れているので、タツ・タツタツタツータツ・タツ・タツとゆったりしたワルツ調のリズム感のあるメロディーになっている点だと思います。
フランシス・レイは安田さんのリストにもあるように、映画「男と女」「ある愛の詩(うた)」のテーマ曲も名曲ですが、“白い恋人たち”は中でも際立った名曲と思います。
映画「白い恋人たち」(監督ジャン・クロード・ルルーシュ)は冬季オリンピック・グルノーブル大会(1968年)の記録映画として製作されたものですが、この大会で地元フランスのジャン・クロード・キリーが滑降・回転・大回転の3種目で金メダルと取ったことはあまりにも有名です。

冬季オリンピック、スキー、映画という3つのキーワードと振り返ってみると、トニー・ザイラー(オーストリア)が冬季オリンピック・コルチナ・ダンペッツオ大会(1956年)(イタリア)で同じく滑降・回転・大回転の3種目で金メダルとこれ又、KWVやエーガ愛好会の皆さんには以前よりご承知のことではあります。トニー・ザイラー主演の日本公開映画(西ドイツ製作)は別添リストを参照頂きたいですが、これらの映画に付けられた音楽も大変ヒットしました。
特に「黒い稲妻」と「白銀は招くよ」の挿入曲は “白い恋人たち”とは又違ったスキーの楽しさを思い出させる名曲でした。

冬季オリンピックはコルチナ・ダンペッツオ(イタリア、1956年)、スコーバレー(アメリカ、1960年)、インスブルック(オーストリア、1964年)、グルノーブル(フランス、1968年)、札幌(1976年)、デンバー・インスブルック(1976年)、レークプラシッド(1980年)と続きますが、トニー・ザイラーの活躍した1956年とジャン・クロード・キリーの活躍した1968年の間に、トニー・ザイラーは5本の映画の主役で活躍したことになります。この時代はオリンピック、スキー、映画で盛り上がっていた約20年間でしたねえ。

(編集子)”白い小屋” へ通っていた間、大野さんのコレクションを引っ張り出しては、”黒い稲妻” を繰り返し何回も見た。この映画が封切られたのは確か僕らが3年の時。東劇で見て、みんな、当時まだ日本になかったキルティングジャケットにあこがれたものだ。この映画のヒットシーンの、ザイラーが滑りながらアコーディオンをかき鳴らす場面に興奮した37年卒の福永浩介がウクレレを持って滑ろうとして大笑いになったのも楽しかった。陽気で誰にも好かれたコースケの思い出も蘇ってくるようだ。飯田兄、Vielen Dank !

 

 

エーガ愛好会 (284) ヘンリー・マンシーニ  (大学クラスメート 飯田武昭)

テレビ番組「クラシックTV」(3日21時~30分・Eテレ)で映画音楽作曲家のヘンリー・マンシーニを取り上げていたのでみました。

ヘンリー・マンシーニは映画「ティファニーで朝食を」のムーン・リバーの作曲家として余りにも有名ですが、改めて彼の作曲家人生を振り返ったこの番組を見ると、マンシーニ作曲の映画音楽の名曲(映画そのものも名作)が、スタンダード・ナンバーとして今でも度々演奏されるのに気が付かされました。

・ムーン・リバー(映画「ティファニーで朝食を」テーマ曲)
・ピンクパンサーのテーマ
・小象の行進(映画「ハタリ」の挿入曲)
・ひまわり(映画「ひまわり」テーマ曲)
・酒とバラの日々(映画「酒とバラの日々」テーマ曲)

直、スタンダード・ナンバーとして後世に残るこの種の曲はメロディ自体は比較的シンプルで余白部分が多い曲で、別人が編曲し易い曲が多い傾向があるそうです。私はこれらの映画は皆好きですが特にはアフリカの猛獣狩りの映画「ハタリ」(1962年、ハワード・ホークス監督)で、ここで出て来る≪小象の行進≫は最初に見た時に、小象の行進の陽気な可愛い気分が出ていて何んと面白い曲かと思い好きになった曲です。Youtubeを良ければ聴いてください。

https://www.youtube.com/watch?v=TRKb_QuMd1k

時代を遡れば、ハリウッド映画全盛時代の1940年代~70年代には「風と共に去りぬ」のマックス・スタイナーを始め、コール・ポーター、アーヴィング・バーリン、リチャード・ロジャース、デミトリ・ティオムキンなど、キラ星の如く多くの名曲を作って映画の価値を高めた作曲家が多かったです。ヘンリー・マンシーニもこれらの中の一人でした。

(保屋野)(映画音楽音痴だった)私が目覚めたのは、愛好会に入って(チビ太師匠の奨めで観た)「ドクトルジバゴ」のテーマ曲「ララのテーマ」に感動してからでした。この曲は、モーリス・ジャールというフランス人作曲家の作品で、彼は「アラビアのロレンス」の作曲者としても有名です。

その後、ニノ・ロータの「ジェルソミーナ」(道)やモリコーネの「ニュー・シネマ・パラダイス」等の名曲も知りました。ちなみに、アメリカのジョン・ウイリアムスも多くの名曲がありますが、私はヨーロッパ系作曲者の方が好きです。

