”それぞれタウンウオーク”  (4) 生田緑地   (37 宍倉勝)

私が推奨するコースは、小田急線で新宿より約22~23分の”向ヶ丘遊園”駅下車、徒歩10分の”生田緑地”です。皆様の中にはすでに訪れた人も多いとおもいますが。緑地内には、ナンカナイ会メンバーの故寺家さんがNHKの土砂実験で犠牲になられ(注)、その時の犠牲者顕彰碑ががあります。
又見どころとしては緑地内に、
1)岡本太郎博物館(屋内)、母の塔(屋外)。
2)標高82Mの三角点のある桝形山&展望台。
3)10棟程の古民家が立ち並ぶ古民家園。
4)プラネタリュームのある科学館。
5)場所を選べば富士山、大山等の展望も出来る。                                                                                                        6)隣接する川崎国際ゴルフ場の周回を巡る多少アップ&ダウンもある散歩道。

7)緑地内にカフェタイプのレストロラン3ヶ所&蕎麦 屋。等々あります。又程よい人出です。

(注)1971年11月11日、当時の科学技術庁・通産省などの企画で、関東ローム層地域の斜面崩壊について行われた実験がこの地域で行われ、土砂流が暴発し関係者15人が生き埋めとなった事故があり、36年卒寺家幸一君がNHKカメラマンとして現場に居合わせ犠牲となった。

八甲田春スキー  (39 堀川義夫)

4月7日(水)から八甲田と浅虫温泉の旅に行ってきました。朝一のフライトであっという間に青森空港着。久しぶりに岩木山の雪景色が懐かしい。そして、仲間の集合時間まで時間が余って、何度も来た青森市内で初めて八甲田丸を見学して寿司屋で一杯やってやっと全員集合。2時のバスで酸ケ湯へ向かいました。夜は青森の銘酒「田酒」で酔いしれました。

岩木山の頂上から滑ったのは何年前だったかな? 懐かしい!

4月8日(木) 今日は酸ケ湯でガイドツアーに参加。素晴らしい天気に恵まれましたが、雪の状態は良くありません。でも景色は良いし、山登と思えば言うことなしのコンディションですが・・・本当に幸せな時間でしたが・・・しかし、地獄のスキー滑降が待っていました。ザラメでカリカリ。振動で頭がおかしくなりそうでした。スキーの滑降では本当にバテました。明日もこんな状態では・・・滑りたくない!! 自身無くした でも、本当にいい温泉と旨い酒が待っていてくれました。やっぱり明日も滑りたいなあ〜。

4月9日(金)酸ケ湯温泉は朝から雪です。季節外れの寒波来週で雪が深々と降っています。私は早々にツアー参加を諦めゆっくりすることにしましたが、若い仲間(と言っても73歳3人と70歳1人)は滑りに行きました。そして今年最後の新雪の滑降を楽しめたようです。午後から行こうかな、とも思っていましたが、私の読み通りにロープウェイも止まってしまいました。そして、なんと私より32歳も若い後輩が八戸からはせ参じて来て合流です。二人で悪天候を理由に最高の風呂と最高の日本酒を楽しみました。明日は最後の日です。午前中なんとか滑りたいと思っていますが・・・雪は見る見るうちに積もって行きます。

4月10日(土)酸ケ湯温泉は本当に素晴らしい旅館だと思います。温泉は言うにおよばず平日3泊パッケージで一泊税込8000円弱のコスパは素晴らしい 風呂は言わずもがな食事も値段の割に旨い! 館内の整備も行き届いているし、従業員の教育も良く出来ていていると思います。

良い天気に恵まれました。そして、良い山歩きが出来ました。これで、もう少しスキーが上手く滑れたら言うこと無しなのですが・・・残念ながら山スキーを楽しむには足腰の筋力が衰え、思い通りに滑れない悔しさだけが心残りです。もう、歳ですから来年来て滑れるかどうかわかりません。親切に何時もサポートしてくれた後輩たちにただただ感謝あるのみです。

