帆足進一郎絵日記拝見しました (34 小泉幾多郎)

(編集子の横河電機同期入社の仲間のひとりが美術に詳しく、自身でもブログを書いていることがわかり、見せてもらってその内容に驚嘆して、とりあえず絵に詳しいと思っている仲間に紹介した。そのうち小泉先輩からの一文を紹介する。なおブログ名は 帆足進一郎絵日記 である)

 ご紹介の帆足進一郎絵日記を拝見しました。先ずは、絵の多いこと、その中でも、山を描いた絵の多いことに驚きました。gisanとの交流から?と思いましたが、自分で50名山を選らばれるくらいですから、本当にお好きなのでしょう。事例として故郷の大分県の山は別として、指名された14の山のうち、明神岳を除き登っていることもあり、その山を見ながら、夫々感慨に耽ることが出来ました。60の手習いとはよく言ったもので、60歳から絵をデッサンから習われた由、小生も会社を辞めた時からでも、何か一つのことに打ち込むべきだったと後悔しても既に遅し。帆足さんが絵を描いているところをカメラでパチパチするぐらいが関の山。そう言えば、ワンダーの仲間にも、後藤三郎君をはじめ、29年卒の先輩宮田澄男さんも山では、スケッチ専門でした。同期の片岡陽一君は百名山を油絵で全てを描く計画をたて実行した筈です。

 絵画は勿論ですが、音楽への傾倒にも感心しました。先ずは鑑賞する道具が違う。真空管アンプでの音響装置は、普通の音とは違う次元の異なる音の世界に違いない。名盤を聴いても、鑑賞する力量が異なるから、指揮者カラヤン、アバドや管弦楽団のベルリンフィルやウイーンフィルとの団員まかせをけなせるという音楽評論家でも言えないセリフで切り捨てる能力には恐れ入りました。語学が堪能でなければ、歌曲の素晴らしさに目覚めることは出来ないし、故郷の背景に、R.シュトラウス「最後の四つの歌」が聴こえてくる心境にはなれない。

 先日、マーラーの先駆者とも言えるハンス・ロットの交響曲第1番が、2月9日にN饗と神奈川フィルとが定期演奏会で、同時に演奏されという珍しい出来事があり、小生は神奈川フィルを聴き、N饗の方は、いつかTV放映されるはずだが、聴き比べて、どちらかに軍配を挙げよと言われても,小生は判断出来ないだろう。

 後藤君が、フォンオッターへの言及で、アンネ・ゾフィー・ムターが出てきましたが、その夫であったアンドレ・プレヴィンが2月27日89歳で亡くなりました。結婚当時34歳も歳が離れているので驚いた記憶がありますが、4年で解消。その前にも女優ミア・ファローやジャズ歌手ベティ・ベネット等とも結婚歴がありました。プレヴィンは、ジャズピアニストから映画音楽に関係した後、ロンドン交響楽団の指揮者N饗の名誉客演指揮者にもなり、自身のピアノで、モーツアルトの協奏曲やラフマニノフの交響曲等々、批評家には、通俗的と言われたりもしましたが、そのスマートな心地よい演奏は大好きでした。晩年は椅子に座っての指揮にもなりましたが、若々しい演奏は不変でした。

京王線埋め立て跡散歩

京王線調布駅前後の地域が地下化されて大分になる。調布市の触れ込みでは、跡地の整備もいろいろと夢のあるものだが、今日現在、まだまだ実現していない。ここの所運動不足なのと、いい天気だったので、調布駅からつつじヶ丘駅まで4駅分、まだ空き地になっている埋め立て跡地を歩いてみた。甲州、新甲州というメインの通りの間で、出現した空き地をはさんで、どうしようかと悩んでいるような感じの道家々が多かったが、シーズンだけに梅の花が見事な裏庭を拝見しながら3キロほどの散歩で、結構汗ばんでしまった。

後藤三郎さんへ (横河電機OB 舟橋利信)

(編注)舟橋氏は小生と横河電機同期入社、以来親友付き合いを続けている。横浜市大在学中はテニス部で活躍。3年次に教育大との試合で5セットマッチで7時間を超える死闘を制して名を挙げた。社会人でも実業団戦ではデビスカップ出場者との対戦(1勝1分け)もふくめ、武蔵野市民大会など(単4回復1回優勝)で活躍。コートを離れても青梅マラソンに47回参加した快男児、今は同期会(事務系入社18人)の永久幹事でもある。今回思いもかけないことで連絡あり、まことに世の中狭いことに驚くとともにおおきに楽しく感じた次第である。

