”ウクライナ侵攻とグローバリゼーション” 補論  (53 林岳志)

「ウクライナ侵攻とグローバリゼーション」に関する私見です。

1985~1988にロンドン、2009~2012に北京に駐在した経験を踏まえると、グローバリゼーションは米国多国籍企業が自分の都合の良いように幻想を振りまいただけのような気がします。

各国・地域にはそれぞれ固有の歴史があり、それは様々な形でその民族に受け継がれ、繰り返しすり込まれています。英国(特にイングランド)は大英帝国の栄光が忘れられない、例えば、彼らにとって the Great war というのは米国が勝った第2次世界大戦のことではなくて、自分たちが主導した第1次世界大戦のことです。

中国では清朝末期に西欧・日本に食い物にされた屈辱が繰り返し語られます。このように、それぞれの国には栄光と屈辱に彩られた長い歴史があり、それはその民族共通の記憶になっていますが、米国にはそのような長い複雑な歴史的背景はなく、物量に物を言わせた(豊富な資源を背景にした)キリスト一神教的、もしくは西部劇的な「我々は十字軍(騎兵隊)であり、異教徒(インディアン)を征伐する」的な発想があるのではないかと思います。

ロシアのウクライナ侵攻は決して許されるものではありませんが、ロシア(ロシア人)もナポレオンやナチ・ドイツに侵略された苦い歴史(記憶)があり、かつ欧米に対する抜きがたいコンプレックスがありますので、NATOが自国に攻めてくるという恐怖が常に存在していることが今回の侵攻に背景にあるのだろうと思います。

言うまでもなく「歴史に学ぶ」「失敗から学ぶ」ことは大変重要ですが、米国もロシアも西欧もそして日本も、最近、この点が欠けているように思えてなりません。

(編集子)Can’t agree more  という反語的な言い回しがある。グローバリゼーションについては林君の定義についてはまさにそう感じる。小ぶりながら多国籍企業、のひとつだったヒューレット・パッカードでこの言葉が独り歩き始めたころ、これを金科玉条と振り回すパロアルト本社のいやな奴に、globalization なんて Americanization じゃねえか? それとも Californiazation か? と食って掛かったら、そうかも知れねえな、と一瞬黙ってしまった。そのあとどう言い訳したかは全く覚えていないが。

 

エーガ愛好会(140)  アンネの日記  (44 安田耕太郎)

あまりにも有名な日記の映画化。邦訳の日記を先に読んで、その後に映画を観たと記憶している。1960年代のことである。アムステルダムのアンネ・フランクの家にも2度足を運んだ。「アンネの日記」の英語訳は文字通「Anne‘sDiary」だが、原題オランダ語「Het Achterhuis」(ヘット・アハターハウス) は「後ろの家」という意味で、隠れ家を実際訪れてみると、オランダ語原題の方が言い得て妙だと思った。監督は、「陽のあたる場所」「シェーン」「ジャイアンツ」の名匠ジョージ・スティーヴンス。

 

アンネ・フランクはドイツ・フランクフルトの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。ナチスが政権を取り、ユダヤ人に対する迫害から逃れるため、一家はオランダ・アムステルダムに移住する。平穏な生活はほんの数年間で終わり、オランダでもユダヤ人連行が頻繁に行われるようになると、一家は、アンネの父親オットーが経営する、街の中心に近い運河沿いにあるジャム工場の建物の奥3階・4階と屋根裏部屋を改築して、一家4人と友人等4人、計8人がそこに身を隠すようになる。

隠れ家への入り口は本棚でカモフラージュをされた。フランク家の4人以外にも4人のユダヤ人が住んでいたこの隠れ家は、何者かの密告により、194484日にドイツのゲシュタポ(秘密国家警察)に発見されアンネたちの隠れ家生活に終止符が打たれた。

隠れ家にいた8人全員は収容に送られる。収容所は栄養と衛生状態が極度に悪い。戦後まで生き延びたのは父親のオットーフランク1人だけ。残りの7人は全員収容所で死亡する。アンネと姉のマルゴットは、収容されて7〜8ヶ月後の‘45年の2月から3月にかけて同じ収容所で相次いで死亡。死因はチフスだった。

アンネの日記は1942年6月から約2年余りに及んだ。ゲシュタホに逮捕される3日前の8月1日が最後。アンネ13歳から15歳の間の隠れ家での出来事、思ったことを素直に書く綴ったもので、特別なストーリーがあるわけではない。過酷な隠れ家の環境下、勉強・読書漬けとラジオが中心の生活の中で、いつか戦争が終わったら、「作家になりたい」、「ジャーナリストになりたい」という夢を膨らませていく。その目標に向かって修養を積み続ける、知性豊かな女性へと成長していく。日記の文体と語彙の豊かさにはとても13〜15歳の少女のものとは思えない成熟度と非凡な才能が伺われる。