(36 浅海)
貴兄のように酸ヶ湯に4泊し八甲田でスキーを満喫して浅虫温泉で昔ながらの温泉宿を楽しむようなPLANではないが小生も昨年11月末に浅虫から弘前に3泊で旅行し、たまたま貴兄が浅虫で宿泊した椿屋旅館に泊まり温泉を楽しみ、貴兄がご馳走になったと同じ16だか20だかの小皿に分けた青森の名産品の夕食を楽しんできました。
小生が行った時は農閑期で地元の農家の方々が沢山泊っていて椿屋さんはほぼ満員でした。ただ夕方温泉街?というか街にでましたが 寂しい街でしたね。

翌日行くところがなくこの地で有名な水族館など廻ってきました。ちょっと懐かしくなり一筆しました。

(編集子)現役時代最高のワンデルングと思っている八甲田夏合宿の帰り、荒木さんたち野郎会のメンバーのお供をしておだをあげたのが浅虫だった。今は街のことも何も覚えていないが、一番親しい間だった先輩たちとのかけがえのない時間だったことは確かである。たしか浅海もいたはずだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月22日、こんな日であった

(39 三嶋)
月いち高尾山岳会 が長年 敗退を続けていた生藤山(990m)に  2021年4月22日 遂に三色旗がひるがえった。
岡澤隊長以下のアタック隊 菅谷、長谷川、三嶋は 早朝 ベースハウスを出発。上野原経由  軍刀利神社で登山の成功と安全を祈願のち、 装備・食料を入念にチェック。

10時20分いよいよ登頂を目指して出発。
ルートはスタートから急登が続き 険しい。 喘ぎながら一歩また一歩と進む。 高度を上げるにつれ酸素が薄くなるのを実感する。
途中名残の山桜や 芽生えた新緑、 ヤシオつつじが 疲れた体に嬉しい。
難航の末 漸く前方に山頂が見えてきた。 ついに頂上に立ったのだ。 12時43分 のことである。

近くには富士山が まるで祝福をしているように見える。
赤飯の昼食も早々に下山にかかる。 幸い 懸念された雪崩の心配はあるはずが無い。 悪路の連続に気が抜けない戦いが続く。
足を引きずりながらも  和田バス停が見えてきた。 ほっと一息である。
ベースハウスへと向かう足取りは 達成感で軽やかである。
消灯10時。

(そのほぼ1時間まえ、11時15分、こちら高尾からの富士山)
オリンピック聖火が通るはずの場所へどうしても行きたいという吉牟田の意見で不要不急かどうかわからないが人数は政府方針通り、分散形式月いち高尾の2回目。日蔭沢へ降りて想像以上に長い下り(あちこちでがけ崩れの修復が未了だった)で消耗、高尾から直行帰宅…のはずだったが:
(吉牟田)
翠川さん 貴兄と高尾駅で別れ 京王線に行ったら 笹塚駅で人身事故で 新宿~桜上水間が不通との事。GIと特急にのったがすぐに各駅電車にななる。GIは問題なく小生も桜上水からタクシーで帰れるとつつじケ丘駅で別れた。桜上水で降りてみたらタクシーがあるような駅でなく しかた無く 甲州街道に出たが新宿方面に乗車希望の流しを探すタクシー待ちの客がかなりおり しかた無く下高井戸から明大前まで歩いて そこから井の頭線で帰宅、この日の歩行数は丁度 24000歩。コロナ騒動から運動不足解消のため 毎日 午前中10000歩 夕方5000歩 1日15000歩散歩を心がけて明大前周辺まで歩いているので、体力はまだまだOK。
(中司)
ごまかしてきた膝の具合が顕在化した1日でありました。精神的落ち込み激し。一度、ちゃんと見てもらわないとと痛感しました。疲れたあ!
細田小屋前からの遠望