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皆さん平均年齢に達したかこれから達するかの時期になりましたが全員元気のことと存じます。当方も昨年をもってテニス、マラソンの公式戦を引退しました。

ところで本日(2/18)武蔵野市のシルバー人材センター主催のパソコン教室に出席しました。3回目でしたが自分で習いたいテーマを申告して自分のパソコン持参で教えてもらうやり方の教室です。

今日はグループのメンバーのアドレスをいちいち入力せずに予めまとめて登録をしておき、その都度のメールのあて先入力を省力化するやり方の勉強申告をしました。このやりかたを同期会メンバーを使ってマスターしようとしている途中で、二番目に中司と苗字入力したところで講師(女性で名前は堀井麻耶さんです)から中司さんなら珍しい名前だが自分の父の兄弟に後藤三郎という者がいる。日本IBMに勤務していたが横河ヒューレットパッカードの中司さんと大変仲が良く共著で本を発行している。その方ではないかという話がでて、いやそれならそのとおりでしょうということになりました。

世の中本当に狭いですね。以上ご報告まで。
次回ハッキリ会での再会を楽しみに。

カメのアイデンティティー  (41 斎藤孝)

大変ご無沙汰しております。1月12日に開催されましたKWVのNYPでお会い出来てジャイ先輩からお言葉を頂戴しました。
「カメ、珍しくネクタイをしているな。」今年もKWVプランでお会いできることを楽しみしております。

さて、トンベから連絡がありましたブログの原稿の件です。ジャイさんのブログは有名ですから私も楽しく拝見しております。なかなか文化的で話題が素晴らしいです。トンベによれば「小舎番第2信」という記事だそうです。その原稿を私が担当させてもらいました。
雑文ですがお送りしますので宜しくお願いします。


S41年卒(1966年卒)のカメ、本名は大学卒業までは「亀谷孝」でしたが、1967年に母親の再婚先の名前である「斉藤孝」に改名しました。その後2002年になり顔にも髭を付け人相までも改造しました。変わらないのはカメという愛称だけですが、多くの先輩諸氏から未だ私の正体が明らかにされていません。容貌が加齢も加わり激変したことにもよります。さて自分は一体何者だったのか。

そんなカメのアイデンティティーを探るというが今回の小舎番の目的でした。うら若き乙女が「自分探し」にでも出かけたような清々しい時間を雪山で過ごせれば素晴らしいと思いました。雪の浅貝は50年ぶりですから何もかもが懐かしい。
新築された小舎は一代目とは変わっていましたが、乾燥室だけは玄関脇にあり変わっていないと感じました。すのこの上に寝袋を乗せ寒さを耐え、スキーの秘密練習に熱中したことがありました。水洗ウォッシユレットのトイレに座り思い出したことは、その昔の「ぼっとん便所」と汲み取りのWCのことです。雪道を肥桶をさげ天秤棒を用いて運搬しました。数回滑りましたが溢すことなく雪道には黄金のラインだけが続いていました。

「自分探し」の目的は、雪見酒と懐かしの山旅の歌を大声で吠えるという50数年前と変わらない結果に終わりました。これこそがカメのアイデンティティーなのではと納得できた小舎番でした。

2019年1月16日

下の写真は1964年の浅貝冬、左から2人目が22歳のカメです。右上の写真は2019年の年賀状で76歳のカメ夫婦です。

左から相川、本人、一番右がコブキ、その隣が下井(少し美男に撮れすぎ)

”吉田茂” と ”プライムニュース”

チャネル560で再放送された吉田茂についてのセミドキュメンタリを観た(正式なタイトルは覚えていない)。

ドラマ自体はよくできていたという印象だが、同時に、終戦時の混乱にあって吉田を助けた白洲次郎のことを聞いてはいたがよくわからなかったのが、このドラマであらためて理解することができた。昭和21年に満州から復員した僕の父親はすぐ勤務先のカネボウに戻り、混乱期の立て直しに苦労したひとりとして政府との交渉にもたずさわっていたようで、ときどき母に白洲のことをこぼしているのを子供心に?と思いながら聞いた記憶がある。そのおぼろげな感じからするともっと凄みのある、ある意味では暗部のあるような人物に思えていたので、谷原章介ではすこし清潔すぎ、軽すぎる感がして多少物足りなかった気はする。

