”パタゴニアレース”放映

先に紹介したパタゴニアレースの実況が放映されると安田君から連絡があった。

以前パタゴニアレースの件はお伝えしたかと思いますが、12月26日(水)深夜午前0:10分からTBS系列番組「クレージージャーニー」でレースの模様が放映されます。田中陽希所属のプロレーサーチームの一員として甥が初参加。男3人女1人のチーム。陽希は300名山踏破中で不参加。下記のURL中の次回予告クリックして参照して下さい。
世に中には好き者がいるものだ〜、と思います。

関西有志忘年会の報告 (41 田中透)

平成30年12月14日(金)快晴、朝10時半JR明石駅改札口に関西有志の15名がぞろぞろと揃いました。ひとりは東京杉並から、ひとりは山口防府から、ふたりは
岡山から、残り10名は大阪・京都から、そして地元明石からは御大出張っての関西有志15名による淡路島岩屋での初忘年宴会へのスタートです。

明石港を11:00にフェリーは出発、15分後明石大橋をくぐった先岩屋港に到着、目の前の活魚料理割烹「源平」2階・貸切の間で初忘年宴会の始まりです。

先ずは会の主旨説明、「関西有志が淡路島岩屋で達者である事を年一確認する」会。又、選ばれし有志の選出はどの様な基準でとの問い?には、それほどたいした意味はではなく、ただただフェリー団体乗車最少人数15名を割りたくないだけで、ドタキャンがなさそうな人を勝手に選んでの有志であると説明あり。見事ドタキャンなく全員揃ったのはさすがでした!

冒頭、遠路東京杉並から日帰り自腹招待で参加してくれた河合デシさんを慰労しながら、御大の代行、益田ネリカンさんの音頭で乾杯! 割烹源平・魚会席を味わいました。

あとは、楽しく、飲み、食べ、喋り、又飲みを繰り返しながら、若きエース時代当時のわがままな想い出があちらこちらからと聞こえて来ました。皆さん、元気なKWVBAKA老人なのでしょうか?そして2時間半はアットいう間に過ぎ去りました。何かまだ居残りたい気分でしたが出航時間も迫り、集合写真1枚パチリ、締めは御大の「ヨオ~オ!」の掛け声一発、手拍子一発でお開きになりました。

この2‾3年KWV三田会は関西ブームで少々沸いております。年2回の日帰りプランではコース豊富で身近な歴史文化の地を訪ね、山に登り、温泉に入り、美味しいものを食べる…全てOK!なのです。

今回の有志による初忘年宴会は来年も、「関西有志岩屋会」と名称を変えて割烹源平で続く事になりました。開催条件は15名以上が揃う12月半ばの日程で、ドタキャンはしないと自信持てる人は全て資格ありです!(編集者質問:関西でなくてもいいわけ?)

参加者:石谷正樹(S39)、河合国尚(S40)、益田英昭(S40)、小山芳樹(S41)、下井健守(S41) 田中 透(S41)、藤本征機(S41)、松本好弘(S42)、田中ひろみ(S42)、山下日出夫(S43)、石井 始(S44)、関谷 誠(S47)、奥本耕三(S47)、榎本卓雄(S49)、水村哲也(S51)。

ことばの移ろい     (50 笹田敬雄)

・流行語大賞が年末の風物詩として定着して久しい。3年前の大賞は「神ってる」。万年下位に低迷していた広島カープの神懸り的な快進撃を称したものだが、翌年以降も連覇が続き、もはや「神懸かり」ではなくなったせいか、この言葉もいつの間にか消えてしまった。過去の大賞を振り返ってみても、いまだに寿命を保って広辞苑入りを果たせそうな言葉は意外に少ない。

・新語・造語はギャルや若者の専売特許だが、中高年から見ると耳障りなものも多く、言葉の乱れと映る。さしずめ「ら抜き言葉」はその代表例だ。「食べれる」「見れる」などの言葉を採用面接で使った学生は不採用にするという一流企業の人事課長の話も話題になったくらいだ。しかし時代は進み、すでに日本人の7割以上が「ら抜き言葉」を抵抗感なく受け入れたり使ったりしているという。(文化庁「国語に関する世論調査2002年」)。もはや多勢に無勢、市民権を得るのは時間の問題のようだ。

