自粛中のカウンタから (バー ”アンノーン” オーナー  川島恭子)

とうとう コロナウイルスは、皆様の生活を脅かすまでになってしまいました
私たち飲食業界も危機となっています。先日、Facebookに投稿された同業者の意見をご紹介しますので、読んでいただけたら嬉しいです。色々な、ご意見やお考えがあるとは思いますが、安全 清潔 換気を以前と同じように それ以上 気をつけ、今の状況の中で営業を続けさせていただきます。

この状況下では、貸し切り状態にちかく、混み合う事もありませんので、もしBarの空間が必要になったら ご来店いただけたら嬉しく思います。皆さまにウイルスが寄ってこない事を祈りながら、自分自身の健康にも留意します。

(フェースブックから転載)

今晩の小池都知事の会見を受けて。
自粛…なんだそれ?今飲食店に集まる事が良く無いのはわかる!頼むから自粛じゃ無くて規制にして下さい!売り上げの補償なんてしなくていいから、働いている人達の給与せめて80%…いや60%でいいから補償してあげてください!(これは雇用保険無しのアルバイトにも拡充された模様、ただスピードが難しく…申請から数ヶ月かかる模様)家賃を50%…いや30%にしてせめて3か月はステップさせて下さい!ちゃんと来年再来年に分けて払います!(これは国交省から通達があれど、比率や期間など無し個人オーナーは難しそう)まだまだ問題山積です…そこらを規制、条例、法制化、してください!時間がありません。

繁華街の酒場、BAR、飲食店…などで飲食した人がクラスター化したから繁華街に行くな…わかったよ。だから、大至急飲食業で働くスタッフの生活をなんとかしてあげて下さい。国に要請してる?わかったよ。わかったけど、もう自粛じゃなくて規制して下さい。そして、規制と補償は同時に発表して下さい。
来年のオリンピック?…もちろんやるべき。だけどその時の東京には世界をおもてなしする飲食店、レストラン、はこのままでは無くなってんだろうね。きっと世界からのゲストはがっかりするだろうね…
ロックダウンとか都市封鎖とか非常事態宣言とか政治家と行政がしっかり決めて下さい!だけど自粛と言う名でズルズル潰されて行く日本の世界に誇る飲食文化をなんとか次の時代に繋げたい!
しっかりしゃがんでコントロールして思いっきりジャンプして、まずはみんなで気持ち良く未来に乾杯出来るようにさせて下さい!!

日本が大好きだから、東京が大好きだから…このままではあまりに酷い。
沢山の飲食業の仲間の声を聞き書かせていただきました。もちろん旅行業、エンタメ、始め沢山の業界もなんらかの政策が急務なのも理解しています。

(編集子注:”アンノーン”:本稿2月24日掲載記事で紹介)

蕎麦行脚  (37 菅谷国雄)

日本に生れて、蕎麦・饂飩など麺類(ラーメン・素麺などを含めて)が嫌いという人種は、間違いなく少数派であろう。こんなに旨い食べ物はいつごろから日本にやってきたのだろうか。

蕎麦いまむかし

遣唐使の時代、生きて帰らぬ覚悟をして辿り着いたかの地は、日本とは比べ物にならないほど文化の進んだ所。見るもの・食べるもの、すべてが洗練されたものばかりであった。そうした食べ物のうち、小麦粉を水で捏ね扁平に伸され、ひも状にされて茹でられたものが多く食べられていた。それを見よう見まね、日本に帰った留学生の僧侶が食した精進の小麦粉製品、それが素麺や饂飩の始まりといわれている。(新島繁・蕎麦史考)

更に蕎麦のルーツを辿れば、8世紀の初め養老年間に凶荒に備えるための救荒食物として蕎麦の栽培を勧める詔が発せられたという。(続日本紀)