それぞれタウンウオーク (3)  (43 猪俣博康)

今日18日 日曜日は気持ちよく晴れた日になり、時々、散歩するコースを
歩いてみました。

半蔵門

外に出てみると陽の光に街がキラキラと輝き、気持ちよい風が通り抜ける絶好の散歩日和だと感じました。
先ず、半蔵門を起点に内堀通りをお堀わきの新緑の公園を抜けて千鳥ヶ淵まで行きました。

半蔵門から20号線新宿方面を望む

代官町方面から来る皇居周りをジョギングする人たちが大勢でていました。
陽気のよさと、コロナ自粛のうっ憤払しの所為でしょうか。皆、左回り(時計と反対周り)です。右回りは一人もいません。回り方にルールがあるのでしょうか?それか

皇居周りのジョガー

ら、北の丸公園に向かいました。

北の丸公園

千鳥ヶ淵交差点から北の丸公園に行くには、代官町から行くコースと千鳥ヶ淵緑道をたどり、靖国通りから田安門に入り武道館の前を通り公園に入るコースがあります。しかし、現在、田安門は通行止めになっているので代官町コースを行きました。

北の丸公園

北の丸公園内は現在、オリンピックのための警察官宿泊施設が建設中で広場は立入禁止で通路しか解放されていません。
今回のオリンピックは開催されるにしろ、中止になるにせよ財政を圧迫し
将来に禍根を残すことになりそうだと改めて感じました。

公園内を通路に沿って1周しました。大きな公園ではありませんが、よく整えられた公園だと感じます。

イギリス大使館

80分ほど歩いて戻りました。歩数計をつけ忘れましたが、1万歩に満たない距離かと思います。

現在、運動は週1回の区施設の筋トレジムと老人体操会(お喋りとストレッチ&筋トレ)。時々、朝のラジオ体操とゴルフ(明日は管理工学科の同期のコンペ)。

半蔵門から大手町方面を望む

家内からはもっと活動的になれと言われています。
実は、今日の散歩も、家内から朝からジトッとしていないで散歩で
してきたらと尻を叩かれて外に出た次第です。

(編集子)チキショー、いい場所に住んでるんだなあ !

エーガ愛好会 (61)  縛り首の木    (34 小泉幾多郎)

マーティン・ロビンスが唄う主題歌が、タイトルバックとラストシーンに流れ物語を説明する。監督が最初にインディアン側に立っての西部劇を作ったデルマー・デイビスだけに、西部劇の形を借りた文芸映画と言ってもいいかも知れないくらい、射ち合いと殴り合いが一回あるだけで、重厚なリアリズム型の西部劇とも言える。ゲーリー・クーパー最後の西部劇。亡くなる2年前だが、まだまだ若々しく「真昼の決闘1952」の頃より若返った感じがする。

新興の金鉱地モンタナのスカルクリークにやって来たクーパー、過去を語らず、世間に深入りせず、そのくせ優秀な医師、ポーカーはめちゃくちゃ強く、さっと勝って、さっさと引き上げるところ等格好いいところを見せる。冒頭縛り首になるべき若者を救ったクーパーは、ラストで自分が縛り首になりかけるが寸前で、マリア・シェル扮する女性に助けられる。助けて助けられる両極端の象徴がタイトル。

マリア・シェルはスイスから父親たちと渡米してきたものの駅馬車が強盗に襲われ、一人助かったものの眼を天日で焼かれ一時眼が見えなくなった。それがクーパーの治療で見えるようになり恋愛感情を抱くものの、クーパーは過去に、妻と弟の不倫関係で焼死させたことにこだわり応じない。

マリアはこの前後、米国で「カラマーゾフの兄弟1958」でユル・ブリンナーと「シマロン1960」でグレン・フォードと共演したほか、文芸大作「居酒屋1956」「白夜1957」「女の一生1958」等に出演し、純真さと芯の強さ、身体全体から感情を絞り出すような演技に定評があった。ここでも眼帯をはずす迄の無表情から、目が見えるようになって美しい瞳が輝く感情の起伏の表現が素晴らしい。