・新語、造語を言葉の乱れとみるか、変化とみるかはなかなか難しい問題だ。次の奇怪な文がおわかりになるだろうか。

「パルー ツンギーテー ナトウ キータルラチー チロタペノ カラマ ポチータリー アマノ カングヤマ」

これは持統天皇の詠んだ

「春過ぎて 夏きたるらし白袴(妙)の 衣乾したり天の香久山」

を金田一春彦氏が奈良時代の音で再現したものである。1300年の時の流れは、もはや変化などという生易しいレベルを超えているが、言葉の移ろいとはこういうことなのだろう。

・変化していくコトバに対する身の処し方としては、頑なにならず、かといって無節操におもねることなく・・・といったあたりだろうか。

金田一氏がどうやって奈良時代の音を再現したかはまた別の機会に。

 

 

ポピュリズムとは何か その2  (44 安田耕太郎)

イギリスの高級紙The Guardian)にポピュリズム関連の記事がシリーズで掲載された。ここで同紙は次のように言っている。

Populists tend to frame politics as a battle between the virtuous ‘ordinary ‘ masses and a nefarious or corrupt elite –   and insist that the general will of the people must always triumph.
( ポピュリスト達は政治は有徳な普通の大衆と邪悪な或いは堕落したエリートとの間の戦闘であるととらえ勝ちであり、人民の一般意志が常に勝利せねばならない、と主張する。)  。同紙によればポピュリズム台頭の大きな要因は3つある

第一は近隣諸国から流入する移民・難民の増加である。貧しい地域から肥沃で富んだ地域に移動するのは人間の性であり歴史の事実である。ローマ帝国滅亡の一つの要因として定説になっているのがゲルマン民族大移動である。移動或いは移住は100年から300年の長期間に亘り徐々にしかし持続的に行われた。後進国からの流入者の出世率の高さも人口問題を複雑化 深刻化させた。結果として、異民族の流入により帝国の政治的 経済的 社会的秩序維持が困難になって衰退 滅亡したのである (まず東西帝国に分裂395年、続いて西ローマ帝国滅亡476年。東は1453年オスマントルコによって滅亡)。ヨーロッパでは2015年の難民・移民急増問題がポピュリズム台頭に一層の拍車をかけた。この要因に誘発されたポピュリストは例外なく右派である。富んだ国アメリカを目指し中南米から行進して来て、メキシコ国境で足止めされている集団に対するトランプ大統領の一見冷酷な対応も同じ脈略で語られるべき問題であろう。何せ今世紀半ば以降にはアメリカでは白人を凌駕してヒスパニック系人口が多数を占めると予想されているのだから。ガーディアン紙は、移民・難民問題が現在のポピュリズム増殖の原因の一つと指摘しつつ、ヨーロッパはこの問題を的確に解決且つ制御していかなければ、ローマ帝国とゲルマン民族大移動の結末に似通った事態も中長期的(100年後、200年後)には起こりうる可能性もあると警鐘を鳴らしたのである。

