兼高かおるの訃報に接して (44 安田耕太郎)

TBS放映の「兼高かおる世界の旅」は、1960〜70年代よく観た好きな番組であった。学生時代に2年間休学して世界一周貧乏旅行をしたが(1968 – 70)、その決行をドライブした原動力の一つがこの番組であった。他に二冊の本からも影響を受けた。小田実著「何でもみてやろう」(1961)と五木寛之著「青年は荒野をめざす」(1967)。これら三つは全て外国を舞台にした旅行体験談と体験に基づく小説であった。海外旅行一般渡航者の外貨持ち出し額限度が米500ドル(360円/1ドル)であった当時、海外旅行は現実的でない夢のような存在であった。兼高かおるは日印混血の洗練された気品ある女性で、彼女の旅行体験番組に「いつか海外を旅してみたい」と魅了された。
世界旅行の最中メキシコはユカタン半島を旅していて、州都メリダを訪れた。とある現地のおじさんに市内の大学病院に連れて行かれた。会わせたい人がいる、が理由であった。
出て来た白衣を着た威厳に満ちた老人はドクトル・ヴィラヌエヴァ(Villa Nueva – 日本語では新村さんだ) と言った。彼はその病院の院長で、1919年当地にて、勤務していたニューヨークのロックフェラー医学研究所から派遣されて黄熱病研究に従事していた野口英世の助手をしていたとのこと。今からちょうど100年前。遭遇したのが1968年。野口後49年目であった。訪れる日本人など殆どいないメキシコ地方都市、懐かしい想いが強く日本人であれば誰でも、という感じで連れて行かれ、歓待されたのである。会った時ドクトルは多分70歳くらい、野口に仕えていたのが20歳前後ではなかったか。当時野口は42歳。
世界旅行から帰国後、「兼高かおる世界の旅」を観ていてビックリ。ドクトル・ヴィラ・ヌエヴァを訪ねた兼高かおると二人で歓談しているではないか!二年前に会ったばかりのドクトルと。現地では有名人であり、ノーベル賞候補に三度もなった野口英世の助手をしていたことも当然知っての取材撮影であったのだ。ついでながら、野口英世はメリダ滞在から9年後、研究で訪れていたガーナのアクラで研究テーマの黄熱病に罹り客死した、51歳。

メキシコから南下してエクアドルのアンデス山中 赤道記念碑を訪れた際、訪問者サイン名簿に兼高かおるの名前を見つけた。ほぼ同時期の偶然であった。

赤道記念碑 (Ciudad Mitad del Mundo –  スペイン語で世界の真ん中の意)

ナンカナイ会 2019新年会 (36 翠川幹夫)

晴れ空ではありましたが結構寒い「ナンカナイ会新年会」でした。

今年も皆で「タウンウォーク」や主が交代した「新・月イチ高尾山」で楽しく過ごせることを願っています。

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今回の出席は26名、実働人数からすると62%を超える出席率であった。新年会、夏の集まりを設営してくれている翠川・安東・横山トリオの努力にはただ感謝である。

 

”エーガの日々” 拝見  (青木勝彦)

小泉さんのご友人で、映画評論家として名高い青木勝彦氏から光栄にもご感想をいただくことができ、また嬉しいことにご著書 ”私の追憶の名画” をご恵送いただくことになった。今後も折に触れてご投稿を頂くことが楽しみである。以下、小泉先輩あてメールの一部をご紹介する(身に余るおほめを頂いて嬉しいのであります!)。

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中司恭様の「ああ、エーガの日々よ、帰れ」を拝読しました。脇役まで精通されている大変な映画通で、文章も上手く感心致しました。「荒野の決闘」はフォンダの名演(マチュアの凡演でも)で詩情豊かな西部劇の名作として日本では評価が高いですが、本国では「駅馬車」と比較されてか公開時は評価は低く、今も「駅馬車」と「捜索者」が代表作です。でも私もラストの名シーンは忘れ難いです。「第三の男」や「大いなる西部」という私のベストワン、2位を評価されているのに嬉しくなりました。

私の手持ち在庫がまだありますので住所、氏名、電話番号をお知らせいただけば拙著を謹呈させていただきたいと思います。
本は2年目の方が部数は少ないですが売れているようです。講演依頼が多くなり、今年は6回、自治会等の解説が月1回位あります。77歳になりますので仕事は区切りをつけて来年は自由な時間を楽しみます。

