秋になりました ー 漢詩をひとつ紹介します (36 坂野純一)

やっと秋らしい青空も見え始めてきました。
遠藤兄、後藤兄の紀行文も拝見していますが、みなさんお元気そうでうらやましい限りです。先般ミドリから 「下町タウンウオーク」のメールももらったのですが、今の体調では、とても参加できず情けなく、悔しい思いに替えて、秋の漢詩をご紹介して視たいと思います。

芭蕉の最晩年の句に「この道や 行く人なしに 秋の暮」があります。この句は、唐の詩人 耿湋の「秋日」と題する五言絶句から想を得たものと言われています。

返照入閭巷  返照 閭巷に入る

憂來誰共語  憂い来たって 誰と共に語らん

古道少人行  古道 人に行くこと少(まれ)に

秋風動禾黍  秋風 禾黍を動かす

夕日の照り返しが冷たく村里に差し込んでいる。  この静かな光景に憂が沸き起こってきたが、共に語る人もいない 。荒れた古道は、通る人もほとんどなくてただ秋風がさわさわと稲や黍を騒がせるばかりである。

元大蔵官僚で、池田隼人蔵相の時、事務次官を勤めた長沼弘毅という人がいます。旧制静岡高校から 東大法学部。講道館柔道七段 退官後は実業界ヘ転じ、博識で知られ、文芸評論家としても活躍。次官時代のエピソードとして、役所の仕事は午前中に終え、午後は労働法の研究、夜は宴会に付き合うこともなくシャーロックホームズの研究に没頭したと言います。アガサ クリスティーの翻訳でも知られます。

彼はこの詩では、「返照 閭巷に入る」〜夕日が赤々と村里を照らす、〜と叙景に、やや、具体性を持たせ、結句では「秋風」に配するに「禾黍」をもってしている。これでも淡々たる筆致で「ことば少なし」といえるであろうが、芭蕉は、あらゆる点景物を一切、切り捨てて「行く人」までも抹殺してしまっている。こういう句には、なにものかを登場させなければ、さびしくて堪らないものであるが、芭蕉は、思い切ったつっぱなし方で、寂寥の光景を力強く歌い上げている。「この道や」の初五などは、珠玉のごとく光っている。さりげない奔放さというのであろうか。あるいは、凝りに凝った遂行の跡というべ きであろう。 何れにしても脱帽。と評しています。

新潟出身で、早稲田大学を出た歌人に会津八一という人がいます。彼の歌集の中に「印象」としてまとめられた漢詩に想を得たものがあります。

かって唐人の絶句を誦しその意をもって和歌二十餘首を作りしことありちか頃古き抽斗よりその舊稿を見出し聊か手入れなどするうちにここに九首を録して世に問うこととなせり。或はこれを見て翻訳 というべからずとする人あるべしまた創作というべからずとする人あるべし。   これを思うてしばらく題して「印象」という。されど翻訳にあらず創作にもあらざるところ果たしてなにものぞこれ予が問わんと欲するところなり

そして前述の耿湋の「秋日」を次のように歌っています。

いりひ さす きび の うら は を ひるがへ し           かぜ こそ わた れ ゆく ひと も なし

亡父の残した八ヶ岳山麓の小屋に 三本のヤマモミジの大木があります。時期になると真っ赤に紅葉し、タイミングによっては赤、オレンジ、緑のグラデーションを見せてくれます。十年ほど前には これを楽しみに出かけていましたが、最近では、出かけるのが億劫になって、寒いことも重なりすっかりごぶさたです。

 

 

 

18日の単独行、もうひとりいたよ! (36 遠藤夫士男)

中止を知らずに月一高尾を一人で歩いてきました。

18日は快晴、10:00に稲荷コースからスタート、幼稚園、小学校低学年パーティー多数。11:05山頂。

頂上直下の階段上りでかいた汗を拭いて11:15発、紅葉平へ。紅葉が始まっているように見えるのは、どうも塩害による葉枯れの模様。昼食には早いので細田小屋の250円のなめこ汁をパスして小仏城山へ。

12:10城山小屋。残念ながら店休み。200円のなめこ汁とかき氷にまたもやあぶれ。握り飯も早々に小仏城山東尾根コースを下り、日影沢14:04のバスで高尾駅から帰宅。

約2万歩でした。

遠藤夫士男拝

高尾山へスケッチに行ってきました (36 後藤三郎)

