秋の苗場単独行 (39 堀川義夫)

何年ぶりかで中央アルプスの縦走をしようかと思い、宝剣小屋に予約し、空木の駒峰ヒュッテを予約しようとしたらもう小屋締めで、小屋泊まりでの縦走は無理になってしまいました。避難小屋利用、またはテント行も考えましたが、今夏の合宿以来体力に今一つ自信が持てないので諦めました。そうこうしている内に、台風の影響で中央本線、中央高速ともに不通で南、中央、北アルプス方面に行くのは面倒になり急遽、新幹線が動いている上越、苗場に行くことにしました。苗場の頂上は、10年ほど前に和田小屋から日帰りピストンで行ったきりで頂上に泊まるのは、何年前だったか記憶にないことです。何時もテントでしたが、最後の時は今はない遊仙閣に泊まり赤湯に下山しました。

10月16日(水)晴れ

朝の新幹線で越後湯沢⇒バスで二居へ⇒始発の田代ロープウエイで山頂へ。9時10分着。本当に便利になったものと感心です。素晴らしい。山頂付近はドラゴンドラで来た観光客で大賑わい。そういえば去年の同時期に我々絆会の古希の記念旅行で来ましたっけ。天気は良いのですが、この付近紅葉は未だで観光客は少しかわいそう! 更に観光リフトを利用して標高1500m辺りまで一気に行けます。9時45分歩行開始、しばらく、スキーゲレンデの中を歩き、標高1600付近から山道に入ります。何度も来ていますが、この道は初めて、和田小屋からのルートに比べ、解放感はないものの人が少なくちょっとクマが怖いけど、快適な登りで紅葉も段々良くなりゆっくりと3時間弱で神楽ケ峰到着。そのまま雷清水に下り昼飯です。

雷清水を後に頂上への急登です。悲しいかな結構てごわくコースタイム50分のところ写真を撮っていたせいもありますが、1時間以上掛ってしまいました。平成24年に木道が整備され歩き易くなっては居るのですが、悲しいかな歳をとるにつれ急登は応えます。でもまあ何とか頂上にたどり着きました。昨夜の星空を期待しましたが、どちらかと言うと雨模様で見ることは出来ませんでしたが、今朝は素晴らしい日の出を見ることが出来ました。池塘も綺麗です。

 

10月17日 (木)晴

今日は初めて秋山郷へ下ることにしました。苗場山頂の広さを感じながら、池塘の景色を楽しみながら、一人ゆっくり旅です。

 

幾つかある秋山郷への下山ルートの小赤沢ルートを下りました。これは栄村の観光協会の台風後の登山道の確認が出来ていないのでと言うアドバイスです。池塘地帯を過ぎると下降も急になりしかも石がごろごろしていて歩きにくいし、昨夜の雨の影響で滑る。でも何とかコースタイム通りに3合目の林道の終点にたどり着きましたが、ここから小赤沢集落まで登山道で1時間10分ですが、これも未確認のため林道を歩くように言われ、コンクリートの林道を1時間30分歩かされました。少しハードな縦走用山靴でしたので、これはきつかった!タクシーを呼べばよかったと後悔しましたが・・・後の祭りです。やっとの思いで小赤沢の楽養館と言う日帰り温泉に到着。鉄分の多い自噴の温泉で、疲れを癒してくれました。珍しい温泉です。機会があれば行かれることをお勧めします。

翌日永年登りたいと思っていた鳥甲山を目指していましたが、これも観光協会から登らないでくださいとのことで、やむなく諦め切明温泉の雄川閣と言う旅館に投宿です。川原を掘って温泉に入ることができるところです。これも台風の影響で水かさが多く、実行不能で野天風呂で我慢。内湯もなかなかでした。夕食は自慢のジビエということで鹿、イノシシ、クマの肉のしゃぶしゃぶ、そしてイワナの骨酒と言うメニューで旨かった! 特にクマのしゃぶしゃぶは初めてでしたが、適度に歯ごたえがあり。肉のコクもあり旨かったですね。ぜひお試しあれ!