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この間の記事に書き忘れたことがあった。西部劇に絶対必要な悪役のなかに、かのジャック・パランス(”シェーン”でデビュー)の名前がなかった。ついでにつけくわえればアーネスト・ボーグナインなんてえのもいたっけ。

 

フェルメール展  (44 安田耕太郎)

日本美術史上最大のフェルメール展を上野に行って観てきた。これまでで最高値の入場料2,700円(驚!)。 7ヶ国17美術館が所蔵する全35作品のうち10点(8美術館から)が来日した。まず8点が上野で展示、1点は年明けに追加、1点は大阪のみ展示。所蔵する美術館にとって虎の子の絵画を併せて10点もを6ヶ月近くの長期に亘って拝借出来たのは歴史的快挙と言っていい。
            真珠の耳飾りの少女
フェルメール (Johannes Vermeer) は、7世紀半ば (日本は三代将軍徳川家光の治世)、オランダ(北部ネーデルランド)のデルフトに生まれ、43歳で夭折した。時はバロック全盛、芝居がかった場面描写が好まれ、躍動感溢れる感情と情熱が前面に押し出た表現が主流であった。代表的画家はルーベンス(フランドル – 現ベルギー)、レンブラント(オランダ)、ベラスケス(スペイン)、カラヴァッジョ(イタリア)、ラ・トウール(フランス)など。近隣列強諸国が押しなべて絶対王朝・王侯貴族が文化・芸術の担い手だったのと対照的に、プロテスタントのオランダは東インド会社に代表される海外に開かれた実利・開明的中産商業階級が社会の中核。威厳的な宗教・神話に基づく絵画が支配的であったカトリック諸国バロックと違い、風景画・風俗画が人気を博する萌芽がオランダ絵画を特徴付けた。全盛期17世紀半ばのアムステルダムにはプロの画家が700人もの多数いたと伝えられ、その代表がレンブラント。購入者の多くが中流階級であったことから、絵画のサイズもフェルメール作品も然りで小振りで家庭に飾られることが想定されていた。フェルメール作品も転々と持主が変わって移動したのである。
同時代にあってフェルメールの静謐で穏やかな絵画も南欧バロック本流とは大きく異なり、市井の庶民をモチーフにした風俗画が多い。19世紀後半の印象派より2世紀も昔に、明るい色彩、光と陰を見事に操る先駆者の一人としてフェルメールの稀有な才能がネーデルラントに出現したのは、後世の我々に与えてくれた天の恵みだ。約20年間の制作期間で35点と寡作で多くの謎に包まれた生涯であった。今では天文学的な価値ある彼の作品も、オランダ経済不況が絵画需要にも影を落として売るにも困り、11人の子沢山でもあって借金せざるを得ない時期(特に晩年) があったことが記録に残っている。
僕はオタクではないが海外出張の折に美術館を訪れ20年以上を要して、5ヶ国7都市8美術館にて23作品を目にした。今回の展覧会で未観5作品が新たに加わった。
フェルメールを気に入っている点は、同時代の先達カラヴァッジォやラ・トウール絵画にも見られるが(影響を受けたのかも知れない)、魔術師のように光と陰の微妙な柔らかい質感表現の妙と、映像的で写実的な繊細な色彩と空間表現の素晴らしさ、更には構図の見事さに魅了される。絵を真近で観たときの引き込まれる空気感は格別だ。絵の輝きとまるで呼吸しているエネルギーを感じる。画面構成の巧みな技は時代を経て近代絵画の父セザンヌにも受け継がれているかのようだ。数年前 絵師伊藤若冲絵画でも話題となった貴重な鉱石ラピスラズリ(瑠璃)を原料とする青の色彩は「真珠の耳飾りの少女」のターバン、「牛乳を注ぐ女」の前掛けエプロン、「天秤を持つ女」のガウン、などに見事に表されていて素晴らしい。故郷デルフト焼きの青に影響を受けたのかも知れない。ラピスラズリは原産地アフガニスタンから海路ヨーロッパへ運ばれたという。それでウルトラマリン(ultramarine“海を越える”の意味)とも呼ばれた。日本にも出島経由で持ち込まれていたのだ。普通の顔料の10倍高価だったらしい。ふんだんに使用したフェルメールの家計は苦しくなったと記録にある。
今回来日した作品の白眉「牛乳を注ぐ女」は風俗画の最高傑作だと思うが、使用人であろう質素な身なりの女性が着る黄色の服の質感がいかにもメイドのそれを表現していて見事だ。パンの表面のリアルさには驚嘆する。壁の釘の跡の真実感! 色白の北欧人にしては、仕事する手首から先は使用人らしく日焼けして黒く、他の部分は地肌が白い。注がれる牛乳の滴りの臨場感も特筆もの 。
   牛乳を注ぐ女
フェルメールは2世紀近くその存在が忘れ去られ、19世紀になってフランスの評論家トレ・ビュルガーにより”デルフトのスフィンクス“(謎)と呼ばれ再発見・再評価され、自然主義 写実主義の台頭に伴って印象派が登場した。
           デルフトの眺望
15年程前、アムステルダムに出張した折にハーグを訪れる機会があった。マウリッツハイス王立美術館ではフェルメール絵画の中で人気1、2位を争う、「真珠の耳飾りの少女」「デルフトの眺望」を観た。因みにマウリッツはスペインとの独立戦争当時の将軍、ハイスは家。足を延ばし列車で15分のデルフトへ。「デルフトの眺望」の描かれた現場を探しまわり、実物を目の当たりにした時は気持が高揚した。セザンヌが幾枚も描いた南仏エクス・アン・プロヴァンス  (Aix-en-Provence) 近郊のサント・ヴィクトワール山を麓から眺めた時のように、はたまたセーヌ河下流の辺りジヴェルニー(Giverny)でモネの睡蓮の池を訪れた時のように。デルフトでは絵の中の運河のほとりに女性二人が立っている位置あたりから街を眺めたのである。絵に描かれた風景の半端ない現実感 (例えば、リアルな雲の下は暗く陰り、後方には陽がさして明るい風景となっている、手前砂浜の砂の粒立ち感など) にはフェルメールの天才が余すところなく発揮されている。風景画の大傑作である。350年の時空を超えて絵画の風景が現存している事実には、ヨーロッパの維持し存続する底力を思い知らされた。余談だが、ヨーロッパのレクサス宣伝に”The Art of Standing Out”と題してフェルメール 「真珠の耳飾りの少女」、ジョルジュ・スーラ「アニエールの水浴」、エドワード・ホッパー「ナイトホークス」もどき動画をハイライトしている。ユーチューブを面白半分みて下さい。https://youtu.be/Llu1RuzQnSY