田中圭が演じた長男健一との確執についてはよく知らなかったが、拾い読みしたことのある彼の文章などを考えてみると、役の演じ方がその割に清潔すぎて物足りない感じがした。父親への反抗はもっとどす黒いものだったのではないか、と感じたからである。またサブストーリーに出てきた街娼と若い役人のエピソードはやらずもがなの感じがないわけではない。おそらくこの挿話はロマンスとしてではなく、日本の一般女性をセックスハラスメントから防ぐため、という今では考えられない ”お上” の発想ではっきりいえば公娼にさせられた女性たちがいた、ということをいいたかったから作られたのだろう。その意味では、昨今議論の絶えない例の慰安婦問題はもっと至近な問題なのかもしれないではないか。

幾つかの重要な転機についての描写はよく理解でき、戦争直後から講和条約に至るまでの過程でなるほど、と再認識することも多かった。吉田が自分は外交屋で政治屋ではない、と吠える場面があるが、たしかにあの場面で変に理想ばかりを追求する二流政治家が排除されたのは日本にとって非常に重要なことだったように思える。いやだろうが、くやしかろうが、今、現実に日本を支えられるのはアメリカしかいねえんだ、それがわからんのか、という判断は正しかったということを今のぼくらなら理解できる。

2日後に、今度はプライムニュースで今の韓国事情についての討論を観た。政治家のことはよくわからないが、出席していた小野寺氏は僕が好感を持っている数少ない一人で、冷静で穏やかな議論にはいつでもうなずくことが多い。しかし今回は、同席していたもと韓国駐日公使、洪氏の ”いま、韓国の人たちの考え方と文大統領の政治手法は全く違っている。その意味で、日本の人は韓国を知らない。日本の人が相手にすべきなのは韓国の人で文ではない” という主張には非常に強い説得力があった。小野寺氏やほかの番組でではあったが、元防衛省の森本氏も同じことを言われていた。とにかく、いまわれわれは必要以上に感情に走ることを戒め、法治国家としてのありようをおしすすめるべきだ、というその結論を併せて考えるに、ぼくらにいま必要なのは、混乱期に吉田が示した ”政治屋でなくて外交屋” の現実感覚なのだろうという気がする。

成人式に思い出すことなど (普通部29卒 船津於菟彦)

今日は「成人式」で町には着飾ったお嬢様方が沢山歩いていて、全国で晴天の成人式は珍しいそうです。平成10年-1998年-に生まれか方々が今年成人式を迎えるわけです。大きな区切りがあるわけでは無いですが、やはり「大人」として自立していく区切りかと思います。

さて、わが人生を振り返ると昨年傘寿を迎え、「成人式」とやらは60年も前になるわけです。総てはおぼろ。朧。
「今どこと戦争しているんですか」-校長先生-「ハーィ鬼畜米英」と誇らしげに小学一年生の入学式はゲートル巻で戦闘帽姿でした。

時は移り1958年慶應義塾は創立100年を迎えました。高校では新聞会にはいり、写真を担当していました。脚立を新聞社のカメラマンよろしく持った1枚。カメラは多分プレスバンだったと思う。

外回りで臨席された天皇の車などを追って撮影。(偶然ネガが奇跡的にありました)

 