マリアを最初に助けその後金鉱採掘のパートナーとなるカール・マルデン、諦めかけたとき、地震で崩れた根っこに金鉱を見付ける。マルデンが例によって、脂ぎった汗臭いまでの横恋慕が爆発、遂にクーパーとの射ち合いで殺されることに。ここに医師稼業を心良く思わない聖書の聖句を唱えるならず者の占い師、これが若き「パットン大戦車軍団1970」のジョージ・C・スコットが扮しているのだが、「あいつは悪魔だ」の挑発に乗って、興奮した群衆がクーパーを縛り首の木まで引きずって行く。縄の輪が首に罹った時、マリアが現われ、カネの袋からカネを取り出し、男たちは我先にカネを奪い合うことになる。主題歌が流れる・・・カネと引き換えに自由を手にし、縛り首の木から、俺は立ち去る、愛する人と肩を並べて・・・。

(小田)小泉さんの詳しいメールにもありましたが、昔、実家にあったレコードで聴いたテーマ曲を懐かしく聴きました。又よく映画に登場するモンタナの景色…綺麗ですね。クーパーもモンタナの出身。金鉱掘りの人達と違い、医者の役だけあり、キリッとして渋く、素敵なクーパーがこの2年後にまだ60歳で亡くなってしまったなんてもったいない!

(編集子)クーパーももちろんだが、マーティ・ロビンスとはまたなつかしい。もともとカントリ―系の歌手だが、なんといっても高校生時代のヒットパレード番組でで流れた White Sport Coat のあの軽快なテンポがコニー・フランシスの Lipstick on your collar  なんかともども忘れられない !

”それぞれタウンウオーク“  (2)      (44 安田耕太郎)

山梨県甲州市塩山の笠取山(標高1,953m)の頂上直下を源にする多摩川は全長138Km(意外と長い)。東京に入り、羽村から羽田空港近くの河口まで整備された河原を歩く「たまリバー50キロ」なるウオーキングの催しもある(去年・今年はコロナで中止)。500mごとに距離を示す道標が埋められていて大変便利。

二子玉川駅付近(楽天本社も進出)

河口から15キロに位置する二子玉川付近に住んでいるので多摩川河原歩きが日課になっている。コロナ禍以来、特にそうなった。


中原街道陸橋方面を望む

自宅から約5キロ(7000歩)下ると、学生時代利用した東急東横線、そして中原街道、東海道新幹線の陸橋に達する。体調と天気が良ければそこまで往復することもある(1〜2週間に1回くらい)。2時間タップリ歩く勘定だ。河口まで往復30キロを一度だけ歩いたことがあるが、もう沢山だっ!の気持ちになった(笑)。コロナ禍以来、月に最低20万歩、興に乗れば30万歩を目安にしている。150キロから200キロ強に相当する距離だ。

広々とした河原には、長嶋・王時代の巨人が練習に使用した野球場、サッカー場、ラグビーグランド、テニス場などがあり、スポーツを楽しむ憩いの場所になっている。好天であれば富士山を横目で見ながら、さらにサギ 鵜 小鳥に癒される散策となる。

河原の桜並木(3月下旬)

古き良き時代のエーガ  (4)  ファンタジア   (普通部OB 船津於菟彦)

なんと」

日本公開は1955年9月となっているので高校の時に有楽座に見に行ったはずだが、そのときの入場券が出てきた。公開されて直ぐ行っているようで、なんと170円!