三増峠遠望

天気予報がはずれたので家も近いことから今朝思い立って、単独で高尾山に出か けてみました。10:45分に高尾山口に到着、直ちに6号路(琵琶滝)から自 分のペースで歩きました。5-6組の元気な人に追い越されましたが、
12:05分位頂上に立つことが出来ました。天気は高曇りで丹沢の大山や主峰 (塔が岳)は雲がかかっておりましたがそれなりの眺望は楽しめました。

小学生の遠足グループや外人が目立ちました。昼食を軽くとり3号路を一気に下山して 3:00時に自宅(千歳烏山)に戻ることが出来ました。途中で父の故郷である 神奈川県愛甲郡愛川町にある三増峠(昔の武田と北条が戦った古戦場)が茶店か ら見えたので記念にスケッチを描きました。

(10月18日の経過)

昨日は残念でしたが歯医者と来客の予定を入れてしまっていたので参加できず、晴れた空を見上げて悔しい思いをしてました(中司)。

昨日も中止にしました。5回目の中止です。私が17日朝8時ごろ 八王子の一時間天気予報を見たら 10時から12時は小雨 18時からも雨でしたので 堀川 藍原さんと連絡し中止とし 参加者10人ほどに電話をし了解してもらいました。実際は 天気予報ははずれて 曇り時々晴れでした。 少し早まりすぎたかしれませんが皆にはご勘弁を。後藤さんは 当日雨が降りそうもなかったので ご自分の判断で一人でいったものです。また中川芳子さんは なぜか17日なぜ誰も来ないのかと思いながら 稲荷山コースを一人で歩いた来たそうです(岡沢)。

変更は知っていたのですが…以前は意識しなくても、変更できていたのですが;惚けがきたようで^-^保育園児100人と稲荷山コースを歩き、追い越されることはあっても、休んでいる人以外を追い越すことはなくもみじ台の楓は梢がうっすら初紅葉でした。お陰様で風邪っぽかったのが抜けました(中川)。

 

 

閑人会 四国ワンデルング報告 (44 安田耕太郎)

剣山山頂にて

還暦の年の槍ヶ岳からこれまで12年間、 S44閑人会は毎年夏から秋に山行を実施してきた。今年は9月下旬に四国の大塚国際美術館(6名) 剣山(15名) 石鎚山(18名) 道後温泉懇親会(20名) しまなみ海道サイクリング(11名)を楽しんだ。因みに槍ヶ岳以降行ったプランは有志のみ参加山行を含め、剣岳・立山、白神山地、富士山(2回)、キリマンジャロ、台湾玉山(新高山)、台湾雪山、ボルネオ島キナバル山、雲ノ平、白峰三山、四川省大姑娘山、白馬岳、熊野古道、白山、出羽三山と三田会夏合宿、春・秋W、浅貝詣、個人山行を加えると、結構な数だ。 

安田を含めて6人は一日早く22日、鳴門の大塚国際美術館を観るため徳島へ。世界25ヶ国・190余の美術館が所蔵する西洋絵画1000余点をオリジナルと同じ大きさに複製し展示する陶板名画美術館。
システィーナ礼拝堂

システィーナ礼拝堂(ミケランジェロ)は建物内部も実物大で複製!陶器の板の上に焼き付けるレプリカとはいえ世界の名画が実物サイズで一堂に会する。原画展示とは異なるが、ダ・ヴィンチの同題の2つの異なる作品「岩窟の聖母」はロンドン・ナショナルギャラリー所蔵とルーヴル所蔵が並べられ、ミラノの「最後の晩餐」は修復前と修復後が比較展示されている。

原画と違い色彩の劣化や変化は2000年間はないとのこと。写真撮影OK、触ってもOK! 万歩計の数字は裕に一万を超え、き登山前のいい準備運動にもなった。夕刻には本隊も到着、総勢15人となる。夕食後、徳島が誇る阿波踊りを見学。
24日8時過ぎレンタカー4台で剣山に向かう。2時間走って登山口の見ノ越1420mに到着。10時半 登山開始。と言っても1750m地点までリフトに乗る。 頂上955mまで標高差205m、百名山では筑波山 伊吹山 大台ヶ原と並び、最も登り易い山のひとつである。
石槌山頂にて

25日、西条駅前よりバスにて石鎚山登山口へ。西日本最高峰、富士山 立山 白山 大山 釈迦ヶ岳 大峰山と共に日本七霊山のひとつ。52年前の3月、笹ヶ峰から伊予富士 瓶ヶ森(吉野川源流)経由で頂上を目指したが、春のドカ雪で頂上直下二の鎖で断念。それ以来の雪辱戦。ロープウェイとリフトを乗り継いで、,300mの歩き出し地点・成就社に到着。霊山に相応しい佇まいを感じる。NHK「グレート・トラバース」でも紹介された人気の山、有名な一の鎖、二の鎖、三の鎖辺りは混雑を予想したが、三連休明けの平日で存外空いていてマイペースで登れたのは良かった。