第ニの要因は経済不況と貧富格差拡大の問題である。2008年のリーマンショック金融危機に起因する経済不況はポピュリズム台頭に多大な影響を与え、今日に至るまで、第一の移民・難民問題と深く関わりつつ、政治 社会を不安定 不確実にしている。経済不況によって蒙る悪影響の度合いによってポピュリストは左派と右派に分かれる。不況の影響を深く受けた国ギリシャでは極左SYRIZA党(急進左派連合)が2015年の選挙で36%を得票して、ヨーロッパでは唯一の左派ポピュリスト政権政党となった。ラテン系の南欧(イタリア スペイン ポルトガルなど)では左派ポピュリトが優勢であり、相対的に裕福な中欧・北欧ではポピュリストは右派が大半である。北に行けばより極右となる。ヨーロッパのポピュリストは約6割が極右派、極左派と中道が残りを半分ずつ分け合っている (貼付下図参照)。
第三の要因は、それまでポピュリストでなかった政治家や政党がポピュリストへ変更する 鞍替えケースである。最近の例としては、ハンガリーのFidesz党(ハンガリー市民同盟)とポーランドのLaw and Judtice党(法と正義の党)がこれに当たる。両党とも右翼であり、それぞれの国で国政を司る政権政党になった。空気の流れを読むに鋭敏な風見鶏であったのだろうか(安田コメント)。
第三に更にポピュリズムを産み、増殖させる土壌が今日の社会環境にある。
1.  個人主義的価値感の浸透が国民をして権力に束縛されたくない、解放されていたいと願わせ、独立 自立した立場で政治選択をするようになった。選挙する際の流動性 不確実性が確実に高くなり、ポピュリズムを標榜するポピュリスト政党へ投票する確率が昔に比べて高くなっている。
.  既存の右派 左派政党がイデオロギー論争を戦わせ、双方の具体的政策に鮮明な相違が目立たなくなり、且つ問題意識の高い市民の懸案事項に対して効果的対応が出来なくなってきた今日、選挙民は“どの政党も相違がなく同じではないか” と感じると同時に彼等の当事者能力に疑問も持つに至る。そのような状況下、ポピュリスト政党へ投票する傾向が大きくなってきている。
3.  危機が存在する状況下では、ポピュリストの態度がより強く顕在化する。例えば経済危機状況下では、本流の政党は “既成エリートが事態を混乱 悪化させたという類の批判” に対して大変脆弱である。更に、難民流入問題では、既成エリート政党が、国境を解放して難民を結果として招き入れ問題を惹起したにも拘らず、その後の対処が出来ていない、という批判に対して効果的な反論が出来ないでいる。ポピュリスト政党の付け入る隙が大きいのである。
4.  政権担当エリート達の堕落 不政がポピュリズム増殖の温床となっている。庶民は内向きで慇懃無礼な政権エリートに搾取 蹂躙されている、とのポピュリストの言い分は大衆の支持を得やすいのだ。このことは1990年代イタリアでまさに起こった政権交代で見られた。ポピュリストSilvio Berlusconi (のちイタリア首相を4回計9年間務めたシルヴィオ・ベルルスコー二)の台頭であった。フランスの超エリートマクロん大統領への大衆の反旗もその好例であろう。

ポピュリズム台頭の要因とそれを増殖させた土壌と社会環境を考察したが、最近の最も大きなポピュリズム関連の政治出来事と言えば、ポピュリストに牽引された英国のEU離脱とポピュリスト・トランプのアメリカ大統領就任であろう。ポピュリズム台頭の歴史と現状をみてみよう。ヨーロッパのポピュリズムの歴史は1956年オーストリアに於ける旧ナチ党員により組織されたFar Right Freedom党(極右自由党等)に始まった。1994年には20%を得票するまでに勢力拡大し、今日では連立政権の一翼を担っている。国連事務総長(1972〜81年)、オーストリア大統領(1986〜92年)を務めたクルト・ワルトハイムは元ナチ将校でポピュリストであったは定かでないが生粋の右翼であった。

1990年代にはノルウェー、スイス、イタリアでもポピュリスト政党が大きな成功を収めたが、真の成功が顕著になったのは21世紀になってからである。オランダ、フランス、ハンガリー、ポーランドへとポピュリズムの波が押し寄せていった。2000年代初頭より急速に躍進したハンガリーとポーランドの右翼ポピュリスト政権政党は前述の通り。その後、ほぼヨーロッパ全域で反既成政党を旗印に掲げるポピュリスト勢力は雪だるま式に増殖していった。特に2008年の金融危機とそれに続く経済不況、2015年の移民・難民流入問題がさらなる追い風となった。

ヨーロッパではポピュリスト政党の得票は1998年の7%から2018年には25%にまで増大した。即ち、4人に1人が投票する勘定だ。また、ヨーロッパ31ヶ国中、実に11ヶ国でポピュリスト政党が政権を担当している。ポピュリスト政党が政権担当している国の人口は1998年の1250万人から2018年には13倍強の1億7000万人にまで膨らんだ。ポピュリズム台頭の模様は以下の4図から鮮明に理解出来る。