それから1200年、室町・戦国時代までは、小麦粉に雑穀の蕎麦粉を混ぜて団子や蕎麦掻きにして食べられていたが、江戸時代に至って「蕎麦切り」が誕生、17世紀の半ば寛永年間には庶民の間に蕎麦切りが流行。維新前の江戸末期には「今世江戸の蕎麦屋大略毎町一戸あり、不繁昌の地でも四町一戸なり(守貞漫稿)」江戸市中の食べ物屋6000軒の内約半数の3000軒の蕎麦屋があったことが伝えられている。(江戸の蕎麦の粋・歴史年表)

明治16年には製麺機が開発され、昭和の食糧難の時代には正に救荒食物として、格好の代用食となった。昭和50年ごろから手打ち蕎麦が見直され、今やスローフードの代名詞として、懐石料理やフランス料理にも使われる、良き時代を迎えている。

蕎麦に魅せられて

読者の諸兄妹は蕎麦党ですか饂飩党ですか?。永年の友が「蕎麦か饂飩か」でとうとう仲間割れをしたというは話もあるほどの各々その拘りは尋常でない。食通が多い関西人が江戸で流行した雑穀まがいの蕎麦など食えるか、などと言ったかどうか・・・それでも私は今や蕎麦に軍配を挙げたい。

それまで、ただの食いしん坊で天丼やかつ丼を追いかけていた私が20年ほど前、会社の先輩に誘われて神田の老舗の暖簾をくぐったことが蕎麦の道に引きずり込まれるきっかけとなった。店に入って先ず女将さんの笑顔、さりげなく心のこもった店員のサービス、冷たい蕎麦茶が素晴らしい。蕎麦を待つ間の酒と料理にこだわりがある。待つことしばし、新蕎麦の香りとその爽やかなのどごし、カツオと昆布だしがまろやかな汁。爾来、手打ちで評判の店を各地に尋ね、蕎麦行脚が始まった。

今回、私の独断偏見による中央沿線「多摩・手打ち蕎麦10選」を本稿に掲載して頂くことにした。私よりも数段と蕎麦学・蕎麦道に詳しい方も多かろうとお恥ずかしい限りだが、近くに出かけられた折には、夫々のお店に気軽にお立ち寄り願えれば幸甚この上ない。

 

おすすめの店アプローチ

 

 

 

鶴見川堤の朝と夕暮れ (34 小泉幾多郎)

天気の良い日に誘われ近くの新横浜付近の鶴見川堤を朝と夕方と散策しました。(撮影時刻 9:39と17:39)。

夕方は太陽が落ちるまで若干時間があったので、堤の草むらに腰掛け のんびりしていたら、老若男女が通る通る。自転車を走らせる人、ジョギングの人、颯爽と歩く人、杖を突きながらよぼよぼ歩く人等通る人は千差万別。コロナ騒動なんかどこ吹く風、あるいはコロナウイルスに負けない抗体作り?…の人たちが通り過ぎるのに見とれてしまったことでした。

改めてじっくり拝見、いい写真ですね。僕の好みとしては夕暮れの川面の夕映えが特に印象的です。

運動不足なので今日は調布駅まで、京王線にして4駅分、歩いてきました。50分、4.5キロ,8000歩少々。

 

20年3月 月いち高尾報告 (39 堀川義夫)

 

コロナウィルスの蔓延が懸念される中、3月の梅を見ようという企画を懸念しながら、募集をかけたところ意外にも当初は27名の参加申し込みがあり、びっくり仰天! 又、暖冬が続いたので梅は散ってしまったのでは? 等々不安材料が一杯の企画でした。ところが・・・

やはりコロナウィルスの為か、参加を止める人、当日、日にちを間違えた人、他のイベントが中止になり急遽参加したいという人・・・結局のところ参加者は18名になりましたが、楽しいワンデリングが出来ました。

当日は10時高尾駅北口に集合。そこから徒歩で小仏沢に沿った梅園を順番に訪れました。遊歩道梅園、関所跡にある関所梅園、めったに行かないであろう荒い梅園、天神梅園は真っ盛り、湯ノ花梅林は綺麗に咲いているものの中には入れず、道を歩きながらの観賞をして、今日のお楽しみの一つ、摺指(するさし)の峰尾豆腐屋で小休止。木綿豆腐、寄せ豆腐、生揚、におからドーナッツ。あっという間に18人で食べつくしてしまいました。岡沢さんの用意してくれた薬味、ポン酢が食欲を増しました。