1960年はあの早慶六連戦があり、大熱戦。
昨年の早慶戦と同じ様な事でしたが、あの頃の六大学野球は今と比較したら遙かに人気があり、早慶戦などは入場券を確保するのがよういでは無い位の人気でした。早朝から普段開いていない信濃町駅の神宮外苑口が開き、そこから神宮まで急ぎ足で、行き早朝から試合の始まるまで応援合戦が続きました。新聞会にいた僕は週刊誌スタイルの早慶戦特集号という雑誌を作り、売り歩きました。
女性のチアーリーダーが登場したのもこの時でした。慶應は早慶戦で2勝して勝ち点を取れば優勝を果たす。一方早稲田が優勝するには連勝するか、2勝1敗で慶應と同勝ち点・同率となって優勝決定戦(勝ち点・勝率がリーグ戦全日程終了時にともに同じ場合は、規定により直接対決の成績などに関係なく1試合制の決定戦を行う。引き分けがあった場合は勝敗が決するまで再試合を繰り返す)に持ち込み、勝てば優勝と、慶應より厳しい条件となってしまいました。長く他校の後塵を拝してきた慶應にとっては8シーズンぶり優勝のチャンス。
慶應は投手に清沢忠彦、角谷隆、三浦清、丹羽弘と実力者を多数そろえ、打線も六大学最高打率を更新した榎本博明や、後にプロ入りする安藤統夫、大橋勲、渡海昇二ら強打者を擁していましたし、対する早稲田は安藤元博、金沢宏の両サブマリンが投の軸でしたが、前年春季リーグでベストナインに選出された金沢は、練習中に指を痛め登板に不安を残す。野手陣は木次文夫、近藤昭仁といった好打者が卒業し、野村徹、徳武定之を中心とした守りのチームとなった。戦力的には慶應優位と言われており、優勝争いで一歩リードしていることから、この早慶戦を慶應優勢と見る声が多かったようです。

試合は一日目1対2で慶應の負け。二日目4対1で慶應の勝ち。三日目0対3で慶應の負けで。優勝決定戦。四戦目は1対1で日へ没引き分け。照明設備が無かった。そして第五日目は一日おいて開催され、またまた引き分け0対0。
第六戦目 早稲田はこの試合も安藤元を先発させた。6戦中実に5度目の先発、もはや安藤元に命運を賭けた。慶應も頼みのエース角谷を立てて双方ともに気力の勝負となったが、先制したのは早稲田だった。慶應は5回裏に1死満塁とこの試合最大のチャンスを作る。併殺崩れの間に1点を挙げ、なおも安藤統が痛烈なライナーを放つがライトの真っ正面に飛んでしま医、万事休す。安藤元は連投の疲れも見せず、この後も慶應の追撃を抑えて15時10分、ついに6戦にわたる1対3で激闘に終止符が打たれ、早稲田が3季ぶり20回目の優勝を果たした。

優勝特集号の号外新聞を作るべく毎日のように写真を入れ替え、輪転機を廻すだけにしてありましたが、残念ながら幻の号外になってしまいました。

安保闘争もありましたね。銀座四丁目の地下鉄出入り口の屋根に登り、晴海通りの道路一杯に広がる仏蘭西式デモ等も撮影-。樺 美智子(かんば みちこ)さんが1960年6月15日安保闘争で死亡、連日国会周辺はデモ闘争が続きましたが、国会での撮影はやっていませんでした。

こんな青春が二十歳でした。総て「おぼろ」忘却の彼方へと。

因みに、新成人の人口は125万人との推計となり、新成人の数は去年2017年と比べると2万人の増加、昨年に続き9年連続で総人口に占める新成人の割合が1%を割り込むことも確認されています。

閑人会亥年はじめの報告 (44 吉田俊六)

閑人会より亥年第一報を言上。

本年も何卒よろしくお願い申し上げます。S44卒業の「閑人会」も看板と実態が重なりはじめ、3回目の七福神めぐり参加者は14名。深川・浅草についで、今年は「山の手・新宿の七福神」約2万歩を走破。聖俗あざなえる度合いは今回のコースでより鮮明。出発点の御苑前からすぐに新宿二丁目、ゴールデン街、歌舞伎町、新大久保、要所要所の鎮座まします国際色豊かな出自の神々をお参りし・・・第七:神楽坂の毘沙門天の現世利益あらかたにて、生き弁天と邂逅!(婀娜な襟足のお年玉を、共有頂きたく添付仕らん)。勇み足でお伊勢さんの東京支社までお参りし、血液型別おみくじにて落着。さらに、新年会を兼ねての神田のすっぽん鍋(三回目)で回春を祝いました(個人差有るも同音異義の“回春と悔悛”が隠し味。深い味わいがございました)。

 

生き弁天様の後ろ姿に一同沈黙

*印: 恵比寿が日本(神道)、大黒天・毘沙門天の2神がインド(仏教)、弁財天が同じくインド(ヒンドゥー)、布袋・寿老人福禄寿の3神は中国(道教)・・・純国産は1/7!