おすすめの2本見ました (川名慶彦)

中司さん

こんにちは、川名です。おすすめの映画2本観ました。
僕にとってどちらも、世代を感じさせる映画でした。
ストーリーは「シェーン」、映像的には「荒野の決闘」がよかったです。
簡単な感想ですが、またお会いしたときはいろいろと教えてくださいね。
ちなみに僕は、「マトリックス」や「ショーシャンクの空に」という映画が好きです。
良いお年をお迎えください。

西部劇 !  (34 小泉幾多郎)

「ああ、“エーガ”の日々よ、帰れ」拝見。荒野の決闘のポスターから始まり、ヘンリーフォンダが、ポーチの上の椅子でバランスをとるポスター(プログラムの表紙?)まで、”エーガ“特に西部劇への郷愁!書かれていることの全てと言っていいくらい、小生の思いと同じです。あの頃は確かに映画以外に楽しみを見つけるのが難しい時代でした。佐藤忠男著「映画館が学校だった」という本がありましたが、そんな時代でした。

多感なる中学時代、栃木県足利という所におり、ワンプラー劇場という洋画専門の映画館があり、東京より半年遅れながら、週替わりで、新しい映画が見られました。何故西部劇に傾倒したか。どうも田舎の子供たちに比べるとか弱い子供で強い男に憧れを持ったか?フランス映画でなければ映画でないとか、ませた友人がいたことからか、対抗上単純なる西部劇を見るようになったものと勝手に理屈付けしてます。西部劇だけはプログラムを買うようにしてました。中学3年から、横浜に移りましたが、当時は伊勢佐木町には、オクタゴンシアターの名前で、進駐軍に接収された映画館がありましたが、その後オデオン座として復活、マッカーサー劇場なんて名前の映画館等によく出掛けたものでした。

貴投稿には、出て来なかったですが、ランドルフ・スコットの堅パンのような面魂に惚れて、よく見ました。沈着で鋼鉄のような意志を持ち、徹底的に殴りつけ正義感をあおった「西部の裁き」「死闘の銀山」「平原の落雷」「コルト45」等々数えきれない出演の中、時折一流と言える作品、ジョンウエインとの「スポイラース」ロバートヤングとの「西部魂」ジョエルマックリーとの両者最後の作品「昼下がりの決闘」、そのいずれもが最後に死を迎えてしまいました。