(安田)ご紹介された珠玉のマンシー二映画音楽の数々、封切り当時に映画を見た折に、深く印象に残り、その後も主題曲を頻繁に聴きました。アメリカ国籍ながら典型的な“・・・ni”で終わる名前からしてもイタリア系ですね。芸術の国イタリアからは、映画音楽作曲分野でもニノ・ロータ、エンニ・モリコーネの両巨匠を産み、フランス国籍ながらフランシス・レイも両親はイタリア人だそうです。

(小田)刑事コロンボやピンクパンサーもヘンリー·マンシーニの曲だったのですね。シンプルな曲がスタンダード ナンバーになる…プレスリーの「Love me tender」のような曲もそうですね。

「ひまわり」でははじめの3音に1ヶ月かかり、後は30分で仕上げたとか、まさに出だしで内容を表しています。先程、先日書いた「女三人のシベリア鉄道」の林芙美子の出る辺りを読み返していましたら、ちょうど「ひまわり」の事が書かれていました!
作者の森まゆみさんが、ミンスクで列車を降り《ミール城》を見学、バスを待つ間周りを歩くと、「ひまわり」の映画に出たような家を発見…、

『頭の中で、あのヘンリー·マンシーニの名曲が鳴りひびいた…』と。

(編集子)小生の映画音楽ベストワンは ”白い恋人たち”。これで決まり、であります。生まれて初めて、カリフォルニアでスキーをしたのが Soda Springs という小さなスキー場でしたが、その時、ゲレンデに流れていたのもこの曲でした。”…….from Grenoble, France,   というアナウンスに改めて異国を感じたものです。

オオタ二さーん話のつづきです   (普通部OB 船津於菟彦)

(金藤)打たれない・走らせないという警戒する中で打ち・走る。記録は多分未だ伸びますね。デンバーは行きましたが高地トレーニングするように空気が希薄なので飛びますよ。また、時間帯がアメリカでは東西に丁度良いところにあるのでCATVの本拠地がデンバー辺りにあるので見学に行きました。
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(船津)オオタニさーんが活躍しているコロラド州デンバークアーズ・フィールド(Coors Field)は標高1マイル(約1600メートル)地点にあるため、通称「マイル・ハイ」と呼ばれている。高地ゆえに気圧が低いため空気抵抗が少なく、結果として打球の飛距離がよく伸びる。ロッキーズ公式サイトでは「海面と同じ高さに設けられた他球場に比べ、約9〜10%も飛距離が伸びる。具体的な例としてはヤンキー・スタジアムでの400フィート(約122メートル)の打球は、クアーズ・フィールドで440フィート(約134メートル)になる」と記述されている。座席の色は緑色だが、3階席20列目の座席だけがロッキーズのチームカラーである紫色になっている。その高さが正確な標高1マイルである。ホームラン是非打ってほしい。

熟年生は未だCATVが創世記の頃米国視察に行った。当時ここデンバーには沢山のCATV局の本部があったので見学に訪れたのは1996年4月。当時CATVは今のAT・AIの様に何でも出来るという歌い込みで在りロスで華々しくCATVフェアが開催され世界から関係者が詰めかけた。今に思えば何て言う事無いが。そしてモデル施設がフロリダのオーランドにあり,何でもCATVから対応可能とか、映画も直ぐに観られるとか、今では可成り当たり前のことが、CATV網で出来るという事だったが、結局出来なかった。CATVフェアの夜、野茂さんは残念ながら出場無しだったが、ドジャーススタジアムを訪ねたことを思い出す。ネット裏地下に「吉野屋」の牛丼が在り「ヨシノヤ」って言いながら通ればフリーパスで通れkた。懐かしい。

野茂英雄さんがドジャーススタジアムで活躍されているときで、1995年2月13日にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。契約金200万ドル(約1億7000万円)、年俸は10万ドル。近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円になった。その後苦難の連続で未だ差別も在る中で活躍して日本人の大リークへの道を切り開いた恩人だ。
米大リーグのドジャースは、本拠地ロサンゼルスでのパイレーツ戦前に球団OBをたたえる式典を実施し、1995年のデビューから「トルネード投法」で活躍しメジャー通算123勝を挙げた野茂英雄さんが出席。背番号「16」のユニホームを着用し、名前がアナウンスされると右手を上げて大歓声に応じた。何故コロラド州デンバーに沢山のCATV局本部があるとか言えば東西に流しても時差がさほど無いからと、高地のため気候が良い。ボルターは高地トレーニングに日本選手も行きますよね。第三の避暑地として宥免人の別荘などが在る。
その後日本のCATVは各商社こぞって設立したが、結局は住友商事が総て買収して-J:COM-560万加入世帯数-例外を除きCATV局のインターネット事業を支援する新会社「クロスビームネットワーク株式会社」を設立する。今やテレビ配信とかこれで家庭の色々な物を動かすとかは出来ず通信網とかゲーム関係で生き延びているようだ。今日の東京は涼しい天候でやっと酷暑から秋へと向かうようだが、未だ多少真夏日はある。暑さで遅れいた錦糸公園の曼珠沙華もチラホラと咲き始めた。