イギリスではかのナイジェル・ファラージ率いるポ右派ピュリスト政党UK Independence Party (通称UKIP イギリス独立党)はEUからの離脱Brexit(ブレグジット)を牽引し、離脱を達成した。
ドイツにおいてはポピュリスト・“ドイツのための選択肢党”(AfD)が反EU・反移民をスローガンに2013年戦後初の極右政党として結党され、既に国内全州の州議会で議席を有しており、最近の国政選挙でも連邦議会で定数709のうち92席を占めるまでに勢力を拡大させて来た。一方、2005年から首相を務めるアンゲラ・メルケルのキリスト教民主同盟(CDU)は最近の地方選挙で完敗し、彼女は党首を辞任、首相の座も2021年の任期満了をもって退くことを表明した。移民・難民問題に対して採った寛容政策が敗因として非難される彼女が今後レームダック化することは避けられず、ドイツの今後は予断を許さない状況となった。
EUを支えるもう一つの強国フランスでもマリーヌ・ルパンのポピュリスト政党は直近の選挙で33%の得票を獲得して第2の政党へと躍進した。経済不況と国民に負担を強いる経済政策不人気でマクロン大統領の支持率は記録的に低い2割台まで急降下。つい最近の暴動にも等しい激しいデモは、国民の7割が賛成していると言われ、今後のフランスの状況を不安定 不確実なものにしている。(以下、安田ひと言) ルノー・日産どころじゃあ〜ないだろう、マクロン君 。
2017年誕生の左派ポピュリスト文在寅大統領率いる韓国は、最近の経済不振に伴い支持率が大きく漸減したきた。政権基盤が大衆の支持によるところから、前年比賃金16%アップを企業に要求、実行させた結果、企業の国際価格競争力が大幅に下落すると同時に企業側が雇用を絞るようになり、特に若者の犠牲が深刻で失業率も高くなり、消費低迷から景気後退をもたらしている。意図した大衆を満足させる(迎合する)ポピュリズム政策が裏目に出て、逆に大衆に犠牲を強いているのは皮肉な結果である。(安田コメント: 内政の苦境 の状況下、“赤化・従北・反日” に活路を求めて求心力を維持せざるを得ない状況は大変危惧される。起死回生とばかりに勇み足的な政策実施がこれら3課題の対応でも目立ち、今後は非常に不安定 不確実であり、大きなリスクをはらんでいる。)
(以下、次回)

夜の紅葉探訪      (36 翠川幹夫)

「12月6日付読売新聞の地域ページに「保谷の旧高橋家屋敷林の紅葉」が紹介されているぞ」とのジャイからの電話あり、「それでは見に行くか」と言うことで7日夕方、ジャイ夫妻、翠川夫婦で連れ立って森の中の屋敷へ踏み入って見た。

西武線「保谷駅」北口はこの十数年で急激に住宅地として開発されたところで、ここから徒歩5分程のポツンと取り残されたこの1ヘクタール程のケヤキなどの屋敷林の中に、一際大きなイロハモミジがライトアップされており、これがメインであった。

見事なモミジだったが、一本だけと言うのは一寸淋しかった。

ここから車で20分程の「平林寺」の紅葉は素晴らしい。来年の紅葉狩りには皆さんに是非お勧めしたい。

ネリカン先輩へ     (H21 羽村太雅)

ご無沙汰しております。最近は仕事も家庭も忙しく、なかなかKWVの集まりに出席できずにおります。そんな中、思い出していただき、ありがとうございます。

さて、ブログを拝見しました。

太陽系内の天体で、肉眼で見えるのは、太陽と月、5惑星(水金火木土)のみです。太陽系の中には他にも、天王星・海王星や、冥王星をはじめとする準惑星、日本の探査機が訪れて話題になったイトカワやリュウグウをはじめとする小惑星や、その他小天体が多数ありますが、肉眼で見えることはありません。

肉眼で見える「星(恒星)」などは他は全て太陽系の外側にございます。
太陽系の外側には、太陽系に似た規模の恒星系が多数あります。肉眼で見えるものはいずれも、銀河系の中にあるものです。天の川を構成している星々も、皆この銀河系の一部です。

銀河系の外側には、無数の銀河があり、それぞれの銀河に「星の数」だけ星が含まれます。この辺りの規模感は、少し古いですがPowers of Tenという有名な動画が参考になるかと思います。最近は他にも多数の類似の動画が作られておりますので、探してみるとよりイメージしやすいものがあるかもしれません。

Powers of Ten
https://www.youtube.com/watch?v=paCGES4xpro

北極探検隊が帰還時に方角を決めた実際上の方法は不勉強のため存じ上げませんが、たとえ北極点であっても、時刻によって太陽が見える方角は異なりますので、少なくとも時刻がわかれば方角はわかるものと考えます。

(編集注)羽村太雅君、H21卒、150年記念W時には現役を代表して協力してくれた。天文学のプロである。ネリカン兄、ご納得いただけましたかな?