石鎚山遠望

痩せた稜線がおっかない最高峰天狗岳への挑戦を思案するも、霧で視界が悪い上に、時間も遅くなってきて断念する。周囲を露払い・太刀持の峰々に囲まれ、深山幽谷ともいうべき風景に胸を打たれる。下山は登って来たルートの反対側をその日の宿・土小屋まで下る。予定より遅く午後4時頃到着。山中泊ということで期待してなかった風呂に皆 大喜び!前日登った四国のもう一つの日本百名山・剣山が女性的な山容であったのと対照的に、霊山の神秘性を醸し出す石鎚山の男性的な勇姿とその懐を歩けた感慨を胸に早めに床についた。

ピラミッダルな天狗山を望む

翌26日、土小屋(1400m)から松山へ向かうバスの車窓から厳かに天に向かって聳える三角形の天狗岳の威容を堪能して松山道後温泉の宿に入る。

松山道後温泉で2人が加わり集団は20人に膨らんだ。午後は自由行動で、松山城、司馬遼太郎記念館、秋山好古・真之生家、子規記念博物館、道後温泉本館などに各自足を延ばす。夜の坊ちゃんの湯での懇親会では、卒業後50周年を来年に控え、仲間が健康で斯くも楽しく和む宴会が出来る幸せ感に浸った。
 
道後温泉での親睦会

27日(6日目)朝、解散式後、11人はしまなみ海道サイクリングへ、予讃線・今治波止浜駅に向かう。21段〜27段の変速ギア付きロードサイクル自転車とヘルメットを借り、初体験の長距離サイクリング開始に逸る気持ちはツール・ド・フランス! 7つの島を通り尾道まで寄り道しなければ70Kmの道のり。島と島は西瀬戸高速道上の橋で繋がっており、高さが海面から45〜80mあり、たどり着く橋の上の走行は、五臓六腑の垢が全て吐き出される感すらする気持ち良さ!渡る橋の総延長は10Km。瀬戸内海の島内のサイクリング、潮の香りを嗅ぎながら自力走行で風を切る素晴らしさ!初日のハイライトは、世界で類をみない全長4Kmを超える三連吊り橋の来島大橋、中世 瀬戸内海を暴れまわった村上水軍本拠地と水軍記念館見学。自然の要害ともなった流れの速い渦潮の海流を、走行しながら真近に見るのは迫力満点。島と島を結ぶ橋以外は島内の一般道を走るためローカル色豊かな景色と雰囲気を愉しめ、外国人を含む多くのサイクラーが行き交う。しまなみ海道の特長は大部分が自転車専用道路であり、完備された標識が安全な走行を助けてくれることだ。初日は30Km程走り三つ目の島・大三島にある和風宿に投宿。半端ない瀬戸内海の海の幸に仰天した。

28日、天気晴朗にして波穏やかな瀬戸内海、絶好のサイクリング日和。この日は島中央の高いところにある天照大神の兄神を祀る大山祇神社を、汗をかきかき訪れる。島の大きさにしては不釣合いな程に立派な神社であった。途中、好事魔多し、1台がパンクしたが運良くレンタサイクル・ターミナルが近く、自転車の交換が出来て事なきを得た。生口島(いくちじま)は、唯一平坦な道路で海岸べりを快調に走り、島出身の画家平山郁夫の記念美術館を訪れひと息入れた。サイクリング二日目の宿泊地・因島へは5つ目の生口島大橋を渡って辿り着く。午後になっても快晴だった天気予報は翌日100%雨、台風24号の接近を知らせていた。雨中の自転車走行は御免被りたいと、翌日の走行は諦め二日目終了時点で返却することにした。返却場所から10Km以上離れたホテルへは一時間一本のバス、最寄り停留所まで迎えに来てもらい午後4時過ぎ到着。ペンションと言った方が正確な瀟洒な建築家ビル・ヴォーリス設計の広島の建築100選に挙げられる古いが素敵な建物。11人の贅沢な貸切宿泊。合宿の最終7夜目、素敵に美味しい料理を饗され大満足で最後の夜が更ける。夜半窓を叩く大きな雨音に何とはない安心感を胸に眠りに落ちた。因みに泊まったのは著名人も利用する「白滝山荘」。
白滝山荘にて記念撮影
 