当日のパンフレット

 

出てきた入場券

『ファンタジア』(原題: Fantasia)は、監督はベン・シャープスティーン。1940年11月13日封切。ディズニー長編アニメーション第3作であり、史上初のステレオ音声方式による映画作品である。何しろ有楽座の音響設備が凄かった。4本のサウンドトラックからスピーカーを沢山付けて劇場中から音が出たし、スクリーも凄い。タシンスキー・レンズと称するレンズでシネマスコープ・サイズ2.55対1から1.60対1まで自由に変化出来る特殊方式で上映され、有楽座の舞台一面がスクリーンに成りグアーット画面が広がったりするので、これには大変驚いた。1940年にpersonal computerも無く、録音もレコード時代に、フィルムの光学録音を駆使したものである。最新の映画・映像・音響の各技術に関心が深いウォルト・ディズニーは、ストコフスキーから米ベル研究所に於いて自らの指揮で1932年にステレオ録音を行ったという話を聞いた(この時の米ベル研究所の録音が、現存する世界最古のステレオ録音である)。そこでディズニーはただちに映画『ファンタジア』をステレオ音響で制作することに決めたそうだ。
描き上げられた原画100万枚、録音テープ(光学録音フィルム)の長さ42万フィート(そのうち映画の中で実際に使用されたのは1万8千フィート)、制作期間3年と前例のないスケールでの製作となった。コンピュータなど無い時代に人力だけで制作されたアニメーション作品として、史上最も手間をかけて作られた作品であると思われる。そのため制作に掛けた経費があまりにも大きかったために、リバイバル上映を繰り返して1970年代になるまでは製作に投じた資金を回収できなかったと言われている。

さて、物語だが、ストコフスキーとディズニーが色々工夫して原曲には忠実では無く、いろいろ変わっているが、映画と言うより音楽を聴いている感じが強い。
また、日本は何も無い時代に超豪華な見世物を見た感じで今でもありありと各々シーンを覚えて居る。特に途中で休憩が入り、天使が幕を閉めたりして、指揮者ストコフスキーが登場し、アニメのミッキー・マウスと握手するというシーンは何とも面白い。

1:「トッカータとフーガ ニ短調」(9:22) – J.S.バッハ
「抽象的な音楽もやってみよう」と提案したことによる。そのため抽象画で作られている。

 

 

2:組曲「くるみ割り人形」 – チャイコフスキー14:12)

 

 

 

3:「魔法使いの弟子」 – デュカス(9:17)

 

4:「春の祭典」- ストラヴィンスキー(22:28)
舞台を人類時代の原始時代から、地球創世期~恐竜の時代に変更している。

 

 

5:「田園交響曲」 – ベートーヴェン(22:00)
◦ 舞台をギリシャ神話の世界に求めている
6:「時の踊り」 – ポンキエッリ(12:13)
◦ 担当者は研究のために動物園やバレエ公演に頻繁に通ったり、バレリーナの映像を参考にした上で製作された。
7:「はげ山の一夜」 – ムソルグスキー(7:25)
8:「アヴェ・マリア」 – シューベルト(6:27)

 7と8はアニメーションがつなぎ合わされ(「禿山の一夜」の終わりの音と、「アヴェ・マリア」の最初の音が偶然一緒だった)、「光と闇」という壮大なラストを表現している。今考えると1940年。80年も前にこんな映画が作られたとは驚きの一言。カタログと入場券は今も大事に保管している。

ワクチン接種 ー カリフォルニア風  (HPOB 五十嵐恵美)

本日、Pfizerワクチンの第二接種を受けてまいりました.もしかしたらご興味があるかと思いその様子をお知らせします(ワクチン接種アメリカ版です).