西部劇の本も結構買いました。西部劇の世界(岡俊雄)、大いなる西部劇(逢坂剛×川本三郎)、西部劇X紳士録(児玉數夫)、西部劇の作家たち(世界の映画作家16)、さらば西部劇(季刊映画宝庫)、西部劇映画100選(増渕健)。
本箱の片隅にあった本を開けたところ、偶々1980年の朝日新聞の切り抜きが、出てきました。1月11日付で、昨日X‘mas EveのフジTV放映の犬神家の一族の作者、横溝正史の「てれずれ草」という欄に、TVについて「昔はよかった幌馬車隊・ローハイド・ララミー牧場・西部の兄弟・拳銃無宿があり、いつでも見られたのに、それがいまでは・・・」「NHKが駅馬車・真昼の決闘・荒野の決闘と西部劇の代表作を放映してくれたのは有難かった」と。最後に、「こういう人間は前世紀の遺物みたいな存在なのだろう」と締めくくっていました。翌年12月没。同年6月30日付では「西部劇が帰ってきた。20年ぶりブーム。」この年1980年は、ジョンウエイン没の翌年で、70年代の石油危機、ベトナム戦争、ドルの低落と大衆には忍耐我慢の連続で、英雄が欲しいことからのブームと書かれ、「トムホーン」「天国の門」「ザ・ロングライダーズ」「ワイオミング」「レジェンドオブザローンレンジャー」等挙げられていたが、残念ながらブームとはならなかった。その後、1990年に入り、ケビンコスナー等により「ダンス・ウイズ・ウルブズ」「ワイアット・アープ」をはじめ、「許されざる者」「ラストオブモヒカン」「ジェロニモ」「マーヴェリック」「トウームストーン」「バッドガールス」等の西部劇が復活したが、これまでか?

本屋や新聞広告等で、西部劇パーフェクトコレクションとか西部劇傑作コレクションとかで、10本入りDVDが、1500円で販売されているのを見ているとまだまだ西部劇愛好家は多くいることが確認できます。新しい作品はあまり期待できないとしても、まだまだ「お楽しみはこれからだ(和田誠)」よろしく楽しみたいものです。

12月月いち高尾―参加者みな感激!!

 

堀川義夫様、BBQ準備していただいた設営班の方々、山歩きLと同行者の皆様、本当にありがとうございました。そろそろ本格的引退を考えつつも、こうして素晴らしいメンバーと楽しむことは、代えがたい喜びです。 絶好の天気にも恵まれ、期待していなかった富士山も仰ぎ見、これまでの人生で初めての大量の牡蠣、食べたこともない牡蠣料理数。まったく贅沢三昧の幸せな一日でした。牡蠣やネギ、飲み物などを調達頂いたことにも深——く、感謝しています。これからもお付き合いのほどよろしくお願いします。 どうぞ佳いお年をお迎えください。  船曵孝彦・愛子

 今年最後の月いち高尾では、堀川さん以下山に登らず牡蛎ツ゚クシの野外料理に専念された方々のお蔭をはじめ、パン、ケーキ、チョコ、コーヒー等々有難く頂戴いたしました。何もせず飲食だけ頂戴し恐縮でした。ケーブルで登ったお蔭もあり、足手まといにならなかっただけでも良かったとホッとしているところです。それにしても、培った経験が生きてか、後片付けの速さにも感心いたしました。 皆様良いお年をお迎えください。   小泉

色々とお世話になりました。楽しい一日でした。堀川さんやお手伝いされた皆さんに感謝・感謝。ケーブル班の高尾山山頂の集合写真を送ります。遠く霞んだ富士山が見えました。美味しく牡蠣が焼けてます。有難うございました。  平松

昨日は大変お世話になりました。若手4人組の奮闘と堀川シェフの素晴らしい腕前のお蔭でおいしい牡蠣づくしをご馳走になり、大満足で家路につきました。1号路はちょうど良い散策路で楽しく歩くことが出ました。 KOBUKI

コブキさんのメールにある「若手4人組」とは誰かと、一瞬、考えさせられました。古希を過ぎても「若手」扱いされるこの集団は何だ!と思いましたが、そのような素晴らしい仲間の一員である事が嬉しい限りです。楽しい月いち高尾でした。ありがとうございました。連日のワンダーがらみで、今夜は、山荘委員会の忘年会に顔を出し、帰宅したところです。出席していた現役の中には18歳の一年生もおり、昨日の80うん歳の諸先輩、この様な幅の広い付き合いが出来る喜びを噛みしめながら、ほろ酔い気分での、帰路でした。       関谷