この秋山郷、栄村は誘客のため色々と工夫しています。オンデマンド交通と称して、村内の送迎タクシーは格安、小赤沢から切明温泉まで20分ほどタクシーに乗って足った300円。極め付きは翌日の越後湯沢まで私一人を無料で送ってくれました。旅館のサービスでなく村のサービスだそうでありがたいことです。

10月18日(金)

朝10時にオンデマンド交通で越後湯沢まで送ってもらい「しんばし」で旨い酒とそばを食べて帰宅の途に。4時には自宅到着。ちょっと、鳥甲に行けなかったのは残念でしたが、良い山旅でした。

”とりこにい” 抄 (2) 寺家幸一のこと

寺家と初めて会ったのは、大学進学直後、美ヶ原で行われた新人歓迎ワンデルングのときである。7人いた1年生の中にで、ニッカーボッカーをはきこなし、古びた山靴で現れた彼には第一印象から、山歩きのベテランの雰囲気があった。1級上の徳生さん、同期入部となってこのワンデルングで知り合った美濃島孝俊とともに彼が名門両国高校山岳部の卒業と知ったのはしばらく後のことだった。

付き合い始めてすぐに、彼の持つなんとも言えない暖かい雰囲気、それとなつかしい下町訛りで アサシ ヒンブン などと言うおかしさもあって、僕らは親しみを込めて彼を テラヒャン と呼ぶようになった。卒業後間もなく、当時行政の大失点となった、かの川崎市地盤調査実験の惨事に巻き込まれ殉職する悲劇に巻き込まれなかったら、間違いなく 月いち高尾 なんかにはぶらりとあらわれては天狗飯店で皆を笑わせていただろうと思う仲間の一人である。

(美ヶ原W 前列左端後藤三郎、その隣が寺家。5人目から妹尾、金井、中尾各先輩、その隣が美濃島孝俊)

元気と意地っ張りだけは人に負けない自信はあったが、山歩きの技術経験には全く自信が持てなかった僕はいつか、彼の人格も含めて兄事するようになった。その中で3年の5月、北沢での残雪行に付き合ってくれた、ほんわかとした彼との思い出が今でも心によみがえる。彼が絵をたしなむことを初めて知り、またさらなる敬意を払うようになったのもこのテントサイトでのことだった。

その秋、彼がCLとして主宰した涸沢BCでぼくは天上沢コースを担当して参加した。このときは、これも早く旅立ってしまった宮本健がKWVに持ち込んだ、フランク永井の 初恋の山 を、あたかも申し合わせたように沖天に上ってくれた月の下で一緒に歌った記憶が鮮烈である。

 

     ベースキャンプにて

 

     野呂川の水に絵筆をひたして

     友よ

     君は ささやかな草間地から

     夕空のいろを 思案する

     のこり火にあしをぬくめながら

     ぼくは 考える

     君のチューブがうずめてゆく

     そのかなたにあったものを

     君とぼくとが 

     黙ってみつめていたものを

     ぼくは 思い出す  

     夕空は思慮ぶかく

     ぼくたちの 頭上をおおいかくす

     母乳いろした

     あの 山の ほおえみをとかしながら

細田佳嗣(ボへ)のこと

9月12日日経夕刊のコラムにコピーライターの太田恵美さんが彼女の恩師だった細田について思い出を書いている、と後藤三郎から教えてもらった。少し長いが全文を転載する。細田佳嗣、38年度総務。大人数時代のいわば爛熟期を率い、みなから慕われた好漢だった。

恩師 細田佳嗣さんの似顔絵   大田恵美

コツコツと足音をたてて仕事を後ろからのぞいて回る。”つまらんねえ” ”へたくそだなあ”。 そんな憎まれ口に ”また細田歩きが始まったよ” と同僚の心の声が聞こえてくる。