29日(最終日、8日目)、天気予報通り雨。しまなみ海道全行程完走は断念せざるを得なかったが、走行距離はアップ・アンド・ダウンありの60Km、海面上50mの天空の橋を走る解放感の醍醐味あり、潮風を受けて爽快感一杯に漕ぐペダル回転数は毎日15,000余!未知なる体験は忘れがたい思い出となった。今治から尾道に至る各地には造船所があり、穏やかな瀬戸内海風景に硬派のアクセントを与えているのも「しまなみ海道」の特徴の一つだ。最終日は雨の中、バスで中国本土へ、新幹線で帰路についた。一日違いで台風襲来、間一髪だった。
 
登山、サイクリング、美術館と松山市街巡りに懇親会と、バラエティーに富むハードとソフトの組み合わせ、皆の和のたまもの!おまけに西日本豪雨の風評被害の影響緩和、旅行需要の喚起のため愛媛・広島両県にまたがり連泊した者に一泊あたり6,000円の補助金を支給する施策の恩恵を受ける幸運にも恵まれた。
あと何回皆で一緒に行けるか?来年の合宿はどこになるのかな?

慶応高校野球部はなぜ強くなったか? (50 YHP 菅井康二) 

(今年の甲子園での慶応高校の活躍は塾関係者にとって素晴らしいニュースだった。本稿の筆者は50年工学部機械工学科卒、YHP(現日本HP)でPC分野のエンジニアとして活躍、同時に長年にわたり高校野球マニアをもって任じている。同君はこのブログの出発時点から技術的サポートを提供してくれている間柄でもある。本稿について質問などある場合は下記まで直接ご連絡を歓迎)。

kohji.sugai@gmail.com   http://facebook.com/kohji.sugai

 

甲子園に翻る塾旗

今年の慶應義塾高校(以下塾高と略します)野球部は10年ぶりに春夏の甲子園に2季連続出場を果たしました。10年前の20089年は春・夏・春3季連続出場し今年の新チームも期待されていたのですが106日の秋季神奈川大会準決勝戦で9回表まで横浜高校を10でリードするもその裏に劇的なサヨナラ2ランホームランを打たれて惜敗しました。

1960年、後に東京六大学初の完全試合を達成した渡辺泰輔投手を擁してベスト8まで勝ち進みましたが、その後長きに渡り甲子園から遠ざかっていた塾高が2005年に選抜甲子園に45年ぶりに出場出来たのは、2003年に導入された推薦入試制度によって入学した才能に優れた生徒たちの活躍のお陰でした。この推薦入試制度での募集人員はトータル40名でスポーツ、文芸、音楽、などで優れた実績をあげ中学校の成績評価が38以上(9教科でオール5だと45になります)の者が出願資格を有するというものでした。塾高の野球部は40名中10名程度の枠があるようです。この推薦入試の第1期生の代のチームが秋季関東大会ベスト8という成績をあげ東京・関東から6校という枠の6番目というギリギリではありましたがいきなり選抜出場校に選ばれたことは多くの野球部関係者を驚かせました。

中越戦、宮尾遊撃手のサヨナラヒット

この制度導入以前は中等部や普通部で軟式野球をやっていた内進生達は当然のように塾高野球部に入部していたのですが「全国から野球エリートが入学してくるようになるとベンチ入りは難しい」と判断した運動能力に優れた一部の生徒がアメフト部に流れました。それだけが原因とは言いきれませんが塾高アメフト部は2005年のクリスマスボウルでは22年ぶりの優勝を果たし日本一に輝くという面白い結果をもたらしました。

横浜高校の前監督の渡辺元智氏や元野球部部長だった小倉清一郎氏は「慶應が本気になって(選手を)集め始めたら手強い相手になる」と危機感を抱いていました。世間的には「慶應(塾高)もついに全国から選手を集めはじめた」と見られているようですが実際にはそう簡単に言い切れるものとは言えません。

この推薦入試制度には大学のAO入試同様、慶應義塾としての矜持が保たれ、そこそこ勉強の出来る野球少年にとってはかなりの高いハードルのようです。横浜、東海大相模、桐蔭学園などのような神奈川の野球強豪校がやっている野球推薦入学制度、所謂「スポーツ推薦」は中学校時代の競技実績に基づき監督や指導者の判断で実質的な内定を出し、後に形式的な面接試験するというものです。塾高では内定は出さないので監督や部長は入学を希望している本人や保護者にどれだけ優秀な実績があっても合格の保証は出来ないので、落ちた場合のことも考えておくようにと念を押しています。実際にかなり優秀な実績を上げた選手でも不合格になった例があり、また当該部活の部長・監督など関係者は推薦入試の合否判定には加われないことになっています(それが原因で数年前に監督が「キャッチャーを6人も取ってくれた!」と嘆息していました)。通常、この種の推薦入試で合格した場合は当該部活に入部する義務が生じますが塾高の場合はそれもなく、従って塾高では大学と同様「スポーツ推薦」という言葉は使っていません。早実にも推薦入試制度がありますが、必要とされる成績が36/45と塾高よりやや低く合否の判定には野球部の監督の意向がかなり強く反映されているそうです。