全てコンタクトレスで行われ、車でサンマテオ郡のイベント・センターに行き、免許証、証明書、等、を車の中から窓越しに見せると、IPADを持った係りの人が、それをデータと見合わせます.本人であることが確認できると、ウィンドシールドに「確認済」の札を挟み、接種者はそのまま車で前進、大きな倉庫のようなイベント・センターの建物の中に入り、これも車の中から腕を出して接種を受けます.指定された時間の10分ほど前に到着して、接種を受け、15分間指定の駐車場で(車の中で)安静にしている時間を含め、全て、約30分弱で終わりました.3週間前の第一接種を受けたときも同様で、車の整理、書類の確認、ワクチンの接種、等、20台、30台の若者達が取り仕切っています.一日中、立ち仕事で大変だと思いますが、皆「気持ちよく」接種者と対応しています.郡が住民の接種を開始した初期は色々ロジスティクスに問題があったようですが、今は驚くほどスムーズに行われていて感心する次第です.

JOHNSON&JOHNSONのワクチンも早々認可され、カリフォルニアでもすでにJ&Jのワクチンの接種が始まっています.既にご存じのことと思いますが、J&Jのワクチンは普通の冷蔵庫で保存でき、接種も一回でよいということで(効果はPfizerやModernaと変わりないと聞いています)、今後、その便利性からJ&Jのワクチンの普及(特に施設が不足している遠隔地)が早いのではないかと思われます.ワゴン車で移動し、遠隔地、ホームレスの人たちへの接種(J&J)は始まったそうです.

(HPOB 山下明子)
今日、Giさんのブログにアップされた“ワクチンは怖くないよ!”を拝読させていただきました。
現場で働いていらっしゃる船曳、篠原両先生の貴重なご投稿を拝読し、ワクチンを恐れずに接種できます。順番が来たら積極的に接種しようとは思っていましたが、副反応など不安もありました。今は、早く順番が来ることを願っています。

“それぞれタウンウオーク”(1)  日吉キャンパスの現況   (42 下村祥介)

「高尾の天狗」、調布で飲めるとは奇遇(?)ですね。ご夫妻ともどもお元気の様子で勇気づけられます。

先日、天気はあまり良くなかったのですが、気晴らしに日吉のキャンパスを散歩してきました。日吉駅からキャンパスに向かって真正面に見える銀杏並木は例年より半月ほど早く緑にあふれ、すがすがしい気分になれました。

残念ながら教室のあるエリア一帯は柵で仕切られ、ゲートには守衛さんがいて検温チェック。OBと言えども中に入れず、少しがっかりでした。まあ、不要不急の散歩だから仕方ありませんが・・・。通常なら多数の男女学生で賑わっているキャンパスもオンライン授業のためか学生の姿はほとんど見られず、咲いているつつじの花も少し寂しげでした。

エーガ愛好会 (60) パリは燃えているか   (44 安田耕太郎)

パリは燃えているか」は、1944年連合軍のパリ進撃で敗色濃厚となったドイツ軍パリ占領司令部へアドルフ・ヒトラーが電話で発した言葉として知られている。それと同じ題名の映画のみならず、同じ題名だが映画主題曲とは異なる楽曲も聴いて見た。オーケストラ演奏の序曲が流れたあと、冒頭にヒトラーが登場し、パリ占領のドイツ軍司令官として任命した赴任前の部下に、撤退する時はパリを焦土にせよという命令を下す。そこでタイトルが出て、重厚なテーマ曲とともに風前の灯となったパリの風景とパリ・シャンゼリゼ大通りを凱旋行進するドイツ兵の姿が映し出される。素晴らしいオープニングだ。映画の主題は、「パリ爆破計画はいかに回避されたか?」と言ってもよい。

ポーランドへ侵攻して第二次世界大戦の口火を切ったナチスドイツは、1年を経た1940年夏にはパリに達し、以後4年間に亘り占領統治する。パリがドイツに占領されるのは歴史上2回目。最初は普仏戦争で敗れ、プロシアに占領された(1871年)。映画「史上最大の作戦」で描かれた1944年6月の連合軍のノルマンディー上陸作戦とそれに続くベルリンへの進攻(途中のオランダにおける激戦を描いた映画が「遠すぎた橋」)、更にはロシア・スターリングラードで敗北したドイツは一気に敗戦への坂を転げ落ちて行く。一方ドイツ占領下のパリでは、地下組織として潜伏するレジスタンスたちが、ドイツ軍の士気が低下している隙に活動を活発化し、連合軍の到着を待ちながら総決起の準備を進めていた。