映画は、戦後の1945年に収容所から解放された、一家で唯一の生き残り父親のオットー・フランクが隠れ家に戻るところから始まる。かつての支援者がフランクに声をかけ、アンネが残した日記を手渡す。フランクは「1942年・・」から始まる日記を読み、はるか昔のようだと回想を始める。映画は2年間の隠れ家生活を描いている。主演の新人女優ミリー・パーキンスのデビュー作。英国女優ジーン・シモンズに大変似ていて驚いた。「若草物語」・「陽のあたる場所」出演のティーンエイジ時代のエリザベス・テイラーにも少し似ている。監督のジョージ・スティーヴンスはリズを「陽のあたる場所」と「ジャイアンツ」で起用しており、彼女に面影が似ているミリー・パーキンスを新人ながら抜擢したと勝手に思っている。さらに本物のアンネにも似ている点も理由の一つであろう。

実在のアンナ13〜15歳にしてはパーキンス21歳の時の出演。成熟度など年齢差にはやや無理があったかとは思う。恋仲になる隠れ家で同居した男性ペーター役は2年後の「ウエストサイド物語」1961年制作のトニー役で脚光を浴びたリチャード・ベイマーが演じた。ナタリー・ウッドとのきらびやかな共演の「ウエスト・・・」に対して、悲惨な状況下での白黒映像のパーキンスとのラブストーリーも悪くなかった。

隠れ家に同居した家族の夫人役はシェリー・ウインタース。以前観た一昔前は馴染みがなかったが、それ以後彼女の出演映画「ウインチェスター銃‘73」「陽のあたる場所」「狩人の夜」「動く標的」「ポセイドン・アドベンチャー」を観てすっかり顔馴染みになっていたので安心して彼女の「アカデミー助演女優賞」の演技を楽しんだ。彼女自身ユダヤ人である。

物語りの深さと行き詰まる緊張感は「日記」の迫力に敵わないが、映画は極限状態の中に置かれた8人の人間模様を淡々と描く。母親とアンネの確執、同居する2家族間の諍い、隠れ家の狭い部屋の中で物音を出せないストレス、ゲシュタホが建物を調べに来て壁一つ離れて身を潜める家族の恐怖と緊張感・・・・、当時の実情は想像を絶するに余りあったのことが容易に窺い知れる。

ひとつ印象的なシーンは、隠れ家に潜んでほぼ2年が経ち絶望感が支配する中、ラジオで連合国軍のノルマンディー上陸作戦「D Day」成功のニュースを聞き皆 歓喜雀躍と飛び上がる。それから僅か2ヶ月も経たずナチスに逮捕されるとは、運命の残酷さを知らされる。インターミッションも途中に入る2時間半の、歴史を改めて思い起こさせる映画だった。ウクライナのことも頭をよぎった。

(船津)見ましたがやや長い!途中でタンマしました。淡々と描き、最後は劇的でもなく終わる!ミリーパーキンスがかわいので許す。

(菅原)同意。ミリー・パーキンスは可愛いだけが取り柄で、他には何もない。Wikipediaによれば、作品に恵まれなかったそうです。こういう言い方もあるんですね。この映画見ましたが、さしたる感銘は受けませんでした。

(金藤)「アンネの日記」は、確か中学生の時?にクラスの女子の間で話題になり皆で読みました。 表紙か裏表紙にアンネの写真も載っていました。先に読んだ人の反応を見て、怖いのかもしれないと緊張して読み始めたのを思い出します。 乙女ではなかったと思いますが、お気遣いありがとうございました。最初の30分位観ましたが用事があったので中断しました。気持ちが元気な日に映画の続きを観ます。

(編集子)我が国の終戦が決まった日、小生は小学校2年生、家族とともに満州の首都長春(当時は新京と言った)から集団疎開の途上で、鴨緑江を越えた車簾館という町に到達していた。その後平壌でほぼ10ケ月、まさに難民生活を送った。古い味噌蔵に恐らく十数家族と、たぶん脱走兵だと今では思うのだが屈強の若者数名と一緒に過ごした。衛生状態なんかはおそらくロシアの収容所以下だったのではないかと今になって思い出す。南北朝鮮に分割されて国境が閉鎖されてしまい、貨物列車だとかトラックだとか、どうやって調達されたのか分からないがその国境までたどり着き、深夜に歩いて38度線を越えて開城へ脱出した。そんな経験をしたのが11歳の時だったから、アンネとは二つ違いか。改めて戦争の悲惨を考えてしまう。

 

八ヶ岳南麓 さつき晴れ  (グリンビラ総合管理 ホームページから転載)

昨日一昨日と冷え込み霜がおりましたが今朝も薄っすら霜が降りた様子…今年植えたブドウの新芽が出始めているのですが連日の霜で今後の展葉に影響がでるかもしれません。時間をみて灌水作業に出かけたいとおもいます。