小さな広告制作会社でコピーを書いていた私は縁あって電通の仕事に携わるようになった。半人前の私を一人前にしてくれた恩師が電通のクリエーティブディレクター、細田佳嗣さんだ。

まだ数えるほどしか女性のコピーライターがいなかった1970年後半ごろ、細田さんは化粧品やファッションの仕事を私からあえて遠ざけた。代わりに銀行や住宅メーカー,たばこといった堅い会社の仕事を振ってくれた。

80年、私は日本電建のコピーで若手の登竜門であるTCC新人賞を受賞した。細田さんのアドバイスを受けながら、獲得した自信である。”女性” としてではなく、一人のコピーライターとして育ててくれた。

仕事に対しては厳しく、よく叱る人だった。女性の私には決して言わなかったが、口癖は ”バカヤロウ”。時たま “字がうまいね” ”昼めし、なに食った?” なんて言う。それはホメ言葉だった。

みんなやりたがらに小さな仕事を膨大にこなし、貴重な経験を意欲ある若手にさせた。人望は厚く、部下に慕われた。ずるはしていないか。書いたコピーが誰かを傷つけてはいないか。細田さんの丁寧な仕事を見ながら、自問し続けている。

ある日細田さんは、ちょっと入院してくる、と言って会社をあとにした。その数か月後に急逝した。危篤の知らせを受けたとき、仲間と急いで病院に駆けつけたが、名前をなんど呼んでも返事はなかった。

社内誌の追悼号に一人が、文ではなく似顔絵を寄せた。くわえたばこに、右手は缶コーヒー、左手はポケット。ギョロッとした目つきでこちらを見つめる。ホントにそっくりだった。夫人がお礼につくってくれたテレホンカードの台紙にはその似顔絵がプリントされていた。

男社会の職場で私を大切に守り育ててくれたことがどんなにありがたかったか。師のまなざしは厳しく、優しくもあった。

畦地梅太郎展へ行ってきた

僕らが卒業する前後の60年から70年代へかけて、”山と渓谷“ とか “岳人” あるいは ”岩と雪” などの山岳専門誌にくわえて、”アルプ” という雑誌が登場した。

雑誌とはいっても月刊、というような形ではなかったが、ほかの雑誌が登山そのものに集中し、内容も技術的なことやルートの紹介などが大半だったのに対して、山を歩く人、好きな人が書いた文章や写真、絵、だけを取り上げるという発想で、串田孫一を中心として、深田久弥、大谷一良、辻まこと、山口輝久などといったたちが趣向を凝らして作った、味があり、とても雰囲気のある本だった。ぼくらが一時期通っていた八方尾根 ”白い小屋” の発足秘話をオーナー夫人の大野榧さんが軽妙なタッチで紹介されていたのもよく覚えている。

その アルプ に山男をモチーフにして印象的な版画を発表していた畦地梅太郎の作品展が町田で開催されているのを、彼の長年のファンであるオヤエが見つけてきて、場所も近いし行こうか、という話になった。

どうせ行くなら近くで晩飯でも食おうか、というのは極めて自然なことで、それなら町田に住んでる仲間に聞くのが早い、とあいちゃんこと藍原君に連絡した。彼曰く、そんな場所は知りませんが、展示会にはご一緒しましょう、ということになり、結果として彼のバディである武鑓君、久米夫人のコブキこと行子さん、同期で小田急人をもって任じている岡と大塚両君(大塚は飲むほうだけ)とで出かけてきた。

結局、町田の名店さがしは断念して、ザンバこと山室兄に敬意を表してキリンシティで例のとおりの酒盛りになった。天狗の夜と多少違ったのは、アイルランド滞在が長かった大塚から なぜアイルランド問題が英国のEU離脱の障害なのか、ということについて解説があり、畦地作品鑑賞にくわえてなかなかハイブラウなひと時であった(”天狗の夜” にも多少の知的要素があってもいいかと思うが、ま、難しいか)。