年末ご一興までにお教えください! (40 益田)

ワンダー各位にお願いがあります。

十年疑問に思ってました。夏休み子供電話相談室に掛けるわけにも行かず。造詣深きに見えた、久米に聞きましたが、アインシュタインに聞いてくれと、軽く往なされました。

 天の河が銀河系であることは承知してますが、水金地火木土・・・以外の今天体に見える星は、全て太陽系の外なのでしょうか?(アンドロメダ等の銀河系外は承知してます。)それ程遠くない将来自分の目で確認する事が出来るんですが。 ある人が、「宇宙には、全地球上の砂の数より多くの星がある」と。押し潰ぶされそうになりますが、一方、どうにでもなれって気になります。

 ついでと言っては恐縮ですが、昔北極点を目指した探検家が、(どう北極点を確認したかは別として)帰る折、どうやって例えば、「東」を目指してのでしょう? 

(編集記)

わがネリカン君の悩みは大分深いようで、2度にわたって来信があったが、当方の知識を超える範囲で回答ができていない。硬軟、合わせて全KWVの知性からの回答メールを期待している。年末、万感を込めて夜空を仰ぐ季節になった。来年もまたよき年であれ、と祈る先はアンドロメダか宇宙戦艦ヤマトか?

 

甲州街道銀杏並木ウオーク

途中の横断橋から高尾山口駅方面

免許更新のため高尾署へいくことになった。どうせなら早起きして人の来ないうちに楽なコースを登って昼飯までに帰ろうと思っていたが、もたもたして結局月例と同じ電車になってしまった。高尾駅ににはいったとたん、ホームがハイカーで溢れているのに遭遇。あっさりあきらめて、甲州街道ウオークに変えた。

高尾山口駅の手前位から、八王子市の中心部まで見事な銀杏並木がある。工場勤務のころはいろんな機会で訪れることもあったのだが、月いち高尾、などと言ってるのにここの所歩くこともなかった。ちょうど天気が回復し、青い空を背景にハラハラ落ちる落ち葉などが取りたかったのだが、小生の技術ではとても無理。小泉さんでもおられればいい写真ができたのだろうにと残念。

徒歩約5000歩、途中で早昼(ほんとはトイレに行きたくなったため)、おろしハンバーグ、890円。何だかわからないが払ったのは1134円。今大揉めの消費税騒動がどう落ち着くのか急に心配になった。

スケッチをしている人もいた。才能のある人はうらやましい。

 

”むかし”の語り部として  その1

この12月で小生も81歳となる。いつの間にか、傘寿とやらもがやがやと仲間と騒いでいる間に過ぎてしまった。しかし年齢は確実かつ冷酷に現実に忍び寄ってきている。できる限り、ワンデルングは続けるつもりではあるが、他人に迷惑をかける危険は最小限にしたいと思い、昨年、まさに断腸の思い(こういう時に使う言葉かどうか不安はあるが)でスキーをやめた。2018年のOB夏合宿につづいて久しぶりに山荘祭に参加したが、たぶん、これで浅貝にいくのは最後になるだろうという気がして、半日、作業をさぼって周りをうろつき、卒業後大変お世話になったトヨシマにもそれとなく挨拶をしてきた。

小屋へもどって、若い人たちと何となく時間が過ぎていく間に、(俺たちが ”あの時代” について、もう少し、伝えておくことがあるのではないか?)という気持ちになった。もちろん、いろんな記録が整理され残されていることは知っているし、結構なことだと思っているが、その多くは事物の記録であり、その背景になにがあったのか、ということはあまり伝えられていない。今の学生生活、その結果ワンダーの在り方がぼくらのころと全く異次元にあることはわかっているつもりではあるが、若い人たち特に現役諸君が現在の在り方について考えてみるきっかけになれば、と思い、数回にわけて36年卒同期の文集 ”ナンカナイ会 そのふみあと” から、一部を抜粋し何回かにわけて紹介していこうと思う。今回は歴史的規模?の大人数入部に関してのことである。

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(文集第二章 ”美しから八幡平へ” から抜粋)

われわれが入部する前、すなわち卒業年度でいえば1957年次(中代孝史総務)まで、KWV は戦後の混乱期からの復興を成し遂げられた吉田晴彦(1948卒),平賀健吉(1950卒)、亀井昭伍(1952卒)、山戸和夫(1953卒)ほか数多くの先輩が築かれた、自主的、家族的雰囲気を持ったクラブ活動を基盤としてきた。ほかの大学のワンダーフォーゲルが体育会に所属しているのに対し、慶應はドイツに源泉を持つ広い視野にたった活動をする文化団体に所属する、という気概と伝統はその時代につちかわれたものだ。戦後の混乱期を脱し始めた50年代後半から、所属部員は大体40人から60人前後で推移し、その間に活動の基盤は個別に企画されるワンデルングへの自主参加におき、部全体行事としてベースキャンプ方式の合宿やスキー合宿(当時KWVでいうスキーとは今でいうオフゲレンデを滑走することとされていたようだ)、あるいは部創立の精神にたってワンダーフォーゲル活動のPRを目指す一般募集というような活動の基本原則が確立された。