 

蛇足1:それにしましても、超メタボや長頭などいじめの対象になりかねない外観の方々を神様に祭り上げて価値の返還を成し遂げた先人の優しさに、尊崇の念新。

蛇足2:大切なモノは海の向こうからやって来る・・・“ニライカナイ伝説と宝船”が同船しているのも面白いですね。インカの人たちにとって白い神が海の向こうから来るとの神話がトンデモナイ被害をもたらしたのですが、ぺルリの黒船はこれからの歴史でどのように解釈されていくのでしょうか。“You 達うようよ”の雑踏にまぎれて少し揺らぎを感じた初歩きではありました。

吉田―中司
ご無沙汰しております。
s44の はしくれ 1月年の初めの挨拶をもうしあげます。本年もよろしくご指導賜れますよう、お願い申し上げます。(恵方巻きの宣伝チラシが視野を席巻しているこの時期、かろうじて1月中に)年初の七福神めぐりのご報告仕りたく、
ご容赦いただきたく存じます。
ついでのように私事で恐縮ですが、昨年4月半ばから 430時間特訓「日本語教師養成」コースを昨日1月30日づけで、なんとか、修了いたしました。
調布市内の日本語に不自由している生活者のためにボランティアとしてお手伝いする機会などあれば、(この資格で、行政の方々も委嘱しやすくなるのでは
ないかなどと未熟ながら思う部分もございます)。

日平会新年会―普通部同期生各位へお知らせ (29年普通部 船津於菟彦)

(編集子注)

日平(ひびら)会はS29年普通部卒(大学卒業36)同期のうち、一風変わった人間の集まりである。かつて帝劇地下にあった同名の店で集まっていたためこの名前となった(その後日平亭の都合で場所を帝国ホテル内三田倶楽部に変更)。

A-E5クラスの中でもC、D組には曲者がそろっていて(編集子はE組)、がやがやと良き古き普通部生活を謳歌した仲間である(外部の人には理解できないかもしれないが、普通部部歌にはっきりと ”いざよく学び いざよく遊び” と記されている)。

雪が降るとかの予報でしたが、暖かな日和で、正月のとどのつまりで、賀詞交歓会が開催できました。大森・黒川ご夫妻・河野・後藤・佐藤・田中新弥・中司・日高・岡野・高山・田中宏幸さんに船津の13名でワインとハンバーグランチで愉しく懇談致しました。

岡野さんのご提案で普通部卒業65年の集いを開催することとなりました。

日時 2019年6月22日土曜日 正午
場所 明治屋 京橋 モルチェ
クラス責任者
A:岡野・岩瀬
B:田中新弥・日高
C:田村・船津
D:大森・後藤・高山
E:中司・次回 日平会で詳細を決め、クラスごとに連絡をいたします。

船津 於菟彦: funa@1961.jukuin.keio.ac.jp       |
  |      TEL:03-3622-7861  

”私はマリア・カラス” を観て (34 小泉幾多郎)

昨年12月20日、日影沢で、今年のKWVニューイヤーパーティのチーフを務めた
KOBUIKI(編集注:41年久米行子)が、”私はマリア・カラス” が封切られるので、どうしても観たいと言っていた。その映画自体のことは初耳だったが言われると久しぶりに映画館に足を運ぶ気持ちになった。1月12日、ニューイヤーパーティで、お会いしたので、「あの映画観たよ」と言うと、彼女はそのほかにも、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」、レディカガの「アリースター誕生」の計3本を観たと言われて驚いた。こちとらはなんと一昨年の2月に「ラ・ラ・ランド」というミュージカル映画を観て以来2年ぶりのことだった。上映館を調べTOHOシネマズららぽーと横浜があったのでバスで約30分、三井不動産が2007年に開設した商業施設の一角で13のスクリーンを有するシネマコンプレックス。先ずは恥ずかしいところをご披露すれば、チケットを購入は自動販売。上映映画の中から選び、やっとの思いでチケット購入。昼食はフードコートと称する方式で、メニューを見ながら指定、支払いを済ませ、そのメニューを店の前に置くとワイヤレスベルを渡されるという仕組みで、ここでも、どぎまぎしてしまった