( 注)山室はキリンシティで社長として敏腕をふるい”中興の祖とうたわれた(すこしほめすぎか).。雑誌アルプは昭和33年創刊、300号で惜しまれつつ廃刊。現在、中央線日野春駅近くにファンだった方が始められたアルプ記念館がある。

 

畦地梅太郎の作品は素朴で味があり、オヤエさんお気に入りと云うことも納得できました。
町田にあのような高名な版画家がいたこと知りませんでした。小生の近くに彼のアトリエが公開されているようなので、近いうちに散歩がてら訪ねてみます。
武鑓

 

やっと涼しくなった一日、「畦地梅太郎展」にお誘いを受け、楽しい絵が一杯で豊かな気持ちになりました。

久しぶりの町田版画美術館、、芹が谷公園の巨大噴水というか水車も懐かしくその後のキリンシティでは美味しいビールも味わえた上に大塚さんによるアイルランドの歴史などの講釈、文化的な一日でした。お誘い頂きましてありがとうございます。

加えて帰宅後ラグビーW杯の第一戦、手始めのロシア戦に圧倒的な日本の勝利、感激して泣けてきました。本当に忘れられない一日になりました。

余談ですが畦地梅太郎展で見た「涸沢」モンベルで購入した吉之助のTシャツの柄だと気が付きました。売店でその絵葉書を購入しまして帰宅致しまして吉之助のTシャツを見ましたらまさしく畦地作品でした。写真を添付致しましたのでご覧ください。   KOBUKI


 

 

夏合宿 ”反省しない会” のこと

OB会夏合宿には、恒例として山歩きではない、僕らのころの用語でいえば 里ワンデルング のプランが設けられている。第何回目のときだったか、鳳凰三山での時は小生が担当を仰せつかって、集合地青木小屋に近い里、ということで八ヶ岳山麓の周遊を試みたことがある(この時は大病を克服した40年河合君の復帰プランだったということでも印象が深い)。

そのプランだが、ここの所数年は、毎年、37年のイノキンこと猪股清郎君が主宰するプランに人気が高まっている。完全主義者のリーダーらしい完璧なプランをもとに、テーマを持ち、歩くだけではなく知的活動も含めて、ある意味ではワンダーフォーゲル活動の源泉ともいえるプランだ。それを優れたベテランクライマーでもある猪股君が主宰していることにKWVの伝統が息づいているようにも思える。

このプランは発足以来、オリジナルメンバーというかイノキン一家というか、毎年必ず参加する仲間も多く、さらにその終了後行われている反省会というか親睦会も参加者はプランの延長として楽しい時間を過ごしているようだ。この会は猪股君の発案で 反省しない会 と名付けられ、名代のエピキュリアンであるリーダーの好みに応じて、食通の店で開催されている。猪股君から八恵子あて送られてきた写真をみせてもらい、会の楽しさがあふれているものなので、借用して掲載させてもらうことにした。ちなみに今回の開催場所は神楽坂の おいしんぼ で湯葉料理を満喫したとの事である。イノキン君からの案内を紹介しておく。

各位
今日は楽しい会をありがとうございました。狭い会場でしたが、皆様の「知性」のおかげさまで、お話のレベルも熱く高く、単なる「打ち上げ会」を越えていた様に思います。
二次会も楽しかった。有難うございました。
写真、送ります。
猪股 拝

“とりこにい” の話 (36 後藤三郎  40 河合国尚 47 関谷誠)