しかしわれわれが入学する57年あたりから、大学生活そのものが開放的なアメリカ型のカレッジライフを志向する傾向が高まり、もともと学生の自主性を重んじ、先進的な立場にあった慶応のキャンパスがその先導的地位をしめるようになる。それに呼応して、それまでのアスリート系のクラブ活動が基本的に父権主義にもとづく体育会主導であったため、スポーツを愛しながら体育会入りをためらう学生を、より開放的な独立的なクラブが吸収するという図式ができた。その延長線上にあったのかどうか、明確な回答はないが、32年から40年くらいまで、まさに全国規模で各大学のワンダーフォーゲル部に入部希望者が殺到した(第12章参照)。決して慶応だけではなかった点が面白いのだが、何が原因であれ、我々と同じくKWVの門をたたき、入部を許可された1年生は現存する名簿によれば237人である(新注:この時点での部員数410名)。

いずれにせよ、現実にこの大人数を抱えて、当時の部運営に当たる4年生(中尾大三郎総務)は大きな課題に遭遇されたはずだ。それまでのゆるやかな、家族的な、ある意味では自律を前提としたやり方で350人になろうかという組織が運営できるのか、このあたりの事情を責任学年4年生(同期OB会:賛山会)メンバーはどのように対応しようとしたか。

”基本的には、俺たちには大変だという悲壮感みたいなものはなかったね。今まで通りやっていけば大丈夫なんだと思ってた”と小林良男(副総務)は楽観的だったようだが、中尾大三郎(総務)は、”最大の問題はこれだけの人数に対応できるリーダーが不足することだと思った。毎回のワンデルングにリーダーを割り付けるだけで大変で、日曜日の夜は”無事帰京”の電話が入るまで、ひやひやの連続だった”と述懐する。

入部したての我々にはこのような事情がわかるはずもなく、美ヶ原新人歓迎のあとから、いわゆる”プラン”と呼ばれたワンデルングへの参加が始まった。

(注)部として企画されたワンデルングは通称”公式プラン”または単に”プラン”と呼ばれ、これ以外仲間だけで実施したものは”プライベート”と区別された。

日吉、三田などの”部室”の壁に、数か月先までのプランがリーダー名と一緒に書かれた模造紙が貼り出される。希望者はその下に学年と名前を書き、一緒に示されている日にちと場所で準備会に出る。したがって誰が行くのか、前もってわかるしくみで、これが結構、1年生仲間内の競争心をあおったものだった。上級生が袖に誇らし気につけていた三色の正部員章をもらうために、いち早く5回、ワンデルングに出る必要があったからである。

しかし中尾総務ら上級生が恐れていただろう現象は早くも5月連休後のプランで起きた。大菩薩峠ワンデルングに、山歩きの経験に乏しい多くの新入生がネームバリューにひかれたからであろう大量に集中した(記録では63人)。とても通常のやり方では運営できないということから、いくつかの班にわけ、それぞれ3年生がリーダーとなる大規模なものになったが、山慣れしていない大集団の悲しさ、1年生の誰かが起こした落石で、日吉の役員部員だった酒井征蔵が顔面に裂傷を受けるという事故が起きた。このこともおそらくひとつの直接的原因となって、事後新人への指導プランが喫緊の課題とされ、新人キャンプ(FCと略称された)という仕組みができた。この辺りの事情を、のちに発行された”八幡平合宿報告書”はFC制度について次のように述べている。

(前略)これは本年度に至って急増した部員数の調整という事に応じたものであった。すなわち本年度の新入部員は前年度の倍以上の数字を示したのである。そこで部員の教育の意味を含め、又その数を出来るだけ淘汰しようとしたのである。その上新人強化に参加していない者は、下記合宿には参加させないとし、下記合宿のテント受入数、テント地の状況も併せ考慮したのである(後略)。