昨日早朝に写真を撮りに行きました。標高が高いエリアですとまだ桜も咲いていてとっても綺麗でした。

平標・残雪     (53 林岳志)

5月2日(月)に、元橋→平元新道→平標山の家→平標山→松手尾根→元橋に、桑原(S52卒)、関根(S54卒)と林(S53卒)の3人で行ってきました。

前日(1日)夜まで浅貝は雨でしたが、山の上では雪だったようで、新雪の上を快調に歩くことができました。午前中は晴れていましたが、午後は急に曇って、元橋に下山してすぐに豪雨になりました。

三国山荘は、桑原山荘委員長と福島屋(佐藤高之氏)や現役の努力によって、順調に運営されています。皆様のご利用をお待ちしています。

山荘の庭にカタクリの花が咲いていました。

エーガ愛好会 (139) B級エーガ礼賛!    (大学クラスメート 飯田武昭)

好きな時に観たい映画を見ています。それが暇な人生での贅沢の一つかと思っているのかやっています。最近1~2カ月の間にも、BSシネマ放送以外で気儘に選んだ映画で「男と女」「悪魔のような女」「トロイのヘレン」トニー・ザイラーの「白銀に踊る」「空から星が降ってくる」ブリジッド・バルドーの「殿方ご免遊ばせ」「素直なお悪女」インド映画「ムトウ 踊るマハラジャ」プレスリーの「やさしく愛して」「ラスベガス万歳!などを観ました。他にも「ザ・ローリング・ストーンズ」「スーパーマン」も見ました。見たい映画で中にはやたら多いCM入りの民放での放映などは、スポンサーには申し訳ないが、CM部分をカットして映画部分を結合してから観るように心がけています。そのくらいの時間的余裕があるのが今の小市民たる私の贅沢です。アメリカでは確か映画、ドラマ等の放送時に途中でCMは入れず、前後にCMだけ纏めて入れている文化だったと記憶しますが、放送文化技術的には日本の方が進んでいると思う反面、日本のスポットCMの入れ方だけは気に入らないと以前から思っています。ドラマや映画の途中でスッポンエキスのCMを観さされては興趣も何も台無しになってしまいます。

「市民ケーン」の評価が分かれるのはやむを得ぬとは思いつつ、私はあまり評価しないパーティに属しますが、最近の船津兄の論評に絡むやり取りに改めてこの作品の奥深さを感じている次第です。その時の気分で選んで観ていた上記の無秩序の映画の中で、「男と女」「悪魔のような女」などは映画として評価するなら上位に属する作品と思いますが、他は特に評価が高いわけでも無く、ただ好むか好まないかという作品群だと思います。

ワンゲルの方達ですからトニー・ザイラーの2作品は当然、面白い、又見たいと思われるでしょうが、私は「白銀に踊る」も良いが、特に「空から星が降ってくる」で、イナ・バウワーが滑り踊るラスト20分位続く屋外スケート場アリーナでのアイスショーの部分を含めて好きです。ブリジッド・バルドーの2本「殿方ご免遊ばせ」、「素直な悪女」も昔に劇場で観た頃は、ひやひやドキドキしながら見た感じが、最近見るとバルドーがやけにキュートに見える軽めのタッチの喜劇性が面白いと思います。エルヴィス・プレスリーの2本もエルヴィスの顔が嫌いと言う人でなければ単純に楽しめる映画でした。映画デビュー作「やさしく愛して」も良いですが、「ラスベガス万歳!」はアン・マーグレトという20世紀アメリカを代表しているようなピチピチした美女がちょこちょこと動き回り、ちょっと踊るだけで、話は単純で良かったと思うほど娯楽に徹した作品と改めて思いました。「トロイのヘレン」もギリシャ系ロッサナ・ポデスタという美女が銀幕デビューした当時の衝撃が思い出されます。インド映画「ムトウ、踊るマハラジャ」も単純に楽しめました。

「スーパーマン」は兎も角、「ザ・ローリング・ストーンズ~Lets Spent the Night together~」(1982年制作)は深夜放送で数日前に放映されていましたが、こんな映画があったのも知らずに観ましたが、ちょっとがっかりしました。私はエルヴィスとビートルズで精いっぱいの青春時代で、ローリング・ストーンズがビートルズの人気の脇の方で人気が上がってきたのはチラ見程度で知ってましたが、1枚LPを買って聞いたらやはりビートルズとは比べ物にならないと思ってその後も略聞いてませんが、その後も延々と人気グループであるので気にはなっていてミック・ジャガーなるボーカルが何故人気なのかも含めて、この映画(ニュージャジー州のスポーツ・アリーナでの2時間公演のLIVE)を観ました。一番に思ったのはどの曲も似たような歌詞が着いていて、それが通俗的(というより低俗的)な物で、エルヴィスやビートルズ益してや当時ヒットしたジョーン・バエズやジョルジュ・ムスタキのような何かを訴えたり、人生を讃えたりする内容が感じられない点でした。エルヴィスやビートルズのファンで良かった!!このローリング・ストーンズの映画の制作された1982年当時、私はニューヨークに4年間駐在していてこの間は映画は2~3本しか観ていません。スポーツ観戦とブロードウエイ・ミュージカルとリンカーン・センターでのメトロポリタン歌劇場やエイヴリー・フィッシャー・ホール(現在は改称してデイヴィット・ゲフィン・ホール)での演奏会やバレエ公演に現を抜かしていました。