山に登らず調理に頑張ってくれた方々
堀川リーダー、ワイン 日本酒 ケーキなど差し入れてくれた方々、山登り 酒飲みなどお付き合いしてくれた方々の御蔭と好天に恵まれ 楽しい 一日を過ごす事が出来ました。 単調なコンクリート道の意外とキツイ1号路を 何時ものペースより早く登り薬王院のお参りの前にみなさんとは別に 本年もまた孫の受験のお参りに “オクトパス”という名の“置くとパスするという たこの置物”にとお参りも色々と忙しい。 来年も何とか 健康を維持し一回でも多く楽しい 月一高尾のプランに参加出来るようにしたいと考えた一日でした。    吉牟田 

(編集注:吉牟田はどういうわけかいつもブロック体でメールを書く。面倒なのでそのままとするが別に彼だけ特別扱いしたわけではない)

先日は楽しいお時間ありがとうございます。人生の大先輩方との時間共有は
どんな本を読むよりも勉強になります。会社の忘年会があり、天狗には参加できませんでしたがまた来年、参加できるときはよろしくお願い致します。 川名

堀川さん、お世話になった皆様、素晴らしい仕上げの山行に参加出来て本当に有難く唯々御礼あるのみです。吉牟田さんのメールに全て言い尽くされていますので私もそのままお礼の言葉を利用させて頂きます。有難うございました。明日は有馬記念で今年の競馬も終わります。ご存知と思いますが有馬記念は馬券を取るのが目的ではなく自分がこの一年で最もお世話になった好きな馬を買うのが本来の競馬好きの行為です。どうぞ皆様も好きな馬(名前だけでも)を応援してください。本年一年間本当にお世話になりました。 後藤

昨日はお疲れ様でした。堀川さんには毎回料理長をお勤めくだされ、誠にありがとうございます。パーティ終了後の集合写真を添付いたしますのでお受け取り下さい。では皆様、良いお年をお迎えください。
西澤
今年も、月一高尾、大変お世話になりました
牡蠣パーティ、堀川シェフ他料理を担当された方、に感謝。
ワイン、酒、ケーキ、パンと多彩で楽しまさせていただきました。
ありがとうございます。
天狗では「高尾の森つくり」の仲間とも会い、すっかり出来上がってしまいました。来年も参加できるよう頑張りたいと思います。 鮫島

 

今年最後の高尾の会に参加出来て幸せでした。木々に囲まれ靴底に土を感じながら歩く充実感、軍手とうちわで迎えてくれたBBQスタッフ、牡蠣づくしのメニューいろいろは野外料理のワクを超えて感激でした。屈託のないおしゃべりと笑いの渦はなによりの御馳走でした。八十路のためにやさしく歩いてくれたリーダー、速攻で写真UPのカメラマン、そしてこの企画の影の功労者、軽トラックに感謝の意を表します。来年も楽しみです。皆さまどうぞ良いお歳を! 遠藤

(注:これも吉牟田と同類)
膝の故障で、なかなか 月1高尾に参加できず、残念に思っていましたが、年末の素晴らしいの会に参加できて、牡蠣料理を満喫しました。ありがとうございました。
来年は高尾に参加できるようになりたいものと思っていますが・・・。
おちえ
月一高尾の今年のフィナーレには、あのゴージャスな牡蠣パーティーを開催して下さったおかげで、皆様と大変楽しい時を過ごすことができました。すべてに大満足、感謝あるのみです。有難うございました。
来年も頑張って参加いたしますので、よろしくお願い申し上げます。
皆様、良い新年をお迎えくださいませ。  高橋

 

 

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”パタゴニアレース”放映

先に紹介したパタゴニアレースの実況が放映されると安田君から連絡があった。

以前パタゴニアレースの件はお伝えしたかと思いますが、12月26日(水)深夜午前0:10分からTBS系列番組「クレージージャーニー」でレースの模様が放映されます。田中陽希所属のプロレーサーチームの一員として甥が初参加。男3人女1人のチーム。陽希は300名山踏破中で不参加。下記のURL中の次回予告クリックして参照して下さい。
世に中には好き者がいるものだ〜、と思います。

関西有志忘年会の報告 (41 田中透)