約80年前の歴史的事実を描いた映画という点では「史上最大の作戦」「遠すぎた橋」と同様、ストーリー展開に特別の目新しさはないが、フランスにとってはフランス革命にも匹敵するであろう歴史的出来事を忠実に淡々と積み上げていく。従って、総じて、登場人物を掘りさげるとか、人間ドラマを深く描くわけでもない。豪華スターを集めた作品なので、“スターの顔見せ”風の傾向は否めなく、出演者が豪華な割には彼らすべての魅力が充分に活かされているわけでもない。この類の映画では致し方ないのであろう。だが、全体として違和感はなく、実写フィルムも加え、どちらかと云えばドキュメンタリー風であるし、まるで記録映像のようにも鑑賞できた。

連合軍側による劇的な “パリ解放” に至る歴史的事実を、戦後大統領となったドゴールの一派(幕僚役アラン・ドロンが活躍)、自由フランス軍、レジスタンス、連合軍、市民、ドイツ軍のそれぞれの様子と行動、及び彼等相互の絡みを交えて描いている。監督は「禁じられた遊び」「居酒屋」「太陽がいっぱい」の巨匠ルネ・クレマン。「ゴッドファーザー」の演出監督として知られる、若きフランシス・コッポラが脚本を担当した。音楽は前年1965年の「ドクトル・ジバゴ」、1962年の「アラビアのロレンス」の主題曲を作曲した鬼才モーリス・ジャールが担当。戦争映画には似つかわしくないワルツの音楽を採用したのは粋で憎い! 因みに、1966年に公開された洋画は、「ネバダ・スミス」「動く標的」「男と女」「引き裂かれたカーテン」「ミクロの決死圏」「天地創造」「続・夕陽のガンマン」「野生のエルザ」などがあった。

米・仏合作のパリを舞台にしたルネ・クレマン監督作品でもあり、フランス人豪華キャストの顔ぶれが凄い。二人のスター俳優「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンと「勝手にしやがれ」のジャン・ポール・ベルモントの珍しい共演アラン・ドロンは17歳の時にインドシナ(ヴェトナム)戦線に志願して従軍(20歳まで)したことがあり、こういった戦争映画は得意なはずだ。「恐怖の報酬」「さよならをもう一度」のイヴ・モンタンは、「嘆きのテレーズ」「悪魔のような女」の妻シモーヌ・シニョレと夫婦共演。「ガス燈」のシャルル・ボワイエは往年の二枚目の面影は消えたが渋い演技は健在、「足ながおじさん」のレスリー・キャロンはバレリーナ出身だけあって立ち姿が綺麗で、容姿も素敵だ。アメリカからは、パットン将軍役を演じた、「スパルタカス」「OK牧場の決斗」のカーク・ダグラス、「市民ケーン」「第三の男」のオーソン・ウェルズ、「ミッドウェイ」のグレン・フォード、「サイコ」のアンソニー・パーキンス、「ウエスト・サイド物語」のジョージ・チャキリステレビシリーズ「アンタッチャブル」のエリオット・ネス役ロバート・スタックなど(挙げた「鉤括弧内」の映画は既観の代表作品)。

主役級の役割を果たす、ドイツ軍パリ占領司令官役の西ドイツ俳優ゲルト・フル―ベ は 、「007ゴールドフィンガー」のゴールド・フィンガー役で、その存在感は際立っていた。ふてぶてしさの中に人間味が滲み出ている。中立国スウェ―デンの領事役オーソン・ウェルズの貫禄ある演技も光った。全編に登場するオールスターキャストを見ているだけでも楽しめる映画だが、惜しむらくは撮影時には出演者それぞれの母国語(仏語・独語・英語)でセリフを言っていたが、アメリカ公開版の際に全て英語に吹き替えられたそうであろ。日本で観れるのはアメリカ公開版なので、アラン・ドロンとジャン・ポール・ベルモントが英語で話しているのはやや興覚めではあった。