映画「私は、マリア・カラス」はトム・ヴォルフという若干33歳が監督する初長編で、カラスの生涯を描くドキュメンタリー映画。原名は、Maria by Callasの通り、監督が3年間に亘り、カラスの関係者を訪ね歩き、数多くの人や資料を尋ねたが、最終的にはカラス自身の未完の自叙伝や、未公開の手紙、プライベートな映像や音源といった彼女自身の言葉と歌で構成されたドキュメンタリーである。始まると直ぐ、カラスがインタビューで、「マリアと生きるには、カラスの
名が重すぎるの」と打ち明けると直ぐに”蝶々夫人”で、着物姿でアリア「なんて美しい空」を歌うが、8ミリで撮ったプライベートフィルムだと認識できるように、わざとフレームが写ったままになっている。カラスの音声と場面とは合わず、何となく居心地が悪いが、次からの有名なアリア、ノルマの「清らかな女神よ」、椿姫の「さようなら、過ぎ去った日々よ」、カルメンの「恋は野の鳥」等々は口と音声が合致している。TVやレコードで聴く音とこのプレミア室での素晴らしい音響で聴くのでは大違い。60年前の録音が、これほどまでに鼓膜と胸を震わせるものか。

演奏会以外の場面、インタビューやプライベートな動きの中でも、バックにカラ
スの歌声が心地よく鳴り響く。なかには、澄んだ美しい声とは合致せず、濁りのある声だなどと悪口を言った評論家もいたが、この中で聴いているカラスの声は音域の広さや圧倒的な存在感を示してくれるのだった。しかもカラスの素顔、表情など優雅さや凄み、内からにじみ出る悲しさといったものを映像に結びつけて呉れているのは、監督がファッション広告などを手掛けていたことが要因かも知れない。インタビューやカラスの手紙や独白は「永遠のマリアカラス」でマリアカラスそのものを演じたファニー・アルダンが命を吹き込むように朗読し、カラスの声とも違和感なくカラス自身の魂の叫びとも聞こえる。

また、カラス生涯での大きな事件としては、1958年のローマ歌劇場でのノルマの舞台を一幕だけ歌って降板したこと、1959年ギリシャ海運王アリストテレス・オナシスとの恋物語、1969年映画王女メディアへの出演、1973年からカラス復帰ツアーとしてのヨーロッパからアメリカ、アジアを回り最後に日本で終わるフェアウェルコンサートなどが出てくる。いずれもが、カラス自身の書き残された記録だけからの主張だけに、すべてが真実ではないかもしれない。1958年のローマ、激しいバッシングに対し、リハーサル中に喉を壊し声が出なくなったというが本当にそれだけが原因か、他の理由がなかったのか。1959年のオナシスとの恋愛に時間を割いているが、カラス自身によれば、オナシスに対し純粋に人を愛する心を持っていたということになるが、単なる愛だけのものだったのかは疑問。
オナシスとジャックリーヌとの結婚ののち失意の後、パゾリーニ監督による映画メディアへ女優として主演。その後、歌手としての道を忘れられず、テノール歌手ジュゼッペ・ディ・ステファーノとのフェアウエルコンサートと称し歌手として最後の舞台は終わるが、失意の時に手を伸ばしてくれたやさしい男性に巡り合ったことが、恋愛感情を抱く関係になってしまうのではないか。カラスの才能に最初に気付いた母親により歌手になる運命にを植え付けられ、一世一代の歌手に登り詰め、名声を勝ち得たカラス。その全盛期は10年足らずで終わったが、「私の自叙伝は歌の中に綴られている」と本人が語るように、いまだ歌の中に生き続けている。女性の抱くあらゆる感情、心の動きを声と歌で表現することが出来た世紀の名歌手。

映画は巻頭での蝶々夫人のアリアから最後は日本での演奏会が、フェアウエルコンサートとして最後になったが、そのアンコールで、有名なアリア、ジャンヌスキッキから「私のお父さん」を歌いますの声に観客の万雷の拍手が鳴り響く。そのアンコールはなかなか出て来ない。最後の最後に画面に記録される背景に「私のお父さん」が歌われる。幕開けの蝶々夫人のアリアから日本でのフェアウエルコンサートでの最後の舞台まで。トム・ヴォルフ監督は何か日本への思い入れがあったのだろうか。

グレープフルーツがなったよ! (五十嵐智・亀岡愛一郎)

(亀岡自慢のキンカン)