平成30年12月14日(金)快晴、朝10時半JR明石駅改札口に関西有志の15名がぞろぞろと揃いました。ひとりは東京杉並から、ひとりは山口防府から、ふたりは
岡山から、残り10名は大阪・京都から、そして地元明石からは御大出張っての関西有志15名による淡路島岩屋での初忘年宴会へのスタートです。

明石港を11:00にフェリーは出発、15分後明石大橋をくぐった先岩屋港に到着、目の前の活魚料理割烹「源平」2階・貸切の間で初忘年宴会の始まりです。

先ずは会の主旨説明、「関西有志が淡路島岩屋で達者である事を年一確認する」会。又、選ばれし有志の選出はどの様な基準でとの問い?には、それほどたいした意味はではなく、ただただフェリー団体乗車最少人数15名を割りたくないだけで、ドタキャンがなさそうな人を勝手に選んでの有志であると説明あり。見事ドタキャンなく全員揃ったのはさすがでした!

冒頭、遠路東京杉並から日帰り自腹招待で参加してくれた河合デシさんを慰労しながら、御大の代行、益田ネリカンさんの音頭で乾杯! 割烹源平・魚会席を味わいました。

あとは、楽しく、飲み、食べ、喋り、又飲みを繰り返しながら、若きエース時代当時のわがままな想い出があちらこちらからと聞こえて来ました。皆さん、元気なKWVBAKA老人なのでしょうか?そして2時間半はアットいう間に過ぎ去りました。何かまだ居残りたい気分でしたが出航時間も迫り、集合写真1枚パチリ、締めは御大の「ヨオ~オ!」の掛け声一発、手拍子一発でお開きになりました。

この2‾3年KWV三田会は関西ブームで少々沸いております。年2回の日帰りプランではコース豊富で身近な歴史文化の地を訪ね、山に登り、温泉に入り、美味しいものを食べる…全てOK!なのです。

今回の有志による初忘年宴会は来年も、「関西有志岩屋会」と名称を変えて割烹源平で続く事になりました。開催条件は15名以上が揃う12月半ばの日程で、ドタキャンはしないと自信持てる人は全て資格ありです!(編集者質問:関西でなくてもいいわけ?)

参加者:石谷正樹(S39)、河合国尚(S40)、益田英昭(S40)、小山芳樹(S41)、下井健守(S41) 田中 透(S41)、藤本征機(S41)、松本好弘(S42)、田中ひろみ(S42)、山下日出夫(S43)、石井 始(S44)、関谷 誠(S47)、奥本耕三(S47)、榎本卓雄(S49)、水村哲也(S51)。

ことばの移ろい     (50 笹田敬雄)

・流行語大賞が年末の風物詩として定着して久しい。3年前の大賞は「神ってる」。万年下位に低迷していた広島カープの神懸り的な快進撃を称したものだが、翌年以降も連覇が続き、もはや「神懸かり」ではなくなったせいか、この言葉もいつの間にか消えてしまった。過去の大賞を振り返ってみても、いまだに寿命を保って広辞苑入りを果たせそうな言葉は意外に少ない。

・新語・造語はギャルや若者の専売特許だが、中高年から見ると耳障りなものも多く、言葉の乱れと映る。さしずめ「ら抜き言葉」はその代表例だ。「食べれる」「見れる」などの言葉を採用面接で使った学生は不採用にするという一流企業の人事課長の話も話題になったくらいだ。しかし時代は進み、すでに日本人の7割以上が「ら抜き言葉」を抵抗感なく受け入れたり使ったりしているという。(文化庁「国語に関する世論調査2002年」)。もはや多勢に無勢、市民権を得るのは時間の問題のようだ。

・新語、造語を言葉の乱れとみるか、変化とみるかはなかなか難しい問題だ。次の奇怪な文がおわかりになるだろうか。

「パルー ツンギーテー ナトウ キータルラチー チロタペノ カラマ ポチータリー アマノ カングヤマ」

これは持統天皇の詠んだ

「春過ぎて 夏きたるらし白袴(妙)の 衣乾したり天の香久山」

を金田一春彦氏が奈良時代の音で再現したものである。1300年の時の流れは、もはや変化などという生易しいレベルを超えているが、言葉の移ろいとはこういうことなのだろう。

・変化していくコトバに対する身の処し方としては、頑なにならず、かといって無節操におもねることなく・・・といったあたりだろうか。

金田一氏がどうやって奈良時代の音を再現したかはまた別の機会に。