これからも見たい映画は1流でなくとも1流半か2流で結構、娯楽に徹した映画が当時の映画館には沢山あったと思います。例えばコーネル・ワイルドやボブ・ホープ主演物、女優ではバージニア・メイヨ、アン・ブライス、エスター・ウイリアムズ、イボンヌ・デ・カルロ、パイパー・ローリーなどという名前だけで格好いい2流俳優が主演する娯楽作品が沢山あった!! こんな映画は評価の対象外で見つかればぼちぼちと観たいと思います。

(編集子)懐かしい名前がうれしいですな。アン・ブライスで覚えているのはグレゴリ・ペックとの共演 世界を彼の腕に だしヴァージニア・メイヨならロバート・ライアンとの 誇り高き男 なんかかな。エスター・ウイリアムズ!となるとまだお互い小学生のころだぜ。トニー・ザイラーがでてきたのは驚くが、彼は 黒い稲妻 これ一本で十分。ひたすらスキー技術に魅了されて、今まで何回見たか覚えていない。彼が来ていた当時はまだ日本にはなかったキルティングのヤッケが映画の評判を受けて緊急発売され、モトキだったかどこだったか、仲間と買いに駆けつけたのが懐かしい。

土方歳三記念館へ行ってきました   (34 小泉幾多郎)

土方歳三墓所

4月30日天気も良く、家内に誘われ土方歳三記念館に出掛けました。小生の方は新選組や土方歳三にはあまり興味はありませんが、家内の方は、新選組特に土方歳三の生き方に共鳴している様子。まあイケメンという所が多いに影響していると思いますが。gisanからも土方歳三については、ご高説やら扮する俳優の優劣等を聞いてましたので出掛けた次第。新選組のふるさと日野市には、日野駅の近くに、日野市立新選組のふるさと歴史館 はじめ他にも数か所の資料館が点在しているのだが、目的の土方歳三記念館だけは生家だったそうで日野駅からは離れた多摩モノレール線万願寺駅の傍でした。通常は第1第3日曜日のみ開館とのことだが、4月は29日まで閉館、ゴールデンウイークは4月30日から5月5日まで毎日開館、しかも後で判ったのだが、10月以降一時閉鎖する予定とのこと。これだけが理由ではないのだろうが、驚いたことに、12時近くに着いたら、長蛇の列が繫がっている。それも若い男女が殆んど。なかなか動かない。1時間半は待ったのではないか。若い人は待つのには慣れっこなのだろうが、こちとらは慣れていない。早く見切りを付ければよかったのだが、もう少しもう少しと言っている間に時間が経ってしまった。若者の熱心さには呆れるほど、入館しても、じっくりと眺めているのだ。TV、,書籍、漫画  等から新選組、土方歳三ファンが増えている

石田寺入口

様子が実感された。近くに歳三のお墓のある石田寺があるというので、ついでに立ち寄った。骨は何処に埋められたのか不明とのことだが、地元だけに、あちこちに土方家のお墓があるが、歳三の墓は看板があったので、直ぐ判った。墓標には、歳進院殿誠山義豊大居士とあった。そのあと多摩モノレールに一駅乗り、甲州街道駅から歩き、日野駅近辺の資料館を何軒か寄ろうと思ったが、歳三記念館で時間をとられた影響から、佐藤彦五郎新選組資料館のみ。歳三は彦五郎の義弟(彦五郎は剣の達人で妻が歳三の姉)で、道場には新選組隊員が常に出入りしていたとのこと。子孫の佐藤福子さんが、歳三愛刀の説明していた。ここで閉館時間の16時となり切り上げて帰宅。疲れたー。

土方歳三資料館入口、右は歳三手植えの矢竹。

(保屋野)私とミッキーさんが住む日野にようこそ。万願寺の記念館に行かれたのですね。
ちなみに、私は、もう52年も住んでいますが、恥ずかしながら、記念館には行ったことがありません。ただ、写真に写っていた「石田寺」は浅川ウオーキングに行くとき、時々通ります。そのすぐ脇に「都立日野高校」がありますが、同級生だったという、忌野清志郎と三浦友和の出身校で有名です。