ブログ読んだよ。粋な文章は昔からのものだね。トリコニ―は6番だったように覚えているが他にクリンカーとムガーという釘のような単純な鋲も沢山私の裏底には打ってあった。今日はこれから築地で夏合宿の第4班の反省会に赴きます。今週から秋のリーグ戦が始まるので暫くは土曜日は軟式野球を楽しみます。
最近はプレーヤーはダメでスコアラー)。
三郎
読ませていただきました。懐かしいですね。
兄に電話をしたら、そんな靴を履いていたかなぁ、と全然覚えていませんでした(笑)ジャイさんのことは懐かしがっていましたが。
私は覚えています。兄が荻窪駅の階段で「ナーゲル」を階段にかけ      滑って転んだ話があるのです。それも覚えていませんでした。何年も
前の話はおろかちょっと前の話でさえ、覚えていないのに、とぼやいて
いました。
デシ

  ありがとう。

  兄貴はコワモテの先輩だったよ!
  Gi

台風15号が関東を直撃の様で何もなければと願っております。(それとも八ツの方に避難されていらっしゃるかな!)

ところで、「トリコ二-」との懐かしい商品名に遭遇しました。

実は、8歳上の兄が、東大薬学部の学生時代、仲間と山・スキーを同好し、私の高校時代、その兄の仲間と、時たま、山やスキーに連れて行ってもらったのがKWVに入部した切っ掛けでしたが、兄が「トリコニー」の山靴を愛用していたのを覚えております。

(当時の私は流行りのキャラバン・シューズでした!)

KWVに入部して、飯田橋の双葉でビブラムの山靴を、親の金で、あつらえた時、「生意気に!羨ましい!」と云われたのを覚えております。商品名ビブラムは健在ですが、トリコニーもキャラバン・シューズも死語になってしまったのですね。

「昭和は遠くなりにけり」ですかね!

関谷

さらば愛しきアウトロー

不思議な映画だった。普通の映画なら見終わった後に、面白かったとかくだらなかったとか、凄かったとかなんとか、映写されたものに対していろいろな感情が湧くのだが、これにはそれがなかった。見た意味がなかったかと言えばそんなことはもちろんないのだが、考えてみると普通の映画にはその映画が切り取っている時代や世界や物語の背景などがあって、その中に自分をいわば投影してみている。見終わってみて、自分がその中にいない、いなかったことを実感して、改めてその映画を評価するのだが、この映画ではそれを見ている(いた)自分と見終わった自分との時間・空間的な隙間が感じられないのだ。つまり映画にあらわされた世界が自分の世界と区切られていないという気がする。

ロバート・レッドフォードは1936年生まれ、つまり小生と同い年(正確には数か月彼のほうが先だが)。アメリカが最高の時代に世の中に出て、ケネディからベトナム戦争をへてそれがもろくも潰えてしまった30年の空気を味わい、歴史が作られてゆく過程を目のあたりにしたある意味で同志でもある。そしてこれを最後に俳優稼業をやめる、と宣言して、自分がこれからどうしていきたいのか、それを画像にした、そういう映画なのだ。この映画には筋書きらしいものがない。タイトルから想像されるかもしれない悪人も一人も出てこない。活劇もなければお涙頂戴シーンもなければお色気話もない。じゃあ、なにがあるのか。

数日前のテレビで、かつて慶応野球部の最高のエースの一人だった天才投手志村が、”なぜプロに行かなかったのか” を語るのを見た。自分は野球が本当に好きだった。しかしいつかはそれと別れなければならない日が来る。その日を自分で納得して迎えたかったからだ、そしてそれが学生時代4年間の燃焼だったとわかったからだ、というのだ。感動した。それと同じ感動を、この映画は与えてくれた。レッドフォードが残る時間をどう生きるか、形はもちろんわからないが、それを費やしていく過程が自分に残された人生の燃焼のかたちと同じような気がしてならない。そんな気持ちにしてくれた2時間だった。

自分もいっぱしの映画ファンではあるが、こんな映画は今まで見たこともないし、たぶん、これからもないだろう。

 

東北被災地再訪 (34 小泉幾多郎)