ドイツ軍はヒトラーの命令通り、エッフェル塔などの文化遺産や主要な橋やインフラ設備などパリ市内の至る所に爆弾をしかけていた。パリ郊外に迫る連合軍の進撃を阻止するための “パリ焦土化計画”と、これを食い止めようとするレジスタンスたちの熾烈な攻防戦だ。これに連合軍の侵攻の過程が刻々と挿入され、クライマックスはパリの大市街戦へとなだれ込む。ドイツ占領軍司令官は中立国のスウェ―デン領事(オーソン・ウェルズの勧めに応じて、レジスタンスと休戦協定を結び、連合軍の侵攻までパリ破壊を引き延ばす時間稼ぎをする。彼がパリの破壊を遂行しなかったのは、単なる博愛精神だけでなく、すでに敗北を悟り、戦争犯罪人として裁かれ歴史に悪名を刻まれる屈辱を避ける狙いもあったのかも知れない。彼にはヒトラーは狂っているとしか思えず、人類の財産と云うべきパリの破壊を回避した。部下が「美しい町ですね」と語りかけ、司令官は「我々は軍人としてここにいて、観光客ではないのだ」と応えるシーンが印象的だ。この司令官の勇気ある決断が、全人類の世界遺産花の都パリを救ったかと思うと感慨深い。狂気が支配する戦争において、それを抑える理性が存在した事実は知っておくべきであろう。


ドゴール将軍と群衆がシャンゼリゼ通りを凱旋パレード(実際の映像)

連合軍のパリ入城に熱狂するパリ市民、国歌「ラ・マルセイエーズ」を大合唱する群衆、ナチスの鉤十字ハーケンクロイツの旗を引きちぎる群衆、4年半ぶりに鳴り響くノートルダム寺院の鐘の音、罵倒されながら群衆の中を逮捕され連行されるドイツ占領軍司令官・・・、映画の最後の大団円は歴史の事実を強烈に描いている。そして、司令官が逮捕され誰もいなくなった司令部の受話器からはヒトラーの「パリは燃えているか?」と問い合わせ続ける声が響いていた。

エンドロールで、これらの生々しいパリ解放の場面から、現代(1960年代)のパリへとシフトしていき、上空から街並みを俯瞰してカメラが捉え、モノクロの映像がカラーに切り換わる幕引きは、本当にパリという美しい世界遺産の街が戦禍を免れて良かったなという余韻に浸ることが出来た秀作であった。余談だが、映画がモノクロになったのは、黒と赤のナチスの旗ハーケンクロイツを映画撮影で市内に掲げることを当局から断固拒否され、仕方なく旗を灰色と黒に替えて撮影したのでモノクロ映像になったという。結果として実写フィルムとも違和感なくマッチして第二次世界大戦当時の雰囲気が醸し出されていると思う。

続いて楽曲について。欠かさず観たテレビ番組にNHKスペシャル「映像の世紀」(The 20th century in moving images) がある。印象的なテーマ曲は「パリは燃えているか」。映画と同じ題名であるが、モーリス・ジャールではなく、加古隆の作曲による異なる楽曲である。彼は東京芸術大学作曲科卒業後、パリ国立高等音楽院に学んだ作曲家・ピアニストである。1995年にNHKスペシャル『映像の世紀』の音楽を担当し、テーマ曲の「パリは燃えているか」は大きな反響を呼び、加古の代表曲となる。パリに永年留学した加古は、この曲をヒトラーのパリ壊滅命令を無視し、街を救ったドイツ軍司令官のエピソードにヒントを得て作曲した。戦争に翻弄された20世紀と人間の運命への思いを込めているという。