(小田)奥様と御一緒に日野で歳三巡りを楽しんで頂いたようで、嬉しく思います。恥ずかしながら、私も、全て歩いていける所に暮らしているというのに、きちんと見たのは、ふるさと歴史館くらい。佐藤彦五郎の資料館はお雛様の展示会場になっている時訪れ、他は閉まっていることが多く前を通るだけです。調べて行ってみたいと思います。おふたり共、御熱心で、健脚ぶりに驚いております。

(安田)土方歳三がもっとホットだったひと昔、石田寺のお墓に行ってビックリ仰天!何が!ラブレター、花束、千羽鶴、果物、菓子類で墓石の周りが埋め尽くされていました。同じ経験をしたのは、京都東山の坂本龍馬の墓です。モテ男#1と#2の歴史上の人物であるのは間違いありません。

(小泉) 保屋野さん小田さんが日野在住とは失念しており失礼いたしました。偶々日野駅に降りたのも多摩モノレールに乗車したのも初めてでした。新選組のふるさとと言われているだけに、風光明媚というか古き伝統が未だに保たれているような感じがいたしました。歳三資料館で思いもかけずに時間をとられてしまい、ゆっくりと歩く時間が無くなってしまいました。浅川も都立日野高校も眺める暇もなく、資料館も入館したのは2つだけ。しかし佐藤彦五郎資料館付近は町並みも美しく、ちょっと覗いただけですが、大昌寺の庭園や確か有山家と書いてあったと思いますが、昔の土蔵意匠ながら洋風建築の建屋とか、また道に沿っては日野用水が流れるという具合で、またゆっくりと来てみたいと思った次第です。安田さんの言われる通り、流石モテ男の一人土方歳三、若者が集まる理由も判りました。

(編集子)司馬遼太郎 燃えよ剣 を読まずして土方を語るなかれ。語る資格なし。フィルムならなんといっても 新撰組血風録 の栗塚旭。フィルム化に先立って司馬は栗塚に会い、自分が書きたかった土方そのものだと激賞した由。最近作の燃えよ剣の岡田も、新選組! の山本耕史も及ばない。

 

 

コロナの現在を注視しよう     (34 船曳孝彦)

世の中の関心がコロナからウクライナへと移り、報道も少なくなってきましたが、政府は事実上のオール解禁(それを大ぴらに口には出来ませんが)にして経済を盛り上げることしか考えていないように思えます。例によって黒木博士の最新情報も入って来ました。心配がなくなったわけではありません。

新規感染者数を見ていると、オミクロン株による第6波がピークアウトしているかに見えますが、第7波の兆しを思わせる “宝永山” が見られます。亜株BA.2によるとされていましたが、さらにBA.2.12.1という亜株が出来、BA.2を押しのけて増え始めているようです。BA.1とBA.2が混合したようなXE型が危ないという報道がありましたが、それに加えてインドで発生しニューヨークで増え始めた亜株(日・英での報告はない)も心配です。デルタ株と共通する変異を持っているため、オミクロンの強い感染力とデルタの病原性を兼ね備えると厄介なことになります。しかもこれらの変異株に、mRNAワクチンが有効ではないというデータが出てきました。矢張り罹らないように予防することしかありません。

第6波が始まって、感染してしまったという話を、身近に聞くことが多くなってきましたが、ニュースにもなりません。検査体制も不十分なままですので、不顕性感染(PCR陽性無症状者)も含めると、かなり高率に感染が広がったと考えられます。今、住民を対象として抗体をどの程度持っているかの大規模調査をすべき時ではないかと考えますが、そういう調査、計画は聞こえてきません。あるいは社会的免疫といわれる7割に近づいているかもしれません。

感染した状況を見ると、やはり会食が最も危険のようで、しかも二次会的に三密状態になることがヤバいようです。蔓延防止対策が解除されても十分気を付ける必要があります。差しつ差されつのない、アクリル板越しの会食なら、人数を増やしても可いのではないでしょうか。新型コロナウィルスは当初飛沫感染と言われましたが、現在では空気感染とされています。従って感染源が分かり難いのも事実です。換気です。

時は新緑の候、ゴールデンウィークの最中、新鮮な空気を求めて、ワンダーの堀川氏スタイルで、山行、トレッキング、あるいはゴルフなどのアウトドアスポーツは、本来殆ど問題ないと思います。皆さん賢く予防しながら行動しましょう。

ウクライナ紛争とグローバリゼーション

4月28日の読売新聞に静岡県立大学の浜田准教授が、ロシアのネオ・ユーラシア主義というタイトルで寄稿された。本稿で同氏はロシア革命で欧州各地に拡散した知識人たちが、自らのナショナルアイデンティティを求めて、ヨーロッパともアジアとも違う、ロシア独自の社会文化圏を想定して”ユーラシア主義”という概念を唱えていたが、90年代のソ連崩壊後、社会主義と決裂したロシアが新たなアイデンティティを模索する中でこの考え方が見直され、再解釈が加えられてネオ・ユーラシア主義が誕生した、と紹介しておられる。