38/45という内申点をクリアした受験生は面接とその場で与えられた題で少人数でのグループ・ディスカッションを行い、中学生時代の実績(野球の場合はチームが全国大会でベスト8以上のメンバー又は国際大会のメンバーに選抜された選手というレヴェル)と合わせて合否の判定がなされます。

雄叫び挙げてサヨナラホームインする善波捕手

中学時代に野球をやっていたが要求されるレヴェルの実績を上げられなかった受験生の中には陸上競技など他競技での成績との「合わせ技」で合格を勝ち取った生徒もいました。中学時代に野球をやっていた生徒が全国レヴェルの作文コンクールの成績でこの推薦入試に合格したのですが、2005年の選抜大会の初戦ではこの選手がサヨナラヒットを打ったということが私が記憶しているユニークな一例です。

塾高には授業料免除などの特待制度は全くありません。生徒の保護者という立場では大学を含めると7年間の学費、用具代や遠征の費用、さらに地方出身者の場合にはそれに食住の費用(塾高野球部は合宿所や寮は持っていません)なども加わりその負担は半端な金額ではありません。また野球強豪校のようなスポーツ・クラスは設けていないので、学力的な水準ををクリアした野球少年達とはいえ塾高の授業についていくのはかなり大変だそうで、成績も普通の生徒と同じ基準で評価されます(日大三高のスポーツ・クラスなどは教科書も一般のクラスとは違い、授業も中学校の復習程度の内容のようです)。野球部の部長や監督は成績の芳しくない野球部の生徒の保護者には留年するよりは安いので必要に応じて塾に行かせるなり家庭教師をつけてください」と言っています。現在でも塾高では試験成績の平均点が10点満点で6点に近い5点台の点数があれば進級できますが、5点台半ばで進級会議において、レギュラークラスの選手でも留年したり放校になったというケースが実際にありました。

大学入試が無いという大きなアドヴァンテージがあるにしても、塾高というそれなりの制約のある環境において神奈川や全国の強豪校に互する実力を養うということは選手・指導者双方ともかなり大変なことも事実です。

甲子園入場式

三国山荘―60年前のことども (35 森田半兵衛)

今回の60周年記念山荘祭、それが現役中心で実施されたことが大変嬉しかった。山荘は現役が管理運営する。そして現役のワンダーフォーゲル活動の中心にあるべきだと今も思っているからである。

60年前、資金(積立金)の不足を補い、山荘建設へ部員が直接参加する意味をこめてワークキャンプを6月に2度、実施した。下級生も参加し、山荘を自分たちの手で作るんだということが、夢のような話が、いよいよ現実になりつつあると感じたことだった。

棟上げ式もすみ、夏休みに入ってすぐ、妹尾さんと二人で山荘の建築現場に入った。屋根は出来上がっていたので2階に2帖ほどの板を張ってもらい、ローソクの灯で一夜を過ごした。結果、少人数での使用には充分であったが、スキー合宿、雪山合宿には炊事場が狭いと判断し、二人合意の上、独断で炊事小屋を作ることにした。追加工事費は40万円、当時のわれわれの感覚では大金であった。工事を担当してもらっていた野中建設の野中さんからは、妹尾さん、森田さん、支払いは卒業してからでいいからと言っていただき、有難く甘えさせてもらったが、この炊事場がスキー合宿、浅貝BHの時、大いに役に立ったのである。

その10月、われわれ三年生が委員会を担当することになり、正月のスキー合宿を三国山荘でやることを決定し、私がリーダーになった。11月末のワークキャンプで山荘内の整備,薪作り,薪挙げ(平標小屋へ)、スキーゲレンデの整備をおこなった。当時、浅貝にはスキーゲレンデというものがなかったのである。いまの別荘地のあたり、まばらに生えていた雑木を伐採し、切り株が出ないように(スキーが引っかからないように)して300mくらいのゲレンデを作った。浅貝合宿の参加希望者は70名で、50名収容の小屋ではきついとは思われたが何とかしようと決心。薪もできたので寺家幸一をリーダーにクリスマスワンデルングと称して入荘、正月合宿のためのボッカを行った。このとき、浅貝には雪に関するデータが何もなかったので、百葉箱を持ち込み少なくとも冬の合宿、3月の浅貝BH(L.畠山有敦、40名参加)の間、2時間おきに気温、湿度、風向、積雪を調べた。このデータはのちに苗場スキー場を開発した西武・国土開発の方が部室まで訪ねてこられ、ぜひ提供してほしいといわれたものであった。

