貴兄の“リンバガスカって知ってる?”を拝読。勿論!知りません。が、貴兄のこの回顧禄に出てくる山川惣治の「少年王者」は私は信州の田舎の小学校へ通っていた頃の一番の楽しみの読みものでした。貴兄のその部分は《山川惣治の少年王者、は少し遅れて登場した、これも名作だった(KWV36年卒同期の山室修のニックネーム、ザンバはこの作品に登場する大男の名前である)》
私は昭和20年3月の東京大空襲の頃、渋谷区若木町(今は無い地名)というところに住んでいて雨霰の焼夷弾、爆弾を逃れて一日に何回も自宅の防空壕に出入りしていました。自宅付近まで猛火に包まれる日々でしたが、6月末に母親と共に、父親の故郷の安曇野に疎開しました(姉、兄は学童疎開で、それぞれ那須と塩原へ既に行っていました)。
安曇野の生活では、毎日、梓川の砂利の河原へ竹箒を持って出かけては“目バチ”という足長バチより少し小さく、蜜蜂より少し大きい蜂の巣を叩いて、眼を刺されながらも巣を取って帰り、自宅の鶏小屋の中の金網に引っ掛けて、蜂の巣の蛹が羽化して親の蜂になるのを観察し、雀や椋鳥や百舌鳥の巣を取ってきて、親鳥が雛に餌をやりに来るところを何とか捕まえる手段を考えたりしていました。東京の自宅は私が安曇野へ疎開して間もなく7月に爆撃で焼失してしまいました。そんな頃、東京で頑張っていた父が安曇野に時々帰ってくる時に買ってきてくれる「少年王者」が面白くて、次回号の発行をいつも首を長くして待っていたものでした。
前置きが長くなったのですが、「少年王者」に出てくるのはザンバロという黒人系の屈強の男性だったと記憶しています。そのザンバロを短くしてザンバと呼んでいたと思います。実は私が高校大学と所属していた混声合唱団(旧・音楽愛好会)の同期にもザンバというニックネームで通っているS君という仲間がいます。
ジャイ兄がこのエーガ愛好会で、これまでも時々引き合いに出される山室修さんは、私は全く存じ上げませんが、同じ学年でニックネームが同じS君(高校から塾)のことをいつも思い出すので、つまらない内容の回顧文を書いてしまいました。この頃、このニックネーム付けが流行っていたのでしょうか。
(編集子)小生は終戦を今は北朝鮮になっている車連館(つづりは自信がない)というところで迎えた。これまた今は東北地方というらしいが、大日本帝国が夢の実現を図った満州国の首都新京(いまの長春)にいて、終戦が濃厚となりロシア軍の到来が予期されたため、父と当時旅順の旧制高校にいた兄と別れ、母と姉の三人での逃避行の途中だった。小学校の校舎だったか何だかに数十人の同様の、今の表現に従えば難民の団体として逗留していた。8月15日朝の異様な雰囲気はなんとなく記憶にある。それからほぼ1年、38度線を越えられずにピョンヤンでの抑留生活を過ごし、徒歩で当時の南朝鮮いま韓国に逃れた逃避行は,藤原ていの 流れる星は生きている そのままだった。
そんなわけで、飯田兄の牧歌的な回想は僕にはない。21年6月に帰国、それから半年ほどで帰国した父、兄と東京へ出てきた。本稿にある山室もそうだが、エーガ愛好会のメンバーである菅原がスガチューと呼ばれるに至ったわけは、本人は彼のニックネームがついてのは、本人は(何だか知らないが、あの頃、なんかといえばチューという音節を付けるのが流行ってたというだけで、俺にも理由はわからん)という。その点、ザンバは気持ちの優しい大男、ザンバロという造形に原点があるようだ。
ま、いずれにしても、されどわれらが日々、という感じである。