今回のボラ活地激励訪問プランに参加してきました。8年前のボラ活動が、亀井先輩が、打ち上げ式で言っておられたように、KWVが文連所属が故の滅多にない素晴らしいプランだったことが今回のプランで、認識することが出来ました。写真も関谷さんから、12枚送ってもらい、今回の楽しく過ごした思い出がよみがえりました。

小生の写真は、偶々宿泊地小渕浜の夕日と虹を撮ったものがありましたので、送信しておきます。

(今回の 通称”ボラ活”再訪プランは無事終了し、曾遊の地で思い出はなしに花が咲いたようだ。詳細はリーダーの河合君が次号ふみあとに投稿されるはずなのでそちらをご覧いただきたい)

緊急! WANTED ! 

先の東日本大震災支援プランの ”その後の東北” を尋ねる企画が発表されたが、まだ予定人数には大分余裕があるとのことで、参加者を募集している。内容はすでにメールがとどいているはずだが、概要を再掲する。

KWV総力挙げてボランティア活動した多賀城、石巻牡鹿2か所は順調に復興を続けていますが、多賀城の現況を視察見学し、ホヤ漁用の土俵作りをした前網浜の漁師さん達を激励訪問したいと1泊2日のプランを企画致しました。「ホヤ漁が再開したら食べに来てください。」の約束を実現させましょう。ボランティア活動した有志の皆様や、震災当時のボラ活には参加出来なかった方も、是非奮ってご参加下さい。
尚、プラン最終日にはボランティア活動での物心両面からの絶大なる支援、又KWVの為長きに亘り心強いご尽力を頂きました亀井昭伍先輩(S27)と共に仙台で打上げ会を開催予定です。

日程: 2019年6月8日(土)~9日(日) 1泊2日

宿泊:牡鹿・小渕浜  割烹民宿「めぐろ」
行程:・6/8(土) 集合:仙台駅2F中央口改札前・各自10:20迄 ⇒
仙台東口バス駐車場発:10:30
東京⇒仙台 東京発「やまびこ」7:32/7:44/8:08のどれかで現地へ各自集合。

<貸切バスで移動>仙台-多賀城視察-牡鹿・前網浜訪問-民宿「めぐろ」。
多賀城下車見学(昼食)、牡鹿・前網浜漁業生産組合11名の皆様と激励歓談会を開催予定。6/9(日) 民宿「めぐろ」-鮎川浜視察-仙台-打上げ会/亀井先輩-解散・各自帰京。

前網浜の現況は、鈴木信男組合長を中心に総勢11名で新たに取り組んだ「定置網漁」と「ホヤ漁」で頑張っています。海も浜も整備され、祭等の伝統文化も再開。共に作業した牡蠣殻でのホヤ漁土俵作り、その土俵から採り立ての新鮮なホヤを肴に酒酌み交わし再会と復興を喜び、楽しい激励・歓談会を前網浜で催したいという計画です。

参加申込書先                *申込期日:4月30日(火)
卒年: 氏名: 連絡先:アドレス&携帯Or電話をS46石渡美知江までご連絡下さい。(  michie@q07.itscom.net / 090-7400-8761 (SMS可)

実行委員長:河合國尚(S40)  Sub.兼総合企画担当:田中 透(S41)
実行委員:石渡美知江(S46) 関谷 誠(S47) 伊川 望(S47) アドバイザー:菅谷國雄
(S37)

 

令和元年 憲法記念日 八ヶ岳南麓

小淵沢拙宅の山桜

父親が大事にしていた掛け軸の一本を覚えている。

駒とめて 暫しは我を忘れけり 朝日に薫る 山桜花

誰の作品だか覚えていないが、明治の元勲のだれかである。まさに 坂の上の雲の時代、といっていい香りがする。

令和の最初の憲法記念日、快晴、無風。釜無川左岸にひろがる農地は平和そのもの、日本の原風景のなかにたゆたっていた。