水は山荘の真裏の上水が勢いよく流れていて決して凍結することはなかった。電気がひけていなかったので、ランプを20個くらいつるし、暖房は薪ストーブ、全く静かな世界だった。浅貝の部落もよく訪問した。本陣(唯一、電話があった場所)、弁次さん、タバコ屋などで、各家庭も17号線の開通と電気がくることを楽しみにしていたものである。

あれから60年。浅貝は全く変わった。しかし山荘は現役にしっかり引き継がれているのだということを感じたことであった。

三国山荘―思い出すこと  (36 後藤三郎)

今回久しぶりに三国山荘に赴き60年の時間があっと言う間に過ぎたことや小屋の周辺が立木も含めてすっかり変わったことを改めて実感しました。

考えてみると小屋が建設される前に畠山さんがリーダーで昭和33年4月に雪の深かった三国峠を越えて現在の小屋がある辺りを歩いたのが最初の思い出でした。当時小屋の候補が数か所あり、委員会で最終決定する為の調査行だと畠山さんがおっしゃっていたのが今も思い出されます。今回宿泊した三国荘の女主人が我々と同い年(当時20歳)だったようですが、浅貝本陣の格式が高く当時は我々が宿泊するなどとんでもないと言う感じで、隣接する旅館(高野弁次さんが柏屋旅館と後日名乗った)に泊めて頂き周辺を歩き回った記憶があります。

小屋の工事が始まったのは雪が解けてからで同期の小林章悟君の大活躍を今も鮮明に覚えております。河原から基礎の下にひく石を運び建設費用を節約する為に度々ワークキャンプと称して若手が労働を提供したことが思い出されます。小屋が完成して小学校の体育館でミーテイングを持ったこと、リーダーの今は亡き妹尾さんが”Caro mio ben”と言うイタリア歌曲を原語で歌われたことが驚きでした。”いとしい、私の恋人”と言う名前のこの曲をワンゲルのミーテイングでしかも誰もが恐れられるほど屈強な山男が歌ったのですから・・。その後本人にその話をしたら”俺は覚えていないよ”と言われたのですが・・・。先日数えてみたらチビさん主導の登山道開発のお蔭もありこの60年間でほぼ60回ほど浅貝と小屋に出かけたこと(正確な記憶ではありませんが)で偶然ですが60年間の区切りだったのかもしれません。

最初のスキー合宿で食当を命じられ、後閑の駅前の八百屋さんに飛び込み野菜の調達をしたのが契機となり、以後ワンゲルの部員たちが優しい女主人にお世話になったことも佳き思い出となりました(残念ながら昨年お亡くなりになりました)。

武相国境に魔の山あり 四たびKWVの挑戦をはばむと

魔の山の位置
堀川発メールにいわく:
月いち高尾の実施の決定は二日前の午後10時とさせていただいています。
今回の生藤山については二日すなわち昨夜の10時までに中止の場合は連絡することになるわけですが、昨夜の段階で種々の天気予報から21日の生藤山は午前中は雨模様ながら降雨量が2mm(2㎜の降雨量は雨模様ではありますが霧くらいの状況です)午後から快方に向かうと判断し、決行することにしていました。
しかしながら、本日、私は千葉におりましたが2時半以降思っていた以上の降雨があり、これでは、よしんば明日の予想が従来通りであれ、山道は相当歩きにくい状況になるのではと思い、中止することに致しました。
4回目の生藤山行の企画がでしたが、すべて雨のため中止となりました。私の不徳の至りです。しばらくは生藤山への企画はやめます。(頭にきた!!!)
三嶋返信にいわく:
了解で~す。天気に恵まれず かなか行けない山ってありますよね。
4回目 来年までは消灯山。

針ノ木―種池を歩いてきた (40 河合国尚)

毎日眺めた立山連峰

L. 藤井 参加者 下井、武鑓、河合  計4名、8/20(月)スーパーあずさ19号にて新宿発、現地泊。

8/21 (火)