 

天気は、ぽかぽか陽気で今年初めての20°C越えでTシャツで歩くのに丁度よく気持ちの良い日となりました。心配していた梅も木下沢梅園はまさに満開の見ごろで言うことは無し、残念なのはこれまたコロナウィルスの為に梅園内には入れず、簡易トイレなどもなく、広場は工事の資材置き場になっていて、道端でお弁当を開くというやや、艶消しの面もありました。

又、特筆すべきは、若い猪俣さん、品川さんと特別に川名さんのガールフレンド、小野さんが初めて参加されました。恒例のテングの打ち上げはやはりコロナウィルスを警戒してか、わずか9名の参加でした。

 

日 時 2020年3月11日(水)

参加者 中司、中司八恵子、後藤、翠川、高橋良子、小泉、椎名、菅谷、多田、町井、武鑓、相川、猪俣、品川、川名、小野、岡沢、堀川   以上18名

コロナウィルスの影響次第でどうなるかわかりませんが、これからの予定は下記のとおりです。
4月13日(月)、5月13日(水)、 6月3日(水)

”ホワイトハウスの主” 読みました (日本HP OB 五十嵐恵美)

今日は週に一度取っているWESTERN CIVILIZATIONのクラスがあったのですが自粛して特別にアップされたビデオを見ることにして欠席しました.  アンサンブル、ヨガも自粛.   時間はあるのですが、いろいろ何も手付かずで困ります.

ブログ拝読しました. そうですね「次のホワイトハウスの主がだれになるのかわからないが、世界の人たちがあこがれを持ち続けられる国に立ち戻ってほしいものだ」と結んでおられ、私もできればそう望みますが、現実的に、すでにアメリカ(また日本を含む世界のどこでも)古き良き時代に戻るのは難しいと思います. そして戻ってはいけないのではないかしら(?)とも思います.世界中に情報の流れるスピードと共に、価値観の変わるスピードが1991年にベルリンの壁が崩壊した時期を境に増々早くなり、Internetを通じて基本的には(宗教の違いはあっても)今の若い人たちの価値観の地域による差はあまりないのではないかと思います. ただし貧富の差による価値観の差は世界中共通してより大きくなっているのではないでしょうか. 依って政治がますますPOLARIZEする.情報がなければ一方的に与えられた情報を信じて戦争突入ということもあり得る(得た)わけですから、、、情報というものは良きにも働くし、また裏目にも出るということかもしれません.

「自粛行動」に関して私が思いつく米国と日本の違いは、日本人は世の中のために自粛でき(やはり日本人は基本的にはお行儀が良いのでしょう)、アメリカ人は自分のために自粛する傾向があると思います. 今回、スタンフォード大学医学部の教授がCOVID-19に感染したニュースが出た次の日に大学が授業をすべてオンラインに変え(これは大学側が感染源になる可能性の責任を案じての自粛)、又あちらこちらのプライベートの集まりも自粛され、カリフォルニアの「自粛行動」は(現在でも続いていますが)非常に早かったと思います.そういう意味では北海道知事の休校に関する決定の速さは見事でしたね.それから台湾の水際対策の速さにも脱帽しました.やはり台湾は常日頃中国の脅威と戦っているのでしょう.

”83歳 初めての山登り” 鑑賞 (34 小泉幾多郎)

今年は新春早々から映画館で珍しくも3本も鑑賞したが、わが同期のアサ会にも映画好き、特に女性軍の映画通が多く、最近でも、コロちゃん(西川加耶子さん)やチンタ(真木弓子)さんから、映画の推薦があった。

コロちゃんからは、「男と女人生最良の日」。1966年の「男と女」の続編。「あのシャララ、ダバダバダという音楽、古い画面を度々写しながら老いた男女86歳と89歳。なんということないけれどゆったり楽しかった。誰かがクロードルルーシュの自己満足と批評していたけれど私は満足でした」との推奨。だが、残念ながら見逃してしまった。