ネオ・ユーラシア主義なるものの詳細は同稿では書かれていないが、指摘されて初めて、なるほどそういうものが必要だったのか、と納得した。欧州、と我々は簡単にくくってしまい、当然の帰結としてロシアもその一部だと思ってしまう。この地には北欧神話に名高いスカンジナビア人の国外展開(ヴァイキング)から始まっていくつかの国々が勃興し、一度はローマ帝国の一部となり、いろいろな勢力の栄枯衰退をへてオーストリアハンガリー帝国となったり、現在の国境からでは理解できない地域社会が入り乱れた歴史を持つ。宗派こそ違えキリスト教という一神教、字体はちがってもアルファベットという表意文字を持ち、解釈はそれぞれとしてもローマ帝国文化の伝統を継承していて、なおかつ、おのおのの国,として地政学的に隣接している。そこには島国として三千年、ある意味での孤立というか隔絶を経て存在している日本という国からは理解し得ない共通項があるだろう。その中で、”欧州クラブ“ のメンバーとみてもらえないロシア、あるいはスラブ民族、という固まりがなぜ俺達だけがちがうのか、という感情を持ち、それがネオ・ユーラシア、という発想に至ったのは内容はわからないもののその過程は理解できる。19世紀に入ってのこのロシア外し、の原因がレニンに代表される共産主義、というものなのは確かだが、その共産主義の原点はロシア土着のものではなく英国をはじめとする旧社会に存在した矛盾だった、ということも忘れてはならないだろう。

一方、我々の日本は、日本海、シナ海、太平洋による大陸との分離、という物理的事情に加えて徳川三世紀にわたる鎖国、キリスト教との断絶が作り上げた結果はたびたび島国根性と呼ばれる国民性を作り上げた。この自虐的発想はつねにネガティブにとらえられてきているが、そのプラス面についての議論はあまり聞くことがない。猫も杓子もグローバル、とのたまう現在にも “あの連中の仲間でいたい”、あるいは ”俺だけ仲間外れ“ というような被害者意識は存在しないのではないか(小生が嫌悪感を感じる、例の ”欧米ではこうなのに日本では” 主義者もいるのは事実だが)。それには物理的・時間的隔絶もさることながら、”我が国の文化“というものが存在し、国民の支えになっている、という抜きがたい事実があるからだと思う。浜田さんの指摘される ”ナショナルアイデンティティ“ が厳然と存在している国なのだ。

現在、我々の眼前にロシアによるウクライナ侵攻、という歴史的事実がある。今回の紛争の理由が何なのか、についてはすでに議論されていることであるし、素人が云々することは避けたい。しかし、報道によれば信憑性に疑問があるとはいえ、ロシアになおプーチン支持者が多数いることも事実だなようだ。このことと浜田氏の指摘されたネオユーラシア主義というイデオロギーとは無関係ではないのではないか、と疑問を持った。

欧州諸国をはじめとする、”民主主義と法の支配という価値を共有する“ とされている各国は、本来は領土問題というローカルな紛争であるはずのウクライナ紛争を、この共有する価値への挑戦、ととらえることで、”冷戦の終結“ で終わったはずのイデオロギーの対決が再燃したと一方的にとらえているのではないだろうか。このことは少し以前にフランシス・フクヤマが世界の国々が民主主義資本主義を共通の認識としてとらえる時代が来た、として ”歴史の終わり“ を書いたことと軌を一にする。そして小生はその背後にあるのが、”グローバリゼーション“ への過信なのではないか、と思うのだ。 グローバリズムなる、共産党宣言ふうにいえば欧州を徘徊するこの妖怪の信奉者は、このうねりがベルリンの壁を打ち砕き旧ソ連を崩壊させた、だからロシアもわれわれと同じ土俵に乗るはずだ、のるべきだ、と主張してきた。それが実は幻だった、というのが今のウクライナ紛争は暗示したのではないだろうか。

小生が就職時点では想像もしなかったなりゆきで外資系会社へ勤務することになったころ、まだグローバリゼーション、というコンセプトはなく、世界規模で事業を展開する企業はワールドワイトエンタプライズ、と呼ばれ、まだ企業規模も小さかったヒューレット・パッカードもその一つと認識されていた。HPの創設者であるウイリアム・ヒューレットは同社がヨーロッパへ進出するとき、”電流は地球上どこでも同じ方向に流れる以上、HPの製品は世界で必要とされる“ と主張してこの国際化を進めていった。しかし、電流は同じ方向に流れてもそれを必要とする文化は同一ではないのだから、HPの行動基準は Think Global, Act Local でなければならない、と戒めることを忘れなかった。それが90年代くらいからグローバリズム、という一種の熱狂のなかで、世界のすべてに通用するビジネス環境があるはずだ、という過信に変わっていった。どう考えてもこれが日本の環境では通用しない、と主張しても”オマエはいつでも日本は違うという。世界のルールを理解しないオマエのほうが間違っている“ というわけだ。その過信が行きついたのは、ヒューレットが喝破した Act local の部分が抜け落ちた、一見客観的な”数字による経営“、という結果であり、独自の企業文化を誇ったHPの変貌につながったのだと小生は思っている。