登山口6:50⇒8:30大沢小屋⇒14:05針ノ木小屋

実働時間:5:15 標高差:2536-1433=1103㍍ 歩程:5㌔

扇沢バスターミナルに向かって左側にある関電通路の左側の登山口に届けを出して出発。針ノ木自然歩道の樹林帯の中を歩く。途中4回も舗装道路を横切る。また沢も3本渡る緩やかな道で大沢小屋までは順調だった。途中、雨がぱらついたが、すぐに止んだ。しばらく行くと大きな沢に出て、簡易な橋を渡り右岸を登り、沢の中や高巻き道を行く。ノド部の手前で初めて雪渓を約20㍍横切って左岸に渡り、いきなり岩場になった所を3箇所の簡単な鎖の助けを借りてノド高巻きルートを行く。このあたりの雪渓はスノーブリッジが崩壊し、真ん中が崩れ落ちており、迫力のある眺めになっている。この通過には少し時間を要したが、雪渓の上部へ出た。

針ノ木雪渓を行く

このあたりから雪渓にはいつもの霧が出て峠が見えない。2つの沢を越え、再び右岸に渡る。マヤクボ沢を右手に見て、レンゲ沢を越えると傾斜が急になり、ザレた登山道をジグザグに登ると雲が取れ、峠と小屋が見えた。30~40分で短い休憩を取りながら、バテバテ状態でやっとの思いで小屋に到着した。ビールで乾杯しながら、赤牛や水晶を見た。槍は夕食後に姿を見せた。

8/22(水)

針ノ木小屋6:10⇒7:40針ノ木岳8:00⇒9:30スバリ岳⇒12:40赤沢岳(昼食)13:00⇒14:50鳴沢岳⇒16:10新越山荘

実働時間:7:20 コースタイム:5:10 標高差:上285㍍ 

針ノ木岳⇒スバリ岳 歩程:900㍍、標高差:下155㍍、上:86㍍、

下りと上りに岩がゴロゴロして足場が悪く、慎重にならざるをえない。途中、小スベリというコブを通過したこともあったが、ここもまずまず。

スバリ岳⇒赤沢岳 歩程:1.5㌔、標高差:下292㍍ 上:218㍍

ここからが問題でコースタイムの倍もかかっている。距離があり、標高差も上下でそれぞれ200㍍以上、通過に2時間はかかりそうな上、赤沢岳の手前で岩を攀じ登る所があり、時間を要す。ピーク手前で小休止。堪えることが苦しくなりすぐ楽になりたがる。そろそろ山から卒業する時が近くなった実感を持った。

赤沢岳⇒鳴沢岳 歩程:1.3㌔、標高差:下132㍍、上95㍍

1:00のところ+0:50分。ここも倍近くかかっている。存外、距離があり、昼を過ぎ、バテがきていた上、ピークからすぐだと判断して小休止したら、地形を読み間違い、ピークまでにもう一本、小休止を入れてしまい時間がかかった。

鳴沢岳⇒新越山荘 歩程:1㌔、標高差:下176㍍

今日は絶好の天気、風もなく、気温も18℃前後で汗も多くはかかず、一日中、裏裏の山、特に立山、剣はすぐそこに寄り添って、大きく見えていた。こんな天候は経験がないと言っても良く、夏だというのに澄んでいたのも幸運だった。針ノ木への最初の上りはいきなりの急登で目覚めていない体にはきつかった。途中から山の右側を巻くようにのぼり、最後は尾根に取り付き、山頂にでた。ここからの眺めは富士山、八ケ岳、南ア、妙高、浅間、北信5岳、槍、穂高、表銀、水晶、黒部五郎。東側に薬師、立山三山、大日、剣。北には爺、鹿島槍、五竜、唐松、白馬三山、朝日、雪倉から日本海と360度の眺望が楽しめた。

このあたりの花はもう終わっていた。針ノ木からの下りは急な岩場の下りだが、慎重に下りれば道は良く整備されている。小さなアップダウンがあったり、ガレている所を通過したり、変化のあるルートになっている。スバリへはジグザグの道を少しやれば着く。ここからの下りを過ぎれば尾根の少し西側に道がついており、安曇野側からの風もまともに当たらないが、時々、尾根の上に出ると安曇野側が鋭角に切れ落ちているところがあり、風が強いと嫌な所が何箇所かあった。

小屋に着いてからビールで乾杯(2人しか飲まない)したが、銘柄を特定しているのに違う銘柄につい手を出してしまいう。会社への忠誠心はどこへ行った?遅くの到着で5時の夕食が早かった。小屋は針ノ木も一緒だが、水に苦労しており有料で、歯を磨くのは省略、トイレはきれいでいずれもバイオ式。明日は下りるだけ、くつろいで楽しくやっていたら、隣の若者から注意されてしまった。明日から天候が悪くなるためか、小屋は空いており、ゆっくり休むことができた。

8/23(木)