チンタさんからは「イーディ、83歳はじめての山登り」。「リアル83歳で、長年夫に仕えたイーデイが一人になって昔からの夢の山に登るという話で、私とは真逆、の人生ですが考えさせられた・・・。」との推奨。言われるように83歳で初めての山登りと学生時代から山に登り続けている我々とは真逆の人生と言えるが、この歳になってみると山登りに初めても最後もなく、登る意欲があるか否かになってきたことが痛感させられたのだった。この映画のこと、言われるまで知らなかったが、横浜・東京で、上映館は銀座のチネチッタのみ。原名「Edie Never too late」。画面では、83歳で夫の介護から解放されたある日、馴染みの食堂で、「追加注文には遅い?」と聞いた時の店員のの応えが 「Never too late」。その言葉を聞いたイーディの何とも言えぬ表情!父が生前スコットランドのスイルベン山に登ろうと言われた夢を実現しようとの決意をした瞬間となったのだ。同年輩となり、昨年は同じ歳の会社の同僚の死、12月には山仲間の同僚、足立、丸橋両君を失い、今年に入っても、同年のいとこが亡くなり、ヤクルトファンから親近感を持っていたひまわりに対して月見草にたとえたぼやき節の野村克也氏も亡くなったが同じ歳。こういう時期を迎えても、Never too lateは本当かしら?と疑問符が付くのだが、まあ本当のことだと信じて、巷はコロナウイルス騒ぎの中に、この映画を観たことが、生きる糧になることを!

映画は、山に登るまでの経緯が少々長く感じ、早く初めて見るスコットランドの
山々を観たい衝動に駆られた。スコットランドの山はさっぱりわからないが、このスイルベンは標高723mと大したことないが、湿原の荒野にほぼ垂直に切り立っているらしい。ロンドンから夜行列車でスコットランドのインバネス駅まで行きバスか車で。偶々知り合ったのが登山用品店勤務の若者の車に乗ることに。父が使っていた古いラジウス等の山道具に対し、新しい道具との対比も語られる。その若者がガイドも出来る幸運にも恵まれたり、雨中遭難寸前に駆け込んだ山小屋の番人が一言も発しなかったことに違和感を覚えたが、初めての山登りに誘った父親が遭難寸前の娘を救ったということを言いたいらしい。ボートで湖を渡ったりしながら、無事山頂に辿り着き、素晴らしい景観を眺めるところで終わるが、人を寄せ付けない意固地な老人が山に登ることで過酷な自然と向き合い、今まで自らが築き上げ、暮らしてきた自己の破壊を経て自分の未来を切り開いたということを描いたようだ。明るく希望に満ちたこれからの人生を頑張れ!と言いたいが、これからの残された人生、介護施設を拒否し、娘と喧嘩別れをしたままでは、どういうことになるのか。山での経験を活かし、楽しい後世を生きて行って欲しいと望むばかり。同年齢の我々も同じ。

”なじみ” ということ

晴れた木曜日、久しぶりに床屋へ行ってきた。いまや 床屋 という名前そのものが準死語のようになってきているのだが、場所は京王線聖蹟桜ヶ丘。今はいっぱしの町並みになってはいるが、引っ越し当時は新興地、というか未開地というか、多摩ニュータウンもまだ完成していなかったころ、聖蹟桜ヶ丘、なんていっても ? と思われた時代である。1966年、まわりはまだ空き地ばかりの電鉄ビジネスのはじっこに引っ越した。頭金は父親に泣きつき、何年だったか忘れたが超長期ローンを組むという典型的なスタイルだった。