ロシアだって俺達だって同じ、同じはずだ、という論理を招いたもの、その悲劇的な結果として戦争にまで行きついてしまった現状も、どうもこのグローバリゼーションという妖怪が生み出した一方的な誤解だったのではないか、という気がする。理屈理論はともかく、残酷な戦争を擁護する気持ちはさらさらないが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎しで、ロシアが生み出した芸術や文化まで否定することは許されるべきではあるまい。”グローバリゼーション” なる妖怪にはそういう空気を醸成してしまう面もあるのだ、と(一企業の中の出来事には過ぎないが)自分の敗北を苦い気持ちで反芻している。

エーガ愛好会  (139) 市民ケーン   (普通部OB 舩津於菟彦)

当時25歳の若き天才オーソン・ウェルズが製作・監督・脚本・主演を務め、映画史に残る傑作として語り継がれる人間ドラマ。実在の新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルに、ある大富豪の波乱に満ちた一生を、革新的な映像技法とストーリー構成で描き出す。大富豪の新聞王ケーンが「バラのつぼみ」という謎の言葉を残してこの世を去った。その言葉の意味を探るよう調査を命じられたニュース映画の編集者は、ケーンの元妻や事業のパートナーら、生前の彼を知る人々に取材を重ねていく。やがて浮かび上がったのは、すべてを手に入れた男の孤独な生涯だった。
1942年・第14回アカデミー賞で脚本賞を受賞。作品賞など9部門にノミネートされながら其の他の賞は新聞王ハーストのの妨害が在り取れなかったと言われている。「薔薇のつぼみ」というのがネタバレ的にこのエイガのツボに成っているが、彼にとって「バラのつぼみ」とは、手に入れることのできなかった「愛」なのだった。最後にかつて幼きケーンが遊んでいたそりがあり、誰も気にも留めないそのそりには「ROSEBUD(バラのつぼみ)」のロゴマークが印刷されていた。城の煙突からは遺品を燃やす黒い煙がもくもくと天へ立ち昇り、屋敷を囲むフェンスには「NO TRESPASSING (立入禁止)」の看板が掲げられていたラストシーンは印象的。
何が凄いかというと先ず映画の撮り方が斬新。パン・フォーカス、長回し、ローアングルなどの多彩な映像表現など。そしてストリー全体がフラッシュバック型式に語られている。記者が取材を行う形で、ケーンの少年時代から晩年までが回想シーンで順々に描かれていく。劇中に過去の出来事を入れるこのような技法を“フラッシュバック”と言い、1900年初期にはすでに使われていたようだが、より効果的に用いたのが本作だった。
語り手それぞれの視点によってケーンの様々な人間性があぶり出されていき、黒澤明監督も『羅生門』(50)や『生きる』(52)などでこの手法を使っている。
また出演者の殆どが初めての出演というのも凄い。ジョゼフ・コットンは演劇関係のジャーナリストとして働いていたが、俳優になるためニューヨークに移り1930年にブロードウェイにデビューし、そこでオーソン・ウェルズと出会って、1937年から彼の劇団に参加するようになった。翌年、ウェルズの監督作品『市民ケーン』で映画デビュー。
このジャーナリストとして「ケーン」が頭角を現すのはケーンの両親は小さな下宿屋を営んでいたが、ある時宿泊費のかたに取った金鉱の権利書に大変な価値がある事がわかり、その名義人である母親は大金持ちとなった。母親は反対する父親の声に耳を貸さずケーンをニューヨークの銀行家サッチャーの元に預け、彼に運用を任せた資産をケーンが25歳になった時に全て相続させる事を決める。雪の中そりで遊んでいた幼いケーンは自身をニューヨークへ連れ去ろうとするサッチャーを持っていたそりで殴りながらも結局両親から無理やり離されニューヨークで育った。25歳になり莫大な資産を相続したケーンはサッチャーに「育ててくれと頼んだ覚えもない」と、後見人でありながら冷たく彼を遠ざけ去り、友人のバーンステインとリーランドを引き連れ、買収した新聞社「インクワイラー」の経営に乗り出す。
彼が手法とした「センセーショナリズム」は友人や古株の社員に批判されるが、結果的にビジネスは成功し、廃業寸前の弱小新聞社であったインクワイラーの部数はニューヨークでトップとなる。37の新聞社と2つのラジオ局を傘下に収めた新聞王チャールズ・フォスター・ケーンは時の大統領の姪と結婚するが、妻とは反りが合わず次第に会話も無くなっていく。ケーンは労働者達の為に政治家になるのだと宣言しニューヨーク州知事選挙に打って出る。選挙戦ではライバル候補であり現職知事のゲティスの悪評を責めるばかりで大衆の人気をさらい圧勝かと思われたが、ゲティスは愛人スーザンの存在を突き止め、知事選の前日にケーンと妻をスーザン宅に呼び出し、「出馬を辞退しなければケーンの不貞を世に暴露する」と脅す。ケーンは激怒しその要求を突っぱねたが、ニューヨーク中のメディアにスキャンダルを報道されイメージが地に堕ち、教会をも敵に回してしまい無残に敗北する。敗北の夜、リーランドはケーンの労働者への愛は独りよがりの愛だと強く批判し、妻と息子もケーンの元を去る。
知事選とスーザンの一件でもうニューヨークには居られないと感じたケーンは、郊外に荘厳な大邸宅、通称「ザナドゥ城」を建て移り住むが、ケーンと2人、他には使用人しかいない孤独な生活にスーザンは次第に不満を募らせる。そしてある日ケーンと口論となったスーザンは「あなたの行いは全て自分の為」と言い残し、行かないでくれと懇願する彼の元を去る。一人残されたケーンは彼女の部屋にある物全てを破壊していくが、スノードームを見つけるとそれを握りしめ呆然とした表情で城のどこかへと消えた。そして時は流れ、年老いたケーンは孤独な最期を遂げる。トンプスンは最後にザナドゥ城まで取材にやってくるが結局誰も「バラのつぼみ」の意味を知らず、その意味は謎のままに終わる。
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小生、普通部-中学校-の頃から新聞製作をして大学でも新聞研究所に所属していたので、マスコミ-新聞-は記者は多くの読者が後ろに控えている事を意識して取材し、一人のために書く物では無いと事を嫌と言うほど教えられた。しかし、新聞しか無い時にはその影響力は凄いモノで、ついつい天下取ったと思ってしまうのかも知れない。今日も知床観光船社長の記者会見で「天下を取った」様な気分で質問している記者が目立つ。
日本の新聞も読売の正力、朝日の村山、産経の前田などが創業者として影響を与えてきた。なかでも時事新報は1882年(明治15年)3月1日、福澤諭吉の手により創刊され、その後、慶應義塾大学およびその出身者が全面協力して運営した戦前の五大新聞の一つである。創刊に当たって福沢は「我が日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」と宣言した。不偏不党とか皆平等とか言うがやはりそれなりの旗幟があって、アメリカではハッキリ支持政党などを謳って書いているが、日本ではやや曖昧で、もうすこしハッキリ旗幟を出しても良いのではと思う。