こうして、従来は毎回、先輩が親しく個人に伝授してきた基本的な事柄を、組織的に教育するような仕組みができた。第一回は裏高尾山の小下沢で行われ、当時まだ浅川と呼ばれた現JR高尾駅から、土曜日の午後、64名の新人と先輩部員が照り付ける甲州街道を歩いて現地に着き、テントの張り方、火のおこしかた、等々を教わり、翌日は景信山を越えて、陣馬経由藤野へ降りた。

この夏の立山―槍プランは、北アルプス縦走コースの中では重量級に属するものだが、ここでも1年生の集中現象はあった。2年、3年各1名、4年生3名に対して1年は中妻、浅海、飯田、美濃島,中司の5人。高校時代にまともな訓練を受けていたのは美濃島だけ,そのうえ、立山から上高地下山まで、晴天だったのは1日半だけという悪天候だった。しかしその行程の記憶よりも鮮烈だったのは、途次、強い風雨のためテントを断念して宿泊したスゴの小屋でのことである。我々の後に同様に退避してきた某大学WVのパーティのふるまいは、われわれには想像すらできない、先輩への絶対的服従、というより神格化、上級生による下級生へのサディスティックな”しつけ”というか”いじめ”そのものだった。”あのあと、お前たち、すっかり静かになったよな”とリーダーの小林良男は笑うのだが、事実、1年生の目に、KWVの伝統と雰囲気、しかも素人同然の新人を見事に統率する上級生に対して新たな尊敬の気持ちが湧いた瞬間だった。事実として、その後、世に悪名高い”しごき事件”で部員を死なせたのはこの大学である。また、のちのことになるが、他大学との合同ワンデルングに参加し、多くの大学が同じような体質なのを経験した吉牟田正稔は、”ホント、俺、慶應でよかったなあって思ったね”と語っている。KWVと創部以来友好関係の深い義塾山岳部でも同様の”慶応”の伝統があるのは、やはりそれが大学の矜持であるからだろう。

前に述べたように、急激な部員増加と部の運営の現実とのずれは少しずつ顕在化していたのだろうが、1年生という立場ですべて先輩まかせにでき、伝統の家族的雰囲気を満喫できたのは我々にとっては幸いであった。振り返ってみて、古き良き時代とでもいうべきものが味わえた、これが最後の機会だったのではないか、という意味で、美ヶ原新人歓迎とそのあとの八幡平夏合宿とはK W Vにとってもわれにとっても歴史的な意味を持つように思われる。

(以下、次回)

 

秋の奥武蔵日帰りW ― その2 

OB会が新組織になってから、年中行事として春秋2回の 日帰りワンデルングが定着し、卒業年度ごとの担当が始まってからしばらくは参加人数をひそかに競うようになっていた。”100人越え” が実現したのは、34年(CL 妹尾)担当の筑波山からだと思うが、その後は100人の参加が当たり前のようになってきた。大人数の代が漸減していく中で、今回もまた100人を超える参加者があったのは、若い年代にもこの行事が受け入れられるようになったからだと思われる。ご同慶の至りであり、今後ともこの盛況が続くことが望まれる。

分散Wのあと、BC地でいろんな顔を見られるのはこれとない楽しみである。若い人たちの中には、何度聞いても名前を覚えられない方もおられ、苦労するのも逆に言えば楽しみであるが。

ワンデルングの形として、伝統のBC方式が当初から採用されてきたが、全員が集合できる場所を確保するのがなかなか難しいようだ。今回は飯能河原という好適な場所が選定されたが、毎回のこととは言え、実行委員のご苦労もなかなかのものだったと思われる。特に今度は、CLの水村君が大阪在住でもあり、前日上京して現地に宿泊、翌日に備えてくれた。この前泊にはSLの佐藤君らも合流したようだが、そのほか、BC班のCL金子君や古賀、安藤君ら、担当2学年のご努力には感謝しかない。聞くところでは、当日提供された飯能特産の四里餅を人数分確保するにあたっては大変ご苦労があった由である。会の終了に当たっては今回の担当から来年担当学年へとバトンを渡す儀式?もあり、19年春の再会が待たれる。

当日はパーティ別ワンデルングには参加せずBC地直行の参加もあり、最古参は33年の上田、荒川両先輩だった。いつの日か俺たちが最高齢、てえ日が来るのかなあと思いつつ、終了後は飯能の居酒屋へ強制連行して久しぶりに(俺たちの)四年生! の怪気炎を聞かせていただいた。すっかり出来上がって勘定もすんだあと、はっと気が付いた!ここは新宿じゃなかったのだ、と。