なにしろ2年前までは原生林だった斜面だ、自然豊かと言えば聞こえはいいが、突然隣家から絹を裂くような悲鳴、しとやかに見えたあの若奥様が 蛇がでたあ! と絶叫したり、雨戸を繰り出せばヤスデがべったりはりつき、冬ともなれば娘が拾ってきた子犬の水鉢が凍る寒さ、家の窓からは多摩川越しに立川の灯が見えたころの話である。引っ越し騒動の直後、どこか床屋くらいあるだろうと駅までの間の田んぼの中に見つけたのが小山理容店。いまでは バーバー小山、なんで取り澄ましてるが、”桜が丘” なんて電鉄会社のキャッチコピーなどは糞くらえ、ここは関戸で隣は連光寺、おめえはどっから来たが知らんが俺はここの生まれで何が悪い、子供のころからハサミ一本でやってきたバリバリのおやじさんの職人気質にほれこんで、それ以来半世紀を超えて、この間ほかの店で行ったのは滞米中の1年間のブランクと、現在の場所に越したとき、近くの店(床屋、なんていうわけがない、なんだかよくわからないカタカナ名前の店)へやむに已まれぬ事情で飛び込んだ1回しかない。

現店主の2代目通称よっちゃんによれば、小生は淵野辺から2時間かけてくる人に次いで遠距離来客リストの2番目であるらしい。数年前まで、埼玉からかよってきた常連がおられたらしいがここの所見えないよし。先代のころは若い衆の見習いを5人もかかえていようかという盛況だったが、昨今の美容だか理容だかわからないカタカナビジネスのご時勢だ、長男の3代目たかちゃんと、女性客に対応するたかちゃん夫人の3人のこじんまりした店。黙って座れば何も言わずに半世紀間変わらぬ髪型にしあげてくれる、先代譲りの多摩弁が愉快な職人肌よっちゃんとの雑談の時間が素晴らしく楽しい。まさにわれ昭和を愛す、という雰囲気の横溢する店である。

桜が丘にはもう一つ、今でも時々顔を出す、このような場所には珍しい本格的なバー UNKNOWN  がある。数えて20年前、開業したての店にぶらりと入ってみてすっかり気に入り、引っ越すまで、ほぼ毎週金曜日には顔を出すようになった。近くに勤務していたサラリーマンやら受験前の大学生やら、顔なじみができ、”金曜日には桜が丘の知性が集まる” などと冗談を言っていたのがなつかしい。微醺を帯びて裏の坂道を自宅まで10分、鼻唄交じりの背中によく月をみることのあった、あの時間もまた、なつかしい。一度、府中でのワンダーOB会ゴルフの帰り、48年卒の佐藤君や51年卒斎藤君を紹介し、酒にかけてはチョーうるさい佐藤も絶賛した店だ。こういう場所のことを なじみの店、というのだろうな、とふと考えた。

だいぶ前の本稿で喫茶店のことをいくつか書いたが、そのほとんどは休業してしまい、昔からのなじみ、と言える古い店は新橋の ウエスト と新宿の ローレル だけになってしまった。店といういわばハードウエアがあるだけではとても馴染み、とは言えない。これからあと何年、勝手なことを言っていられるのかわからないが、新しいなじみ、なんでできるんだろうか。帰途、買い物を頼まれて新宿は伊勢丹まで足を延ばした。サラリーマン時代、背広を買うと言えばここにきめていたから、なじみ、といえなくもないか、と思いながら中へ入ったら、正面の新しいキャッチコピーが目に入った。まさにこれが俺の考えていたことなのかなあ、と偶然に驚きながら、そこはスマホの簡便さで(映画館での撮影は犯罪だそうだが大丈夫かなあ、などととまどいつつ)失敬してきた。

片山勇氏がどういう方なのか勉強不足で存じ上げないが、これは気にいった。字が小さいので特に気に入った部分を接写してみたのが下の1枚である。

小生こと事情があって、終の棲家、ときめていた桜が丘から現在の地へ越してきて10年になる。前の家とは立地構造が違うので、玄関を開ければ隣近所の方々と気楽に顔が合う、とても住み心地のいい場所で、隣人にも恵まれている。子供好きの僕にはありがたいのが、小学生の子供たちが気楽に挨拶していくことである。彼らが成人したとき、そういえばあそこに頑固なおじさん、いたよなあ、などと思い出してくれるだろうか。これって、”なじみ” っていうのかしらん。