                                                                                                                                   (保屋野)名作中の名作と云われる「市民ケーン」は昨年6月に、愛好会でも話題になりました。

その結果、斬新な映像については評価が高かった半面、総じて、意外にも「やや否定的」な感想が、私含め多数を占めました。

(安田)映画史上ベストとの評を知りつつ、前回に放映で初めて観ました。1〜2年前だったでしょうか。新聞王ウイリアム・ハーストの生涯に興味があって、筋を追うことに一杯で、画期的な映像表現には充分気がつきませんでした。録画をまた観て、その辺と素晴らしい映像美も楽しみたいと思います。Rosebudの謎にも注視したいと思います。

ウクライナーヨーロッパの現実    (在パリ  平井愛子)

先ほど、ラジオ(RadioSude)で聞いたフランスの経済学者Olivier Delamarcheの見解では、ロシアはポーランドとブルガリアのガスの供給を止めた。(これはすでに報道されていますね)もしドイツへの供給を止めたら、ドイツは3日しか持たない。フランスはドイツほどロシアからガスの供給は受けていないが、早速アメリカからもらうことにした。しかしこのアメリカからのガスは液体にして運ぶので、この液体をガスにする工場施設を新たにつくらなければならず、莫大な金額が必要だ。(アメリカが喜ぶだけ)ロシアへの経済制裁の為に、ガスを貰っているのに料金を払わないという一方的契約破棄のバカな方策をヨーロッパがとったので、一枚上手のロシアがルーヴルで払えと言ってきた。ルーヴルなどはロシアに行かないと無いので、各国は支払えるルーヴルがない。ロシアの首を絞めてるつもりがヨーロッパは自分たちの首を絞めている。コロナのワクチンでマフィアまがいの大儲けしたマダムがヨーロッパEUのトップに立っている。世界で一番怪しいゼランスキ-に国会で演説させているなんて本当にバカなことだ。武器の供給なんて止めて、兎も角早く戦争を止めることだ。

こんなことを話していました。フランスでの放送の一端です。