蓋あけし如く極暑の来りけり 星野立子
朝市に磯もの多し神無月 水原秋櫻子
いとしみ綴る日本の言葉曼珠沙華 中村草田男
こと欠かぬ鬼火 大江の彼岸花 伊丹三
まんじゆしやげ花を了れる旗竿を 山口青邨
人来ては去り来ては去り曼珠沙華 鈴木真砂女


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Θ Θ  |  熟年少年探偵団 0号団員 船津 於菟彦|
ι   /Please send me: funa007@me.com
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エーガ愛好会 (283)  踊る大捜査線   (HPOB 小田篤子)

懐かしく、面白く観ました。

このTVは昔家族でよく観たものです。26年も経つと亡くなった俳優さんも何人か出演していますね。
クールな警視庁エリート軍団と湾岸警察署のおかしな人達、不気味な殺人犯役の小泉今日子も印象的です。
警視庁のゴルフの帰り副総監が誘拐され、警視庁だけの極秘捜査から、公開捜査となり、青島刑事(織田裕二)など所轄組も捜査に加わります。
誘拐された副総監とは友人の、退職した刑事(いかりや長介)が犯人をつきとめますが、団地のゴミ収集所に閉じ込められてしまいます。
ポケットにいれてあった、副総監がブービー賞として貰い、分けてくれた赤いゴルフボールを焼却炉に入れ、その赤い煙で青島刑事(織田裕二)が発見する…このことは黒澤明監督「天国と地獄」の白黒映画に、煙突からピンクの煙が立ち昇る場面を思い出させます。
最後、犯人逮捕の際に怪我をした主人公の青島刑事らを乗せたパトカーを、警察官らは次々敬礼をして見送ります。
このシーンは、検視の仕事も時々引き受けていたという主人の叔父の葬儀の車が署の前を通る時、雪が降る中警察の方々が、並んで敬礼をして見送ってくださった何年も前の光景のようでした

(編集子)小生、”捜査線” シリーズは ”レインボーブリッジ” だけしか見ていないが、サイドライン ”アマルフィ” は面白かった。ここのところ、この時代のリバイバルをよく見ているが、いろいろある中で、村上弘明の ”刑事の証明” と 船越英一郎の ”吉永誠一”  シリーズが気に入っている。偶々、この二つで、仲間の刑事が殉職する話があり、そこで知ったのだが、この場合は二件とも殉職した警官は二階級特進で警部補として葬儀になる。市民の命を守るために身を捧げた仲間に対する敬意をこめた葬列の場面は心に響く。特に ”吉永” シリーズで号泣する小泉孝太郎の演技はよかった。雪は降っていなかったが、心にしみた。
(参考)警察官の”階級”は9つあり、昇任することによって階級を上げることができる。 その階級とは、『巡査』『巡査長』『巡査部長』『警部補』『警部』『警視』『警視正』『警視長』『警視監』『警視総監』『警察庁長官』刑事と呼ばれる警察官は「巡査」や「巡査長」の階級にあたる警察官で、管理職はそれぞれ役職で呼ばれる。

ヒヤリ、はっと を軽視していませんか? (普通部OB 篠原幸人)

まえに「物忘れ日誌のすすめ」を書きましたが、覚えていますか? 認知症とは縁遠いと自負している貴方こそ、些細な物忘れのエピソードがどのくらいの頻度で起こったかを日時と共に記載しておくことが、5年先を考えると必要だと思いますよ。
最近、新しい抗認知症薬(レケンビ)が発売され、小生の病院でも可なりの患者さんに試みています。そのためにも、物忘れなどの発症の正確な時期の把握が重要で、「物忘れ日誌」にちょっとしたエピソードの記載が日時と共に残っていると、専門医師は大変助かります。
認知障害は物忘れだけとは限りません。計算力・注意力その他が先に衰えることもあります。これも以前に書きました。
小生はシルバーウィークを利用してまた軽井沢で過ごしていましたが、先週末、車で上田市の別所温泉付近の松茸山まで片道1時間半強もドライブし、松茸料理を堪能してきました。その帰り道、付近の真田家ゆかりの生島足島神社に柄にもなくお参りしましたが帰り道の選択で家内と一寸口論しながら細いT字路を右折しようとして、危うく直進車と接触しそうになりました。典型的な「ヒヤリ・ハット」です。私の注意力不足は明らか。
こんなエピソードを私は「物忘れ日誌」の小ノートを逆にして、最終頁から自分の「ヒヤリ・ハット集」として記載を残すことにしています。まだ2冊目に移るほどのエピソードは多くありませんが。
皆さんも沢山のヒヤリとしたり、ハッとする経験があると思います。無論、相手側が100%悪い時もあるでしょう。そんな時も含めて、是非皆さん、これも始めませんか? これを始めることで、却ってヒヤリ・ハットが減るかもしれません。そのノートがお医者さんに皆さんが自分の症状を説明するのに役立たないことを祈っています。この逆説的な言い方、理解してください。