新越山荘5:50⇒7:00岩小屋沢岳⇒9:05種池小屋⇒13:00扇沢⇒(タクシー)⇒13:30信濃大町14:13⇒15:12松本15:19⇒(あずさ24)⇒18:07新宿

実働時間:5:30 コースタイム:5:30 歩程:8.2㌔

今日も晴天、昼から雨予報だったが、ピーカンで扇沢に下りてからタクシーに乗ったあと、通り雨が降っただけだった。

小屋から尾根道を登り、途中から巻道に入り、新越岳を巻き、ゆるやな道を行くと岩小屋沢岳に着く。立山と剣がますます近く、威容が印象的だ。そこからはしばらく下りが続き、ハイマツと樹林帯の中を行く。種池小屋が同じ高さに見えるが、下りはもう少し続く。下がりきってから少し登ると小さな種池に出る。そこからまたひと上りして左の巻道を行くと小屋に飛び出す。小屋から爺がきれいな山容を見せているが、誰も往復しようとは言わなかった。途中、ガレ場があるが、問題なく通過。この柏原新道には「富士見坂」「駅見岬」「水平岬」「ケルン」など道に名前が付けられており、長い道で飽きないように工夫されている。あまりおいしくない昼食を済ませ、タクシーを13時で予約したが、なんと、ぴったりで下り。最終日だけが想定通りで歩けたのはどうしてだろうか?

今回のターゲット、針ノ木岳の雄姿
(中司―河合)
針ノ木は高校三年生のとき、立山のほうから縦走して黒部川へ降り、当時まだあった ”平の渡し” のかごで黒部を越えて針ノ木へ出ました。その後、KWV 2年の10月、新弥と鹿島槍から縦走して降りたのが記憶に残っています。この間の西穂で、北アは終わりにしました。同期の中島(きんちゃん)と行って、小生だけ具合がおかしくなり、登頂はあきらめた、因縁の笠ヶ岳が北の見納めです。
(河合―中司)
今回、平の渡しへの道を見ましたが、もう我々には無理なのでやめました。私はいつもこれで最後かな、と思いながら登っています。ジャイさんに連れていっていただいた八ケ岳で再び、山を歩けるようになり、はや7年が過ぎようとしています。

9月高尾山月例報告      (39 堀川義夫)

好もしい森の道。稲荷尾根といいくみあわせになりそうだ

実に4月以来、4か月ぶりに ‘月いち高尾’ を開催。5月は総会とバッティングし、6月、7月ともに天候に恵まれず幹事団としては行いを改めないと高尾の天狗に睨まれ、てこの後も月いち高尾は実施できないのではと懸念してしまいました。5月、6月、7月は3回連続で生藤山を目指しましたが3連敗になりましたので気分を変えて未踏破の日影から小仏城山東尾根コースにチャレンジしました。(昭文社の山と高原の地図では破線で道標のないバリエーションルート、コースタイム登り1時間40分となっています)

 

日 時 2018年8月22日(水)

参加者 平松、小泉、椎名、翠川、後藤(三)、岡沢、三島、堀川、多田、藍原、浅野、伊川、関谷、川名  以上14名  (36遠藤は当日所要のため前日の21日に単独踏破)

 

路は快適に整備されていた

高尾駅北口10時集合。10時12分発のバスで日影バス停下車。日影林道に入って50m位でルート入り口がある。何回も通過しているが意外な登山入り口で気を付けていないと見落としてしまいそうだ。木立の中をゆっくりと登って行く。蒸し暑い! でも尾根筋に出ると結構風があり快適に登る。静かで人に合わない。また、高尾山の知られざるルートを知ることができました。

3人の長老たちも頑張りました。多少時間は

長老英気を養うの図

大目にかかりましたが、熱中症になることもなく1時ころに城山着。待望のかき氷に舌鼓。私は大盛400円に挑戦しましたが、途中で頭が痛く、舌の感覚がマヒするようでした。昼食も済ませ1時40分小仏経由で下山開始。小仏バス停14時55分着。舗装道路に到着出る前に消防署の赤いオートバイが2台登っていき、登山道入り口に数台の救急車や消防車が物々しく待機している。

聞くと上で熱中症らしき人が居て救助要請があったとか?それにしてもすごく大げさに感じましたね・・・!!15時10分のバスで高尾駅北口着。11名参加で久しぶりの天狗へ!ビールが旨い!!!

Satisfaction !!
9月は21日の金曜日の予定です。詳細の企画は9月10日頃にお知らせします。皆様、万障お繰り合わせの上、ご参加ください。
特に、最近オーナーであるナンカナイ会の参加者が少なくなったように思います。奮って、参加してください。