思いもかけず、編集子小学校(大田区立赤松小学校)時代の恩師、五十嵐先生からお便りを頂戴した。プライベートなことではあるけれど、とてもほんわかとした、暖かいやりとりをしたので、先生とこれで70年近く交友している友人との往復メールを、ご了承を得て紹介する。先生力作のグレープルーツの写真そのものはまだ頂戴していないが、同好の士というか園芸フリークの方から先生へのアドバイスでも頂ければ望外の幸せである(なお、五十嵐学級のクラス会はまだつづいていて、傘寿を迎えての小学校仲間との付き合いはまた格別に感じる。先生は卒寿を越えられてなお年齢を感じさせず、まさに矍鑠、いまだに愛車を駆って元気でおられる。まさにわれわれの理想の姿というべきか)。

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(五十嵐―中司)

恭君がアメリカにいるときに、親孝行で、大森のお母さんへグレープフルーツを送りましたときお母さんが私に恭君の気持ちを汲んで、少しおすそ分けしてくださいましたが、とてもおいしかったので、思わすその種を一粒庭に埋めたところ、40年近く経った昨年秋頃二つほど、実を付けました。まさに奇跡です。大きさはテニスのボール位になっています。軟らかくなったら、取って食べてみようと毎日、眺めて居ます。味をみたらまたメールします。

(中司―五十嵐、亀岡)

メールを読ませていただき、一瞬、あっけにとられたというか、呆然としたというか、正に信じられない思いにとらわれ、無性に嬉しくなりました。ワイフにも見せましたが、二人ともこの事実を覚えていません。たしかに当時、アメリカで生活するということそのものが非日常的でしたし、グレープフルーツも珍しかったですものね。しかしほぼ半世紀たって命が芽生えるということ、感激です。美味しい実がなることをひたすら祈る気持ちです。

(亀岡―五十嵐、中司)

今日 午前中は今春初めての絵の教室に出席、帰宅し昼食後PCを開いたら先生と中司さんのメ-ルのやりとり 転送で入ってました。グレ-プフル-ツ約40年で結実との事 庭いじり好きの家内に話しました。

30年前 入間の家を新築、移転した際家内の友人がすでに実が少しついたキンカンの苗木をお祝いに頂きましたがその後 木はすくすく成長しましたが実は全く付かなかったのに一昨年から急に付き始め昨年秋は大豊作!柑橘類は「バカなり」と言って忘れた頃になりだすとの事です。家内は「キンカンジャム」を沢山作ってくれました。お昼 パンに塗ってます。美味しいですよ。先生の家の「中司さんのグレ-プフル-ツ」も今年の秋からはきっと沢山 実を付けますよ。

(五十嵐―亀岡、中司)

亀岡家のキンカンは苗木から30年かかり、私の家のグレープフルーツは種からだったので、40年もかかったのですね。家の柚木も30年以上経ってから、今年1個だけ実を付けました。家内が「譲る馬鹿30年ね」と言って笑いました。
40年前に亀岡君から頂いた「金木犀」は10月になると必ず「香り豊かな花」を樹いっぱいに咲かせます。それが終わると、「山茶花の花」が咲き始めます。年越した今日もその美しい「花」を咲かせています。改めて、亀岡君にお礼申し上げます。我が家の庭には、孫の「桃子」が生まれたとき、記念に植えた桃の木や「洋祐」が生まれた時のさくらんぼの木があり、梅酒を造る「梅の木」も毎年実がなります。加えてグレープフルーツ、我乍ら欲深だなと思っています。

(中司―五十嵐)

昨日、お葉書頂戴してご返事しようかと思っていたところです。わざわざありがとうございました。母の37回忌ということも、お知らせいただくまで全く気が付きませんでした。不肖の子供で申し訳ありません。

実は先週、大学の部の同期会があり、その席でひとりが ”ジャイ(慶応ではずっとこのあだ名でよばれていました)のお母さんは実に美人ですごくいい人だった”という話を突然はじめ、もちろん同席した仲間25人全部が母を見知っている
わけもなく、話が進むにつれて大笑いで終わったという事件?がありました。その直後に先生からのお便りを頂戴したことになります。暮れにワイフと二人して墓参りをしたばかりでしたし、なんだか妙な気持ちであります。
でも、このグレープルーツの話は本当にほんのりとしていい話ですので、亀岡の快諾も得ましたので、一部、小生の”ブログ”に紹介させていただきます。
改めて、ありがとうございました。いよいよ寒さ本番です。ご自愛いただきますように。